向かいの家の2階──
そこにずっと引きこもっている男がいる、というのは、町内ではわりと知られた話だった。
年齢は僕たちよりちょっと上。たぶん二十代後半。
小さい頃は一緒に遊んだこともあったらしいけど、僕には記憶がない。
高校も途中でやめたとか、進学に失敗してからずっと家にいるとか、いろいろ噂はあった。
とにかく、2階のカーテンが開くことはめったにない。
ただ、たまに、ほんとうにたまに、
その窓の隙間から人の気配が見えるときがあった。
そして、あるときから気づいたんだ。
母さんが洗濯物を干すときだけ、その窓が少しだけ開いているってことに。
その日も、母さんはベランダに出て、洗濯物を干していた。
今日は風が強くて、母さんのワンピースが軽く揺れていた。
紺色の麻素材の、夏らしい涼しげな服。
動くたびに、シルエットがゆるやかに光を透かして──まるで、絵になるような後ろ姿だった。
「はぁ〜、今日も暑いわねえ」
そんな独り言まじりに、タオルをパンッと干す。
向かいの窓は、10センチだけ開いていた。
その隙間から、誰かがじっと見ていた──そう確信できた。
最初は正直、不気味だった。
けど、それが何日も続くうちに、ある日、ちょっとした変化が起きた。
その青年が、玄関の前に座っているのを見たんだ。
朝の掃除中、ほうきを持った母が「おはようございます」と声をかけたら、
小さく会釈を返したらしい。
それを聞いたとき、僕はほんとに驚いた。
だって母さんは、なにか特別なことをしたわけじゃない。
ただ洗濯を干して、花に水をやって、玄関を掃除して、
たまに「お天気いいですね」とか、「涼しくなってきましたね」なんて言葉を宙に放つだけ。
でも、その自然体の空気が、
ずっと閉じていた向かいの2階に、少しずつ染みこんでいたんだ。
そしてある日。
母が留守中、僕がゴミ出しに出ようとしたとき、
向かいの玄関から、あの青年が出てきた。
日焼けしていない、やせぎすの体。
でも、まっすぐこっちを見て、小さな声で言った。
「……○○さんのお母さん、すごい人だな」
僕は、言葉に詰まった。
でもそのとき、なんとなく、答えなきゃいけない気がして、
少し照れながら言った。
「……まあ、昔からそんな感じっすね」
彼はほんの少しだけ笑った気がして、
そのまま、初めて見る後ろ姿を残して、
コンビニに向かって歩いていった。
僕はその背中を見送ったあと、家に戻ってこう思った。
──母さんは今日もきっと、何も知らないまま、洗濯物を干している。
そしてまた、
誰かの時間を、ほんの少しだけ、前に進めてるんだろう。
その日は、雨上がりの午後だった。
母さんは、庭の鉢植えを見ながら「また雑草が伸びてきちゃった」と呟いていて、
僕は部屋で音楽を流しながら、なんとなくぼーっとしていた。
ピンポーン──
インターホンが鳴ったのは、そんなタイミングだった。
「宅配?」
「時間早くない?」
なんとなく、母と顔を見合わせた。
母が玄関に向かってドアを開けると、
そこに立っていたのは──向かいの家の青年だった。
細身のシャツに、少し大きめの傘。
襟元は少しだけ濡れていて、顔には緊張の色が浮かんでいた。
「あら……」
母が、少し驚いたように微笑む。
「こんにちは……あの……すみません、急に……」
青年の声は震えていた。
でも、どこか切実で、どこか必死だった。
母は、まるでずっと前から知っていたかのように、やさしく言った。
「いいのよ。何かあったの?」
「……いえ、あの……僕……、前から、言おうと思ってて……」
一度詰まりながら、彼は深く頭を下げた。
「……ずっと引きこもってたんです。僕……
でも……奥さんが、毎日、ベランダで洗濯干してたり……
朝、花に水をやってたりするのを見てて……
なんか、それが、すごく……救われたんです……」
雨あがりの光が、玄関の外を白く照らしている。
その中で、青年はなおも頭を下げたまま、静かに言った。
「……ありがとうございました」
母は少しだけ目を見開いて、そして、ふわりと笑った。
「……そうだったのね。よかった」
そして何気なく、タオルを一枚、差し出した。
「雨、けっこう降ってたでしょ? 首、濡れてるから拭いてね」
青年は、はっとして顔を上げ、
タオルを受け取る手が少しだけ震えていた。
「……すみません」
「ううん、すてきなご挨拶をありがとう。
これからは、少しずつお日さまの下に出ていってあげてね。
お日さまって、案外ちゃんと見てるから」
青年は、ほんの少しだけ笑った。
それは、たぶんこの家に越してきてから、初めて見た彼の“笑顔”だった。
玄関を閉めて戻ってきた母に、僕は思わず訊いた。
「……なんでそんな、普通に対応できるの?」
母は首をかしげながら、いつもの調子で言った。
「ん?だって、困ってる人が来たら、話を聞くだけよ。
私、なにもしてないもの」
──そう。
なにもしていない。
けど、そこにいて、変わらずに、笑ってくれていたことが、
彼にとっては何よりの救いだったんだ。
何も知らずに日々を送る母の背中が、
あの日から、少しだけ大きく見えるようになった。