聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
今日の沙織は、神話の中心にいるくせに、誰より人間らしい汗をかいています。
そんな「勝利」と「孤独」が綺麗に並ぶ回になりました。
そして、次回は少しだけ変化が訪れます。
沙織にとっての救いか、それとも新しい混乱か──。
よろしければ、どうぞその目で確かめてください。
代々木体育館が揺れている。
比喩でもなんでもない。物理的に床が、壁が、そして私の三半規管がガンガンと振動している。黄色い歓声と野太い怒号、そしてキュッキュッというバッシュが床をこする音がミックスジュースみたいに混ざり合って、鼓膜をノンストップでタコ殴りにしてくる。
「きゃあああああ!黄瀬くゥゥゥゥん!こっち向いてェェェ!」
「赤司様ァ!赤司様がまた命令したァ!ステキィィ!」
「ふざけんな帝光!全国制覇なんかさせるかァ!皿中(サラチュウ)行けェェェ!」
四方八方から降り注ぐこの熱気。酸素濃度が確実に薄い。でも、そんなことを気にしている余裕なんて私には1ミリもない。
私は今、人生で一番、喉の筋肉を酷使している。
「行けェェェェェ!!お兄様ァァァ!!そこでコロナ・ダンクよ!焼き尽くせ! ゴールネットもバックボードも、なんなら相手の心の折れる音まで聞こえるくらいに叩き込んでェェェ!!」
両手に持った金と銀のポンポンを、これでもかという勢いで振り回す。遠心力で腕がちぎれそうだけど知ったことか。私の名前は城戸沙織。由緒正しき城戸財団の令嬢であり、今は皿屋敷中学のチアリーダー、そして――数分に一度、脳内に直接語り掛けてくる「女神」と絶賛喧嘩中の、ただの中学生だ。
コート上では、人間辞めてるレベルの攻防が繰り広げられている。
対戦相手は帝光中学校。
「キセキの世代」とかいう、漫画のキャラ設定を間違えたんじゃないかってくらい強い連中だ。
さっきから緑色の髪をした眼鏡の人――緑間君だっけ――が、自陣のゴール下から相手のゴールへ向かってシュートを撃っている。放物線が高すぎて、ボールが一度カメラのフレームから消えるレベルだ。落ちてくるまでに紅茶が一杯飲めそうなんだけど。あれ、物理法則とかどうなってるの?ニュートンが見たら泣いて謝るよ。
でも、ウチの兄も負けていない。
「ふっ……人間ごときが、神の領域に踏み込めるとでも思ったか!」
コートの中央で、私の兄――アベルお兄様が、無駄にキラキラした笑顔で跳躍する。
彼が纏っているのはユニフォームじゃない。いや、形はユニフォームだけど、そこから溢れ出しているのは汗じゃなくて「小宇宙(コスモ)」だ。誰がどう見ても発光している。審判、そこは注意しないの?
「選手が発光するのは反則です」ってルールブックに書いてないからセーフなの?
アベルお兄様が空中でボールを構える。その背後に、幻覚じゃなく本当に太陽のフレアみたいなのが見える。
「食らえ! サンシャイン・ノヴァ・パス!」
ドオォォォォン!!
パスという名の殺人光線が、チームメイトの不良A君(名前忘れた)の手元に突き刺さる。A君、手が焦げてない? 大丈夫?
「ナイスパスだぜアベル様ァ!うらァ!」
A君がレイアップを決める。これで点差は2点。まだいける。まだ勝てる!
「いいわ!その調子よお兄様!赤司君の『天帝の眼(エンペラーアイ)』なんか気合で潰しちゃえ!神の目の方が偉いに決まってるんだから!」
喉が裂けんばかりに叫ぶ。お腹の底から声を出すと、自分が「ここにいる」って感じがする。足の裏が地面についている感覚、ポンポンのガサガサした感触、汗が背中を伝う気持ち悪さ。全部が私、城戸沙織のものだ。
でも。
『……下品ですね』
脳の奥のほう、前頭葉のあたりから響く、鈴を転がしたような、でも絶対零度より冷たい声。
『神である兄が、球遊びに興じているだけでも嘆かわしいというのに。その妹たる貴女が、あられもない姿で声を張り上げるとは。アテナとしての誇りはないのですか?』
(うるさい! 引っ込んでてよ!)
心の中で即座に言い返す。
(今は全中の決勝なの!4クォーターの残り3分なの!神話の戦争とかどうでもいいの!ここで負けたら3年生は引退なんだからね!)
『たかが人間の行事です。貴女はいずれ、その卑小な個を捨て、大いなる意思と統合されるのです。こんな一瞬の熱狂に何の意味がありますか? 全ては泡沫の夢……』
(夢じゃないわよ!現実なの!ほら、今の紫原君のダンク見た!?ゴールポストがメキッて言ったのよ!?あんなのが夢であってたまるもんですか!)
ブンブンと首を振って、脳内の声を物理的に振り払おうとする。隣で一緒に応援している美樹が、少し引いた顔で私を見ていた。
「ねえ沙織……あんた今日、キャラ違いすぎない?いつもの『ごきげんよう』系お嬢様はどこ行ったのよ」
「そうよぉ。さっきから『ぶっ潰せ』だの『焼き尽くせ』だの、物騒な単語しか聞こえてこないんだけど。悪霊にでも憑りつかれた?」
郷子が心配そうに私の額に手を伸ばしてくる。違うの、郷子。悪霊じゃなくて、女神(ラスボス)が内蔵されてるだけなの。
引きつった笑顔を二人に向け、あえてもっと大きな声を出した。
「な、何言ってるのよ二人とも!決勝戦よ!?燃え尽きなきゃ嘘でしょ!フレーッ!フレーッ!サ・ラ・チュ・ウ!!」
そう。声を出し続けないと、飲み込まれる。最近、脳内の「彼女」の主張が強くなっている気がする。ふとした瞬間に、この体育館の風景が、古代ギリシャの神殿に見えたりするのだ。バスケットボールが地球に見えたり、観客の声が信徒の祈りに聞こえたりする。 それが怖い。
私が「城戸沙織」じゃなくなって、「アテナ」という概念に乗っ取られてしまうような恐怖。だから私は、必死にこの現実にしがみつく。汗臭くて、うるさくて、熱苦しい、この最高に人間くさい空間に。
コート上では、青峰君という色黒の選手が、信じられないスピードでドリブルをしている。速い。チーターか何かなの? でも、アベルお兄様がその前に立ちはだかる。
「無駄だ! 神の足さばきを見るがいい!」
お兄様が残像を残して横移動する。サイドステップで床が焦げてる。弁償はどうするつもりなんだろう、城戸財団持ちかな。お祖父様に怒られるのは私なんだけど。
「チッ、うぜーなこのキラキラ野郎!」
「光栄に思うがいい! 太陽神のディフェンスに触れられることを!」
アベルお兄様が青峰君のボールをカットする。
その瞬間、私の脳内でまた声が響く。
『……愚かしい。アリが砂糖を取り合っているようなものです。貴女には見えるはずです、沙織。彼らの魂の輝きではなく、その先にある運命の奔流が。さあ、目を開きなさい。神としての目で、世界を俯瞰するのです』
視界がぐにゃりと歪む。 コートの選手たちが、ただの光の粒に見えそうになる。アベルお兄様が兄ではなく、記号になりかける。自分の手が、ポンポンを握っている自分の手が、白く透けていくような錯覚。
(いやあああああ!!)
心の中で絶叫する。やめて。連れて行かないで。私はまだ、中学生でいたいの。宿題忘れて廊下に立たされたり、学食のパン争奪戦で負けて悔しがったり、気になる男子の話で盛り上がったりしたいの。 世界を救うとか、地上の愛と正義を守るとか、そんな壮大すぎるタスクはワークライフバランスが崩壊してるのよ!
「負けない……負けないわよおおお!!」
ポンポンの柄を、爪が食い込むほど強く握りしめた。プラスチックの硬い感触。爪の先がジンジンと痛む。 この「痛み」こそが、私が私である証拠。
「一本!一本!守ってこー!ディフェンス!ディフェンス!」
私の悲鳴じみた応援に呼応するように、コート上のアベルお兄様が動く。しかし、その前に立ちはだかったのは、帝光のキャプテン、赤司征十郎君だった。オッドアイ。左右の目の色が違うその少年は、ボールを持ったまま動かない。 ただ、アベルお兄様を見上げているだけ。
「……頭が高いぞ」
赤司君がそう呟いた瞬間。アベルお兄様の膝が、ガクンと折れた。
え?あのアベルお兄様が?神々しさだけで周囲の人間をひれ伏せさせてきた、あの高慢ちきな(失礼)お兄様が、自分から膝をついた?
「な……ッ!?」
お兄様自身も驚愕で目を見開いている。ボールが赤司君の手から離れ、綺麗な弧を描いてゴールネットを揺らす。
『……見なさい。これが人間です。いかに特別な力を持とうと、所詮は不完全な器。神である兄が、人間ごときに屈するなどあってはならないこと。やはり、粛清が必要です』
脳内のアテナが冷ややかに告げる。その言葉に、私の背筋が凍る。粛清って何? この体育館ごと消すつもり?やめて、赤司君はちょっと目つきが怖いだけで、バスケが上手いただの中学生なの!アンクルブレイクは物理現象なの!神罰を下す対象じゃないの!
お兄様が呆然と床に膝をついたまま、震えている。 プライドの高い彼のことだ。人間に見下ろされたショックで、小宇宙が暴走しかけているかもしれない。 会場の空気がピリピリと帯電し始める。まずい。このままじゃバスケの試合が、聖闘士同士の決闘(ギャラクシアンウォーズ)になっちゃう。
息を吸い込んだ。肺が痛くなるくらい、いっぱいに空気を吸い込んで、腹筋に力を込める。 アテナの声をかき消すために。お兄様の暴走を止めるために。そして何より、私のチームを勝たせるために!
「立ってええええええ!!アベルお兄様ァァァ!!何やってんのよ馬鹿兄貴ィィィ!!」
会場が一瞬、静まり返る。美樹と郷子が「言っちゃった……」という顔で口を開けている。 脳内のアテナも、あまりの暴言に絶句したようだ。
「あんた神様なんでしょ!?太陽なんでしょ!?だったら沈んでないで昇りなさいよ! 赤司君がなんだって言うのよ!目つきが悪くて中二病なだけじゃない!こっちは本物の神話(ミソロジー)背負ってんのよ!根性見せなさァァァい!!」
私の声が、マイクも使っていないのに、体育館の隅々まで響き渡る。もしかして、これも小宇宙の力?いや、違う。これは私の、城戸沙織の地声だ。火事場の馬鹿力だ。
コートの真ん中で、アベルお兄様がハッと顔を上げる。その顔が、真っ赤になっていた。
「さ、沙織……お前、兄に向かって『馬鹿兄貴』とは……」
「うるさい!早く立ちなさい!速攻よ!カウンターよ!」
お兄様がゆらりと立ち上がる。その背中から、今までとは違う、もっと熱くて人間臭い炎が噴き出した気がした。
「……ふん。言われずとも!」
お兄様が走る。 赤司君が反応するより速く。緑間君の超長距離シュートの軌道を読み切って、空中でインターセプトする。そこからの加速は、まさに光速。
「見よ!これぞ太陽の輝き!」
ゴールリングに向かって、お兄様が飛ぶ。黄瀬君がブロックに飛ぶ。紫原君が巨大な壁となって立ちはだかる。でも、今のお兄様は止まらない。
「うおおおおおお!!」
ドッゴォォォォォン!!!
ボールを叩きつけた衝撃で、バックボードにヒビが入る。破片がキラキラと散らばる中、お兄様がリングにぶら下がってドヤ顔を決めた。
「沙織!見たか!」
「見てるわよ!早く戻ってディフェンス!余韻に浸ってる時間はないのよ!」
涙目で叫び返す。喉が痛い。足がガクガクする。でも、最高に楽しい。 脳内のアテナは、今は黙り込んでいる。私の「生きたい」「楽しみたい」「勝ちたい」という感情の奔流に押されて、引っ込んでくれたみたいだ。
「よし、ここからよ!逆転するわよ!」
「あんたホントすごいわ……」
美樹が呆れたように笑って、私の背中をバンと叩いた。 その痛みが、また私を現実に引き戻してくれる。
残り時間1分。点差は1点。神と人との境界線なんて知らない。私は今、ここにいる。 皿屋敷中学チアリーダー、城戸沙織として。帝光中学をぶっ倒すために、ここに立っているんだ!
「さあ行くわよ二人とも!勝利の舞よ!」
「えっ、まだやるの?」
「やるに決まってるでしょ! せーのっ!」
汗まみれの笑顔で、誰よりも高くジャンプした。今の私なら、成層圏までだって届きそうだ。まあ、本当に届いたら困るんだけど。
(見てらっしゃい、アテナ。私は絶対、あなたになんか負けないんだから!)
心の中で舌を出して、私は着地した。バッシュの擦れる音と歓声の渦の中へ、私はもう一度、自分の声を放り込んだ。
◆
城戸邸、食堂。眼の前には、牛一頭を丸ごと焼いたのかと思うほどの巨大な肉塊が鎮座している。執事の辰巳が、額に脂汗を浮かべながら、その肉塊を切り分けている。
「さあさあお嬢様、アベル様!本日は帝光中学校との激闘、誠にお疲れ様でございました!この辰巳、感動で竹刀を握る手が震えております!」
辰巳の声がでかい。天井のシャンデリアがビリビリと震えている。 私は今、ナイフとフォークを手に、目の前の御馳走と対峙している。
そう、ここは城戸邸。 今日はバスケットボール決勝の祝勝会だ。私の兄、アベルお兄様が率いる皿屋敷中学が、あの「奇跡の世代」を擁する帝光中学を、僅差で破ったのだ。 まさに奇跡。いや、神の御業。
「ふはははは!見たか辰巳!あの赤司征十郎の呆気にとられた顔を!人間ごときが、太陽神の化身たるこの僕を見下ろそうなどと、一万年と二千年はやいのだ!」
アベルお兄様は、上機嫌で赤い葡萄酒(未成年だからもちろん葡萄果汁100%だ)が入ったガラスコップを掲げている。その背後には、未だに消えない後光が差している。 蛍光灯がいらないくらい眩しい。電気代の節約にはなるけれど、一緒に食事をする身にもなってほしい。網膜が焼ける。
「さすがはお兄様です。あの最後の超遠距離弾道投擲(ロングシュート)、痺れましたわ」
作り笑いを浮かべて、果汁水を口に含む。 美味しい。高級な味がする。でも、味がしない。なぜなら、私の頭の中が、相変わらず騒がしいからだ。
『……肉を食らうなど、野蛮な』
まただ。脳内に直接響く、涼やかで、それでいて説教臭い声。私の身体に宿る女神、アテナだ。
(いいじゃない、お腹空いてるんだから。消費したカロリーを補給するのは生物としての義務よ)
心の中で反論する。
『神は霞を食って生きるもの。このような脂ぎった獣の肉を体内に入れるなど、神殿が汚れます』
(ここは神殿じゃなくて城戸邸の食堂! 文句があるなら出て行ってよ!)
『出られません。貴女が完全に覚醒し、個を捨て去るまでは』
ああ、もう。美味しいお肉が、まるでゴム草履を噛んでいるような味になる。
そんな私の憂鬱をよそに、食卓の向かい側では、美しい女性二人が、優雅に談笑している。 一人は、翔子ママ。 そしてもう一人は、響子おば様。 二人とも、私と同じ「神憑き」だ。でも、彼女たちの様子は、私とは決定的に違う。
「いやー、それにしても今日の試合、面白かったわねぇ!私の中のエリスがさ、『今の接触は反則だろ!』とか『審判の目は節穴か!』ってずっと騒いでてさ。あの子、ああ見えて意外とルールに詳しいのよ」
翔子ママが、豪快に骨付き肉にかぶりつきながら笑う。彼女に宿っているのは、争いの女神エリス。 神話では不和の林檎を投げ込んで戦争を起こしたトラブルメーカーのはずだけど、翔子ママの話を聞く限り、ただのスポーツ観戦好きな熱血指導員みたいになっている。
「えー、意外ね。私の中のヴィーナスなんて、ずっとアベル様の筋肉に見惚れていたわよ。『あの上腕二頭筋の収縮具合、まさに黄金比だわ』とか『汗の飛び散り方が芸術的ね』とか。あの子、美しさの基準がちょっと独特なのよね」
響子おば様が、うっとりとした顔で頬に手を当てる。彼女に宿っているのは、美の女神ヴィーナス。愛と美を司る女神のはずが、どうやら筋肉愛好家(マッスルマニア)の気があるらしい。
「あはは! ヴィーナスらしいわね。でもさ、二人で一つの身体を使ってると、たまに便利よね」
「わかるー。服選ぶ時とか、色彩感覚のアドバイスくれるから助かるわ」
二人は、また硝子杯を合わせて乾杯する。 カチン、と澄んだ音が響く。その音が、私の胸の奥をチクリと刺す。
(……なんで?)
私は、手元の突き刺し器具を強く握りしめる。
(なんで、みんなそんなに上手くいってるの?)
翔子ママとエリスママ。 響子おば様とヴィーナス。 彼女たちはまるで、気の合う同居人か、仲の良い姉妹のように共存している。「身体を貸す」とか「力を借りる」とか、そういうギブアンドテイクの関係が成立している。
それなのに。
(なんで私だけ? なんで私の中の「アテナ」だけ、私(城戸沙織)という存在を認めようとしないの?)
『……認めません』
即答だった。私が問いかける前に、思考を読み取って答えてきやがった。
『エリスやヴィーナスのような、下級神と一緒にしないでいただきたい。私はアテナ。全知全能の主神ゼウスの娘であり、地上の平和を守護する戦いの女神です。中学生の小娘と馴れ合うつもりなど、毛頭ありません』
(馴れ合えなんて言ってない!ただ、私の邪魔をしないでって言ってるの!)
『貴女の存在自体が邪魔なのです。貴女の自我、貴女の欲望、貴女の人間らしい感情……それら全てが、アテナとしての完全な覚醒を妨げています。さあ、沙織。今すぐその肉を置くのです。そして瞑想なさい。宇宙(コスモ)を感じるのです』
(嫌よ!今は祝勝会なの!兄の勝利を祝いたいの!)
『兄?アベルは神です。貴女も神です。神同士の祝いに、このような下世話な宴会は不要。必要なのは、静寂と祈り……』
うるさい。 うるさいうるさいうるさい!お説教おばさんか!親戚の集まりで「結婚はまだか」って聞いてくるお節介な大叔母さんよりもタチが悪い!
ガチャンと音を立てて、突き刺し器具を皿に置いた。 その音に、食卓の空気が一瞬で凍りつく。
アベルお兄様が、肉を頬張ったまま停止する。 翔子ママと響子おば様が、驚いた顔で私を見る。 辰巳が、持っていた布巾を床に落とす。
「……沙織?」
アベルお兄様が、怪訝そうに眉を寄せる。
「どうした。肉が硬かったか? それとも、私の輝きが強すぎて目が眩んだか?まあ、無理もない。直視するには、サングラスが必要だったな」
お兄様は、あくまで自分が原因だと思っているらしい。その幸せな勘違いが、今は少し羨ましい。
私は震える手で、ナプキンを口元に押し当てる。 喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。それはアテナへの怒りであり、自分への情けなさであり、そして何より、孤独感だ。
この食卓には、こんなにたくさんの人がいるのに。神と人が入り混じって、賑やかに騒いでいるのに。私だけが、独りぼっちだ。
私の心は、まるで納豆を百回かき混ぜた後に醤油を入れ忘れた時のような、粘着質で満たされない虚無感に包まれている。
「……違う」
私の口から、細い声が漏れる。
「ん? 何が違うのだ?」
「……なんでも、ないの」
私は席を立つ。椅子が床を擦る音が、ギギギと嫌な音を立てる。
「ちょっと、気分が優れないの。先に部屋に戻るわ」
「おい、沙織。まだデザートのババロアが来ていないぞ? 貴様の好きな、プルプルしたやつだぞ?」
お兄様が引き止めるけれど、私は振り返らない。ババロア。プルプルしたババロア。食べたい。 喉から手が出るほど食べたい。でも、今ここでババロアを食べたら、きっとアテナが『軟弱な!』とか言って、味覚を遮断してくるに違いない。味のしないババロアなんて、ただの冷たい固形物だ。そんな悲しい思いをするくらいなら、食べない方がマシだ。
「おめでとう、お兄様。……おやすみなさい」
私は逃げるように、食堂の扉を開ける。 背後で、翔子ママが「あらあら、思春期かしら」と呟くのが聞こえる。 響子おば様が「恋煩いかもね」と笑うのが聞こえる。
違う。そんな平和な悩みじゃない。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌に触れる。 廊下は長い。無駄に長い。歩いても歩いても、自分の部屋にたどり着かない気がする。
『……逃げても無駄です』
脳内で、彼女が囁く。
『貴女の身体は、私の器。いずれ貴女の精神は摩耗し、私と同化する。それは決定事項です』
(黙れ)
早足になる。絨毯の上を、スリッパでペタペタと音を立てて歩く。
(私は消えない。絶対にあんたなんかに、城戸沙織を渡さない)
『無駄な抵抗を……。人間としての生に、何ほどの価値があるのです?苦しみ、悩み、老い、死ぬ。神となれば、永遠の安らぎが得られるというのに』
(永遠の安らぎなんていらない!私は明日、学校で友達と昨日のドラマの話がしたいの! 期末試験でヤマが外れて絶望したいの!それが私の生なの!)
私は心の中で叫びながら、階段を駆け上がる。息が切れる。心臓がバクバクする。この動悸さえも、私が人間である証拠だ。
二階の自室の前まで来て、私はドアノブに手をかける。 金属の冷たさが、熱くなった掌を冷やしてくれる。
ガチャリ。
扉を開けると、そこには私の城がある。 ピンク色のベッド。 勉強机の上には、読みかけの漫画雑誌と、やりかけの数学の宿題。 壁には、アイドルのポスター。 棚には、可愛い動物のぬいぐるみたち。
ここだけは、私の場所だ。アテナなんかが入り込めない、城戸沙織の聖域だ。
私は寝台に飛び込む。ふかふかの布団に顔を埋める。 洗剤のいい匂いがする。
『……幼稚な部屋ですね』
(あんたのセンスなんて聞いてない!)
枕を抱きしめて、ギュッと目を閉じる。遠くの食堂から、まだアベルお兄様たちの笑い声が微かに聞こえてくる。
羨ましい。私も、あの中で笑っていたかった。「お兄様、調子に乗らないでよ」って突っ込みたかった。ババロアを食べて、「美味しいね」って言いたかった。
目尻から、一雫だけ、涙がこぼれて枕に吸い込まれた。
「……私は、まだ、ここにいるよ」
誰に聞かせるわけでもなく、私は小さく呟く。 それは、自分自身への確認作業。 明日も、明後日も、私は城戸沙織として目を覚ます。 絶対に、負けない。
……でも、やっぱりババロアは食べたかったなぁ。
十二宮編の最後は誰と誰の対決に?
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アッシュと星矢
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サガとアイオロス
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アッシュとアイオロス
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サガと星矢