「これ、どうしよう……交番に届けたほうがいいかな?」
昼下がり、母さんがそう言ってキッチンから財布を差し出してきた。
中身は小銭と診察券だけ。たぶん、誰かの落とし物だ。
「スーパーの帰りに見つけたの。道路の端っこに落ちてたのよ」
「うん、たぶん届けたほうがいいと思うよ。場所とか訊かれるけど」
「わかった、じゃあちょっと行ってくるわね」
……それが、事件の始まりだった。
母が選んだ服装は、上がややフィット感のある薄手の白ブラウス。
袖が肘上で、二の腕がほどよく出ていて、
首元はボタンを一つ開けた“何気ない”仕上がり。
下は、ベージュのセンタープレス入りのパンツで、ウエスト部分がぴったりしている。
軽くメイクをして、髪を後ろでひとつ結びに。
“届け物をするだけ”にしては、どう見ても爽やか上品すぎる。
「母さん、それちょっと……“届ける側”じゃなくて“届けられる美人”って感じなんだけど」
「え?きちんとしてないと失礼かと思って」
いや、それもう“きちんと”じゃなくて“無自覚で人を試すスタイル”だよ……。
案の定、僕も付き添いで交番に入った瞬間、事件が起きた。
「こんにちは〜、落とし物を……」
奥から出てきたのは、制服のよく似合う20代後半の若い警察官。
母さんを見た瞬間、彼の表情が──
**“前屈から起き上がったときに見た朝日”**みたいに晴れやかになった。
「お、お、お疲れ様です!い、いらっしゃいま……せっ!」
明らかに噛んでる。
母さんはいつも通り柔らかく微笑んで財布を差し出す。
「これ、近くで拾ったんです。中に診察券が入ってたので、念のため」
「は、はいっ!あ、あの、その、お名前と……その、場所と時間を……」
警察官の手元が震えていた。
明らかに「書く内容」よりも「目線の置き場」に苦しんでる。
なぜなら、母さんはカウンターに身をかがめるようにして、記入用紙を覗き込んでいたからだ。
そしてその瞬間、ブラウスの襟元がわずかに開いて、胸元がふんわり……
「ちょっと、母さん。俺、代わりに書くから」
「え?いいの?じゃあお願いね」
その後ろで、警察官が小さく深呼吸してるのが見えた。
僕が用紙を受け取ってペンを走らせているあいだ、母は交番内の掲示物を眺めていた。
白いブラウスが風に揺れて、背中のラインが浮かび、
彼女がふと後ろを振り返った瞬間──
警察官の表情が一瞬、**“職質すべきなのは自分の心です”**みたいな葛藤に染まった。
最後、書類を渡すとき。
「ではこちらでお預かりいたします……あの、また何かありましたら、いつでも……」
「ええ、ありがとうね。お世話さまでした」
──母のその笑顔が、とどめだった。
交番を出たあと、僕は母に言った。
「……なんであの人、最後ちょっと汗かいてたんだろうね」
「え?そう?暑かったのかしら?」
いや、それは多分……
母さんのせいだよ。
きっと今頃、あの交番の警察官は、
“拾得物対応マニュアル”の中に“耐性強化項目”を追加しているに違いない。
番外編「母、治安を良くする(理由は本人以外が知っている)」
数日後、異変はじわじわと始まった。
「なんか最近、このへんパトカー多くない?」
と、近所の犬の散歩仲間が母に話しかけたのは、夕方の公園。
母は、ペットボトル片手に笑顔で応じた。
「あら、そうなの?最近よくすれ違うかも……でも安心よね、こうして見回ってくれてると」
──安心なのはいいんだけど、
その“見回り対象”、母さんだからね?
僕は、その週にすでに4回、同じ若手警察官が我が家の前を歩いているのを見ていた。
朝のゴミ出しのとき。
昼に洗濯物を干しているとき。
夕方にベランダから花に水をあげているとき。
そして夜、キッチンの明かり越しに母のシルエットが浮かんでいるとき──
タイミングが完璧すぎる。
まるで、**“巡回コースを我が家の周囲3ブロックに縮小しました”**みたいな動きだ。
そのうちの一度、僕が玄関から顔を出すと──
「あっ……こ、こんにちは。変わりありませんか?」
と、ぎこちない敬礼。
「……変わりは、ないですけど」
「そ、それは何よりです!ええ、では、また!」
そう言って、わざわざ角を二回曲がって遠回りして帰っていった。
絶対コース変えてるだろ。
その夜。
「なんかさ、最近ほんとにパトカー多いよな」
と僕が言うと、母はのんびり笑いながら答えた。
「そうね〜。治安がよくなった気がするわね。○○くんの通学も安心だし」
──いや、違う。
母さんが“安心されてる”んじゃなくて、
守られてる側なの、完全に。
たぶんあの警察官、完全に“推し”認定してる。
パトロールじゃなくて警備に変わってる。
おまけにこのままだと、通報ゼロでも交番から花とか届く未来すら見える。
それでも母は、気づいていない。
「やっぱり日本って安全ねぇ。おまわりさん、ほんとに頑張ってるわ」
……いや、その“頑張り”の半分以上は、
あなたの白ブラウスと柔らかい笑顔のせいなんですけど。