夏が終わり、季節は少しずつ秋へと移ろいはじめていた。
夕暮れの風がほんの少し肌寒くなり、商店街の店先には栗や柿が並びはじめている。
町は変わらず静かで、どこかのんびりしていて、けれど──あの“事件”を境に、なにかが微かに変わっていた。
あの日からしばらく、町では「沙織さん伝説」がささやかれるようになった。
名前は出さずとも、「あの人」──白いワンピースに身を包んだ一人の女性のことは、町中の大人たちの記憶に刻まれていた。
交番の前を通れば、巡回中の警官がわざわざ帽子に手を添えて会釈をする。
魚屋の兄貴は「今日はカンパチのええとこ入ったから、ちょっとだけね」と言って、刺身の切れ端を多めにつけてくれる。
クリーニング屋のおばちゃんにいたっては、「あら奥さん、この前のテレビ見たわよ」と、母のことではない何かを思い出して勝手に微笑んでいる。
──けれど、当の本人である母はそんな周囲の変化に、気づいているのかいないのか。
「なんだか最近、みんな親切なのよねぇ」なんて、のんきに笑いながら毎日を過ごしていた。
僕はというと──
あれ以来、“ペガサス”と呼ばれることがしばしばある。
最初に呼んだのは、たぶん八百屋の佐々木さんだったと思う。
「おう、ペガサス。今日も母上はお元気か?」
そんな軽口を聞くたびに、僕は顔をしかめながらも、なんだか否定しきれなかった。
だって、あの夏の母は──たしかに“アテナ”だった。
白くて、清らかで、けれどどこか堂々としていて。
町の人たちがちょっとした奇跡みたいに感じてしまうのも、無理はなかったのかもしれない。
最初は、からかわれてるのかと思った。
“ペガサス”なんてあだ名、いったいどんなセンスなんだと。
でも──そのうち、呼ばれるたびに、ちょっとだけ背筋が伸びるようになってきた。
まるで僕も、誰かに見守られているような、そんな気がして。
*
ある日のことだった。
学校から帰宅すると、リビングのソファに母の姿があった。
西日が斜めに差し込む部屋の中で、母はアルバムを広げていた。
「あら、おかえり」
母は僕に気づくと、アルバムを少しだけこちらに傾けて見せた。
そこには、くしゃくしゃに笑った幼い頃の僕の写真が貼られている。
「見て、あなたの小さい頃よ。ほら、海に行ったとき」
写真の中の僕は、バケツを頭にかぶっていて、顔も体も砂だらけだった。
僕は思わず苦笑して、母の隣に腰を下ろした。
「これ、父さんが撮ったんだっけ」
「そう。あのときね、あなたが貝を拾って得意げに見せてきたのよ。小さな、割れた貝殻だったけど」
ページをめくる音が、やけにゆっくりに感じられた。
「……ほんとに、あっという間だったわね」
母がぽつりとつぶやいたその声は、どこか遠くを見ているようだった。
しばらくして、指を止めたまま母は言った。
「昔はね、私があなたを守ってるつもりだったのよ。転ばないように、風邪をひかないように、いつも目を光らせてた」
「……うん」
「でもね、最近ふと思うの。あなたに、守られてるんじゃないかって」
その言葉は、冗談めかした軽さではなく──
どこか、しっかりと自分に言い聞かせるような響きがあった。
僕は何も言えなかった。
何かを返そうとすると、きっと涙がこぼれてしまう気がして。
「でも安心して。私は、私でい続けるわよ。天然でも、おっちょこちょいでも。
この町がそうであるように、あなたがそうであるように──私も、私のままでいたいの」
そう言って、母は静かにアルバムを閉じた。
「明日ね、久しぶりに図書館で読書会があるの。誘われちゃって」
「また何か巻き起こさないでよ。あんまり話題を振りまかないように」
「ふふ、大丈夫よ。私、地味にしてるつもりなんだから」
……まったく説得力はないけど。
けれど、僕はその笑顔を見ながら思った。
──ああ、この人はずっとこのままなんだろうなって。
きっとこれからも、母は母のままで。
ちょっとしたことで周囲をざわつかせて、でも本人はまるで意識していなくて。
それでもその存在が、町の風景の一部として、どこかやさしく溶け込んでいる。
騒動の中心に、白いワンピースと涼しい笑顔の人がいて。
そして僕は、何度だって思い出すだろう。
あの夏のことを。
“アテナ”と呼ばれた、僕の母のことを。
──その記憶はきっと、これから先も、季節がいくつ巡っても、僕の胸の奥で色褪せることはない。