ココロワに転生したレズが光源氏よろしくサクナを理想の恋人として教育していく話 作:高丸
その日、昼になっても、ココロワは来なかった。
(……あれ?)
いつもの時刻。
いつもの足音が、いつものように聞こえてくるはずだった。
けれど、今日は――何も、ない。
団子を二つ分用意した。
茶器も、昨日磨いておいた。
からくり急須の歯車まで油を差して、待っていた。
(……少し、遅れておるだけじゃ。きっと……)
陽が昇る。
雲が流れる。
風が庭の葉を揺らす。
けれど――時間だけが、ただ黙って過ぎていった。
そして二日目。
「……ココロワ……?」
襖の前に座り、サクナはじっと外を見つめていた。
膝に抱えた団子が、冷えて硬くなっていく。
(なぜ来ぬ……)
昨日までは、“用事”だったと思い込もうとした。
でも今日になると、それはもう言い訳にならないと、身体のどこかが理解していた。
心がそわそわとざわめく。
本を読もうとしても、目に入らない。
食事をしようとしても、味がしない。
(なぜ、わしに何も言わず……いなくなるんじゃ……)
理由もわからない。
行き先も聞いていない。
「また明日」も言われなかった。
なのに、昨日まではそこにいた。
笑って、話して、寄り添って――。
それが今、影も形もない。
そして三日目の夕刻。
タマ爺が言った。
「ココロワヒメ様、最近お姿が見えませぬな。
何やらカムヒツキ様からのお達しで、少し遠方に……との噂もございますが……」
「……っ」
聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
“少し遠方”。
それだけ。
それ以外の情報は、誰も持っていない。
探しようもなければ、呼び戻す手段もない。
(なんじゃ……なんじゃそれは……)
手が震える。
喉が焼ける。
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
(……こんな、こと……)
その夜。
サクナはひとり、寝台の中で膝を抱えていた。
団子にも触れず、灯りもつけず。
ただ、静かに目を閉じて――
想像した。
「もう二度と、会えなかったらどうしよう」
その考えが、どこまでも恐ろしかった。
生きる世界の色が、全部消えてしまうような気がした。
そのときだった。
コン、と。
襖の外で、小さな音がした。
サクナは反射的に飛び起きて、駆け寄った。
「……ココロワ!?」
けれど、そこに彼女の姿はなかった。
代わりに、そっと置かれていたのは――
丁寧に包まれた、藍染の布包み。
その中にあったのは、一冊の本。
金糸で綴られた、見慣れた文字。
『片恋物語・第四巻』
サクナの手が震えた。
ページをめくる前から、もう胸が苦しかった。
これは、彼女からの“気配”だ。
彼女がいないのに、“彼女の感情”がここに残っている。
(まるで……姿が見えなくても、そばにいるみたいじゃ……)
ページを開く。
『 ウツスミは、結局、何ひとつ告げること能(あた)わず、
ヒイラギの背を見送りしのみ。
気づけば、あの面影も遠く、声も響かず、温もりすら、
風の如く、指の隙間よりこぼれ落ちぬ。
ただ、ただ残されしは、一枚の文。
彼のものと知れし筆の跡、丁寧にしてまっすぐなる文字。
その中に、ひとつの言の葉が綴られてありき。
「――必ずや、戻り参ります。
その折――もし、貴女が今も……我を思うていて下さるならば。
それだけで、我が心は……何より救われましょう」
ウツスミは、そっとその紙に指を置きぬ。
けれど、文字は何も語らぬ。彼の声ではなく、墨の跡のみ。
それでも、その文の端に残る熱は、
たしかに――今しがたまで、ヒイラギがそこに在った証。
胸の奥に灯るは、悔いと、痛みと、そして……名もなき願い。
風が静かに障子を鳴らすたび、彼女は、ただその文を抱きしめた。 』
「……っ……うぅ……ああああ……あああああっ……」
サクナは、その場で本を抱きしめた。
顔をうずめて、声を殺して泣いた。
苦しかった。
寂しかった。
胸が張り裂けそうだった。
(わし、お主のことが好きなんじゃ……ココロワぁ…)
――会いたい
***
朝、部屋の襖をそっと開けると、そこには窓辺に膝を抱えて座るサクナの背中があった。
朝日を受けたその輪郭は、以前よりもどこか細く、頼りなく見えた。
「……おひいさま」
「……タマ爺か」
返事の声はあまりに小さく、そして掠れていた。
それだけで、タマ爺の胸にざわりと不穏な風が走った。
(……食事も、ほとんど口にしておられぬ……)
机の皿には、昨日のままの渇いた米が残っていた。
茶器は空のまま、触れた形跡すらない。
机の上の筆も動いておらず、遊び道具も絡繰りも、まるで世界の色を失ったように沈黙していた。
「……体調が優れませぬか?」
「いや、なんともない」
そう言ってサクナは顔を向けた。
けれど、その目の下にはくっきりとした隈が浮かび、頬の肉は削げていた。
本来ふっくらとした顔立ちだったはずが、今はどこか――ひとまわり、縮んだような印象だった。
(なんとお労しきお姿……まるで命の芯が、どこか抜け落ちてしまったかのよう……)
タマ爺は、ただ黙って座布団に座った。
昔のことを思い出す。
まだ幼いサクナが、寂しくて泣いていた夜。
膝の上で眠りに落ちるまで、何度も歌を聞かせたこと。
そのときの涙と、今のこの顔――
とても、似ている。
「……なあ、タマ爺。ココロワは……まだ、戻ってこんのか……?」
サクナが言った。
無理に明るく振る舞っているのが、逆に痛々しかった。
「……カムヒツキ様の任は、長引くものですから。きっと、じきに……」
けれどその言葉を、自分の口で言いながら、タマ爺の胸にも確信はなかった。
いつになったら会えるのか――
それを知らぬまま、姫は一日一日、命を削っている。
(……このままでは、心が……)
何かを失いかけている者の顔だった。
そしてそれは、まだ得てもいないのに、もう失うことを恐れている者の顔でもあった。
(早く戻って来てくだされ、ココロワヒメ様……)
タマ爺は拳を膝の上で握りしめた。
(おひいさまは、もはや、貴女以外の何者にも笑顔を見せられぬ体になっておられますぞ……)
その祈りは、風の音にかき消されていった。
***
その日――
「ココロワが戻ってくる」と聞いた瞬間、
サクナの胸は跳ね上がった。
何日も灰色に沈んでいた世界が、一気に光を取り戻したようだった。
けれど、現実は――
冷たく、重かった。
神殿の門の前。
揺れる担架。
その上に横たわるのは――ココロワだった。
「…………う、そ……」
視線が震える。
足が動かない。
頭の中で、何かが真っ白になっていく。
右腕には厚く巻かれた包帯。
腹部にも幾重にも重ねられた医療布。
赤い染みがじわじわと滲み、視線を焼く。
「……おい、これは……これは……」
誰かが言っていた。
「絡繰りの暴走事故……地下工房で爆発が――」
「巻き込まれて、でも……ワヒメ様が……を庇って――」
「……命に別状は……が、あと…でも遅れていたら――」
(――死んでた、のか……?)
その瞬間、サクナの視界がぼやけた。
「コ、ココロワ……!!ココロワ!!!」
声にならない悲鳴とともに、駆け出した足が床を滑った。
それでも転びそうな体を無理やり起こし、もつれる足で担架へと駆け寄る。
ココロワは、かすかに瞼を上げた。
まるで夢の途中のように、焦点の合わない目でサクナを見る。
「……ただいま、サクナさん……」
声はかすれ、喉が焼けているようだった。
けれどその笑みだけは、あまりにも優しく、いつも通りだった。
「お、お主、ば、馬鹿者!こんな……こんな……っっ!」
サクナは、嗚咽まじりに叫んでいた。
それは怒りではなく、悲しみでもない。
もっと根の深いもの――
“恐怖”だった。
「……もう二度と、会えぬかと思って……!」
指先が震える。
言葉が、熱に溶けて崩れていく。
「……ごめんなさい。ほんとうに……驚かせて、しまいましたね」
か細く、掠れた声。
だが、その声音は、完璧に“弱者”の演技に染まっていた。
(ギリギリ靭帯は損なわず、神経も逸れてる。けど、見た目は“死線を越えた風”に仕上げた)
まぶたの重さ、唇の乾き、呼吸の浅さ。
すべて計算済み。
サクナの視線が、こちらの表情に釘づけになっているのが、肌を通して伝わる。
(この身体で、これ以上ないほど“守られる存在”になれる)
“守られる者”は、強い。
ただそこに在るだけで、相手の心を蝕めるのだから。
憐れみは、時に恋より強い。後悔は、永遠を縛る鎖になる。
(サクナが自責の感情から逃げられないように。私を、儚い存在として見上げるように)
***
その夜――
寝台で横たわるココロワの横に、サクナがひとり正座していた。
膝の上で握りしめられた手は、血が通っていることすら忘れたように冷たい。
サクナの目は赤く腫れ、
何度も涙を拭ったせいで、睫毛の先はまだ濡れている。
頬には、泣き腫らした痕がうっすらと残っていた。
「わし、ずっと考えておった。
なんで、お主を止められなかったんじゃろうって……
なんで、そばにおらんかったんじゃろうって……」
「……サクナさん。これは事故です。誰のせいでも……」
「でも、わしが、わしがもっと、お主の任を知っておったら……
もっと早く、お主を……!」
その声が震える。
その手が、包帯を巻かれたココロワの腕に触れようとして――止まった。
触れたら、壊れてしまいそうだった。
「サクナさん」
ココロワは、少しだけ上体を動かす。
傷が痛んだふりをして、ほんのわずか、眉を寄せる。
「わたくしは、自らの意思であの場にいました。
誰のせいでもありません。もちろん……あなたのせいでも」
サクナは拳を膝の上で握りしめる。
その震えが、部屋の空気を静かに揺らした。
「わたくしは戻ってきました」
ココロワの声はまるでガラス細工のように繊細で――
壊れそうで、美しくて、手が届かない。
「あなたのもとに、ちゃんと。戻ってきましたよ」
ほんの少し微笑んで――
泣きそうなサクナの手を、そっと指先でなぞる。
「だから……そんなに、自分を責めないで」
ココロワの声は、まるで傷を撫でるように優しく響いていた。
その仕草すら、彼女の意図した“劇”の一部。
けれどサクナにとって、それは救いの手そのものだった。
涙で濡れた睫毛が、ふるふると震える。
……だが――
(とは言っても、あなたに自分を許せるはずがない。どんなに仕方がない事故でも、もはや関係がない)
サクナの心は、理屈では動かない。
正しさも、事実も、“私が無事だった”という結末さえ、彼女を救う材料にはならない。
ただひとつ――
「ココロワが傷ついた」という、その一点だけが、彼女の心を覆い尽くしている。
それは、縄のようなものだった。
赦されようともせず、忘れようともできず、
ただ静かに、冷たく、感情の芯を締めつけていく。
(あなたはもう、私を“友”として見ることができない)
もう同じ高さには立てない。
同じ目線には戻れない。
わたしは、あなたの心の中で「守るべきもの」になった――
触れてしまえば壊れてしまう、崇高で、脆くて、抗えぬ存在。
(視界の隅に私がいないと、あなたの心は不安でひび割れる)
それはもう“恋”ではない。
“渇き”だ。
わたしの姿が見えなければ、彼女の心は意味を失う。
(声が聞こえなければ、夜の闇に飲まれてしまう)
沈黙の夜。
聞こえない私の声を求めて、彼女は眠れず、息を潜める。
夢の中にすら、私の輪郭を探すだろう。
(触れられなければ、己の存在さえ信じられなくなる)
その手が、私に触れられないだけで、彼女は“自分がここに在る”ということすら確かめられなくなる。
わたしを失うことは、世界を失うことと同義になる。
ココロワは、微笑みを崩さぬまま、ゆっくりと目を伏せた。
うっとりと、口元だけで、囁くように呟く。
「……可愛い、サクナさん」
これって曇らせタグつけてもいいのかな