「お母さん、無自覚美人です」   作:松田義和

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第15章 母と僕 髪をまとめる、その一瞬で

朝、蝉の声がうるさいほどに響いていた。

僕はテーブルに突っ伏したまま、エアコンのリモコンをにらみつけるようにぼんやりしていた。

 

リビングに入ってきた母は、麦茶のピッチャーを持ちながら、暑そうに前髪をかき上げた。

その額にはうっすら汗が浮かんでいて、パジャマから部屋着に着替えたばかりの、ややラフなシャツが肩で揺れている。

 

「今日もすっごく暑くなりそうね。エアコン、朝からつけといていいわよ」

 

そう言ってキッチンへと向かいながら、母は首元に手をやった。

 

僕の目の前で、母が一つに髪をまとめていく。

ゴムで結ぶ手つきが慣れていて、ふわりと揺れる茶色がかった黒髪が、うなじをあらわにしていく。

 

光が差し込んだタイミングと重なって、母の白い首筋がまるで画のように浮かび上がった。

首を傾けながら髪を整えるその動きが、妙にゆっくり見えた。

 

僕は、思わず息をのんでいた。

 

「……なに? 変な顔して」

 

振り返った母の笑顔に、僕はとっさにごまかすように水を飲んだ。

 

「いや、別に……暑いなって思っただけ」

 

母は「ほんとよね〜」と何気なく流して、冷蔵庫から卵を取り出す。

シャツの袖をくるくると肘までまくり上げると、腕がすっと伸びて、台所の小さなフライパンに火が入った。

 

その横顔に、僕はまた目を奪われていた。

なんなんだろう、これ。

別に、いつも通りの母さんなのに。

 

でも今朝はなぜか、胸の奥がざわついていた。

 

いつも見ているはずの後ろ姿。

けれど、それが“誰か”だったら──そう考えてしまう瞬間があった。

 

 

 

朝食を食べながらも、その感覚はずっと尾を引いていた。

母は僕の好きなスクランブルエッグをちょっと焦がして、「ごめんね〜」と笑った。

「全然平気だよ」と返す僕の声は、妙に乾いていた。

 

 

 

そしてその夜。

 

シャワーを浴びたあと、母はまたリビングに来て、リモコンを操作しながらぽつりとつぶやいた。

 

「ねぇ、髪切ろうかなって思ってるの」

 

「え?」

 

「暑くてまとめるのもめんどくさいしね。バッサリ、肩くらいまでにしようかしら」

 

なぜか、僕は言葉が出なかった。

“あの朝”の一瞬が頭に浮かび、あの髪を、結ぶ姿を、もう見られなくなるのかと思ったら、胸がぎゅっと締め付けられた。

 

「……いや、似合ってたと思うよ。結んでるの」

 

やっと出た声は、思っていたよりずっと小さかった。

 

母は「そう?」と首をかしげて笑った。

そしてそのまま、エアコンを26度にして、「おやすみ〜」と、部屋へ戻っていった。

 

 

 

僕はソファに寝転んで、天井を見つめた。

 

守ってきたつもりだった。

子どもである僕が、母を。

 

でも──気づいてしまった。

 

あの一瞬で、僕のほうが負けていた。

何気ない仕草で、いつも通りの笑顔で、なにも特別じゃないはずなのに。

 

今夜は、少しだけ眠れそうになかった。

 

 

 

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