「お母さん、無自覚美人です」   作:松田義和

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第11話「母、窓越しに一人の人生を動かす」

向かいの家の2階──

そこにずっと引きこもっている男がいる、というのは、町内ではわりと知られた話だった。

 

年齢は僕たちよりちょっと上。たぶん二十代後半。

小さい頃は一緒に遊んだこともあったらしいけど、僕には記憶がない。

高校も途中でやめたとか、進学に失敗してからずっと家にいるとか、いろいろ噂はあった。

 

とにかく、2階のカーテンが開くことはめったにない。

ただ、たまに、ほんとうにたまに、

その窓の隙間から人の気配が見えるときがあった。

 

そして、あるときから気づいたんだ。

 

母さんが洗濯物を干すときだけ、その窓が少しだけ開いているってことに。

 

その日も、母さんはベランダに出て、洗濯物を干していた。

今日は風が強くて、母さんのワンピースが軽く揺れていた。

紺色の麻素材の、夏らしい涼しげな服。

動くたびに、シルエットがゆるやかに光を透かして──まるで、絵になるような後ろ姿だった。

 

「はぁ〜、今日も暑いわねえ」

 

そんな独り言まじりに、タオルをパンッと干す。

 

向かいの窓は、10センチだけ開いていた。

その隙間から、誰かがじっと見ていた──そう確信できた。

 

最初は正直、不気味だった。

けど、それが何日も続くうちに、ある日、ちょっとした変化が起きた。

 

その青年が、玄関の前に座っているのを見たんだ。

朝の掃除中、ほうきを持った母が「おはようございます」と声をかけたら、

小さく会釈を返したらしい。

 

それを聞いたとき、僕はほんとに驚いた。

 

だって母さんは、なにか特別なことをしたわけじゃない。

ただ洗濯を干して、花に水をやって、玄関を掃除して、

たまに「お天気いいですね」とか、「涼しくなってきましたね」なんて言葉を宙に放つだけ。

 

でも、その自然体の空気が、

ずっと閉じていた向かいの2階に、少しずつ染みこんでいたんだ。

 

そしてある日。

母が留守中、僕がゴミ出しに出ようとしたとき、

向かいの玄関から、あの青年が出てきた。

 

日焼けしていない、やせぎすの体。

でも、まっすぐこっちを見て、小さな声で言った。

 

「……○○さんのお母さん、すごい人だな」

 

僕は、言葉に詰まった。

でもそのとき、なんとなく、答えなきゃいけない気がして、

少し照れながら言った。

 

「……まあ、昔からそんな感じっすね」

 

彼はほんの少しだけ笑った気がして、

そのまま、初めて見る後ろ姿を残して、

コンビニに向かって歩いていった。

 

僕はその背中を見送ったあと、家に戻ってこう思った。

 

──母さんは今日もきっと、何も知らないまま、洗濯物を干している。

 

そしてまた、

誰かの時間を、ほんの少しだけ、前に進めてるんだろう。

 

その日は、雨上がりの午後だった。

 

母さんは、庭の鉢植えを見ながら「また雑草が伸びてきちゃった」と呟いていて、

僕は部屋で音楽を流しながら、なんとなくぼーっとしていた。

 

ピンポーン──

 

インターホンが鳴ったのは、そんなタイミングだった。

 

「宅配?」

「時間早くない?」

 

なんとなく、母と顔を見合わせた。

 

母が玄関に向かってドアを開けると、

そこに立っていたのは──向かいの家の青年だった。

 

細身のシャツに、少し大きめの傘。

襟元は少しだけ濡れていて、顔には緊張の色が浮かんでいた。

 

「あら……」

 

母が、少し驚いたように微笑む。

 

「こんにちは……あの……すみません、急に……」

 

青年の声は震えていた。

でも、どこか切実で、どこか必死だった。

 

母は、まるでずっと前から知っていたかのように、やさしく言った。

 

「いいのよ。何かあったの?」

 

「……いえ、あの……僕……、前から、言おうと思ってて……」

 

一度詰まりながら、彼は深く頭を下げた。

 

「……ずっと引きこもってたんです。僕……

でも……奥さんが、毎日、ベランダで洗濯干してたり……

朝、花に水をやってたりするのを見てて……

なんか、それが、すごく……救われたんです……」

 

雨あがりの光が、玄関の外を白く照らしている。

その中で、青年はなおも頭を下げたまま、静かに言った。

 

「……ありがとうございました」

 

母は少しだけ目を見開いて、そして、ふわりと笑った。

 

「……そうだったのね。よかった」

 

そして何気なく、タオルを一枚、差し出した。

 

「雨、けっこう降ってたでしょ? 首、濡れてるから拭いてね」

 

青年は、はっとして顔を上げ、

タオルを受け取る手が少しだけ震えていた。

 

「……すみません」

 

「ううん、すてきなご挨拶をありがとう。

これからは、少しずつお日さまの下に出ていってあげてね。

お日さまって、案外ちゃんと見てるから」

 

青年は、ほんの少しだけ笑った。

それは、たぶんこの家に越してきてから、初めて見た彼の“笑顔”だった。

 

玄関を閉めて戻ってきた母に、僕は思わず訊いた。

 

「……なんでそんな、普通に対応できるの?」

 

母は首をかしげながら、いつもの調子で言った。

 

「ん?だって、困ってる人が来たら、話を聞くだけよ。

私、なにもしてないもの」

 

──そう。

なにもしていない。

けど、そこにいて、変わらずに、笑ってくれていたことが、

彼にとっては何よりの救いだったんだ。

 

何も知らずに日々を送る母の背中が、

あの日から、少しだけ大きく見えるようになった。

 

 

 

 

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