夏の終わり、商店街の夏祭りの翌日。
空は高く、蝉の声もどこか遠くなっていた。
母さんは、朝からソファでのんびり針仕事をしていたのだけど、途中で「糸が切れちゃったのよ〜」と、ふわりと立ち上がった。
「ちょっと手芸屋さん行ってくるわね」
日傘を片手に、足元は白いサンダル。
リネンのワンピースは風をはらんで軽やかに揺れ、淡く焼けた首筋に光が差していた。
相変わらず、本人はまったく気にしていないけど──
僕から見ても、本当に目を引く人だった。
それから20分後。
スマホにメッセージが届いた。送り主は、魚屋の兄貴。
「○○さんが変なヤツに絡まれてる。××路地。急げ、ペガサス」
──……は?
ペガサスって何!? と思う間もなく、僕は玄関を飛び出していた。
*
現場に着いたときには、すでに騒ぎになっていた。
人だかりの中心で、路地裏に母さんが立ちすくんでいる。
目の前には、どう見ても酔っぱらいの男。腕を掴もうとする仕草に、母が一歩下がったその瞬間──
「その人に手ぇ出してんじゃねえぞォォ!!」
怒声が飛んだ。
飛び出したのは、八百屋のオヤジ。
手にしていたスイカが粉々になる勢いで地面に叩きつけられる。
次の瞬間、ピザ屋の兄ちゃんがバイクを止めて路地に突っ込んできた。
肩で息をしながら、「間に合った……!」と呟く。
そして最後に飛び出してきたのは、見覚えのある魚屋の兄貴。
迷いもなく酔っぱらいの襟首をつかみ、壁に押し付けていた。
「てめぇ、○○さんに何してやがんだ」
母は驚いた顔のまま、手にした日傘を胸に抱えていた。
それでも僕を見つけると、ほっとしたように笑った。
「……ほんと、来たのね。あなたって、いつもタイミングがいいわ」
──いや、違うんだ。僕だけじゃない。
この騒ぎを聞きつけて、近所の人たちも続々と集まってきていた。
交番の警官が遅れて駆けつけ、酔っぱらいを取り押さえたとき──
彼は静かにつぶやいた。
「アテナは……俺たちが守る」
「……はあ?」
思わず口に出た僕の声に、警官はにやりと笑った。
「お前もだ、ペガサス」
「いや、だからペガサスってなん──」
「○○さんの息子だろ。沙織さんの」
周囲の顔が次々と頷く。
PTA仲間のパン屋の奥さんも、図書館の司書のおばちゃんも、なぜかスーパーの主任も。
「この町の人たちはな、みんな知ってるんだよ。
あの人が、どれだけ俺たちの心を救ってくれてたかって」
「勝手に救われてたんだよ」と魚屋の兄貴が言った。
「店に来て“このイカ、ツヤツヤしてるわね”って笑ってくれるだけで、なんか、今日もがんばろって思えた」
「回覧板渡してくれたときの“いつもありがとう”が、何気に沁みたんだよ」
と、向かいの酒屋のじいさん。
「……ええと、なにこれ?町内劇?」と母さんは笑ってる。
それでも、その目には、すこしだけ涙が滲んでいた。
僕はその横顔を見て、なにも言えなかった。
だって──僕だけは知っている。
この町の誰よりも、母が誰かに「優しくするのが当たり前」で生きてきたことを。
疲れていても、悩んでいても、決して他人にそれを見せなかったことを。
その姿を、僕だけはずっと見てきたんだ。
僕の名前は──星矢。
僕はペガサスなんかじゃない。
けど、あの人を守れるのは、きっと僕しかいないんだ。
だから、全員が口々に「青銅聖闘士」だの「黄金魂」だの意味のわからんことを言ってても──
「……まあ、いいか」
僕はゆっくりと母の隣に立った。
母がそっと僕の腕をとる。
「もう大丈夫よ。あなたも、みんなも、来てくれてありがとうね」
その言葉に、静かな拍手が起きた。
どこからか、夏祭りの名残のちょうちんが風に揺れた。
夕日が路地裏をあたたかく染めていた。
──終わり。そして、伝説の始まりだった。
⸻
【天然美人母さんと僕の日常】
── 完 ──
この町と母との、小さな奇跡の日々は、
これからもきっと続いていく。
そして、何度でも思い出すだろう。
母が笑っていた夏の日の風を。
ご愛読ありがとうございました。
──スタッフ一同(……というか、僕ひとり)