ココロワに転生したレズが光源氏よろしくサクナを理想の恋人として教育していく話 作:高丸
数日後。
空は澄み渡り、都に秋の風が吹き始めた頃。
その日もサクナの部屋に、変わらずココロワが向かっていた。
けれど今日は、どこかいつもと違う緊張が、サクナの肩に宿っていた。
(ま、まだか……来ぬのか……)
珍しく、落ち着かない様子で畳の上をうろうろしている。
視線は何度も襖の向こうをうかがい、落ち着きなく団子の皿を三度も並び替えた。
そして、ようやく――
襖の向こうから、からん、と優雅な足音が響いた。
「お待たせしました、サクナさん」
「こ、ココロワーッ!やっと来たかーッ!」
いつものようににっこりと笑うココロワの手には、
またしても丁寧に包まれた藍染の布が抱えられていた。
「……それは、もしかして……?」
「はい。続きです。“片恋物語”第二巻。ウツスミとヒイラギの物語、少し動きますよ」
サクナの目が、ぱぁっと輝いた。
そして――
サクナは夢中で読み進めた。
けれど、その“熱”は、前回とは少し違っていた。
読み進めれば進めるほど、心の奥に、どこか“もや”のような感情が積もっていった。
『ウツスミは、相も変わらず、鈍く、まことに不器用なる女子(おなご)なりき。
剣は振れても、心の揺れには疎く、言の葉にも、情にも、不馴れのままに日を重ねておりぬ。
されどその頃より、ヒイラギの傍らには、彩とりどりの女子ども、寄り集まり始めけり。
「貴方の御装束、誠に雅(みやび)にて……」
「この髪飾りは、いずこにて求めしものにございますか?」
聞き馴れた台詞の数々、まるで芝居の一幕のように、ウツスミの耳にこだましぬ。
ウツスミは、胸の奥底より、得体知れぬ苛立ちを覚えたり。
(……あの御方の笑みは、我が身のみに向けられしものと思いしに……)
そう思う己を、浅ましとも思いながら、それでも心は騒ぎて止まず。』
読む手が止まりそうになった。
でも、止められなかった。
(……なんじゃこの感じは……)
ウツセミが“それ”に名前をつけないまま、心を揺らすたび――
読んでいるサクナの胸も、妙にきしんだ。
『ある日のこと。
都の祭礼、街に人々集い、灯籠の明かりが揺れる中、
ヒイラギは、見目麗しき娘らを連れ、歩み行きけり。
鮮やかなる飾り、賑わいの波。
そしてその只中にて、楽しげに笑むヒイラギの横顔。
ウツスミは、それを遠く、影の中より見つめおりぬ。
声をかけんとすれど、口は開かず。
足は進まず、指先ばかりがかすかに震えておりぬ。
その夜、寝所に伏しながらも、眠りは遠く。
身を丸め、己にすら聞こえぬ声で、ぽつりと呟けり。
「……我は、何ゆえに、斯様にも胸苦しきや……」
月は静かに、雲間より覗きぬ。
ウツスミの知らぬところにて、風がそっと障子を鳴らしていた。』
サクナは、最後の一文を読み終えたところで、本をぱたんと閉じた。
顔を伏せたまま、動かない。
襖の外では秋の風が竹林を揺らし、心のざわめきをさらに煽っていた。
「サクナさん……いかがでしたか?」
いつものように、やわらかく問いかけるココロワ。
けれどその瞳は、しっかりとサクナの心の揺れを読み取っていた。
「……わし、ちと腹が立ったのじゃ」
「……それは、どうして?」
「だって……ヒイラギのやつ、他の娘とばかり……ウツスミが、寂しそうで……」
「……ウツスミが?」
「う、うむ。……なんじゃろうな……ただの物語のはずなのに、
そのヒイラギの行動が……なぜか、見ておれんかったのじゃ……」
少しずつ、感情がこぼれ出していく。
言葉にならない“違和感”が、言葉の形に変わっていく。
(そう、それでいい。今、サクナの中には“嫉妬”の芽が、確かに息づいている)
ココロワは、少しだけ身を寄せた。
隣に座るサクナの手が、そっと自分の膝に触れたが、気づかないふりをした。
「サクナさん。……大丈夫ですよ。ヒイラギは、ウツスミのことを、きっと……」
「……わし、次の巻も読みたい……」
小さな声で、そう呟いたサクナの横顔は、
まだ“恋”という言葉を知らぬまま、確かにそれを感じていた。
そしてココロワは――その手の中で、静かに拳を握った。
(あとは、その“嫉妬”を“私”と結びつけてあげればいい)
***
ココロワが来るはずの刻限になっても、襖は微動だにしない。
耳をすませても、聞き慣れた足音はどこにもなかった。
「……こ、ココロワ……?」
低く、小さな声。
けれど、そのひと声が自分でも驚くほど不安げだった。
襖の向こうに向かって問いかけるが、返ってくるのは、静寂だけ。
(なぜ……?)
胸の奥が、ひゅう、と音を立てて冷え込んでいく感覚。
まるで冬の風が、部屋の中を通り抜けていくようだった。
団子の湯気さえ、やけに寂しく見えた。
ようやく、日が傾いた頃。
ぎぃ、と音を立てて襖が開いた。
「……遅くなってしまって、申し訳ありません」
優雅に姿を現したココロワ。
その声はいつも通り柔らかだったが、なぜか少し遠く聞こえた。
「……ど、どこへ行っておったのじゃ!」
思わず、語気が強くなった。
そのあとすぐ、自分でその感情の強さにぎょっとする。
(どうして、こんなに……)
「少し……仕事のほうが立て込んでいまして。今日は長くは滞在できないのです」
「……あ、そうか……それなら、仕方ない……」
言葉では納得したふりをした。
でも、心のどこかは黙って頷いてくれなかった。
(なぜ……こんなに寂しい? ただ一度会えなかっただけなのに)
そんな自分が、分からない。怖い。
「ですが、こちらはお持ちしました」
そう言って差し出された布包み。
そこにあったのは――待ち望んでいた、『片恋物語・第三巻』。
それだけで、心の底に差し込んでいた冷気が一瞬だけ溶けた。
「……!」
表紙に触れた瞬間、サクナの指がほんの少し震えた。
それを見逃すことなく、ココロワは穏やかな微笑を浮かべた。
「……今夜はもう、時間が……。また今度、一緒に読めたら嬉しいです」
「……っ、う、うむ。わかったぞ……!」
笑顔を崩さないココロワに、それ以上は言えなかった。
けれど、去っていく背中を見送るその目には――
拭いきれない寂しさと、言い知れぬ不安が、影のように滲んでいた。
その夜、月がゆるやかに昇る。
布団の中、サクナは静かに本を開いた。
襖の外では虫が鳴いていた。
けれど耳には、その音も届いていなかった。
『 ヒイラギ、遠方の任に就くこととなりぬ。
その折、彼は静かなる声にて告げたり。
「しばし、お会い叶わぬやもしれませぬ」
その言の葉を耳にした瞬間、ウツスミは言葉を失いぬ。
これまでの日々にて、彼の不在など、思いも寄らざりし。
並び立つ背の温もり、笑み交わす日常、穏やかに語る声の響き――
それらすべてを、まるで空の色の如く、“常に在るもの”と思うておりしに。
されど今、確かなる形にて、それが失わるるやもしれぬと知り、
胸の内、音も無く揺らぎぬ。 』
(……やめてくれ。読んでて、胸が痛い……)
ウツスミの気持ちが、今の自分と重なっていくのが分かる。
どうしてこんなにも、物語の登場人物の想いが、自分の胸を絞るのか。
『 「……伝えずして、悔い残らぬや?」
己の心が叫ぶも、その声、唇よりこぼれ落ちることなく。 』
(わしも……そうじゃ。言えん……怖い……)
目頭が熱くなり、文字が滲んで見えなくなる。
ページをめくる指が濡れて、紙がわずかに歪んだ。
それでも――最後の一文に、目を落とした。
『 ヒイラギの背は、ゆるゆると遠ざかりゆく。
呼び止めんとする足も動かず、手も挙げられぬまま。
ただひとつ、心の底より、細く、されど確かに紡がれた言の葉あり。
「――あの御方が……好きにてござる、我は……」
その囁き、風にも届かぬほどに小さきものなれど、その想いの深さは、もはや否定し難きものなりき。 』
「……好き、なんじゃ、わし……」
思わず漏れたその言葉に、自分自身が一番驚いた。
震える唇。早まる鼓動。
たった一言が、心の中の全てを塗り替えていく。
(……今、わしは……なにを……言った?)
戸惑いと混乱の波が、頭を埋め尽くしていく。
でももう、気付いてしまった。
“好き”という感情が――たった一人の神を、まっすぐに見つめていたことに。
***
そしてその夜。
神殿の高台にて。
誰もいない庭園の中、星明かりの下で、ココロワはひとり佇んでいた。
虫の音は遠く、風の通り道だけが音を運んでいる。
高台の空気はわずかに冷えて、季節の変わり目を告げていた。
風が髪を撫でるたび、彼女の耳元で、歯車の髪飾りが小さく鳴る。
きぃ、と細く、鋭く、まるで機械仕掛けの囁き声のように。
その音に耳を傾けながら、ココロワは静かに呟いた。
「……ああ、楽しい」
つぶやきというには熱がありすぎた。
唇の端がわずかに上がっていた。
口角が笑っているのに、瞳はあまりにも冷たかった。
「私が与えた言葉で、サクナが泣いて、笑って……そして今夜、気づいた」
その目には、まるでガラス細工をうっとりと見つめるような光が宿っていた。
大切に、大切に、自分の手で組み上げた感情の模型――
それが、ゆっくりと命を持ちはじめた瞬間。
「こんな恋の形があるなんて……前世じゃ思いつきもしなかった」
言葉の奥には、どこか呆れすら含まれていた。
だがそれは、“人間だった頃の倫理”に対する皮肉。
それを軽く越えてしまえる今の自分を、心底愉しんでいる。
(愛されるって、こんなに簡単だったんだ)
彼女の目には、もう罪悪感も迷いもなかった。
ただ、目的へ向けた明確な構造と、完璧な感情設計だけがあった。
「でも、まだよ。サクナ」
ぽつりと呟く声に、風がかすかに震えた。
空を見上げるその顔は、美しくも無慈悲な彫像のようだった。
「本当の“愛”は、まだ始まってもいない。
恐れを知って、壊れる寸前で初めて、心はわたしを選ぶ」
言葉は優しく紡がれているのに、そこにあるのは狩人の論理だった。
獲物を仕留めるために、どれだけの工程が必要か――
それを理解し、楽しみ尽くしている目。
足元に集まった小さな絡繰りたちが、ココロワの気配に反応して動き出す。
歯車がカタカタと音を立て、金属の脚が畳を滑るように移動していく。
まるで彼女の意志を理解しているかのように。
まるで、次なる“演出”に備えているかのように。
「――だから、次は“喪失”を教えてあげる」
語る声は甘く柔らかい。
だが、その甘さこそが毒だった。
「私がいなければ、どれだけ苦しいのか……
私なしでは生きられないって、思い知らせてあげる」
ゆっくりと、空を見上げる。
神々すら見下ろすような視線で、満天の星を睨みつける。
そして――唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。
その笑みは、まるで人を誑かす女狐のように――
気まぐれで、甘く、どこまでも妖艶で。
けれどその奥に潜むのは、愛される悦びではなく、“愛されるように設計した悦び”だった。
冷たい夜風の中、星すらその表情に目を逸らすかのように瞬きを止めていた。