その日の午後、僕はいつも通り、リビングでアイスを食べながら動画を観ていた。
まるでこの時間が永遠に続くかのように、平和な時間──だった。
「カチッ……ボンッ」
軽く破裂するような音が、キッチンの奥から聞こえてきた。
「○○〜、ちょっと来てくれる?」
母の声が、少しだけ不安げだった。
キッチンに入ると、ガスコンロの火が明らかにおかしい。
小さな青い炎がチリチリと揺れて、まるで風前の灯。
なんとなくガス臭さもある気がする。
「これ、普通じゃないよねぇ」
母は眉をひそめて、火元から少し距離を取った。
「ガス会社に連絡しよっか」と母がスマホを手に取る。
けれど、土曜の午後。
コールセンターは「対応が遅れる可能性があります」とのこと。
そして、なぜかその流れで「念のため消防署にご相談を」と言われてしまう。
「火事じゃないのに……来てくれるのかしらねぇ」
電話口で母が控えめに状況を説明すると──
「すぐ点検に伺います」
ものの10分後、家の前に真っ赤な消防車が停まった。
*
ガチャ。
玄関を開けた母は、ちょっと気まずそうに笑っていた。
「すみません〜、ちょっと火が変だっただけなんですけど……」
その瞬間、到着した隊員三人のうち、
先頭の若い隊員の表情が、すっと柔らかくなった。
「お怪我がなくて何よりです。点検させていただきます」
母が「どうぞ、靴のままで大丈夫ですよ」と優しく促すと、
その声に合わせるように隊員たちが丁寧に家に上がってきた。
「お暑いでしょう。冷たいお茶でもよかったら」
母が出した麦茶を受け取ると、
全員、揃って「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
なにその、完璧なチームワーク。
僕はリビングの隅で成り行きを見守るしかなかった。
火元の点検はすぐ終わった。
結果としては、“一時的な圧力低下”とかいうもので大事には至らず。
けれど。
「奥さま、落ち着いて対応されてすごいですね」
「いやぁ、うちの母なんて火が変だとすぐパニックですよ」
なぜか母の“判断力”と“対応力”が大絶賛されていた。
「いえいえ〜、ただ慌ててもしょうがないですからぁ」
母はいつも通り、笑顔で答えるだけ。
でもそれが、逆にプロの心を撃ち抜く。
──そして帰り際。
隊長らしき男性が、ポケットから名刺を出してこう言った。
「何かあれば、すぐこちらにご連絡ください。火のこと以外でも、何かあれば」
……“火のこと以外”て、なんだ。
*
翌週のこと。
なぜか近所での消防パトロールが急に増え、
町内会で行われる防火訓練も、うちの前の通りで行われることが決まった。
「最近、地域の防災意識が高まってるのね〜」と母は感心していたけれど、
僕には見える。あの名刺の効果だ。間違いない。
誰よりも火の扱いに気をつけていたはずのうちの母が、
まさか“火をつける側”になるなんて──
予想外にもほどがある。