ある日の昼下がり、アイスを食べながらクーラーの前でだらけていた僕に、母がぽつりとつぶやいた。
「……ねぇ、○○、今年まだプール行ってないよね?」
「は?」
あまりに唐突な言葉に、僕はアイスの棒を持ったまま固まった。
「ほら、去年も行こう行こうって言いながら結局行かなかったじゃない?
今年こそ、ちょっと行ってみようかな〜って思って」
その言い方は完全に「思いつきレベル」の軽さだったが、母はすでにスマホで「市民プール 空いてる時間」などと検索している。
「……いや、ていうか行くの? 母さんが? プールに?」
「うん。ちょっと運動にもなるし、涼しそうだし。ね? 一緒に行こうよ」
そんな無邪気な笑顔で誘われたら、断るのも気が引ける。
が、すぐにとんでもない一言が追加された。
「……でね、ちょっと新しい水着、買ってきちゃったのよ」
「──は?」
「今日、駅前でセールやってて。ちょうどよくてね、試着もしてないけど多分ぴったり。あ、見せよっか?」
「いやいやいや、いい!! ぜったい見せなくていい!!」
それでも母はお構いなしに袋から水着を取り出した。
黒とベージュのシンプルな、でも明らかにビキニ──いや、オトナの“ちゃんとしたやつ”だった。
「ちょっとチャレンジだけど、たまにはね〜。上にラッシュガード着るから!」
──ラッシュガードごときでカバーしきれるわけがない。
そもそもそんな格好の母を公共の場に連れて行くとか、僕の心がもたない。
「母さん、それ……行くならひとりで行って。ていうか行かないで。お願い」
「え〜〜? なんでそんなに拒否反応? 息子とプール、そんなに嫌?」
「違う! ……そうじゃないけど……とにかくダメ!!」
「もしかして……嫉妬?」
「違うから!!」
母はくすっと笑いながら、買ったばかりの水着を大事そうにたたんだ。
僕はというと──
この夏、“母をプールに行かせない計画”を、静かに決意した。
プールに行くと言い出した日から三日。
母はあれから何度か「暑いわねぇ〜」とつぶやきつつ、水着の袋をクローゼットに出し入れしていた。
そのたびに僕は胸の奥をざわつかせていた。
「ほんとに行くのか……?」「父さんが止めてくれるだろう」と淡い期待を抱いていたが、父は完全に“蚊帳の外”だった。
そして今日。
蝉が本気を出しはじめた昼すぎ。
母が縁側から顔をのぞかせてきた。
「○○〜、ちょっと手伝ってくれる? 庭にビニールプール広げようと思って」
「……は?」
「ほら、前に買ったやつ。しまってあったでしょ? 今日ちょっと遊んじゃおうかなって。スーパーも行かなくていい日だし」
プール計画、まさかの“庭シフト”。
正直なところ、僕はホッとした。
これなら人目に触れる心配はない。何より、僕がついていく必要もない。
ただ──その安心は、ほんの序章だった。
*
庭の隅。
ビニールプールを広げ、ホースで水を入れ、空気を入れるのを手伝っていると、
母が軽快に家の中へ引っ込んだ。
「じゃあ、ちょっと着替えてくるわね〜」
──着替える!?
い、いや……まさか、とは思うけど。
しばらくして、引き戸が開く音がして、
「お待たせ〜」と母が戻ってきた。
──そして僕は、動きを止めた。
母はちゃんとラッシュガードを着ていた。
けどその下、チラッと見えた水着は、例の“黒いビキニ”。
大人っぽくて、シンプルだけど目を引く。
本人はまったく悪びれた様子もなく、
「庭で日焼けしたらもったいないし〜」と、帽子までかぶって完全装備。
「やっぱり水って気持ちいいわねぇ!」
ちゃぽんと水をはじけさせながら、嬉しそうにしゃがみこむ母の姿に、
僕は言い知れない動揺を覚えていた。
汗だくの作業よりもはるかに涼しげで、
日差しの中で笑う母は、まるでリゾート地の人のようだった。
──だからやめてほしい。
それ、家庭用のビニールプールだから。
「○○も入りなさいよ〜。ほら、水、冷たくて気持ちいいわよ!」
母の無邪気な声に、「……いや、いい」とだけ返し、
僕はタオルを持って家の中に逃げ込んだ。
でもそのあと、
窓のカーテン越しに見えた母の笑顔が、なんだかすごく楽しそうで。
僕は結局、タオルを首に巻いたまま、
扇風機の前でひとり“謎の敗北感”を味わう羽目になった。
ビニールプール事件から一夜。
母は満足げに朝食を作り、いつも通りのテンポで味噌汁を配っていた。
「昨日は楽しかったね〜、○○も久しぶりに手伝ってくれて助かったわ」
「あぁ、うん……まぁ……」
僕はまだ昨日の“あの姿”が脳裏に焼き付いていた。
いくらラッシュガードを着ていても、目に焼きつくものは焼きついてしまう。
ところが、母の次の一言で、僕の胃袋は軽くひっくり返った。
「ねぇ、今度は海、行ってみない?」
「…………は?」
思わず箸が止まった。
「やっぱりね〜、水って気持ちいいのよ。昨日久しぶりに遊んで、なんだか目覚めちゃって。
どうせならちゃんと泳ぎたいし、潮の香りって夏じゃない?」
いやいやいや、昨日のは庭!
庭だからこそセーフだったんだよ!!
「……っていうか、母さん、泳げたっけ?」
「昔はね、平泳ぎなら得意だったの。今はたぶん……ぷかぷか浮かぶくらいかな〜」
「……浮かぶ必要ないから。行かなくていいから」
「え〜、○○と二人で行くの、楽しそうじゃない?」
無邪気な笑顔でそう言う母に、僕は完全に追い詰められていた。
「だって、ほら。せっかく水着もあるし?」
──来た。またその話。
例の黒ビキニ、まだ諦めていなかったらしい。
むしろ「水辺のシチュエーション」を探しているようにすら見える。
「それに、ちょうど今週、潮干狩りにもいい季節らしいのよね〜」
「それ、“潮干狩り”って名目で行こうとしてるだけでしょ……」
「ふふっ、バレた?」
母は悪びれもせず笑った。
もうやめてくれ。
こっちのメンタルはとっくに崩壊寸前なんだ。
「父さんは……仕事だよね?」
「うん、土曜は出勤らしいから、たぶん二人かな」
「その状況が一番ダメ!!」
僕は叫んだ。
まさか、この夏。
“海に母と二人”という超高難度クエストに挑む羽目になるなんて──
絶対、なんとか阻止!