聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜   作:斉宮 柴野

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人類を焼き払うか、それとも生かすか——
運命のジャッジに悩むアベルの前に立ちはだかるのは、
愛のヴィーナス!
不和のエリス!
そして……放課後ギャルゲー中の沙織!!

それぞれが語る人間の価値とは!?
揺れるアベルの心に、最後に射し込む光は何なのか!?

太陽神よ、正しい答えを選び取れ!!


太陽神、審判の刻!?揺れる天秤と三人の女神!!

太陽神の僕は、今日も童守町の上空をぷかぷか漂いながら、人間観察をしていた。

 

いや、物理的には駅前のベンチに座って缶コーヒーを飲んでいるだけなんだけど、小宇宙的には上空から見下ろしている。神の視点と人間の視点を両方使うのは、けっこう忙しい。

 

通学路では、沙織のクラスメイトたちが笑いながら登校している。転んだ子どもに、すぐに手を差し伸べる子がいる。鞄からノートを落とした子に、全力ダッシュで追いかけて渡している子もいる。善性ポイント+5だ。

 

一方で、コンビニの前では、缶コーヒーのゴミ箱投げ入れチャレンジに失敗して、そのまま拾わず立ち去る高校生がいる。マイナスポイント+3。信号が赤になっているのに強引に渡るサラリーマンは+2。会社に遅刻しそうなのは分かるが、命より会議が大事なのかと、小一時間説教したくなる。

 

商店街の八百屋では、値札を間違えた店主が、自分に不利な方に間違っていると知りながら、そのままの値段で売っている。おばあさん相手に「今日は特売なんですよ」と笑っている。こういう人間を見ると、地上を全部燃やすのもどうかな、と迷いが生じる。

 

駅の反対側では、神の御利益だけを目当てに、僕の顔を見るなり「アベル様、宝くじが当たるお守りください!」と群がってくる大人たちがいる。さっき善行をしていた子どもたちの親だ。善性ポイントと欲深ポイントが同居している。人間、複雑すぎる。

 

「やはり、変わっていないな……」

 

思わず独り言が漏れる。神話の時代から、善い魂と悪い魂が混ざり合い、どちらか一方に偏ることなく、ぐちゃぐちゃのまま転がっている。それでもまだ、「全部リセットだ!」と太陽の火を降らせる決心がつかないあたり、僕も甘くなったものだ。

 

原因ははっきりしている。沙織と、その周囲の人間たちだ。

 

学校帰りに、クレープを一口かじって「うまっ!」と幸せそうに笑う妹。アテナの器であることをすっかり棚上げにして、最新作のギャルゲーの発売日をカレンダーに赤丸している姿を見ると、この世界を壊すと宣言していた自分を思い出して、少し頭を抱えたくなる。

 

アイオロスという男も厄介だ。かつては聖域の英雄だった男が、今では炊事当番のエプロン姿で今月の家計がちょっと苦しいなあとため息をつきながらチラシを眺めている。世界を守った英雄が、特売の鶏胸肉で悩んでいる。そんな光景を見せられて、どうやって人間は愚かだから粛清だと言い切れというのか。

 

そして翔子と響子。神の魂を抱えながら、人間として仕事をし、推しのライブに行くために深夜バイトまでしている。給料日になると、三柱の女神が並んで通販サイトを開き、グッズは月にいくらまでと真剣に予算会議をしている。神々の世界のどこに、そんな女神がいた。

 

「……僕は、本当にこの者たちを生かしておくべきなのか?」

 

答えは出ない。太陽神の天秤は、今日もカタカタと揺れ続けている。皿の片方には、救う価値のある人間たち。もう片方には、相変わらずどうしようもない人間たち。そして真ん中には、妹の笑顔と、あの面倒くさい英雄たちの顔がどっかり座っている。そりゃあ、釣り合いが取れるはずがない。

 

「……仕方ない。ここは、現地の専門家に意見を仰ぐとしよう」

 

 

 

 

 

 

 僕は、ヴィーナス様のオフィスに足を踏み入れた。ガラス張りの高層ビル、最上階の社長室、ふかふかのソファ、香りのいいハーブティー。

 オリンポスの白い大理石の神殿と比べれば、面積も高さも大したことはない。けれど、ここで動いている金と人の数を考えると、下手な小神殿よりよほど影響力がある。人間は本当に、妙なところで力を発揮する。

 

「いらっしゃい、アベル君」

 

 窓際のソファに腰かけた響子…いや、ヴィーナス様が、湯気の立つカップをテーブルに置きながら俺を見た。今日の彼女はスーツ姿だ。神話の時代のドレスより、しっくりきている気がする。

 

「悩み事かしら? その眉間の皺、気になって仕方がないんだけど」

 

「皺はない。まだ11歳の肉体だ」

 

「心配しなくていいわ。その顔なら、多少皺が増えても信者は減らないから」

 

 慰めているのか遊んでいるのか分からない。さすが美の女神、言葉の選び方が容赦ない。

 

「単刀直入に伺います、ヴィーナス様」

 

 俺は姿勢を正した。ハーブティーの香りは落ち着くが、今はくつろぎに来たわけではない。

 

「人間は、生かしておくべき存在ですか。それとも、いずれは浄化されるべき存在ですか」

 

 社長室の空気が一瞬だけ重くなった。窓の外では、相変わらず人間たちが小さな点となって歩いている。

 

「難しい質問ね」

 

 ヴィーナス様はそう言いながらも、さほど困った様子は見せない。カップを一口飲んでから、ゆっくり窓の外を指さした。

 

「見える? 下の交差点。さっきから、信号無視しそうな車にビクビクしながら横断歩道を渡るサラリーマンが三人。上司の愚痴を言いながらも、明日のデートの話で盛り上がってる子たちが四人。スマホをいじりながら、ふらふら歩いてるおバカさんが二人。ああ、今こけた」

 

 つられて視線を向ける。確かに、今転んだ若者の荷物が派手に散らばっている。すぐそばで、見知らぬ女性が慌てて拾い集めるのを手伝っていた。

 

「ね? くだらないけど、少し可愛いでしょ」

 

「くだらない、と言いましたよね」

 

「ええ。くだらないわよ。だけど、目が離せない。あの人たち、昨日も今日も同じような事して、明日も同じような事して、そのうち死んでいくのよ。それでも泣いたり笑ったりしながら、毎日ドラマを作ってくれる」

 

ヴィーナス様は肩をすくめた。

 

「私はね、観ているのが好きなの。人間の恋愛、仕事、裏切り、和解。どれも同じパターンの繰り返しなんだけど、同じものは一つもない。最高の娯楽よ。だから生きる価値があるかどうかなんて、考えたこともないの」

 

「娯楽、ですか」

 

「そう。神は特等席の観客席に座って、ポップコーン片手に眺めてればいいのよ。彼らが勝手に泣いて笑って、勝手に物語を盛り上げてくれるんだから」

 

 その言い方は、だいぶ神らしい。上から目線で、どこまでも余裕がある。

 

「では、浄化は不要という結論ですか」

 

「そうねえ。全員まとめて消すのはおすすめしないかな。せっかくここまで続いてきたシリーズなんだから。第一部完って勝手に打ち切られても困るでしょ?」

 

「シリーズ」

 

「そう。神話第一期、古代ギリシャ編。その後いろいろあって、今は現代日本編。視聴率は悪くないわ。ここで主人公全滅エンドにしたら、製作委員会からクレームが来ると思う」

 

製作委員会。どの神々の顔が浮かんでいるのか、考えるのも面倒なのでやめた。

 

「では、悪人はどうです。人を傷つけ、笑っていられる連中は」

 

「必要よ」

 

ヴィーナス様は即答した。

 

「舞台に悪役がいない劇なんて、退屈でしょ。もちろん、行き過ぎたら脚本修正は必要だけどね。そこでアテナやあなたみたいな力の出番が来る。バランス調整ってやつ」

 

「人の命を、バランス調整と言い切りますか」

 

「言い切るわ。だって私は美の女神だもの。美しいものが見たい。悲劇も喜劇も、両方必要。綺麗事だけ並べた世界なんて、すぐに飽きるわよ」

 

この人はブレない。一ミリも。

 

「…では質問を変えます」

 

少しだけ声を落とした。

 

「ヴィーナス様は、人間を愛していますか」

 

彼女は少し驚いたように俺を見て、それから笑った。

 

「そういう顔をするのね、アベル君」

 

「どういう顔ですか」

 

「真面目に悩んでる顔。星矢君の前で、沙織ちゃんがよくしている顔と似ているわ」

 

「そこにその名を出すのはやめてください。議論が脱線します」

 

「あら残念」

 

ヴィーナス様はわざとらしく咳払いをして、答えを続けた。

 

「愛してるわよ。もちろん。私は愛と美の女神なんだから。ただ、私の愛はちょっと雑なの。全部まとめて愛してる。誰か一人だけを特別扱いしたら、他の子たちが拗ねるでしょ?」

 

「なるほど。平等な愛情というわけですね」

 

「平等というより、雑なだけよ。あ、でもね」

 

彼女は少しだけ表情を柔らかくした。

 

「沙織ちゃんは、ちょっと特別かな。あの子、自分で自分を普通だと思い込みたいみたいだけど、どう頑張っても普通じゃないでしょ。そこが気に入ってるの」

 

「同感です」

 

即答した。そこに迷いはない。

 

「だからね、アベル君」

 

 ヴィーナス様は、テーブルの上に置かれた小さな写真立てを僕に向けた。そこには、翔子と沙織と響子がファミレスでパフェを囲んで笑っている写真が入っていた。

 

「私は、この子たちの物語をもう少し観ていたい。それだけよ。人類全体の評価なんて知らない。私は観たいものを観る。神なんて、そのくらいわがままでいいの」

 

 僕は写真を見つめる。三人の笑顔は、どこにでもある人間の家族の光景だ。だが、その正体を知っている俺からすると、かなり豪華なメンツでもある。

 

「…参考になりました」

 

「つまりヴィーナス様は、人類存続派であり、観劇優先派というわけですね」

 

「そういうまとめ方でもいいわ。どうするか決めるのは、あなたでしょ? 太陽神アベル。自分の推し作品を打ち切るかどうかは、原作者じゃなくてプロデューサーが決めるのよ」

 

「誰がプロデューサーなのか、とても不安になりますね」

 

「心配なら、沙織ちゃんにも意見を聞いてみなさい。あの子の『普通』基準は、だいたいあなたの天秤をぶっ壊してくれるから」

 

 想像して、俺は軽く頭を押さえた。確かに、あの「普通」は危険だ。

 

「検討します」

 

 社長室を出る前に、俺は振り返った。

 

「ヴィーナス様は、人類がどんな結末を迎えると予想していますか」

 

「さあ。ハッピーエンドかバッドエンドか、その中間か。どれでもいいわ」

 

 彼女は楽しそうに笑った。

 

「ただ一つ確かなのは、私、最後まで席を立たないつもり。エンドロールの後のおまけ映像まで、全部観るつもりよ」

 

「了解しました。では、退席します」

 

 エレベーターに乗り込みながら、俺はため息を一つついた。

 

「…やれやれ。あの人に相談した時点で、まともな答えが返ってくると期待した俺が甘かったか」

 

 だが、胸の中のもやは少し軽くなっていた。人間をどう扱うか。その最終判断はまだ先送りだが、少なくとも「全部まとめて焼き払う」という選択肢からは、一歩遠ざかった気がする。

 それもこれも、あの三人娘が、あまりに楽しそうに笑うから悪いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道場は、相変わらず騒がしい。拳がぶつかる音と、アイオロスの豪快な怒号、それに翔子いや、今はエリスが表に出ているからエリスか、の返事が、一定のリズムで響いている。

 

「そこだ、エリス! もっと踏み込め!」

「うるさいわね、アイオロス! 私は女神よ、筋トレ担当じゃない!」

 

 二人のやり取りを眺めながら、僕はふと思う。この夫婦、神と人間というより、ただの体育会系バカップルではないだろうか。……いや、考えるのはやめておこう。宇宙規模でどうでもいい。

 

道場の入口に立ち、軽く咳払いをした。

 

「エリス様、話がある」

 

 エリスが振り向く。額には汗、頬にはかすり傷。けれど目の奥は、生き生きとしていた。

 

「何よ、アベル。説教なら聞かないわよ」

「説教ではない。ただ、意見を聞きたい」

 

僕は真面目な顔を作り、問いを投げる。

 

「人間は、生かすべきか。それとも、滅ぼすべきか。ヴィーナス様は『観客でいればいい』と言った。だが、あなたは不和と争いの女神だ。醜い部分を一番見てきたはずだろう」

 

エリスはタオルを肩に乗せ、ふんと鼻を鳴らした。

 

「響子がそう言いそうだな。……あの女と一緒にしないで。我は眺めているだけなんて退屈で死ぬ」

 

「だろうな」

 

 そこは素直に同意する。彼女が静かに観劇だけしている姿は、どうひいき目に見ても想像できない。

 

 エリスは道場の真ん中まで歩き、畳にどさりと腰を下ろした。僕にも座れと手招きする。

 

「人間は愚かよ。すぐに争うし、すぐに傷つけ合う。自分で火をつけておいて、燃え広がったら神のせいにする」

 

「やはり、そう思うか」

 

僕がうなずくと、彼女はそこで首を振った。

 

「でもね、アベル。あいつらはその争いの中から、何度だって立ち上がってきた。憎しみの中から愛を引っ張り出したり、絶望の中から希望を掘り起こしたりする」

 

「効率が悪い」

 

「効率の話をしてない」

 

ばっさり切り捨てられた。僕は思わず口をつぐむ。論理で攻めて勝てる相手ではない。

 

エリスは、天井を指さした。

 

「神々は、もう忘れてる。泥まみれで足掻くことが、どれだけ面白いかをね。我か?我は争いが大好きよ。見ていると血が騒ぐ。でも、最近はちょっと変わった」

 

「変わった?」

 

「ああ。我は前は人間なんてどうでもよかった。滅んでもいいし、生き残ってもいいし、どっちに転んでもエンタメとして楽しめた。でも今は違う」

 

 エリスは道場の隅を顎でしゃくった。そこには、乱雑に積まれた洗濯物と、翔子のジャージと、沙織の体操服が混ざって山になっている。

 

「我が夫は、人間として生きるって決めた。娘も、人間として学校に行って、人間としてゲームして、人間として失恋して、人間として将来に悩む。……それを眺めてるうちにね」

 

彼女は少しだけ笑った。いつもの高笑いではなく、息がこぼれるような笑いだ。

 

「我が人間をバカにしたら、自分の家族をバカにすることになるでしょ。そんなの、プライドが許さない」

 

「プライドの問題か」

 

「ええ。我は不和の女神よ。でも今、この家で一番平和を守ろうとしてるのは、他でもない我だ」

 

 それは冗談のようでいて、冗談ではなかった。道場に流れる空気が、少し変わる。汗と木と埃の匂いに、どこか温かい匂いが混じる。

 

「アベル。あんた、地上を浄化したいんでしょ。神としては正しい判断かもしれない。でもね」

 

エリスは指を立て、僕の額に軽く突きつけた。

 

「安寧に浸されてるだけの家畜を並べて、『はい平和です』って言っても、それは生きてるって言えない。我は嫌い。綺麗に整いすぎた世界なんて、すぐ飽きる」

 

「滅ぼされるか、家畜になるか。二択ではいけないと?」

 

「そう。どうせなら、滅びそうで滅びない、ギリギリの綱渡りを続けてくれる方が楽しい」

 

「悪趣味だな」

 

「不和の女神だもの」

 

返す言葉もない。自覚のある悪趣味は、ある意味で一番扱いづらい。

 

 僕は視線を落とし、畳の目を眺めた。そこにうっすらと残る焦げ跡は、誰かの暴発した小宇宙の痕跡だろう。ここで何度も、命を懸けない稽古と、命を懸けない喧嘩が繰り広げられてきた。

 

「しかし現実には、争いで多くが死ぬ」

 

「そうね。でも、生かされてるだけの連中より、足掻いて死んだ方が、ずっとマシ」

 

エリスは膝を抱えて、ふっと視線を柔らかくした。

 

「それにね、あいつらは意外としぶといわよ。この家にいる人間たちを見てれば分かるでしょう。何度倒れても起き上がって、まだ足りないって言うんだから」

 

 アイオロスのことだろうか。何度ボロボロになっても、笑って起き上がる男。沙織のことだろうか。普通になりたいと言いながら、普通から一番遠い方向に走り続ける少女。響子のことだろうか。社長業と女神業と趣味のオタク活動を全部抱えて、嬉々として走り回る女性。

 

「アベル。あんた、いつまで『神の側』に立って見てるつもり?」

「それはどういう意味だ」

「この町で暮らして、妹にドロップキック食らって、信者に甘やかされて、いずなって娘と妙な縁までできて。もう半分くらい、人間側に足突っ込んでる自覚、ない?」

 

図星を刺された。僕は咳払いで誤魔化す。

 

「誇り高き太陽神が、人間になど」

「なれるわけないでしょ。でも、人間の都合に付き合う神くらいには、もうなってるわよ」

 

 エリスは立ち上がり、拳を握った。

 

「我は人間を肯定しない。けど、もう否定しない。どう転がるか、最後まで見届けたい。それが今の我の答え」

 

彼女は背を向けたまま、ぽつりと言葉を付け足した。

 

「それに、ここには大事な家族がいる。誰かが『浄化』なんて言葉で踏みにじろうとするなら、不和の女神として徹底的に抵抗するだけ」

 

その背中は、以前僕が知っていた破壊の女神よりも、ずっと頼もしく見えた。

 

「……参考になった」

 

僕はそう告げて、道場を後にした。結論はまだ出ない。ただ一つだけ、はっきりしたことがある。

 

 この星を裁くつもりで降りてきたはずの僕が、気づけばこの家と、この町と、この騒がしい人間たちを、天秤の片側にそっと乗せている。しかも、かなり重い方に。

 

「やれやれ。やっぱり、人間というのは厄介だ」

 

 

 

 

 

 

 僕は、妹の部屋のドアの前で、しばらく立ち尽くしていた。

 

太陽神アベルが、女子小学生の部屋の前で二分以上うろうろしている図、冷静に考えるとどうなんだろうな。

 

内心でそんなことを考えつつ、ノックを三回。中から元気な声が返ってきた。

 

「はーい、どうぞー。って、お兄様か。びっくりした」

 

 部屋に入ると、沙織はベッドに腹ばいになってゲーム機を握りしめていた。画面には、髪の色こそ違うが、どう見ても星矢にしか見えない少年が、赤面しながらセリフを吐いている。

 

「今、いいかな、アテナ」

 

「今は放課後だから沙織。お仕事モードじゃないの」

 

 言い方は生意気だが、視線はゲームから一ミリも動かない。太陽神よりもイベントスチルが優先らしい。

 

「人間について、少し聞きたいことがあってね」

 

「んー?人間?なにそれ、哲学?」

 

 ようやく一時停止ボタンを押し、沙織がこちらを振り向く。コントローラーは、しっかり手の中に握ったままだ。いつでも続きに戻れるようにしているあたり、戦の女神にあるまじき逃げ道の用意だ。

 

「単刀直入に聞こう。人間は、生きるに値すると思うか?」

 

「いきるかち?」

 

 語尾をオウム返しにされると、太陽神の質問も急に格好悪く聞こえてくるから不思議だ。

 

「そう。愚かで、他者を傷つけもする存在だ。それでも、存続させる意味があると、君は思うかどうか、だ」

 

「うーん……」

 

沙織は難しい顔をするかと思いきや、なぜかゲーム機の電源を切って立ち上がった。

 

「ちょっと待っててね、お兄様」

 

そう言って、僕の手を掴み、ずるずるとリビングへ連行する。太陽神アベル、妹に引きずられて廊下を歩く。

 

 リビングでは、アイオロスがエプロン姿でホットプレートと格闘していた。山のようなパンケーキの横で、翔子が雑誌をめくっている。

 

「パパ、ママ、試食!」

 

「お、沙織。いい頃合いだぞ。ほら、アベルも座りなさい」

 

「今日はね、ママと一緒にトッピング考えたんだー。生クリーム山盛りバージョンと、ベーコンチーズバージョン!」

 

 僕の前に、甘い香りとしょっぱい香りの皿が二枚並ぶ。視線で「両方食べろ」と圧をかけてくるのはやめてほしい。

 

「それじゃ、いただきまーす!」

 

 沙織は嬉しそうにフォークを突き立てる。その頬張る顔を見ているだけで、作った側のアイオロスまで嬉しそうだ。翔子はスマホでそれを撮影している。後でアルバムにでもするのだろう。

 

僕も一口だけ、とベーコンの方を齧る。……悔しいが、うまい。

 

「でね、お兄様」

 

沙織は口の周りにクリームをつけたまま、真顔で言った。

 

「こういうの、全部なくなるの、私やだな」

 

「全部?」

 

「うん。美樹ちゃんや郷子ちゃんとバカ話するのも、パライストラでみんなが頑張ってるのを見るのも、パパのパンケーキも、ママとゲーム談義するのも。そういうの、まとめて『人間の世界』でしょ?それが消えちゃうのは嫌」

 

 理屈でも理念でもない、単純な答え。だけど、さっきまで僕の頭の中でカチカチ動いていた秤が、急に意味を失った気がした。

 

「それだけか?」

 

「それだけ。だってさ、私の人生のメインコンテンツはギャルゲーとオタ活と、家族と友だちなんだもん」

 

アイオロスがその順番はどうなんだと小声で突っ込むが、娘には届いていない。

 

「お兄様はさ、人間を上から見てるでしょ。神様だから。それはそれでお仕事だけど、私からしたら、人間は『一緒にゲームしてくれる相手』なんだよね。いてくれないと困るの。以上!」

 

そう言い切ると、沙織はフォークを置き、僕の手首を再び掴んだ。

 

「分かったなら、お兄様もこっち来て!イベントスチルの尊さについて、三時間くらい語ってあげる!」

 

「三時間は長いな」

 

「神様でしょ?時間はある!」

 

 強引に部屋へ連れ戻され、僕はベッドの端に座らされた。画面の中では、さっきの星矢似の少年が、ヒロインに不器用な告白をしている。

 

「見て見て、この表情差分。最初はツンツンしてたのに、ルート後半でこんな顔になるんだよ?尊くない?」

 

「……まあ、変化の幅は評価できる」

 

「でしょ!こういうの、人間じゃないと出せないんだよね。神様は最初から完成品だからさ。レベル1からレベル100になるまでの過程がないの。人間は、その途中がぐちゃぐちゃで面白いんだよ」

 

ぐちゃぐちゃ、という単語を肯定的な意味で使う女神は、そう多くないはずだ。

 

でも、その言い方は妙にしっくりきた。人間の魂は、きちんと整った神々の光とは違う。歪んで、濁って、途中で折れ曲がったりもしながら、変な方向に伸びていく。あまりに不安定だから、僕は何度もリセットしたくなったのだ。

 

 けれど、隣で画面を食い入るように見つめる妹の横顔を眺めていると、その不安定さを、もう少しだけ見てみてもいいかと思えてくる。

 

「お兄様?」

 

「なんだい」

 

「人間、嫌いじゃなくなった?」

 

真正面からそんなことを聞いてくるあたり、本当に遠慮がない。

 

「まだ好きとまでは言わない。だが、即座に焼き払うほど憎んでもいない」

 

「進歩だね!」

 

沙織は満足そうに頷くと、メニュー画面を開いてセーブデータを上書きした。

 

「じゃあ、これからも一緒に見ようよ、人間のこと。お兄様は上から目線でチェック、私はオタク目線で実況。最強タッグ!」

 

「ずいぶんな組み合わせだな」

 

でも、悪くない提案だと思った。

 

 太陽神としての僕は、まだ人間に裁定を下す立場を手放せない。けれど、沙織の隣に座っている時くらいは、その天秤を膝の横に置いておいてもいいのかもしれない。

 

 画面の中で、星矢似の少年が照れくさそうに笑った。

 

 僕は小さく息を吐き、コントローラーを握る妹の手とは逆の手を、そっと画面の方向に伸ばした。

 

「分かったよ、アテナ。もう少しだけ、君の好きな『ぐちゃぐちゃの物語』に付き合おう」

 

「やったー!じゃあ次は、ライバルキャラルートね。お兄様、多分この子推しになると思うよ」

 

「なぜ断定できる」

 

「性癖が似てるから!」

 

 太陽神の威厳は、今日もどこかへ吹き飛ばされたらしい。だが、不思議と、悪い気はしなかった。




沙織「ママ……あのね……さっき、アベルお兄様に人間の価値を聞かれたの」

エリス「あら、珍しいじゃない。太陽神のくせに迷うのねあの子」

沙織「だから私、『パンケーキなくなるの嫌』って言ったわ!」

エリス「……うん、まあ、あなたはそれでいいと思うわ」

沙織「で、あの……ママにもちょっと相談したいんだけど」

エリス「なあに?人間を滅ぼしたいの?それとももっと推しを増やしたいの?」

沙織「どっちも違うよ!? あのね……」

沙織「もし、世界が危ない時……お守りとか……持ってたりする?」

エリス「……沙織」

沙織「うん?」

エリス(ゴソゴソ……)

エリス「これ、見る?」

沙織「えっ……出てきた……!!」

エリス「最終決戦用・家庭用小型結界お守り。パパとあなたの分、常に持ってるわよ」

沙織「ママもかぁぁぁ!! なんでみんなお守り持ってるの!!?」

エリス「だってうち、家族全員トラブル体質じゃない?」

沙織「否定できない……」

エリス「ま、安心しなさい。世界がどう転んでも、ママがなんとかするわ」

沙織「……頼りにしてるよ、ママ」

エリス「当然でしょ?エリス様なんだから」

十二宮編の最後は誰と誰の対決に?

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