朝、蝉の声がうるさいほどに響いていた。
僕はテーブルに突っ伏したまま、エアコンのリモコンをにらみつけるようにぼんやりしていた。
リビングに入ってきた母は、麦茶のピッチャーを持ちながら、暑そうに前髪をかき上げた。
その額にはうっすら汗が浮かんでいて、パジャマから部屋着に着替えたばかりの、ややラフなシャツが肩で揺れている。
「今日もすっごく暑くなりそうね。エアコン、朝からつけといていいわよ」
そう言ってキッチンへと向かいながら、母は首元に手をやった。
僕の目の前で、母が一つに髪をまとめていく。
ゴムで結ぶ手つきが慣れていて、ふわりと揺れる茶色がかった黒髪が、うなじをあらわにしていく。
光が差し込んだタイミングと重なって、母の白い首筋がまるで画のように浮かび上がった。
首を傾けながら髪を整えるその動きが、妙にゆっくり見えた。
僕は、思わず息をのんでいた。
「……なに? 変な顔して」
振り返った母の笑顔に、僕はとっさにごまかすように水を飲んだ。
「いや、別に……暑いなって思っただけ」
母は「ほんとよね〜」と何気なく流して、冷蔵庫から卵を取り出す。
シャツの袖をくるくると肘までまくり上げると、腕がすっと伸びて、台所の小さなフライパンに火が入った。
その横顔に、僕はまた目を奪われていた。
なんなんだろう、これ。
別に、いつも通りの母さんなのに。
でも今朝はなぜか、胸の奥がざわついていた。
いつも見ているはずの後ろ姿。
けれど、それが“誰か”だったら──そう考えてしまう瞬間があった。
朝食を食べながらも、その感覚はずっと尾を引いていた。
母は僕の好きなスクランブルエッグをちょっと焦がして、「ごめんね〜」と笑った。
「全然平気だよ」と返す僕の声は、妙に乾いていた。
そしてその夜。
シャワーを浴びたあと、母はまたリビングに来て、リモコンを操作しながらぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、髪切ろうかなって思ってるの」
「え?」
「暑くてまとめるのもめんどくさいしね。バッサリ、肩くらいまでにしようかしら」
なぜか、僕は言葉が出なかった。
“あの朝”の一瞬が頭に浮かび、あの髪を、結ぶ姿を、もう見られなくなるのかと思ったら、胸がぎゅっと締め付けられた。
「……いや、似合ってたと思うよ。結んでるの」
やっと出た声は、思っていたよりずっと小さかった。
母は「そう?」と首をかしげて笑った。
そしてそのまま、エアコンを26度にして、「おやすみ〜」と、部屋へ戻っていった。
僕はソファに寝転んで、天井を見つめた。
守ってきたつもりだった。
子どもである僕が、母を。
でも──気づいてしまった。
あの一瞬で、僕のほうが負けていた。
何気ない仕草で、いつも通りの笑顔で、なにも特別じゃないはずなのに。
今夜は、少しだけ眠れそうになかった。