「今日は図書館、行ってこようかな〜」
その朝、母は紅茶を飲みながら何気なくつぶやいた。
最近また読書熱が再燃しているらしく、今読んでいる文庫本の続きが気になるという。
白いブラウスにネイビーのフレアスカート、髪はいつもよりきれいにまとめられていて、首には小さなスカーフが結ばれていた。
……いや、完全に“仕上げてる”だろ。
「そんな恰好で図書館?」と僕が突っ込むと、
「え?だって空調が寒いときあるし、スカーフちょうどいいのよ」
と、無邪気な笑顔で返された。
まあ、いい。母はただ本を借りに行くだけだ。そう思って送り出した数時間後──
帰宅した母の腕には、なぜか小さな紙袋があった。
中には、チョコの小袋と、紙製のしおりが数枚。
「どうしたのそれ?」と聞くと、
「図書館でお話したおばさまが、“甘いのがあると読書が捗るわよ”ってくださったの。あと、しおりは司書さんから!」
ちょっとした立ち話だったはずが、「今月のおすすめ」や「本棚の整理を手伝ってたボランティアさん」とも会話が弾み──
気づけば、3人から名前を聞かれ、「読書会やってるんですよ〜」と誘われる始末。
「へぇ〜、参加するの?」と僕が聞くと、
「んー、どうしようかなあ。でも楽しそうだったわよ?」
その後、図書館に行くたびに、なぜか「母の席」が暗黙のうちに空けられていた。
他の利用者たちが母に話しかけたがり、館内で静かな“人気者”になる母。
数週間後、図書館の壁に掲示された「読書会メンバー募集」のポスターに、こう書かれていた。
「読書が好きな方、おしゃべりも好きな方、○○さんのように“柔らかい時間を一緒に過ごせる方”歓迎」
名前こそ出ていないが、間違いなく“○○さん”は母のことだった。
「ちょっと嬉しかったわ。こんなに人が集まってくるなんて」
母はそう言って微笑んだ。
けれど僕は──知っている。
母が読んでいるのは、古典文学でも最新のミステリーでもなく、
“表紙が妙に華やかすぎる”ラブロマンス文庫ばかりだということを──。
──母、図書館すらざわつかせる。
特別 母、読書会に参加する
「第9回 読書とおしゃべりの会」
今月の課題本:『午後3時の手紙』
本について語り合いたい人、お茶とお菓子とお待ちしています
月末の金曜日、午後3時。
参加者は8人まで、予約制──とある。
母はそのとき、なんとなく予約してしまったらしい。
「なんとなくって…」と僕が笑うと、母はにこっと笑って「こういうの、初めてなのよ」と小さな声で言った。
当日。
母は白いカーディガンに、柔らかいベージュのワンピースという、図書館にぴったりの装いで現れた。
少し緊張した表情で本を抱えて、いつものように笑っていた。
読書会のテーブルには、年配のご婦人や眼鏡の若い女性、地元の高校教師らしき男性など、さまざまな顔ぶれ。
会はゆるやかに始まった。
「ええと、では今日は“午後3時の手紙”について、皆さんの感想を──」と司書さん。
そして順番が母にまわってきた。
「ええと……」
少し間をおいて、母が話し始めた。
「このお話、私は“手紙の内容”よりも、“その手紙をどう読むか”の方に心が動きました」
「手紙を書いた側と、受け取った側と、そして“誰かに見られる”ことまで含めて、なんだか“人生って他人の目越しに読まれていく物語”みたいだなって思って……」
空気が変わった。
誰もが「うんうん」とうなずき始め、他の参加者からも「それ、すごくわかります」「私もそう思ってましたけど言えなかった」と声が上がる。
その後も、母は飾らず、丁寧に、けれどどこか“人の気持ち”に寄り添う言葉を次々と重ねていった。
文学部出身でもなければ、書評家でもない──
ただ“普通の専業主婦”が語る言葉に、誰もが惹きつけられていった。
そして会の最後、司書さんが言った。
「○○さん、来月もぜひお越しください。“聞いてもらえるのが嬉しい”って、みんな言ってました」
それから、母は読書会の常連になった。
たまに僕に「この作品、読んだことある?」と相談してくるようにもなった。
ある日、僕がふと尋ねた。
「なんで参加しようと思ったの?」
すると母は、少し笑ってこう言った。
「読んだ本のことを誰かと話すって、ちょっと自分の人生を語るみたいじゃない?
ほら、私ってあんまりそういうの、してこなかったから」
──図書館の読書会。
本の内容だけじゃなく、語られる“その人自身”を読む場所。
母は、静かにその中心に座っていた。
特別編「母、未完の小説の“勝手な続編”に心を奪われる」
「あれ……これ、最後のページが……変?」
母がページをめくりながら眉を寄せたのは、図書館から借りてきた中編小説『十七夜』を読み終えたときだった。
読後のティーカップを手に、読書の余韻に浸っていたはずのその顔に、ほんのり戸惑いが浮かんでいた。
「何かあったの?」と聞くと、母は本をそっと僕に差し出した。
僕もその小説を手に取り、最後のページをめくった。
「あ……なにこれ」
見開きの裏──本来は白紙であるはずのページに、小さな活字が印刷されている。
フォントは本文と異なり、明らかに後から差し込まれたような風合いだった。
「あの夜、灯りが消えたあとも、彼女の声は耳の奥に残っていた。
名前を呼ばれた気がして、振り返った。けれど、そこには誰もいなかった。
なのに、胸の奥で何かが確かに、ひとつ終わったように思えた。」
僕は首をかしげる。「これ、作者のエピローグじゃないよね?」
「違うわよ。ほら、奥付(あとがき)には“この作品は未完のまま絶筆となった”ってあるもの」
母がページを指差す。確かに、作者はこの小説の連載中に急逝し、完結しないままだったとある。
「じゃあこれ、誰が……?」
僕らは顔を見合わせた。
不思議なのは、その“続編のような文章”が、やけに作品の空気感と調和していたことだった。
違和感がない、というより──むしろ、その一段を読んで初めて、物語が静かに幕を閉じたような、そんな感覚。
母はしばらく無言でページを撫でたあと、ぽつりとつぶやいた。
「なんか……この文章書いた人、“彼女”のこと、本当にわかってる気がするのよね」
気になった母は、翌日図書館へ出向いた。
カウンターの司書さんに「この本、最後のページが少しおかしくて……」と訊ねると、少し驚いた表情で返された。
「実はそれ、数年前からあの本にだけあるんです。
初版にもないし、他館の蔵書にも印刷されていません。
でも、誰が差し込んだのかはわからなくて……」
母はさらに尋ねた。「何か、そういうことをしてる人、心当たりありませんか?」
司書さんは「そういえば……」と棚を見ながら、小さく声を落とした。
「以前、“読書カード”をたまに挟んでくる利用者の方がいて……“作品の続きを自分で想像して書く”って楽しんでたみたいなんです。
名前は書いてなかったけど、たぶん年配の男性。決まって静かな時間に来て、文芸書ばかり借りていかれてました」
それを聞いた母は、本を再び借り直して、もう一度最初から読み始めた。
──今度は、“続き”の言葉を意識しながら。
「ねえ、なんだかこの本……また読み直したら全然違う物語に見えるの。
“彼女”が何を言いたかったのか、あの続きがあってやっと見えてきたような」
一冊の本が、誰かの静かな“愛読”によって、そっと完結していた。
それを偶然読んだ母は、誰とも知らないその“もう一人の作者”に、少しずつ惹かれていくようだった。
「その人、また続きを書いてくれたらいいのにね」
僕が何気なく言うと、母はページを閉じて言った。
「……ううん、きっともう書かないと思う」
「どうして?」
「“もう終わった”って、あの文章に書いてたもの。
でもそれでよかったのかも。“手を離す物語”って、あるのよ」
それからしばらくして。
図書館の読書会の課題本に、その『十七夜』が選ばれた。
そして、ラストページの“続編”について話題になったとき──
母は静かに手を挙げて言った。
「その文章を書いた人は、きっと作者の続きを書いたんじゃなくて、
“読んだ人の想い”を、物語にそっと添えたんだと思います」
「終わった物語に、ひとひらの返事を──って、きっとね」
誰も知らない、誰かの筆跡。
けれど、それを読んだ人の人生は、ほんの少しだけ、変わっていく。
図書館の静かな棚の中で、そんな“続き”の奇跡が起きていた。