「今日はね、アジの南蛮漬けにしようと思って」
朝のコーヒーを飲みながら、母さんが言った。
それはいい。めちゃくちゃうまい。
問題はそのあとの一言。
「ちょっと○○水産まで行ってくるわ。今日は新しい店員さん入ったって言ってたし」
「……その情報、いる?」
そう聞いた僕の視線の先には、
すでに準備万端の母の姿があった。
今日の母は、明るいブルーの薄手シャツに、白のタイトスカート。
シャツの裾は前だけインで、ウエストラインがきれいに見える仕様。
スカートは膝下だけど、歩くたびにぴったりと動きについてくる。
足元はシンプルなパンプス。そして髪は軽く巻いて、後ろでまとめている。
──なんだその仕上がり。
魚買いに行くだけだろ?
「ちょ、母さん。その服、魚屋で浮かない?」
「え?そんな派手じゃないでしょ。清潔感が大事よ、鮮魚売り場には」
いやその“鮮度”で目立つの、魚じゃなくて母さんのほうだから。
⸻
店の前につくと、魚屋の威勢のいい声が響いた。
「へいらっしゃい!今日はアジがいいよ〜!」
母が近づくと、掛け声が一瞬止まる。
そして、若い店員──20代くらいの男が、
氷の山からアジを取り出しかけたまま、完全に動きを止めた。
「えーっと……アジ、3尾お願いしようかしら」
母がそう言ってショーケースにかがみこむ。
……来た。
かがみこみタイムである。
シャツの胸元が軽く開き、インナーのレースがちらりと見える。
さらにスカートがぴったりしすぎて、しゃがんだ瞬間にヒップラインが完全に浮き上がる。
そのすべてを、真横で捌かれたサバより硬直している若店員が凝視していた。
「……あ、アジっ!3尾!ですねっ!」
手元を滑らせて氷をこぼしながら、彼はあたふたと袋詰めを始めた。
店主はそんな様子を見て、ニヤニヤしながら僕にこっそり言った。
「いいねぇ、お母さん……相変わらず上品だわぁ〜。うちの魚も目利きが効くよ、奥さんに見られると引き締まる!」
──いや、引き締まってるのは、母の服のラインのほうですけど。
母は全く気づかないまま、笑顔でお礼を言って店を後にした。
「今日はいいお魚買えたわ〜。やっぱりお店の人が丁寧だと気持ちがいいわねぇ」
──いや、それ、
“魚の目利き”じゃなくて“君のライン”を見てたんだよ。
もはや魚屋も“視線の水揚げ場”になりつつある中、
僕は静かに思った。
この人、どこで何を買っても、男の心まで“鮮度抜群”で持って帰ってくる……
「今日も魚屋さん寄ってくるわね〜。○○の好きなお刺身、あるといいけど」
母はそう言って、日傘をくるりと回しながら出かけていった。
今日は白いブラウスに、淡いブルーのプリーツスカート。
夏の日差しにきれいに映える、いかにも“清楚な奥さん”という雰囲気だった。
魚屋の角を曲がったあたりで、すでにお店のご主人が気づいたらしく、
いつもより背筋をピンと伸ばしていたらしい。
「奥さん、今日はマグロが入ってますよ! しかも赤身がいい具合で!」
「まぁ、そうなの? ちょっと見せていただける?」
店先でトングを手にした母は、
鮮魚のパックをひとつひとつ丁寧に見ていたらしい。
それだけでなぜか、他の買い物客が一歩引いて見守っていたとか──
そして母が「これにします」と決めると、
店主は当然のようにこう言った。
「じゃあ今日はこれ、おまけしときますね!」
そう言って渡されたのは、なんと脂の乗ったサーモンの切り身。
しかも量が多い。普通ならそれなりの値段がするやつだ。
「えっ、そんな悪いです……」
「いえいえ! 奥さんはもう常連さんですから。
ね、これ、サービスです。愛情価格ってやつで!」
母はちょっとだけ笑って、「それじゃあ甘えちゃいますね」とぺこり。
──それが最初だった。
それからというもの、母が魚屋に行くたびに、
何かしらの“サービス”がついてくるようになった。
・サザエを2個追加される
・「焼くだけで美味しいから」と銀ダラの味噌漬けが添えられる
・果ては「ご主人にもどうぞ」と言って、アジの干物の詰め合わせまで…
「ちょっと、なんだか申し訳なくなっちゃって」
と、母は言うけれど、
魚屋のご主人の顔は毎回どこかうれしそうで、
町内でも「あの魚屋、最近やけに親切だよな」とちょっとした噂になっていた。
もちろん母は、まったく自覚していない。