聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜   作:斉宮 柴野

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次回!『君の名を呼べない神(アテナ)』

デートの夜明け、優しき声に救われた沙織。しかし迫りくる神の影は、彼女の魂を容赦なく蝕み始めていた!

崩れる日常!揺らぐ友情!そして……すべてを呑み込む、アテナ覚醒の光!!

星矢よ、叫べ!
その声は少女に届くのか!?

君の小宇宙は、まだ燃えているか!?


君の名を呼べない神(アテナ)

目覚めは、最悪なんて言葉じゃ生温いくらいの不快感と共にやってきた。

 

頭の中で、工事現場のおじさんたちが100人くらい集まって、一斉にドリルで私の脳みそを掘削しているみたいだ。ガンガンガンガン!キーンキーン!耳鳴りが、安物のマイクがハウリングした時みたいな不快音を奏で続けている。

 

「あ、ぐ……っ、うぅ……」

 

ベッドの上で芋虫みたいにのたうち回る。枕に顔を押し付けても、布団を頭から被っても、この頭痛は止まらない。だっておかしいじゃない。昨日はちゃんと夜の10時には寝たのよ?「お肌のゴールデンタイムは死守する」って、翔子ママに言われてパックまでしたのに。二日酔い?まさか。私はまだ未成年の清く正しい中学生よ。昨日の晩餐で飲んだのは、お祖父様秘蔵のヴィンテージ・グレープジュースだけ。

 

なのに、何なのこの吐き気は。世界がグルグル回っている。天井のシャンデリアが、万華鏡みたいに歪んで見える。

 

『……目覚めよ……時は来た……』

 

まただ。脳内に直接響く、あの気取った声。私の頭の中に勝手に住み着いている、家賃滞納者の「女神(アテナ)」様だ。

 

『我が半身よ……地上の支配権を……我に委ねよ……』

 

「……うる、さい……。今は……朝の、6時半……よ……」

 

乾いた唇を動かして、掠れた声で反論する。地上の支配権?知ったことじゃないわよ。 今は私の睡眠時間の支配権の方が重要なの。あと30分寝かせて。お願いだから。

 

フラフラと起き上がる。足元がおぼつかない。生まれたての小鹿の方が、もっとしっかり歩くんじゃないかしら。洗面所の鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、ゾンビ映画の通行人Aみたいな顔色の悪い女だった。目の下にクマができている。肌も土気色だ。最悪。 これじゃあ、「皿屋敷中のバーサーカー・ギャル」としての威厳が保てない。

 

「……メイクで、隠さなきゃ……」

 

震える手で、化粧ポーチを掴む。いつもなら、ここで気合を入れてアイラインを引き、つけまつげを装着し、戦闘用フェイスを完成させる時間だ。でも、今日は手が言うことを聞かない。アイライナーを持った手が、勝手にガクガク震えて、まぶたに変な線を描いてしまう。

 

『……無駄です。人間の仮面など、もはや不要。聖なる衣を纏いなさい』

 

「黙ってて……!私は、学校に……行くの……!」

 

必死に、制服のハンガーに手を伸ばす。執事の辰巳が涙ながらに改造してくれた、私のアイデンティティである超ミニスカ改造制服。でも、その布切れが、今日はやけに重く感じる。まるで、鉄でできているみたいだ。

 

(普通だ……私は、普通……。ただの、中学生……。ちょっと、寝不足なだけ……)

 

自分に言い聞かせる。これは風邪だ。あるいは、成長痛だ。絶対に、神様の覚醒なんかじゃない。必死にボタンを留める。指先の感覚がない。まるで、分厚いゴム手袋越しに作業しているみたいだ。なんとか着替えを終え、私は部屋を出る。廊下が長い。いつもの3倍くらい長く感じる。階段の手すりにしがみつきながら、私は一階へと降りていく。

 

「おや、お嬢様。お目覚めですか?本日の朝食は、アベル様のご希望で『太陽の恵み溢れるフルーツ盛り合わせ』でございますが……」

 

辰巳がニコニコしながら出迎えてくれる。でも、その声が遠い。水槽の外から話しかけられているみたいに、音がくぐもって聞こえる。

 

「……いらない。食欲、ないから……」

 

「えっ!?お嬢様が朝食を抜くなど!天変地異の前触れですか!?」

 

辰巳が大げさに驚いているけれど、訂正する元気もない。玄関へと向かう。靴を履くのにも一苦労だ。足が、自分のものじゃないみたい。右足を出そうとすると、左足が動く。 脳からの指令が、身体に届くまでにタイムラグがある感じ。

 

「行って、きます……」

 

「お、お嬢様?お顔色が優れませんが、本当によろしいのですか?車をお出ししましょうか?」

 

「いい……歩くわ……」

 

重い扉を開けて、外に出る。朝の光が目に刺さる。眩しい。太陽が、私を敵視しているみたいにギラギラと照りつけてくる。お兄様、ちょっと張り切りすぎじゃない?光量を落としてよ。

 

通学路のアスファルトが、波打って見える。すれ違う人々の顔が、のっぺらぼうに見える。ノイズが酷い。ザザーッという音が、ずっと頭の中で鳴り響いている。

 

(しっかりしろ、城戸沙織。あんたは天下のグラード財団令嬢よ。これくらいの体調不良、気合でねじ伏せなさい)

 

自分を鼓舞しながら、重い足を引きずる。一歩、また一歩。学校までの道のりが、永遠に続く巡礼の旅みたいに感じる。途中、いつもの野良猫が私を見て「ニャー」と鳴いたけれど、その声さえも『……神よ……』って聞こえて、ゾッとした。幻聴だ。完全にキテる。

 

なんとか学校の正門にたどり着く。チャイムの音が、教会の鐘の音みたいに重厚に響いて、頭痛を加速させる。下駄箱で上履きに履き替える時、バランスを崩してよろけそうになった。危ない。 誰にも見られてないわよね?「バーサーカー女神が下駄箱で自爆」なんて噂が流れたら、末代までの恥だわ。

 

教室に入る。ざわめき。クラスメイトたちの話し声、笑い声、机を引きずる音。それら全てが、遠くの水底の音のように聞こえる。ゴボゴボ、ボコボコ。

みんな、水の中で喋っているのかしら。

 

「……ちょっと、沙織?あんた顔真っ白よ?おしろい塗りすぎとかじゃなくて、マジでヤバい感じよ」

 

螢子の声だ。彼女が心配そうに覗き込んでくる。その顔が、二重にも三重にもダブって見える。螢子が3人いる。分身の術でも覚えたの?

 

「さ、沙織ちゃん……?保健室行ったほうがいいんじゃ……。なんかこう、いつもの覇気がないっていうか、オーラが消えかけてるっすよ」

 

和真くんの声。彼も心配してくれている。オーラが消えかけてる?いいことじゃない。いつも「殺気が出てる」って言われるんだから。

 

「おい。……お前、マジでどうした?いつもの減らず口はどうしたんだよ」

 

幽助の声。彼は鋭い。私の異変を、一番敏感に感じ取っている。いつもなら、「うるさいわね、この単細胞」って言い返すところだ。でも、言葉が出てこない。喉の奥に、何か冷たくて硬いものが詰まっているみたいで、声が出せない。

 

「……大丈夫……よ。私は、元気……バッチリ……」

 

必死に絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。蚊の鳴き声以下だ。いつもの私なら、校舎の窓ガラスを振動させる声量が出せるのに。どうしちゃったのよ、私。

 

自分の席に座ろうとする。でも、椅子の位置がうまく認識できない。距離感が掴めない。 そのまま、膝から力が抜けた。

 

ガタッ!

 

「っと、おい!」

 

崩れ落ちそうになった瞬間、幽助がとっさに腕を掴んで支えてくれた。彼の体温が、制服越しに伝わってくる。温かい。 人間って、こんなに温かい生き物だったっけ。今の私の身体は、氷みたいに冷たいのに。

 

「沙織!おい、しっかりしろ!」

 

幽助の顔が間近にある。焦っている。あの幽助が、本気で焦っている。そんな顔、しないでよ。いつもの生意気な顔で、ニヤニヤ笑っててよ。そうじゃないと、調子が狂うじゃない。

 

脳内のアテナが、幽助の体温に反応して、激しく拒絶反応を示す。

 

『……離れなさい。汚らわしい。人間ごときに触れられるなど、神の沽券に関わる』

 

うるさい。うるさいうるさいうるさい!私の友達を、汚らわしいなんて言うな!

 

私は、幽助の腕を振り払おうとする。でも、力が入らない。私の腕は、まるで枯れ木みたいにカサカサで、もろくなっている気がする。

 

「……早退、するわ……」

 

それだけ言うのが精一杯だった。これ以上ここにいたら、私が私じゃなくなってしまう。 みんなの前で、私が「バケモノ」に変わってしまう。それだけは嫌だ。プライドが許さない。

 

「おい!送ってくぞ!お前一人じゃ歩けねーだろ!」

 

幽助が食い下がる。彼は優しい。ぶっきらぼうだけど、根はお節介なくらい優しいやつだ。だからこそ、巻き込みたくない。この得体の知れない「神の事情」に、彼らを巻き込むわけにはいかない。

 

「来ないで!!」

 

喉が裂けそうなくらい、最後の力を振り絞って叫んだ。教室中の空気が凍りつく。螢子も、和真くんも、そして幽助も、驚いた顔で固まっている。ごめん。そんなつもりじゃなかったの。でも、今の私には、こうやって拒絶することしかできない。

 

「……一人で、大丈夫だから……」

 

カバンを持つことも忘れて、教室を飛び出した。廊下を走る。足がもつれる。壁に肩をぶつけながら、私は逃げる。 何から?幽助たちから?それとも、自分の中から湧き上がってくる「何か」から?

 

校舎を出て、私はあてどなく歩き出した。どこへ行けばいい?家?いいえ、家に帰れば、お兄様やパライストラからの目がある。病院?こんな症状、お医者様に診せたって「中二病ですね」って言われて終わりよ。

 

助けて。誰か、私を繋ぎ止めて。この世界に、私が「城戸沙織」だっていう楔を打ち込んで。

 

気がつくと、私は電車に乗っていた。どうやって切符を買ったのか、どうやって改札を通ったのか、記憶がない。ただ、本能が私を導いていた。私が唯一、心から安心できる場所へ。私が唯一、心から「甘えられる」相手の元へ。

 

場所は、寄宿学校、パライストラ。聖闘士を育成するための専門機関。そこに行けば、彼がいる。

 

電車を降りて、息が切れる。心臓が早鐘を打っている。ドクン、ドクン、ドクン。心臓の音が、時限爆弾のカウントダウンみたいだ。あとどれくらい?あとどれくらいで、私は消えるの?

 

パライストラの正門が見えてきた。古代ギリシャ風の柱が立ち並ぶ、荘厳な入り口。門衛の人が私を見て、何か言っている。「アテナ様!?」「どうなさいました!?」そんな声が聞こえるけれど、無視だ。今は「様」なんて付けないで。ただの「沙織」として扱ってよ。

 

敷地内を歩く。すれ違う生徒たちが、驚愕の表情で道を開ける。私の姿、そんなに酷いのかな。きっと、幽霊みたいでしょうね。髪はボサボサ、制服はヨレヨレ、顔色は死人同然。最強のギャル・コーデが台無しだわ。

 

「やあやあ、アテナ様!本日はどのようなご用件で?視察ですか?いやー、事前に連絡をいただければ歓迎の宴を用意しましたのに!」

 

突然、目の前に髭面のおじさんが現れた。パライストラの理事長、ドルバルだ。聖域から出向してきた、偉い人らしいけど、見た目はただの陽気なサンタクロースだ。彼がニコニコと手を振ってくる。いつもなら、「気安く呼ばないでくださいまし」って上品に釘を刺すところだけど、今はその気力もない。

 

彼を素通りする。ドルバルが「おや?無視ですか?これは手厳しい!」と笑っているのが背中でわかる。この平和な空気が、今は痛い。ここには「日常」がある。修行して、笑って、ご飯を食べて、寝る。そんな当たり前の生活が、ここにはある。私も、その中に入りたかった。

 

中庭に出る。たくさんの生徒たちが、休憩時間を楽しんでいる。その中に、彼を見つけた。

 

ベンチに座って、同級生と談笑している少年。赤いTシャツ。腕に巻かれたバンテージ。 跳ねた髪。そして、太陽みたいに屈託のない笑顔。

 

星矢。

 

「……あ……」

 

私の喉から、空気が漏れる。いた。 星矢だ。幻覚じゃない。本物の星矢だ。彼がそこにいるだけで、世界の色が少しだけ戻った気がした。モノクロだった視界に、赤や緑や青が戻ってくる。彼の笑い声が、不快なノイズを消し去ってくれる。

 

(助けて……星矢……)

 

(私を繋ぎ止めて……)

 

(貴方の声を聞けば……貴方の熱に触れれば、また「沙織」に戻れるはず……)

 

彼に向かって歩き出す。足が重い。地面が泥沼になったみたいに、足を取られる。でも、進まなきゃ。彼に触れなきゃ。

 

「でさー、昨日の食堂のカレー、肉が入ってなかったんだぜ?詐欺だろあれ!」

 

星矢の声が聞こえる。なんて平和な会話。なんてくだらない悩み。でも、それが愛おしい。そのくだらなさが、私にとっては宝石よりも価値があるの。

 

「せ……や……」

 

名前を呼ぶ。でも、声にならない。風の音にかき消されてしまう。

 

あと数メートル。手を伸ばせば、彼の背中に届く距離。

 

星矢、私を見て。いつものように、「よお、沙織さん!」って笑ってよ。「またサボりか?」ってからかってよ。そして、そのゴツゴツした手で、私の頭を撫でてよ。そうしてくれたら、私はきっと、あのアテナの声なんて追い払えるから。

 

震える右手を伸ばす。彼の赤いTシャツの裾を掴もうとする。

 

その瞬間。

 

ドクンッ!!

 

心臓が、破裂したかと思うくらい大きく跳ねた。今までの比じゃない。胸の中で、何かが「孵化」したような感覚。

 

脳内の「声」が、ボリュームを最大にした。全ての思考回路を、神経を、感情を、焼き切るような圧倒的な音量で響き渡った。

 

『ーー見つけた。我が肉体(うつわ)よ』

 

それは、宣告だった。城戸沙織という個人の、終了のお知らせ。

 

視界が、プツンと途切れる。テレビのコンセントを引っこ抜いたみたいに、唐突に暗転する。

 

足の感覚が消える。手の感覚が消える。寒さも、頭痛も、吐き気も、全てが消え去っていく。

 

ああ、沈んでいく。深い、深い、海の底へ。光の届かない、静寂の世界へ。

 

怖い。消えたくない。私はまだ、中学生なのに。恋も、喧嘩も、勉強(は嫌だけど)も、もっとしたかったのに。

 

(……星矢……)

 

最後に頭に浮かんだのは、大好きな少年の名前だけだった。彼の笑顔。彼の声。彼の温もり。

 

ごめんね、星矢。 デートの約束、守れそうにないわ。今度会う時は、きっと私は私じゃなくなっている。それでも、貴方は私を見つけてくれるかしら?アテナという女神の仮面の下にある、泣き虫な私の顔を、見つけてくれるかしら?

 

意識の糸が、プツリと切れた。私の伸ばした手は、星矢に届くことなく、虚空を掴んだまま力を失った。

 

そして。そこに立っていたのは、もう「城戸沙織」ではなかった。

 

「……」

 

少女の瞳から、ハイライトが消える。代わりに宿ったのは、万物を慈しみ、同時に万物を冷徹に見下ろす、深遠なる神の光。彼女はゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡した。その全身から立ち上る、圧倒的なまでの小宇宙。それは周囲の空気を震わせ、パライストラの生徒たちを戦慄させた。

 

 

 

 

 

 

 

「ん? ……あ!沙織さん!」

 

星矢の顔が、パッと明るくなる。尻尾を振る犬のように、彼はベンチから立ち上がり、駆け出してくる。その姿は、あまりにも無防備で、愚かしいほどに人間的だ。

 

「どうしたんだ?こんな所に……学校は?顔色悪いぞ、大丈夫か?」

 

星矢が心配そうに眉を寄せる。彼は右手を伸ばす。その手は、かつて少女の頭を撫で、背中を支えた手だ。しかし、その手が少女の肩に触れることはない。

 

少女は……いや、アテナは、ゆっくりと顔を上げる。

 

「え……」

 

星矢の足が止まる。息を呑む音が聞こえる。彼の瞳に映っているのは、見慣れた少女の姿だ。巻き髪。改造された制服。少し派手なメイク。外見は、何一つ変わっていない。

 

だが、中身が違う。それはただの違和感じゃない。もっと根本的な、生物としての種の違いだ。

 

いつも彼に向けられていた、甘えるような、あるいは悪戯っぽい「光」は消えている。 そこに存在するのは、底知れぬ深淵のような、静謐で冷徹な瞳。感情の色がない。体温を感じさせない。まるで、精巧に作られたビスクドールか、あるいは最新鋭の監視カメラのレンズが、そこにあるだけだ。

 

「……いえ、星矢。何でもありません」

 

アテナは答える。その声は、城戸沙織の声帯を使っているはずなのに、驚くほど平坦だ。 抑揚がない。自動音声アナウンスのほうが、まだ愛嬌があるかもしれない。

 

「さ、沙織……さん?」

 

星矢が後ずさりする。彼の本能が、警報を鳴らしているのだ。目の前にいるのは「沙織さん」ではない。「何か別のヤバイやつ」だと。

 

アテナは、星矢の動揺など意に介さない。彼女にとって、目の前の少年は「天馬星座(ペガサス)の聖闘士」という備品の一つに過ぎない。在庫確認完了。状態、良好。それ以上の関心はない。

 

「聖闘士としての研鑽、私はとても嬉しく思います。今後も励みなさい」

 

「……は?」

 

星矢の口が半開きになる。会話が噛み合わない。いつもなら、「サボってないで修行しなさいよ!」とか「ジュース奢って!」とか、そういうキャッチボールが成立するはずだ。 それが突然、校長先生の訓示みたいなことを言われたのだ。しかも、真顔で。ギャグで言っている雰囲気でもない。

 

アテナはそれ以上、言葉を紡がない。用件は済んだ。彼女は星矢の目を見ることもなく、踵を返した。その動きには一切の無駄がない。スカートが翻るが、そこには「恥じらい」も「媚び」も存在しない。ただ、物理法則に従って布が動いただけだ。

 

その背中には、もう「星矢の恋人」としての面影は微塵もなかった。星矢はただ、呆然とその後ろ姿を見送るしかない。狐につままれたような顔で。

 

場面は変わる。場所は、日本の経済を牛耳るグラード財団の本社ビル。その最上階にある総帥室。かつて城戸光政が使用していた重厚な執務室だ。

 

そこに、一人の男がいる。射手座(サジタリアス)のアイオロス。黄金聖闘士でありながら、現在は城戸沙織の戸籍上の父として、そして財団の実質的な管理者として、日々書類と格闘している苦労人だ。

 

彼は今、眉間に深いシワを刻みながら、稟議書にハンコを押している。筋肉隆々の肉体が、高級スーツを内側から破壊しようとしている。彼の悩みは、娘の沙織が最近ギャル化していることと、今月のプロテイン代が経費で落ちないことだ。

 

ガチャリ。ノックもなしに、重い扉が開く。

 

「おや、沙織か?学校はどうし……」

 

アイオロスが顔を上げかけた、その時だ。

 

「アイオロスはおりますか?」

 

その言葉に、アイオロスは弾かれたように顔を上げた。ペンが手から滑り落ち、コロコロと床を転がる。

 

「……はい?」

 

アイオロスは耳を疑う。娘が、父親を呼び捨て?反抗期がついにここまで来たか。いや、違う。呼び捨て云々の問題ではない。その声のトーンだ。

 

アイオロスは立ち上がる。彼の黄金聖闘士としてのセブンセンシズが、部屋の空気が変質していることを感知する。気圧が下がったような、あるいは重力が強まったような圧迫感。肌がビリビリと粟立つ。これは、娘の小宇宙ではない。もっと強大で、もっと古の、神聖なる気配。

 

「……どうした、沙織……沙織?」

 

動揺を隠せない父の声。しかし、部屋に入ってきた少女は、表情一つ変えずに歩み寄る。 ふかふかの絨毯を踏む足音さえ、なんだか荘厳に聞こえる。彼女はアイオロスのデスクの前、ちょうど上司が部下を見下ろすのに最適な距離で足を止めた。

 

「アイオロスお父様」

 

アテナは口を開く。「お父様」という単語を使っているが、そこには親愛の情は皆無だ。 まるで「株式会社アイオロス御中」と言っているかのような事務的な響き。

 

「今まで育てていただき、ありがとうございます。人間としての生活、得難い経験でした」

 

「沙織、何を……言っているんだ……?」

 

アイオロスが机を回り込み、娘に近づこうとする。しかし、見えない壁に阻まれたように、足が止まる。娘の周りにある空気が、拒絶しているのだ。

 

「人間としての生活」?

 

「得難い経験」?

 

まるで、短期留学を終えた学生が、ホストファミリーに別れを告げるような口調だ。いや、もっと淡白だ。退職代行サービスから送られてきたメールのほうが、まだ情緒がある。

 

「私はアテナとしての使命を全うすることにしました」

 

アテナは、アイオロスの視線を外し、窓の方を向く。そこには東京の街並みが広がっているが、彼女が見ているのはそんなちっぽけなものではない。遥か数千キロ彼方、ギリシャの方角だ。

 

「現在、聖域(サンクチュアリ)は『改革』という名の冒涜により、アッシュとサガの手によって歪められています」

 

アテナが吐き捨てるように言う。アッシュ。そして双子座のサガ。かつてアイオロスと共に聖域を支えるはずだった男たちが、今は聖域を近代化(ハイテク化とも言う)し、効率的な組織運営を行っている。

 

「時代遅れ?否。聖域とは神の威光が支配すべき聖なる場所。給与体系の見直しだの、福利厚生の充実だの、労働組合の結成だの……あのような軟弱なシステムは不要です」

 

アテナの目が据わっている。どうやら、彼女は極度の保守派らしい。サガたちの進める「ホワイトな聖域作り」が、神の視点からは「冒涜」に見えるようだ。

 

彼女は振り返り、実の父である男に、冷酷な命令を下す。

 

「聖域を取り戻すため……全世界に向けて『銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)』を開催します」

 

「な……!?」

 

アイオロスが絶句する。

 

「最強の聖闘士を選抜し、私の尖兵とするために。テレビ中継も入れなさい。スポンサーも集めなさい。神の戦いを見世物にするのです」

 

「さ、沙織!正気か!?聖闘士の存在を公にするなど、掟に反する!」

 

アイオロスが父親として、そして聖闘士として反論する。しかし、アテナは眉一つ動かさない。

 

「掟?私が掟です。今の聖域に対抗するには、なりふり構っていられません。私個人の私兵が必要です。使い捨ての駒が」

 

「使い捨て……」

 

「用意なさい」

 

たった一言。その言葉の重圧が、物理的な質量を持ってアイオロスに襲いかかる。漬物石を頭に乗せられた豆腐のように、アイオロスの精神が押し潰されそうになる。

 

アイオロスは拳を握りしめた。ミシミシと音がする。爪が皮膚を破り、血が滲む。痛い。 でも、胸の痛みに比べれば、こんなものは蚊に刺された程度だ。

 

目の前にいるのは、愛する娘の身体だ。昨日まで、「パパ、洗濯物は別にして!」と文句を言いながらも、一緒にご飯を食べていた娘だ。ギャル語を使い、テストで0点を取り、星矢に恋をしていた、普通の少女だ。

 

だが、中身はもう違う。そこにいるのは、絶対的な主君。地上を統べる女神アテナそのものだ。

 

黄金聖闘士としての忠義か。父親としての情か。アイオロスの中で、二つの心が激しくぶつかり合う。「沙織を返せ!」と叫んで、この女神をぶん殴りたくなる衝動。しかし、それをすれば聖闘士としての魂が死ぬ。

 

永遠のような沈黙。実際には数秒だったかもしれないが、アイオロスにとっては数億年に感じられた。

 

やがて、彼はゆっくりと膝を折る。分厚い絨毯に、膝が沈み込む。その背中が、一回り小さく見えた。

 

頭を垂れるその目から、一筋の涙が床に落ちる。ポタリ。その音が、総帥室に虚しく響く。

 

「……はっ!……アテナの、御心のままに」

 

震える声での恭順。それは、父親としてのアイオロスの敗北宣言であり、聖闘士アイオロスの勝利宣言だった。

 

「よろしい」

 

アテナは満足げに頷く。父親が泣いていることなど、気にも留めない。彼女は流れるような動作で、アイオロスが座っていた総帥の椅子(玉座)に腰を下ろした。革張りの椅子が、ギシりと音を立てる。彼女は足を組み、窓の外を見下ろす。その姿は、まさに女王。

 

「さて、忙しくなりますね。まずは全世界のメディアに招待状を。優勝賞品は……そうですね、黄金聖衣ということにしましょう。どうせサガたちが偽物を作っているでしょうから、こちらが本物だと宣伝するのです」

 

アテナがテキパキと指示を出し始める。そこには、かつての城戸沙織の居場所はもう、どこにもなかった。ただ、神の野望と、それにおののく父親のすすり泣きだけが、部屋に残された。

 

(さようなら、俺の可愛い沙織……)

 

アイオロスの心の叫びは、誰にも届かない。 こうして、神と人との境界線は完全に消失し、物語は血なまぐさい戦いへと加速していくのだった。




あとがきに書くべきことはない。

十二宮編の最後は誰と誰の対決に?

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