聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
修復された聖衣、蘇る秩序。
そして、師の名を持つ者の微笑み。
「あなたは、本当に──」
その言葉は、風に溶けた。
黄金の薔薇が揺れ、氷が軋む。
聖域の美しさは、すでに均衡の仮面。
次回――
『沈黙の聖域(サイレンス・サンクチュアリ)』
平和の下に眠る影を、ムウはまだ知らない。
沈黙の聖域
(ムウ視点)
私は、修復を終えたばかりの聖衣を包んだ箱を抱えて、教皇の間へと歩いていた。
昼下がりの聖域は静かだった。
高台の風は冷たく、乾いた砂の匂いがかすかに鼻をかすめる。
それは、故郷ジャミールの風に通じるものがある。
石畳を踏みしめるたびに、私の指先にまだ残る「星屑の砂(スターダストサンド)」のざらつきが蘇る。
あの手の感触。
それは聖衣を修復する者にとって、命そのものを繋ぐ証だった。
そしてその技術は、師──シオンが、私に託した贈り物でもあった。
「……完成した」
そう呟いた声が、少しだけ掠れていた。
修復を終えた聖衣は、美しく光を放っていた。
砕け散った星座たちの残骸が、再び息を吹き返す瞬間。
私はそれを、誇りでもあり、同時に恐れでもあるものとして見つめていた。
なぜなら、聖衣が蘇るということは、戦いが再び始まるということだからだ。
教皇の間の扉を開けると、淡い香の煙が漂っていた。
玉座に座る男は、長い法衣に身を包み、白い髭を撫でながらこちらを見た。
その姿は、私の知る師──教皇シオンそのものだ。
跪き、頭を下げた。
「ご報告いたします、シオン様。前聖戦で損傷した聖衣群の修復、ほぼ完了いたしました」
「うむ、ご苦労であった、ムウ」
穏やかで、低く響く声。
耳が覚えている。
あの懐かしい調べ。
ひとつひとつの言葉に、師としての威厳と温かさが宿っていた。
「これで、来るべき聖戦への備えは万全。おぬしの働き、見事であったぞ」
玉座の男は、微笑んだ。
その微笑みは完璧だった。
弟子を褒める師の顔。
すべてが、「そうあるべき姿」だった。
だが──。
私の小宇宙が、微かにざわめいた。
この空間を満たす力の波。
その奥に、別の色を感じた。
それは、シオン様のものではない。
似てはいる。だが、微妙に違う。
例えるなら……長年同じ場所に飾られていた絵画が、ほんの少し位置をずらされた時のような違和感。
違うのは、気配の向き。
師の光が包み込むものであったなら、いま私の前にある光は覆い隠すものだった。
視線を下げたまま、呼吸を整えた。
「(……いや、気のせいかもしれない)」
この男は、聖域を治め、秩序を保ち、黄金聖闘士たちをまとめ上げている。
聖域は平和だ。
誰もが役割を果たし、世界の均衡は保たれている。
「(そんな中で、私一人が疑いを口にしていいのか?)」
私が口を開けば、それはただの不忠として扱われるだろう。
師の名を騙る者だと糾弾する証拠もない。
小宇宙の揺らぎなど、感覚の違いだと一笑に付されるに決まっている。
それでも、私の中の何かが、どうしても沈黙に耐えられなかった。
「……ひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
教皇は静かに頷いた。
「申してみよ」
私は唇を開きかけた。
あなたは本当に──
だが、声は喉で止まった。
その瞬間、男の背後に見えたのだ。
黄金の聖闘士たちが築き上げた秩序。
整然とした軍律。
再建された神殿。
そこに息づく数多の人々の祈り。
彼らの中心に立つ、この男の存在。
その全てが、あまりにも平和だった。
「(もし、これを壊してしまったら?)」
口にした疑念が、この均衡を崩す。
聖域が再び、混乱と争いに呑まれる。
その未来が、私の脳裏を過った。
師の名を騙っているかもしれない男が、今やこの世界を支えているのだ。
その事実が、私を縛った。
私は結局、ただ頭を下げることしかできなかった。
「ありがとうございます。これより、残りの聖衣の調整に取り掛かります」
「うむ、任せたぞ」
教皇は再び微笑んだ。
だが、その目の奥に、冷たい光が一瞬走った気がした。
私の背筋が凍る。
部屋を出ると、廊下の先で風が吹き抜けた。
深く息を吐き、拳を握りしめる。
「……師よ。私は、どうすればよかったのでしょうか」
答えは返らない。
静けさが、ただ心に落ちていく。
掌を開くと、星屑の砂がひと粒、光を受けて輝いた。
それは、かつてシオン様が言った言葉を思い出させた。
──星は砕けても、光は残る。
その光を、私はまだ信じられるだろうか。
それとも……もう、闇に溶けてしまったのだろうか。
風が吹いた。
その風は、師の手のように、そっと私の肩を撫でていった。
◆
教皇の間を出た後、私は長い階段を降りていた。
足取りが重かった。
聖域の空は、淡く霞んだ金色に染まり、太陽はゆっくりと西の空へ傾いていた。
この静けさが、なぜか今は心に痛い。
風が頬を撫でる。
その冷たさが、頭に残る疑念をいっそう研ぎ澄ませていく。
「(あの男は、本当にシオン様なのか……)」
疑いの言葉を飲み込んだ瞬間から、胸の奥で何かがずっと軋んでいた。
それを振り払うように、私は歩を進めた。
双魚宮の前に差し掛かると、甘い香りが風に乗って漂ってきた。
薔薇の香りだ。
この香りを嗅ぐだけで、誰がそこにいるのか分かる。
「アフロディーテ……」
庭の中央では、彼が一輪の薔薇を手にしていた。
水色の髪を陽光に揺らしながら、静かに花弁を撫でている。
指先に咲く一輪の美。
その姿は、戦士というよりも絵画に近かった。
「おや、ムウか。どうした、暗い顔をして。悩みがあるなら聞くが、私の美学に反する話はよしてくれよ」
相変わらず、飄々とした口ぶりだ。
だが、彼なりにこちらを気遣っているのは分かった。
「アフロディーテ。お前に少し聞きたいことがある」
「ほう?」
一拍置き、言葉を選んだ。
「教皇猊下のことだ。……お前は、あの方をどう思う?」
彼は少し驚いたように眉を上げ、次に軽く笑った。
「どう、とは?」
「この聖域の現状を見て、違和感はないか?」
アフロディーテは手にしていた薔薇を、ゆっくりと鼻先へ持っていった。
その香りを吸い込みながら、少しだけ目を細めた。
「今の聖域は、美しい。そして、私自身も輝いている。
強さと美しさ、それがあれば何も変わらん。教皇が誰であろうと、私には関係ないな」
軽い口調のまま言い切った。
しかし、その言葉の裏には、ある種の覚悟のような静けさがあった。
私は息をついた。
「……そうか」
アフロディーテは花をひとつ地面に落とし、微笑んだ。
「ムウ。お前は真面目すぎる。
聖域がどうあろうと、己の美学を曲げないことだ。それが生き残る道だよ」
彼の言葉は冷たくもなく、優しくもなかった。
ただ事実を述べているだけだった。
「(無関心、か……)」
そう思った。
だが、それも一つの生き方なのだろう。
誰もが信念を貫けるほど強くはない。
聖域を美しく見せるために、見たくないものから目を逸らす者もいる。
軽く会釈して、その場を後にした。
宝瓶宮に近づくと、空気が変わった。
冷たい。
息を吐けば、白い霧がすぐに溶けて消える。
この冷たさに、どこか安堵を覚えた。
「(この凍気……カミュだな)」
宮の中央、氷の壁の前で、青い髪の男が静かに瞑想していた。
彼の周囲の空間だけ、世界が止まっているように感じる。
「カミュ」
名を呼ぶと、彼は薄く目を開けた。
その視線がこちらに向く。
静かで、深い。
湖の底のような瞳。
「ムウか。……お前の纏う小宇宙、ひどく乱れているな」
「やはり、分かるか」
「お前ほどの精神を持つ者が、これほど不安定になるのは珍しい。何があった」
少し沈黙した。
その間に、氷の壁がかすかに軋む音を立てた。
まるで私の迷いが、その氷に伝わっているようだった。
「カミュ……お前ほどの男なら気づいているはずだ。今の聖域の……教皇猊下の小宇宙の違和感に」
一瞬、彼の瞳が揺れた。
だが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。
「ムウ。その疑問は、口にするな。危険すぎる」
「……やはり、何かあるのだな」
カミュは静かに立ち上がり、背を向けた。
氷の壁に触れる。
その指先から、冷気が流れ込む。
「私は、理屈で物を考える。だから、確信のないことは言わない。
だがな……アテナ様が一度も我らの前に姿をお見せにならぬこと。
教皇猊下が、聖戦の準備を進めながらも、誰にも何と戦うのかを語らないこと。
いや、もう何も言うまい」
「……」
「詮索は身を滅ぼすぞ」
その声は、まるで警告というよりも、別れの挨拶のようだった。
彼はもう一度目を閉じ、再び氷の世界に沈んでいった。
しばらく、その背中を見つめていた。
何かを言いたかった。
けれど、言葉にならなかった。
氷の粒が一つ、床に落ちて弾けた。
その小さな音が、やけに胸に響いた。
外に出ると、夕陽が山の稜線を染めていた。
風は冷たく、しかし澄んでいる。
その冷気の中に、ほんの少しだけ、誰かの悲しみが混ざっているような。
「(カミュ……お前も感じているのだな)」
違和感。
恐れ。
そして、口にできない真実。
誰もが、それを知っていながら沈黙している。
その沈黙こそが、この聖域を包む壁なのだ。
私は、拳を握った。
「……師よ。私はまだ、迷っています」
ジャミールの夜空を思い出す。
星々は何も語らず、それでも確かに輝いていた。
たとえ、見上げる者がいなくなっても。
風がまた吹いた。
私のマントを揺らしながら、鐘の音を運んできた。
それは祈りの音であり、同時に警鐘のようにも聞こえた。
小さく息を吐いた。
「……この静けさの下に、何が眠っているのか」
答えを求めて歩き出す。
その足音だけが、凍りつく空気の中で、いつまでも響いていた。
ムウ「……やはり、言うべきだったのだろうか」
アフロディーテ「ああ、ムウ。そんな顔は美しくない。疑念は皺になるぞ?」
ムウ「……お前は、恐れを感じないのか?」
アフロディーテ「恐れより、美しく在ることを選ぶさ。それが、私の戦い方だ」
カミュ「……理屈では説明できないことがある。だが、答えを出すのは早すぎる」
ムウ「……カミュ。お前は何を見ている?」
カミュ「流れだ。静かに見えるものほど、底は深い」
アフロディーテ「深い話だな。……でも退屈だ」
ムウ「……お前ら、少しは真面目に――」
アフロディーテ「真面目に、美を語っているだけさ」
カミュ「私は理性を語った。……あとは、お前の信仰だ」
ムウ「……やれやれ。星屑の砂が乾かぬうちに、また修復が必要になりそうだ」
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