Fate/The White Fatalis 作:灯火011
雁夜が意識を取り戻した時、彼の心は、奇妙なほどに凪いでいた。バーサーカーの力によって強制的に鎮められた精神は、怒りも、絶望も、焦燥感すらも感じなくなっていた。ただ、ガラスのように透明な思考だけが、そこにあった。
その明晰となった頭脳で、雁夜は結論を出す。
「もう、駄目だ」
この聖杯戦争は、既に破綻している。臓硯の約束も、聖杯の奇跡も、何もかもが信用ならない。自分のサーヴァントですら、制御不能の観測者だ。この地獄で桜を救う唯一の方法は、この地獄そのものから、彼女を連れて逃げることだけ。
雁夜は、静かに立ち上がった。そして、部屋の入り口でこちらを見ていた少女に向き直った。
「……行こう、バーサーカー」
その声には、もう懇願の色はない。ただ、事実を告げるだけ。
「この街を出る。桜ちゃんを連れて、全部捨てて逃げるんだ。もう、聖杯はいらない」
少女は、じっと雁夜の顔を見つめた。
そして、彼女の関心が、聖杯にも、聖杯戦争にもないことは、雁夜にも分かっていた。彼女の関心は、ただ一つ。自分という「観察対象」と、それを脅かす「不純物」。
雁夜がこの舞台から降りるというのなら、彼女もそれに従うだろう。その先に、また別の「面白いもの」があれば、それでいいのだから。
こくり、と。少女が、初めて、ほんの僅かに頷いた。
それは、雁夜にとって、この地獄で初めて得た、確かな希望の光だった。
■
間桐の屋敷に着いたバーサーカーと雁夜は、小細工をすることもなく、真正面からその扉を開け放っていた。
「雁夜……貴様、何を」
「くそジジイ。桜ちゃんを貰いに来た。邪魔をするならば……」
「邪魔をするならばなんじゃ?ワシを殺すか?」
「ああ。……バーサーカー」
一歩、彼女が歩みを進める。すると、間桐臓硯の体がボロボロと崩れ始めていた。
「なん、なんじゃ……何が……」
「大人しく桜ちゃんを渡せ。さもなければ、この屋敷ごと全てを薙ぎ払う」
令呪を見せながら、臓硯にそう迫る雁夜。これは既に脅しではなく、決定事項の伝達だった。
―――くそジジイ。どうする?ここで全員死ぬか、それとも生き残るか?
■
そして、バーサーカーが放つ、人ならざる者の気配に屋敷の蟲たちは沈黙し、桜への道は開かれていた。
「港へ向かおう。そこから船に乗れば、この呪われた街から脱出できる」
夜陰に紛れ、桜を含めた三人は間桐の屋敷を抜け出した。屋敷の門を抜け、自由への出口が見えた、その時だった。
月光を背に、一人の男が、道の真ん中に立ちはだかっていた。
「―――待ちかねたぞ、道化ども」
黄金の鎧が、月明かりを反射して妖しく輝く。
英雄王、ギルガメッシュ。
その真紅の瞳は、愉悦に満ちて、爛々と輝いていた。
「宴もたけなわという時に、主役が舞台から降りるとは、無粋の極みよな」
ギルガメッシュは、雁夜や桜など、まるで存在しないかのように無視し、その視線をバーサーカーただ一人に固定していた。
「臓硯という老いぼれの骸で、貴様がどう舞い踊るか、楽しみにしていたのだが……興醒めも甚だしい。ならば余興はこれまでだ。我自身が貴様という謎を、その身ぐるみ剥いでくれるわ!」
次の瞬間、ギルガメッシュの背後の空間が、漣のように揺らめいた。
一つ、二つではない。数十、いや、百を越える黄金の波紋が、夜空を埋め尽くす。その全てから、神話に謳われた宝具の切っ先が、ギラリと覗いていた。
王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)。その、本気の威容だった。
「さあ、始めようぞ! 我が至宝の輝きに、貴様の正体を白日の下に晒すがいい!」
号令と共に、宝具の嵐が、三人に襲いかかった。
天を裂く剣、地を穿つ槍、山を砕く斧。その一振り一振りが、小国の運命すら左右する、伝説の兵器。
死。
雁夜の脳裏に、その一文字が浮かんだ。彼は、咄嗟に桜の体を抱きしめ、盾になろうとする。
「くそっ……ここまで来て!」
だが、命を刈り取る筈の衝撃は、一向に来なかった。雁夜が恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
バーサーカーが、雁夜と桜の前に、ただ静かに立っている。
彼女は、手も、指一本すら動かしていない。
しかし、降り注ぐ宝具の豪雨は、彼女の数メートル手前で、まるで分厚いガラスに阻まれたかのように、次々と軌道を変え、砕け散り、地に落ちていく。
ガシャン! ギン!
と、無数の金属音が鳴り響くが、そのどれ一つとして、彼女が作り出す不可視の領域を突破できない。
それは、魔術障壁などという生易しいものではない。
彼女の存在そのものが、この世界の物理法則を、因果律を、捻じ曲げているように雁夜には見えていた。ギルガメッシュの宝具が持つ「この世の理」を、「別の理」で、ただ一方的に「拒絶」している、と思えるほどに。
「ハッ―――ハハハハハハハ! 素晴らしい! なんという理不尽! なんという傲慢! それこそが貴様の本質か!」
ギルガメッシュの哄笑が、夜空に響き渡った。彼は、恐怖するどころか、歓喜に打ち震えていた。
「ならば、これはどうだ!」
波紋の数が増す。そこから現れる宝具は、先ほどまでとは明らかに「格」が違った。呪いを付与する魔剣、自動追尾機能を持つ魔槍、因果を逆転させる曰く付きの凶器。
宝具の嵐は、より激しい暴風雨へと変わっていた。不可視の壁に激突した宝具は、その行き場を失い、周囲の道路を、建物を、無差別に破壊し始める。アスファルトが捲れ上がり、電柱がへし折れ、火花が散る。
「本気かよ……!くそっ!」
雁夜は、桜を庇いながら、その暴威に耐えることしかできなかった。
前には、この世の全ての宝具を以て、全てを破壊し尽くす黄金の王。
後ろには、この世の全ての理を捻じ曲げ、全てを拒絶する、沈黙の少女。
「逃げられない、か……!」
この二柱の怪物が対峙するこの場所こそが、世界の中心であり、そして、地獄の釜の底だった。
このままでは、桜が、戦いの余波で死んでしまう。雁夜の心に最後の決断が、黒い炎のように灯った。
「……バーサーカーの宝具を解放させるしかない」
それを行えばどうなるかそれは、誰にも分らない。だが、このままではジリ貧で、打つ手もない。もう、雁夜に選択肢は残されていなかった。
この怪物を、この天災を、完全に解き放つしかないのだと。
たとえ、その結果、この世界の全てが、自分自身と共に消滅することになったとしても。