「○○〜、今夜の盆踊り、行かない?」
夕方のリビングで麦茶を飲んでいた僕に、母が何気なくそう言った。
「え、町内のやつ? 行かないよ、あんな人混み」
「そっか。母さんちょっとだけ顔出してくるわね。せっかくだし」
そう言って立ち上がった母は、いつもより少しだけ背筋がピンとしていた。
浴衣姿だった。
藤色の地に、白い撫子の模様。
髪はいつもの後ろで軽く束ねるスタイルに、今日は飾り紐が添えられていた。
──なんだその“完全武装”。
思わず僕は目をそらした。
だって、いつものエプロン姿とは違いすぎて、
一瞬「誰?」って思うくらい、“綺麗”だったから。
「そんな気合い入れるほどのイベントじゃないでしょ、あれ」
「え〜? だって浴衣、着る機会あんまりないじゃない。たまにはいいでしょ」
母はそう言って、笑った。
その笑顔がまるで、
“この後起きる騒動”の前フリだったなんて、そのときの僕は知る由もなかった。
*
午後7時すぎ。
町内会の広場に、提灯の明かりが灯り、太鼓が鳴り響く。
焼きそば、金魚すくい、ラムネ売り。
夏祭りらしい喧騒が続く中──
「──あれ誰? めちゃくちゃ綺麗なんだけど」
「おいおい、あれ○○の……母ちゃん、じゃない?」
その声は、町内の中高生たちの間でささやかれはじめていた。
母はただ、浴衣を着て歩いているだけだった。
盆踊りの輪に混ざって、周囲に合わせてゆるやかに手を動かし、
踊っていた。
──ただそれだけのはずなのに。
周囲がやけにざわめき出したのは、たぶんその“所作”のせいだった。
所作というか、あの人は本当に、“ゆっくり動くのがうまい”。
指先をふわっとなぞらせるように揺れる腕。
腰のひねり方もどこか上品で、見ている側が勝手に“色っぽい”と感じてしまう。
なのに本人はまったくの無自覚。
それがまた、やばい。
気づけば子どもたちや若い男性たちが踊りの輪に近づき、
踊りもしないでただ“見ている”。
町内会の役員のおばちゃんが、
「あなた〜、その浴衣どこで買ったの?」「素敵ねぇ〜」と絡みに行っても、
「え? これ? ずいぶん昔に買ったやつよ〜」と、さらっと笑う。
その“ふつうの反応”がまた周囲をざわつかせる。
母はただ、
「たまにはこういうのもいいわねぇ」
と楽しそうに言いながら、焼きそばを買い、かき氷を食べて帰ってきただけだった。
だが、事件はその翌日からだった。
*
翌朝、掲示板の前で町内の人がざわついていた。
盆踊りの写真が何枚か貼られており、
その中央には、母が写っている。
しかもなぜか、囲み線つきで「今年の“踊り姫”」の文字。
「え? これ……」
思わず声に出してしまった僕に、近所のじいちゃんが言った。
「いやぁ、君のお母さん、実に“品がある”んだよな。目立ってたよ」
「そ、そうですか……」
さらに午後。母宛てに町内会から電話が来た。
「え? 来年、司会……? いや、私なんかが……ふふ、でも……まぁ、前向きに……」
──やめて、前向きに考えないで!
夏の夕方、うちの母は“ただ浴衣を着ただけ”だった。
なのに、なぜか町全体の空気を持っていった。
その影響は、きっと来年の夏まで続くんだろう。
そして僕は、静かに誓った。
「来年は……絶対、一緒に行かない」