聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
だが、その静けさの奥に、確かに脈打つものがある。
磨羯宮、忠誠の拳。
天蝎宮、灼熱の信念。
処女宮、無執の理。
「信じることは、正義か、それとも罪か──」
聖域を巡る理性の旅路。
次回――
『信仰と正義の狭間で』
疑う者は孤独に歩む。
それでも、星はまだ彼を照らす。
磨羯宮の前に立つと、空気の質が変わる。
乾いた岩の匂いと、鋭い金属の響き。
ここは、沈黙と規律が支配する場所だ。
私は宮の中に足を踏み入れた。
壁のあちこちに、斬撃の痕が残っている。
岩盤が削られ、微かに白い粉が舞っていた。
その中心で、一人の男が剣、いや、拳を振るっていた。
「シュラ……」
その名を呼ぶと、彼は一度だけ動きを止め、振り返った。
肩にかかる汗が、光を受けて細かく散る。
そして、剣を下ろした瞬間、張り詰めた空気がふっと和らいだ。
「ムウ。どうした」
その口調は、いつも通りだった。
無駄がなく、簡潔。
彼の言葉には飾りも揺らぎもない。
少し躊躇いながら、問いを口にした。
「……シュラ。お前は、今の聖域を──教皇猊下を、心から信じているか?」
一瞬だけ、沈黙が落ちた。
鍛錬の音も止み、宮の中には風のうなりだけが残った。
シュラは静かに言った。
「俺は難しいことは分からん。ただ、アッシュ師範についてきて、今まで悪いことなど一つもなかった。
聖域は豊かになり、俺たちは強くなった。それだけだ」
その声には、迷いがなかった。
「アッシュ師範が支える教皇であるならば、俺は信じる」
……その言葉は、まるで壁のように私の前に立ちはだかった。
息を吸ったが、何も言い返せなかった。
彼の信念は純粋で、混じり気がない。
だからこそ、壊せなかった。
「……そうか」
それだけを返すと、私は一歩下がった。
「(アッシュ師範……)」
その名を心の中で繰り返す。
アッシュは聖域の秩序を築いた人物だ。
確かに、彼の存在はこの時代の正しさそのものだった。
だが、その背後にある何かに、私は目を背けることができなかった。
磨羯宮を後にして、私はゆっくりと階段を下りた。
風の音が、さっきよりも冷たく感じた。
人馬宮は近い。
そこにはもう、主の姿はない。
扉を押し開けると、静寂が迎えた。
空気が止まっている。
誰もいないはずなのに、どこか懐かしい気配が残っていた。
「……アイオロス」
名を口にすると、胸の奥に重いものが沈んだ。
広い宮の中央には、彼が愛用していた弓が立てかけられていた。
弦は切れ、矢筒も空のまま。
だが、そこに宿る気配は今も消えていなかった。
私はゆっくりと弓に手を伸ばした。
その瞬間、指先を通して熱が伝わってきた気がした。
それは、戦士としての矜持の名残。
彼が最後まで貫いた正義。
「(英雄アイオロスよ……)」
心の中で問いかける。
「(貴方が生きていれば、何か答えをくれたのだろうか?
貴方の正義の瞳には、今の聖域はどう映る……?)」
誰もいない宮に、問いだけが響いた。
私が知る限り、アイオロスほど純粋に正義を信じた者はいなかった。
彼は、結果として「英雄」として命を落とした。
だが、彼が守った子──アテナは今も生きている。
そのはずだ。
「……だが、何故、アテナ様は姿を現されない」
言葉が、自然と口から漏れた。
風が、塔の隙間を抜けて鳴いた。
その音が、まるで誰かの嘆きのように聞こえた。
「(もしアイオロスがここにいたなら、迷いなく真実を突きつけただろう)」
そう思うと、胸の奥が痛くなった。
自分の臆病さを噛み締めた。
師を疑い、真実を探そうとしているのに、
一歩を踏み出す勇気がない。
「(私は……何を守っているのだ)」
聖域か。
仲間か。
それとも、自分自身の安定か。
沈黙が答えだった。
弓の前に立ちながら、ふと床に目をやった。
そこには、矢の先で刻まれた古い文字が残っていた。
──ここを訪れる少年たちよ。君らにアテナを託す。
それを見た瞬間、背筋を何かが走った。
まるで、彼が今もこの場所で私を見ているようだった。
「……アイオロス」
名を呼ぶ。
返事はない。
だが、不思議なことに、少しだけ心が軽くなった。
「……ありがとう」
私は静かに頭を下げた。
外に出ると、空はもう夕闇に沈みかけていた。
西の空に浮かぶ一番星が、かすかに光っている。
「……私は、まだ信じていいのだろうか」
教皇を。
聖域を。
そして、自分を。
沈みゆく光の中で、私はただ一人、
信じることの意味を問い続けていた。
◆
天蝎宮の前に立つと、砂塵を含んだ風が吹き抜けた。
その向こうから、激しい音が響く。
気の抜けぬ間隔で放たれる打撃音。
岩盤が弾けるたび、地面が震えた。
「……ミロ」
私は声をかけた。
すると、青年が、汗を拭いながらこちらを振り返る。
鋭い目だが、その奥には迷いのない光があった。
「おいおいムウ、何を思いつめた顔してんだ?」
ミロは笑って肩をすくめた。
「また難しいこと考えてんだろ。教皇様がどうとか、そういうやつだ」
「……」
「細かいこたぁいいんだよ。アッシュ師範が『これでいい』って言うなら、それでいいんだ」
その言葉に、私は一瞬息を呑んだ。
まるで何の迷いもない。
「お前も、アッシュ師範のやり方に不満でもあるのか?」
「不満などではない。ただ……」
言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
「(今ここで、何を言っても通じない)」
ミロの小宇宙は、真っ直ぐだった。
燃えるような紅蓮の光。
揺らぎも濁りもない。
彼は拳を見つめ、笑った。
「俺は師範に命を救われた。戦い方も、生き方も教わった。だから信じる。
あの人が間違えるなんて、考えたこともない」
……その単純な言葉が、胸に刺さった。
ミロの信頼は、疑いを知らない。
純粋で、強く、だが危うい。
それは炎のようだった。
燃やすことでしか、自分の存在を保てない炎。
「ミロ。お前は……本当に、何も疑わないのか?」
「疑ってる時間があるなら、鍛錬するね」
彼は軽く拳を突き出した。
「なぁムウ、あんたもそうだろ?結局、守るために戦うしかねぇんだ。
聖域がどうとか教皇がどうとか、そういうのは師範に任せりゃいい」
その瞬間、私は気づいた。
──彼の中では、アッシュと教皇が完全に一体化している。
疑うことは、すなわち恩師を裏切ることになる。
だから、彼にとって疑問は存在しないのだ。
小さく息を吐いた。
「……分かった。ありがとう、ミロ」
「おう。元気出せよ。眉間に皺寄せてたら、老けるぜ」
軽口を残して、ミロは再び訓練に戻った。
その後ろ姿を見つめながら、私は小さく呟いた。
「……信じるということは、強さであり、同時に鎖でもあるのだな」
天秤宮へ続く階段は静かだった。
だが、そこには主の気配がない。
童虎──老師は今、中国のパライストラで講師をしていると聞く。
空の宮に足を踏み入れた。
埃が積もった床。
整然と並ぶ巻物棚。
そこに、古い香の匂いだけが残っていた。
「(老師……)」
私の師であるシオンの唯一の親友。
あの方がこの聖域を離れていることが、今の私には痛かった。
もし老師がここにいたなら、私は迷わず問えただろう。
教皇の正体を。
そして、アッシュ師範の真意を。
「(……やはり、私の考えすぎなのか?)」
外の光が差し込む。
埃が金の粒のように宙に舞った。
それを見上げながら、自分の小宇宙の揺らぎを押さえ込もうとした。
だが、押さえようとすればするほど、疑念は強くなった。
静寂の中で、自分の鼓動の音だけが大きく響く。
処女宮の扉の前に立つと、空気が変わった。
音が消え、風も止む。
その沈黙は、まるで別の世界に足を踏み入れたかのようだった。
ゆっくりと扉を押した。
中では、シャカが蓮華座の上で目を閉じていた。
光が射しているのに、影がない。
彼の小宇宙が空間を支配しているのが分かった。
「ムウ。君の心のさざ波が、私の瞑想を妨げる」
目を閉じたままの声。
穏やかだが、確実にこちらを見抜いている。
「……シャカ。お前の眼には、真実が見えているのではないか?」
シャカはゆっくりと呼吸を整えた。
「真実、か。あなたが求めているそれは、何のためのものだ?」
「今の教皇が何者なのか。それを見誤れば、我々は偽りに仕えることになる」
「偽り、とは誰の定義だ?」
その返答に、言葉を失った。
問いを投げかけたはずなのに、逆に試されている。
シャカはゆっくりと目を開けた。
その瞳の奥に、無限の宇宙が広がっていた。
静かな、しかし恐ろしいほどの光。
「私が見た教皇は、聖域に秩序と平和をもたらした。
ならば、あの方は正義だ」
「……それが真実でなくともか?」
「真実がどうあれ、世界は秩序を求めているのだ。
人は正義を信じなければ、生きられない。
私は正義に従うだけ。それが、仏の示した無執着という道」
その理屈は完璧だった。
だが、私の胸には虚しさが残った。
「……シャカ。お前ほどの者でも、疑うことをやめるのか」
「疑いは心を濁らす。濁りは小宇宙の輝きを曇らせる。
それに……」
彼は目を閉じ、微かに笑った。
「君が代わりに疑ってくれるのなら、私はそれで構わんよ」
息を呑んだ。
まるで、私の迷いを役割として受け入れているようだった。
「……お前という男は、どこまでも静かだな」
「静かでなければ、真理は見えん」
言葉の意味を理解しようとしたが、答えは出なかった。
ただ黙って、頭を下げた。
「……シャカ」
階段を降りながら、私は空を仰いだ。
日が落ち、夜の帳が降り始めていた。
遠くに見える聖域の灯りが、一つずつともっていく。
「信仰と正義。どちらも人を縛る鎖だ」
誰もが、自分の正しさを信じることで心の均衡を保っている。
だが、真実を問うことをやめれば、正義はやがて腐る。
私は拳を握った。
「……私は、まだ見たい」
師の教えを継いだ者として、
アテナの聖闘士として、
この聖域という星の真の姿を。
ムウ「……やはり、皆それぞれの正義を持っているな」
シュラ「正義など難しく考えるものではない。己が拳を信じれば、それでいい」
ムウ「単純で羨ましいよ」
ミロ「単純じゃねぇって!信じるってのは、覚悟がいるんだ。迷わねぇってのも才能だ
ぜ?」
ムウ「……迷いは、罪ではないと思うが」
シャカ「罪ではない。しかし、悟りからは遠ざかる」
ムウ「お前に言われると、妙に腹が立つな」
ミロ「だな。シャカの説法って、三分で眠くなるんだよ」
シャカ「悟りへの最短距離だ」
シュラ「……結局、俺たちは皆、戦うために生まれた」
ムウ「ああ。だが戦う前に、見極めねばならない。何と、誰のために」
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