「お母さん、無自覚美人です」   作:松田義和

18 / 18
エピローグ 「母のその後」

夏が終わり、季節は少しずつ秋へと移ろいはじめていた。

夕暮れの風がほんの少し肌寒くなり、商店街の店先には栗や柿が並びはじめている。

町は変わらず静かで、どこかのんびりしていて、けれど──あの“事件”を境に、なにかが微かに変わっていた。

 

あの日からしばらく、町では「沙織さん伝説」がささやかれるようになった。

名前は出さずとも、「あの人」──白いワンピースに身を包んだ一人の女性のことは、町中の大人たちの記憶に刻まれていた。

 

交番の前を通れば、巡回中の警官がわざわざ帽子に手を添えて会釈をする。

魚屋の兄貴は「今日はカンパチのええとこ入ったから、ちょっとだけね」と言って、刺身の切れ端を多めにつけてくれる。

クリーニング屋のおばちゃんにいたっては、「あら奥さん、この前のテレビ見たわよ」と、母のことではない何かを思い出して勝手に微笑んでいる。

 

──けれど、当の本人である母はそんな周囲の変化に、気づいているのかいないのか。

「なんだか最近、みんな親切なのよねぇ」なんて、のんきに笑いながら毎日を過ごしていた。

 

僕はというと──

 

あれ以来、“ペガサス”と呼ばれることがしばしばある。

最初に呼んだのは、たぶん八百屋の佐々木さんだったと思う。

「おう、ペガサス。今日も母上はお元気か?」

そんな軽口を聞くたびに、僕は顔をしかめながらも、なんだか否定しきれなかった。

 

だって、あの夏の母は──たしかに“アテナ”だった。

 

白くて、清らかで、けれどどこか堂々としていて。

町の人たちがちょっとした奇跡みたいに感じてしまうのも、無理はなかったのかもしれない。

 

最初は、からかわれてるのかと思った。

“ペガサス”なんてあだ名、いったいどんなセンスなんだと。

でも──そのうち、呼ばれるたびに、ちょっとだけ背筋が伸びるようになってきた。

まるで僕も、誰かに見守られているような、そんな気がして。

 

 

ある日のことだった。

学校から帰宅すると、リビングのソファに母の姿があった。

西日が斜めに差し込む部屋の中で、母はアルバムを広げていた。

 

「あら、おかえり」

 

母は僕に気づくと、アルバムを少しだけこちらに傾けて見せた。

そこには、くしゃくしゃに笑った幼い頃の僕の写真が貼られている。

 

「見て、あなたの小さい頃よ。ほら、海に行ったとき」

 

写真の中の僕は、バケツを頭にかぶっていて、顔も体も砂だらけだった。

僕は思わず苦笑して、母の隣に腰を下ろした。

 

「これ、父さんが撮ったんだっけ」

「そう。あのときね、あなたが貝を拾って得意げに見せてきたのよ。小さな、割れた貝殻だったけど」

 

ページをめくる音が、やけにゆっくりに感じられた。

 

「……ほんとに、あっという間だったわね」

 

母がぽつりとつぶやいたその声は、どこか遠くを見ているようだった。

しばらくして、指を止めたまま母は言った。

 

「昔はね、私があなたを守ってるつもりだったのよ。転ばないように、風邪をひかないように、いつも目を光らせてた」

 

「……うん」

 

「でもね、最近ふと思うの。あなたに、守られてるんじゃないかって」

 

その言葉は、冗談めかした軽さではなく──

どこか、しっかりと自分に言い聞かせるような響きがあった。

 

僕は何も言えなかった。

何かを返そうとすると、きっと涙がこぼれてしまう気がして。

 

「でも安心して。私は、私でい続けるわよ。天然でも、おっちょこちょいでも。

この町がそうであるように、あなたがそうであるように──私も、私のままでいたいの」

 

そう言って、母は静かにアルバムを閉じた。

 

「明日ね、久しぶりに図書館で読書会があるの。誘われちゃって」

 

「また何か巻き起こさないでよ。あんまり話題を振りまかないように」

 

「ふふ、大丈夫よ。私、地味にしてるつもりなんだから」

 

……まったく説得力はないけど。

けれど、僕はその笑顔を見ながら思った。

 

──ああ、この人はずっとこのままなんだろうなって。

 

きっとこれからも、母は母のままで。

ちょっとしたことで周囲をざわつかせて、でも本人はまるで意識していなくて。

それでもその存在が、町の風景の一部として、どこかやさしく溶け込んでいる。

 

騒動の中心に、白いワンピースと涼しい笑顔の人がいて。

 

そして僕は、何度だって思い出すだろう。

あの夏のことを。

“アテナ”と呼ばれた、僕の母のことを。

 

──その記憶はきっと、これから先も、季節がいくつ巡っても、僕の胸の奥で色褪せることはない。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。