聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
一人は、真実を恐れながら求める者。
一人は、真実を知りながら語らぬ者。
「恩と真実は別だ」
「それでも、私は信じたい」
交わされた言葉は、剣ではなく祈り。
光は差す――だが、それは赦しではなく、覚悟の証。
次回――
『夜明けの沈黙(サイレント・ドーン)』
すべての疑問は、静かに朝を迎える。
白羊宮の扉を開けた瞬間、私は空気の違いを感じ取った。
いつもなら静寂に包まれているはずのこの宮に、誰かの気配がある。
「……アッシュ師範」
そこに立っていたのは、私がもっとも信頼し、同時に最も恐れている男だった。
聖域総参謀長、アッシュ。
柔らかな微笑を浮かべながらも、その眼差しは何よりも鋭い。
「顔色が悪いな、ムウ。……何か、悩み事か?」
低い声。その響きに、私はわずかに肩を震わせた。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
ここまで沈黙を貫いた意味がなくなる。
「アッシュ師範……私は……どうすればよいのか、分からないのです」
言葉を紡ぎながら、自分の声が震えているのが分かった。
だが、それを止めることはできなかった。
「私情で聖戦に影響を与えるわけにはいきません。
アテナに忠誠を誓う聖闘士として、この疑念を抱えたまま戦うことは……」
空気が、凍った。
アッシュは何も言わなかった。
その沈黙が、逆に重くのしかかる。
私は息を飲み、拳を握った。
師範の視線が、ゆっくりと私を射抜く。
あの瞳は、嘘を許さない。
「……ムウ」
ようやく声が落ちた。
穏やかだったが、奥に熱がある。
「お前は、優しすぎる」
その一言に、私は目を見開いた。
「優しさは、時に真実を見誤らせる。
疑念を抱くことは悪ではない。
だが、信じることを恐れた瞬間、人は何も守れなくなる」
アッシュは、歩み寄ってきた。
その足音が近づくたびに、私の心拍が速まる。
「……では、師範は、やはり何かをご存知なのですね」
「知らないことなど、聖域にはない。
だが、すべてを知ることが正しいとは限らない」
含みのある言葉。
私の疑念を、肯定も否定もしない。
「私は、シオン様に救われたのです。
あの方の導きがなければ、今の私は存在しません。
その恩を、疑うことなど……」
「恩と真実は別だ、ムウ」
その言葉が、刃のように胸を貫いた。
思わず目を伏せた。
アッシュは続ける。
「シオンは確かに偉大だった。
だが、今の教皇がシオンであるかどうか──
それを決めるのは、私でもお前でもない」
「……では、誰が?」
「アテナだ」
即答だった。
その声には一片の迷いもない。
「我ら聖闘士は、ただその御心の代行者にすぎない。
たとえ教皇が誰であろうと、アテナの意志に背くことはできん。
お前が迷っているのは、教皇を疑っているからではない。
アテナが見えないからだ」
その指摘に、私は言葉を失った。
心の奥にある恐れを、彼は正確に見抜いていた。
「……確かに、アテナ様は、我々の前にお姿を見せられません。
聖域の者たちの中にも、そのことを不安に思う者がいます。
ですが、それを口にすることは……」
「禁忌だ、というのだろう?」
アッシュの口元が、わずかに歪んだ。
それは微笑ではなく、苦笑だった。
「真実は、常に禁忌と隣り合っている。
だが、恐れるな。
いずれ、その時が来る。
お前が今の疑念を抱いたこと、それ自体が兆しなのだ」
「兆し……?」
「ムウ。お前は、聖衣の傷を修復することができる唯一の男だ。
だが、心の傷はどうだ?
人の信念が崩れた時、誰がそれを直す?」
私は息を呑んだ。
それは、師範がずっと昔──ジャミールで言っていた言葉に重なっていた。
──『星屑の砂は物を直せる。だが、人の心は自分でしか直せない』
アッシュの声が柔らかくなった。
「お前はまだ信じている。
シオンを。
そして、アテナを。
それでいい。
その信じる心が、やがて真実を導く」
私は、うつむいたまま拳を握った。
師範の言葉は慰めではない。
それが分かる。
「……では、私はどうすればよいのでしょう」
「今は、見ていろ」
胸の奥で熱いものが渦を巻く。
これまで誰にも言えなかった疑問。
それを今、師範の前で言葉にしてしまうことの恐怖。
それでも──言わなければならなかった。
「……ですが!」
声が、宮の壁に反響する。
自分の心が、ようやく外に出た音だった。
「もしも……シオン様が……偽物であるならば。
アッシュ師範、貴方が何も知らないわけはないと……私は、そう思っています」
◆
「……そうだな」
彼は少し間を置き、低く言った。
「もしそうなら、俺が知らないわけはない。……仮に『誰か』が教皇に成り代わっているのなら、俺も共犯だろうよ」
私はその場に立ち尽くした。
脳裏で何かが軋む音がした。
肯定とも否定ともつかないその一言は、あまりにも重く、冷徹で、現実的だった。
「……共犯」
その言葉が、何度も頭の中で反響した。
もう一人の師は、何も動揺していなかった。
長い年月、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男の眼差し。
その奥に、感情の揺れなど一つもない。
「(ああ、この人は……知っている)」
確信に近い感覚が胸に走った。
だが、それを口にすることはできなかった。
その瞬間、この聖域が崩れてしまう気がしたからだ。
アッシュは、ゆっくりと窓の方へ視線を向けた。
風が白羊宮の幕を揺らし、星屑の砂が舞う。
「だが、ムウ。今や聖域はかつてないほど繁栄している。
お前たちの生活も、聖闘士たちの死亡率も、候補生たちの環境も飛躍的に改善された。
それは俺の……俺と“アイツ”の成果だと信じている」
“アイツ”という言葉の響きが、異様に強く耳に残った。
その“アイツ”が誰を指すのか、私は尋ねることができなかった。
怖かったのだ。
その名を知ってしまえば、もう後戻りができないと感じた。
「……師範」
唇を噛んだ。
自分の中に渦巻く感情を、言葉にするのが難しかった。
「それでも……」
声が震える。
アッシュが静かにこちらを見る。
「それでも、誰かが、我が師シオンを殺めたのなら……
私はきっと、その者を恨んでしまうと思うのです」
言葉にして、初めて分かった。
それは理屈ではなく、本能だった。
弟子としての誇り、そして、あの人に対する恩。
それが、私の心をまだ繋ぎ止めていた。
「だから……」
視線を落とした。
拳が震える。
「だからこの疑問は、疑問のままで構いません。
この心の奥にしまっておかせてください。
私は、真実を求めない。
求めた先で、きっと自分を壊してしまうから」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙。
白羊宮の奥で、砂がさらさらと流れる音だけが響いている。
やがて、アッシュが小さく頷いた。
「……分かった」
その声は、どこか優しく、それでいて哀しかった。
顔を上げることができなかった。
時間が止まったようだった。
二人の間を、ただ風が通り抜けていく。
その風の中で、私は師範の背中を見た。
──強く、冷たい。
──だが、どこかに痛みを抱えている。
この人もまた、何かを犠牲にしてここに立っているのだ。
そう思った瞬間、胸の奥の重みが少しだけ変わった。
「師範。……ひとつだけ、聞いてもよろしいですか」
「なんだ」
「師範は、後悔したことはありますか?」
アッシュは少しだけ目を細め、遠くの空を見た。
「……後悔、か」
ゆっくりと口を開く。
「昔はな。だが今は、違う」
「違う……?」
「あの頃の俺は、正しさを求めていた。
だが今は、選んでいる」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……師範」
「ムウ」
アッシュが呼び止める。
その声が、不思議なほど柔らかかった。
「お前は間違っていない。
そして、お前が疑問をしまうと決めたその勇気も、間違いではない」
その言葉を、静かに受け止めた。
「……失礼します」
一礼し、宮を後にした。
背中に、アッシュの気配が残っていた。
彼は最後まで何も言わなかった。
外に出ると、夜が明けかけていた。
空が淡く染まり始め、聖域の石畳が白く光っていた。
私は深く息を吸った。
空気が冷たい。
それでも、心は少しだけ落ち着いていた。
「(私は、知らないでいることを選んだのか)」
それは臆病な決断かもしれない。
だが、今の聖域を壊すよりは、まだ救いがある。
それに、アッシュ師範が共犯だというなら……
彼なりの信念があるはずだ。
「(私は、師範を信じきれない)」
そう呟いて、私は歩き出した。
その足取りは重くも、確かだった。
星明かりが消え、東の空が白む。
「……シオン様。
もし、貴方がこの聖域を見ておられるなら、
どうか教えてください。
私の選択は、間違っていませんか」
返事はない。
ただ、風が頬を撫でた。
その優しい流れを、私は祈りと共に受け入れた。
「……答えは、まだ先か」
私は空を仰ぎ、静かに目を閉じた。
夜明けの光がまぶしかった。
その光の向こうに、踏み込む勇気は私にはまだない。
疑念は消えていない。
だが、今はそれでいい。
疑いながらも、信じられない道を歩む。
それが、私の選んだ答えだ。
ムウ「……私は、逃げたのでしょうか」
アッシュ「逃げた? いや、選んだだけだ」
ムウ「選ぶとは……?」
アッシュ「真実を見ない自由も、また人間の特権だ」
ムウ「では、師範は後悔していないのですか」
アッシュ「後悔していたら、ここには立っていない」
ムウ「……師範。もし次にその時が来たら、私は」
アッシュ「その時は、もう俺の手を借りるな。お前自身の理性で見ろ」
ムウ「……はい」
アッシュ「ムウ」
ムウ「はい」
アッシュ「――優しさを忘れるな。それが、お前の弱さであり、最も強い武器だ」
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