Fate/The White Fatalis 作:灯火011
間桐邸の地下の蟲蔵は、陰険な空気が充満する、雁夜にとっては訪れたくない場所である。
そんな場所で雁夜は、臓硯の前に引き据えられていた。そして、彼の体はかつてないほどの激痛に苛まれていた。バーサーカーが隣にいない今、彼の体を蝕む刻印蟲は、その主の怒りに呼応するかのように、雁夜の生命力を猛烈な勢いで貪っていた。
「……役立たずめが」
臓硯は、忌々しげに吐き捨てた。その手には、使い魔の蟲が撮影した、バーサーカーがアジトで「ままごと遊び」に興じる姿が映し出されていた。
「貴様は、一体どんなものを呼び出したのじゃ。あのサーヴァントは、聖杯を欲しておらん。戦う意志すらない。ただ、人間を眺めておるだけではないか! あれでは、ただの『置物』じゃ!」
「ぐ……う……」
「お主の願いも、儂の悲願も、あの気まぐれな『置物』一つで台無しじゃ。これ以上、お主とあのサーヴァントに任せては、埒が明かん」
臓硯の目が、ぬらり、と光った。
「……桜を、使う」
その言葉に、雁夜は顔を上げた。血走った目で、臓硯を睨みつける。
「……何を、する気だ…」
「桜は、既に優れた魔術回路を持つ『器』じゃ。あの子を聖杯の小聖杯(器)として機能させれば、サーヴァント一騎を屠ることも、あるいは、他のマスターから令呪を奪うことすら可能やもしれん」
「やめろ……! 桜ちゃんに、そんなことをさせるな!」
雁夜は叫び、臓硯に掴みかかろうとするが、体の自由は利かない。蟲たちが、彼の肉体を内側から締め付けていた。
「フン。ならば、貴様が役に立て。バーサーカーを操り、今宵中にサーヴァントを一騎、仕留めてこい。それができねば――」
臓硯は、ゆっくりと蟲蔵の奥へと視線を向けた。そこには、虚ろな目をした桜が、まるで人形のように立たされていた。彼女の体には、臓硯によって刻まれたであろう、おぞましい何某かの紋様が浮かび上がっている。
「――この蟲蔵の蟲共に、桜をくれてやるまでじゃ」
「ああああああああああッ!!」
雁夜の絶叫が、蟲蔵に響き渡った。それは、怒りか、絶望か、あるいは、己の無力さを呪う悲痛な慟哭だった。
■
雁夜が、ふらつく足でアジトに戻った時、部屋の中はもぬけの殻だった。
「バーサーカーが、いない?」
焦燥感に駆られ、雁夜が部屋を飛び出そうとしたその時。アジトのドアが静かに開いた。そこに立っていたのは、一人の少女だった。純白のドレスを纏った、彼のサーヴァント。
その手には、一本のクレープが握られていた。どうやら、街を散策し、人間の「買い食い」という文化を観察、そして模倣してきたらしい。
その、あまりに平和で、あまりに場違いな光景に、雁夜の中で、何かがぷつりと切れた。
「……遊んでいる場合じゃないんだッ!!」
雁夜は、少女の肩を掴み、激しく揺さぶった。
「君が! 君がそんな風だから! 桜ちゃんが……! 桜ちゃんが、ひどい目に遭わされるんだ!」
少女は、初めて雁夜から向けられる直接的な激情に、きょとんとした顔で彼を見つめている。その手から、クレープがぽとりと床に落ちた。
「なぜ戦わない! なぜ聖杯を求めない! 君は、一体何のためにここにいるんだ! 僕を、僕の願いを、ただ見物しに来ただけなのか!?」
怒りに任せて、雁夜は言葉をぶつける。だが、少女は何も答えない。その瑠璃色の瞳は、ただ、激昂する雁夜の顔を、その感情の動きを、興味深そうに観察しているだけだった。
その態度が、雁夜の理性をさらに焼き切った。彼は、少女を突き飛ばした。小さな体は、簡単にバランスを崩し、床に尻もちをつく。彼女のドレスの裾が、床に落ちたクリームで汚れてしまっていた。
「……っ」
突き飛ばした瞬間、雁夜は我に返った。
なんてことをしてしまったんだ。相手は、サーヴァント。しかも、天災すら呼び起こす、規格外の存在。報復されれば、自分など一瞬で消し飛ばされる。だがそれ以上に、守るべき子供のような姿の相手に、暴力を振るってしまったという自己嫌悪が、彼の心を苛んだ。
少女は、ゆっくりと立ち上がった。汚れたドレスの裾を一瞥し、そして、雁夜の顔を見た。その瞳に、怒りはなかった。悲しみもなかった。ただ、一つだけ。
ほんの僅かに「失望」の色が浮かんでいるように、雁夜には見えた。まるで、
『この観察対象は、思ったよりも早く壊れてしまった』
とでも言うかのように。
その視線に、雁夜の心は、完全に折れた。彼は、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
「……ごめん……ごめん……僕が、弱いからだ……僕が、全部……」
すると、少女が、静かに彼に歩み寄った。そして、彼の頭に、そっと手を置いた。
アサシンを消滅させ、天災を呼び起こした、その小さな手。
その手から、温かいとも、冷たいともつかない、不思議な感覚が流れ込んでくる。それは、彼の体を蝕む蟲の痛みを和らげると同時に、彼のささくれだった精神を、強制的に鎮静させていくようだった。
それは、慰めではない。同情でもない。
ただ、壊れかけた「玩具」を、もう少しだけ遊べるように、手入れしているだけなのだろう。雁夜は、そのあまりに非人間的な優しさに包まれながら、なすすべもなく、意識を手放していくのだった。
■
「………そうか」
その時、少女は、ふと、アジトの窓の外へと視線を向けた。その視線の先は、間桐邸。
彼女の瑠璃色の瞳が、初めて、明確な「敵意」と「不快感」を宿して、細められた。
「邪魔をするのか」
彼女の、大切な「観察対象」を、横から勝手に弄び、壊そうとする存在。
彼女の、面白い「ゲーム」の盤面を、汚そうとする不純物。
その存在を、彼女は、初めて「排除すべき邪魔者」として、明確に認識した。
「―――蟲め」
龍の逆鱗に、指先が、触れた瞬間だった。