母さんが「今日は特売日だから」と張り切る日は、僕にとってはちょっとした緊張日でもある。
というのも、スーパーや商店街は“母の魔力”が炸裂しやすい危険地帯だからだ。
しかも今日は、僕もついて行くことになってしまった。冷蔵庫のプリンを食べた罪で。
「いい?買うのは卵とピーマンと……あとナスが安かったら買うわよ」
そう言って母さんは、玄関の鏡でさっと髪を整えた。
今日の格好は、白の五分袖カットソーに、明るいオレンジのロングスカート。
やや伸縮性のある柔らかい素材で、動くたびに身体のラインがほのかに浮かぶ。
胸元は詰まっているけど、しゃがむと前かがみになってしまう──あの“あぶない角度”の服だった。
しかも足元は、白のサンダル。
母の肌は焼けていないせいで、光が当たるとやけに艶っぽく見える。
「……その服で行くの?」
「え?動きやすいし、涼しいよ?」
いや、問題は“動くと見える”ことだって。
そうして着いたのは、近所のスーパー。
野菜コーナーの前、しゃがみこんでナスの山をじっくり見定める母。
──その瞬間、事件は起こった。
スカートがふわっとなって、前かがみの角度が絶妙に深くなり──
後ろを通った買い物カゴの男が、完全に立ち止まった。
見た。絶対、見た。
「……母さん、立って。今すぐ立って」
「え?まだナスの傷み具合チェックしてるのよ」
「もういいよ、買おう。全部買おう。ナス大人買いしよう」
そして次は商店街。
母さんは昔ながらの八百屋に入ると、ピーマンを手に取りながら小さくつぶやいた。
「うーん、もうちょっと安かったら買うんだけどなぁ……」
それはほんとに、聞こえるか聞こえないかくらいの、独り言だった。
──だが。
「奥さんっ!今日だけっ、特別に100円でどうですかい! いや、90円でいいや、うん!」
八百屋のおじさんが声を張った。
おまけに、なぜか袋いっぱいのトマトも無言で詰めはじめている。
「えっ?でもそんなに…買ってないのに…」
「いやいやいやいや!奥さん、なんか、目が涼しい!風が通る!」
いやそれは多分、前かがみになったときの胸元の話だ。風の話じゃない。
しかもその場面を、僕は背後から目撃していた──
母が袋をのぞきこむように前かがみになったとき、シャツの首元からインナーが…いや、それ以上が一瞬見えた。
それを真正面から受けていた八百屋の店主は、たぶん今、恋に落ちた。
「奥さん、いつでも寄ってくださいねっ!次はスイカも冷やしときますから!」
「まあ、親切ねぇ〜。おいしかったら、また来るわね!」
──その笑顔を返すんじゃないよ。
その笑顔が一番ヤバいんだってば。
帰り道、僕は買い物袋を肩に提げながら、言った。
「……母さん、ああいう店主に変な期待持たせるのやめたほうがいいよ」
「え?なにが?」
「“なにが”じゃなくて…自覚ないのほんと怖いから」
「でもほら、安くなったんだからいいじゃない♪」
いやもう、母さんが値切ったんじゃない。
“チラ見せで”値引かせたんだよ。
知らず知らずのうちに、
野菜と一緒に、男の心まで奪っていく。
僕の母は、今日も無自覚に最強だった。
番外編「母、差し入れで狙われる」
それは、日曜の午後だった。
僕がリビングでスマホをいじっていたら、インターホンが鳴った。
ピンポーン、っていう軽い音と共に、母が台所からひょいっと顔を出す。
「ちょっと出てくれる?」
「え?誰?」
「なんかね、袋持ってる人だったけど……あら、もしかしてあの八百屋さん?」
その一言に、僕の中の警戒ランプが一気に点滅する。
──あの八百屋?
こないだ母さんの“前かがみ”と“胸元チラ見せ”で完全に打ち抜かれてた、あの店主?
僕が玄関に出ると、案の定。
商店街の八百屋「みどりや」の店主が、笑顔で紙袋を抱えて立っていた。
「いや〜どうもどうも!これ、奥さんにちょっと……夏野菜、取りすぎちゃって!」
「え、あ、そうですか……」
受け取った袋は、やたらと重く、しかも丁寧に冷えたタオルまで添えられていた。
もはや“商売”というより“手作りお中元”だった。
母がリビングから出てきたのはそのとき。
今日の服装は、ノースリーブの白ブラウスに薄いカーキの麻パンツ。
裾が柔らかく揺れて、風をはらむと腰のラインがやけにくっきりする。
しかも、ブラウスの袖ぐりがゆるめで、腕を上げたり振り返ったときに、チラッと脇の内側が見えるような、いわゆる“油断ならない角度”のやつだ。
「まあ!こんにちは、こんな暑い中わざわざ…」
笑顔で受け取る母。そのとき、ふと腕を上げて髪を耳にかけた。
その瞬間、袖の隙間から一瞬だけ──
見えてはいけないものが見えた気がした。
下着の肩紐、じゃない。その下の、もっとやわらかい色が……。
そして、その視線の直撃を受けた八百屋のおじさんは、
その場で0.3秒ほどフリーズしたあと、謎の敬礼。
「いえっ……あのっ、奥さん、またいつでも……!ええと、トマトも!いいの入りますんで!」
あきらかに動揺した足取りで帰っていく店主を見送りながら、僕は心の中で思った。
──これはもう、完全に“差し入れ”じゃない。
“アプローチ”だ。
母さんは、台所で袋を開けながら、
「あら〜ピーマンも入ってる。あの人、ほんとに親切ねぇ」
って言ってたけど──
母さん、ピーマンのことじゃない。
ピーマンは手段、目的は母さんだよ。
ほんと、お願いだから。
袖ぐりの広い服を着るときは、もうちょっと……対策して。
このままだと、今度は桃とかメロンとか持って来かねない。
それはそれで助かるけど、母さんの“無自覚チラリズム”は──
今日も、恐ろしく破壊力が高かった。