Fate/The White Fatalis   作:灯火011

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第一話:白き少女の降臨

 カビと腐臭の混じった淀んだ空気が、間桐邸の廊下に満ち満ちている。

 

 壁に手をつき、間桐雁夜は激しく咳き込む。喉の奥からせり上がってくる鉄錆の味に顔をしかめ、手の甲で口元を拭うと、そこには黒ずんだ血が付着していた。

 

「ぐ……っ、ぅ……」

 

 襲ってくる激しい痛み。絶え間なく、全身の内側から肉を、神経を、骨を喰い破ろうとする激痛。一年という短い期間で彼の体を魔術師として「作り変える」ために埋め込まれた刻印蟲たちが、今この瞬間も彼の生命力を貪っている証拠だった。

 

(……桜ちゃん……)

 

 朦朧とする意識の中、ふと脳裏をよぎるのは、かつて屈託なく笑いかけてくれた少女の顔。遠坂の家で、ひまわりのように明るかったあの笑顔。「雁夜おじさん」と、少し舌足らずに自分を呼んでくれた、あの声。それが今、この屋敷のどこかで、光のない瞳をして、感情を殺して生きている。

 

 全ては、あの蟲の老人の、クソヤロウのせいだ。あの化け物、間桐臓硯のせいだ。雁夜が魔術と、間桐の家とを捨てて逃げ出した元凶。あの化け物が、幼い桜を絶望の淵に突き落としている。

 

「フフ…フ。どうした雁夜。もう限界かのう? これからという時に、情けない奴じゃて」

 

 闇の奥から、乾いた木が擦れるような声がした。間桐臓硯だ。雁夜は憎悪に満ちた目で声の主を睨みつける。

 

「うるさい…黙れ、化け物ジジイ…!」

 

「ほっほ。威勢だけは一人前じゃな。じゃが、その威勢も、聖杯戦争を勝ち抜く力の前では何の役にも立たんぞ。お主が選んだ『狂戦士(バーサーカー)』のクラス…。魔術師としての腕が三流以下のお主が、他の手練れに対抗するための唯一の、そして最良の選択じゃ」

 

 臓硯は嗤う。その笑い声は、雁夜の神経を逆撫でする。

 

 バーサーカー。七つのクラスの中でも、特に制御が難しいとされる狂乱の闘士。理性と引き換えに絶大な力を得るその特性は、サーヴァントとの意思疎通を困難にする。

 

 だが、それが良かった。

 

 雁夜が求めるのは、対話できる英雄ではない。桜を救うという目的のため、彼の憎悪を代行し、敵をただ殺戮するだけの「道具」。心を通わせる必要などない。それに、心が無ければ、裏切られることもない。魔術として三流の自覚がある雁夜には、ちょうどいい英霊のクラスだった。

 

「……分かっている。俺は、俺のサーヴァントに、ただ最強であればいいと願うだけだ」

 

「うむ。良い覚悟じゃ。ならば、見せてみよ。その腐りかけの命と憎悪を贄に、一体いかなる『狂人』を呼び出すのかをな」

 

 臓硯の言葉に背中を押されるように、雁夜はふらつく足で廊下の突き当り、地下へと続く階段へ向かった。その先にあるのは、間桐家の魔術の象徴。おぞましい蟲たちの巣窟。

 

(……桜ちゃん。必ず、俺が助けて見せる……!)

 

 そして、彼の戦いが始まる場所だった。

 

 

 蟲蔵の空気は、一言で言えば死んでいた。

 

 壁、床、天井の全てがおびただしい数の蟲で覆われ、蠢き、不快な羽音と蠢動の音を立てている。魔術の素養のない者が一呼吸すれば、それだけで発狂するであろう地獄。

 

 その中央に、雁夜は血で魔法陣を描いていた。

 

 捧げた鶏の死骸から流れる血と、自らの血反吐が混じり合い、祭壇は禍々しい祭壇と化している。

 

「――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」

 

 詠唱を開始する。一言紡ぐごとに、刻印蟲が彼の魔術回路を食い破り、激痛が脳を焼いた。

 

「閉じよ(みたせ)、閉じよ(みたせ)、閉じよ(みたせ)、閉じよ(みたせ)、閉じよ(みたせ)。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 

 憎悪を。怒りを。絶望を。桜を救えなかった後悔。遠坂葵を、時臣を、そして魔術に関わる全てを呪う心。

 

 そのどす黒い感情の全てを、魔力に変換して魔法陣に注ぎ込む。

 

 来い。

 

 来い。

 

 来い。

 

 俺の狂気に相応しい、最強の狂戦士よ!

 

「――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!」

 

 最後の呪文を、血を吐きながらも雁夜は叫ぶ。

 

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 

 瞬間、魔法陣が凄まじい輝きを放った。嵐のような魔力が蟲蔵の中を吹き荒れ、壁面の蟲たちが恐慌をきたしたようにざわめく。雁夜は、己の願いが聞き届けられたことを確信した。

 

(よし、これで……!)

 

 やがて光が収束し、人影が形作られていく。光が完全に消え去った時、そこに立っていたのは―――。

 

「…………は?」

 

 雁夜の口から、間の抜けた声が漏れた。

 

「……なんと……」

 

 臓硯もまた、驚きに目を見開いている。

 

 なぜならば、魔法陣の中心、英霊が召喚される場所にいたのは、およそ狂戦士という言葉から最もかけ離れた存在だった。

 

 純白の、豪奢なドレスを纏った一人の少女。

 

 雪のように白い肌と、白金の髪。

 

 歳は十にも満たないだろうか。血と臓物の悪臭が満ちるこの場所で、彼女のいる一点だけが、まるで穢れを知らぬ聖域のように切り取られている。

 

「なんじゃ…それは…」

 

 臓硯が呆然と呟く。

 

「狂人の呼び声に、赤子が応えたとでも言うのか? 出来損ないにも程があるわ!」

 

 臓硯の嘲笑が、雁夜の心を絶望で塗りつぶす。そうだ。これでは戦えない。こんな子供に、桜を救うための殺戮ができるはずがない。俺の願いは、聖杯にすら届かなかったというのか。

 

「ぐっ……ぁああああっ!」

 

 その絶望に呼応するかのように、全身の刻印蟲が牙を剥いた。今までとは比較にならない激痛に、雁夜の視界が赤く染まり、彼は膝から崩れ落ちた。

 

 その時だった。

 

 少女が、ふわりと動いた。おぼつかない足取りで雁夜に歩み寄り、その小さな手を、彼の胸元――蟲が最も激しく蠢く場所――に、そっと触れさせた。

 

 次の瞬間。嘘のように、地獄の苦痛が霧散した。

 

「……え?」

 

 何が起きたのか分からない。あれほど荒れ狂っていた蟲たちが沈黙し、嵐が過ぎ去ったかのような静寂だけが、雁夜の肉体を満たしていた。

 

 雁夜が顔を上げると、少女は変わらず無表情のまま。自分の手が触れた場所と、雁夜の顔を不思議そうに交互に見比べていた。まるで、初めて見る玩具の仕組みを確かめるかのように。

 

 言葉はない。狂気も、忠誠も、同情すらもない。

 

 ただ、ガラス玉のように大きな瑠璃色の瞳が、じっとこちらを見つめている。

 

「君は、一体?」

 

 その瞳に宿る、神にも似た無垢な好奇心に、雁夜は安堵ではなく、得体の知れない畏怖を覚えるのだった。

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