聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜   作:斉宮 柴野

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聖域十二宮編~神の機工と再定義される正義~
信仰なき女神と、叫ぶ人間


ギリシャ、聖域(サンクチュアリ)

 

 

 

かつては十二の宮殿が立ち並び、松明の炎が揺れる神秘と伝説の場所だった。しかし今、教皇の間は様変わりしている。石造りの壁はそのままに、内部には最新鋭のサーバーラックが鎮座し、幾つもの大型モニターが青白い光を放っている。床には配線ケーブルが這い回り、エアコンの駆動音が静かに響く。ここは神殿ではない。世界を影から管理し、平和を維持するための「戦略指令室」だ。

 

深夜2時。緊急アラートの赤いランプが、無機質に点滅を繰り返している。けたたましい警報音はすでにカットしたが、モニターに映し出される「EMERGENCY」の文字が、室内の緊張感を極限まで高めている。

 

「おいサガ!どうなってる!なぜこの時期に『銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)』なんだ!?意味がわからない!」

 

バンッ!渇いた音が響く。

アッシュが、飲みかけのコーヒーカップをデスクに叩きつけるように置く。中の黒い液体が跳ねて、重要な書類にシミを作るが、彼は気にする素振りも見せない。彼の銀色の髪が、苛立ちで逆立っているように見える。杯座のアッシュ。聖域の改革派筆頭であり、現代的な感覚で組織を運営する実務家だ。彼は今、理解不能な事態に直面して、理性をかなぐり捨てそうになっている。

 

その対面で、双子座のサガが、革張りのチェアーに深く沈み込んでいる。彼の美貌は健在だが、その眉間にはアイロンでも伸ばせそうにないほど深い皺が刻まれている。彼は指先でこめかみを揉みながら、疲れ切った声で応じる。

 

「……私も困惑している、アッシュ。現在、聖域と日本のグラード財団の間には、不可侵の約定があるはずだ。『聖域は人間のもの、日本は神域』として棲み分けていたはずだが……」

 

サガの視線が、手元のタブレット端末の上を滑る。そこには、数年前に締結された条約のデータが表示されている。神話の時代から続く「神による支配」を終わらせ、人間が自らの足で立つために勝ち取った独立。その証が、一方的に破られようとしている。

 

「あり得ない。城戸光政翁が亡き後、実権を握っているのはアイオロスのはずだ。あの男が、こんな無茶なイベントを許可するわけがない。ましてや、沙織お嬢様だって……」

 

アッシュが言葉を詰まらせる。沙織。あの、ちょっと生意気で、でも根は素直なギャル中学生。彼女が自分から「戦争をしましょう」なんて言い出すはずがない。彼女は平和を愛しているし、何より面倒くさいことを嫌う。

 

「ハッキングか?第三勢力の介入か?それとも、アベルの野郎がまた何か企んで……」

 

アッシュが可能性を列挙する。その時だ。

 

ザザッ……ザザザッ……。

 

正面の巨大なメインモニターがノイズに包まれる。砂嵐のような映像が数秒続き、やがて鮮明な画像へと切り替わる。そこに映し出された人物を見て、アッシュとサガは同時に息を呑む。

 

「……沙織、ちゃん?」

 

アッシュが呆然と呟く。画面の向こうにいるのは、紛れもなく城戸沙織だ。紫色の長い髪。整った顔立ち。服装こそ、いつもの改造制服ではなく、純白のドレスを纏っているが、その造形は彼女そのものだ。

 

しかし。違う。決定的に、何かが欠落している。いつもアッシュたちに向けられていた「生意気な光」がない。「今度美味しいケーキ奢ってよ」とねだってくる時の「俗っぽい熱」もない。 そこにあるのは、深海のように冷たく、底の知れない瞳だけ。 まるで、精巧に作られたビスクドールが、硝子玉の目でこちらを観察しているようだ。

 

『双子座のサガ、杯座のアッシュ……。これまでの聖域の守護、ご苦労でした』

 

スピーカーから流れる声。それは沙織の声帯を使っているはずなのに、抑揚がなく、平坦だ。自動音声アナウンスのほうが、まだ愛嬌がある。

 

『今からは、私に返しなさい』

 

命令。交渉でも、提案でもない。絶対的な上位存在からの、問答無用のコマンド入力。

 

アッシュが椅子を蹴って立ち上がる。マイクに向かって叫ぶ。

 

「何を言っている?沙織ちゃん……いや、アテナ。それは契約違反だろ?俺たちは人間として自立した。あんたもそれを認めて、日本で女子中学生ライフを満喫してたんじゃないのかよ!」

 

アッシュの声には、怒りと共に、焦りが滲む。彼は知っている。彼女の中に眠る「神」というシステムが、いかに融通が利かないかを。だが、ここまで急激に、ここまで完全に「沙織」が塗りつぶされているとは予想していなかった。

 

『……契約?』

 

アテナが小首を傾げる。その動作すら、プログラムされた動きのように機械的だ。

 

『人間が神と契約を結ぶなど、傲慢も甚だしい。聖域は神話の時代より私のもの。地上の愛と正義のために、私が君臨する必要があるのです』

 

アッシュの言葉を遮り、彼女は淡々と告げる。話が通じない。こちらのロジックを受け付けない。

 

サガが冷静さを保とうと努めながら、マイクを引き寄せる。彼は論理で説得を試みる。

 

「待たれよ、アテナ。貴女の懸念は理解するが、現状を見ていただきたい。今、聖域はかつてないほどに繁栄している」

 

サガが手元のキーボードを叩き、聖域の統治データを画面の端に表示させる。

 

「ご覧の通りだ。聖闘士たちの労働環境は改善され、有給消化率は90%を超えている。給与未払い問題も解決し、福利厚生も充実させた。その結果、聖闘士の士気は向上し、地上の平和は効率的に守られている。犯罪発生率は過去最低、紛争の早期解決件数は過去最高だ。アテナよ、貴女はこの実績の何を不満に思っておられる?」

 

完璧なプレゼンテーションだ。数字は嘘をつかない。人間による管理のほうが、神の気まぐれな支配よりも遥かに「愛と正義」を実現できている。サガはそう確信している。

 

しかし。画面の中のアテナは、データに目もくれない。

 

『地上の愛と正義のために』

 

サガが眉をひそめる。

 

「……は?いや、ですから具体的な不満点を……このデータのどの部分が……」

 

『地上の愛と正義のために』

 

同じ言葉。同じトーン。同じ間。

 

「……っ」

 

アッシュとサガが、顔を見合わせる。背筋に冷たいものが走る。対話が、成立していない。彼女は会話をしているのではない。あらかじめ設定された「目的」を、壊れたレコードのように繰り返しているだけだ。

 

『……サガ。貴方の苦悩、アテナとしてとても悲しく思います』

 

アテナが、ふいにサガの名前を呼ぶ。その声には、慈愛のような響きが含まれている。だが、その慈愛は、人間に対する温かみのある愛ではない。バグったプログラムを哀れむような、冷徹な憐憫だ。

 

『しかし、神の領域は侵すべからざるもの。貴方達はアテナの聖闘士です。道具が意思を持つ必要はありません』

 

「……おい」

 

アッシュが低い声で唸る。

 

「我々は神から独立して歩む人間だ。それを証明したと思っていました。道具?ふざけるな。俺たちは、自分の意思で平和を守っているんだ」

 

アッシュの拳が震える。かつて、彼は神に従うだけの生き方を捨てた。サガと共に、血の滲むような改革を行い、聖域を「人間の場所」へと変えた。それを、たった一言で否定された。

 

『……哀れな子たち』

 

アテナは表情を変えない。怒りもしない。ただ、事務的に処理を進める。

 

『あくまで渡さないのであれば、アテナの名のもとに死を与えましょう。地上の愛と正義のために』

 

死の宣告。

 

それが「愛と正義」という言葉でラッピングされていることに、吐き気を催すほどの狂気を感じる。

 

彼女にとって、自分に従わない者は「悪」であり、悪を滅ぼすことは「正義」なのだ。 そこには一片の迷いもない。なぜなら、そうプログラムされているから。

 

「アイオロス!そこにいるのか!どういうことだ!」

 

サガが叫ぶ。アテナの背後。画面の端に、見切れるようにして立っている男の姿を見つけたからだ。射手座のアイオロス。黄金聖闘士であり、沙織の育ての親。彼は直立不動の姿勢で、アテナの後ろに控えている。

 

カメラがわずかに動き、アイオロスの顔を捉える。その表情を見た瞬間、アッシュは息を詰まらせる。

 

苦渋。その一言に尽きる。彼の顔は、まるで生乾きのコンクリートに無理やり笑顔を刻み込んだ彫像のように、不自然に歪み、固まっている。目元は赤く腫れているようにも見えるが、その瞳は光を失い、虚空を見つめている。

 

「っ!……俺は、アテナの聖闘士だ。アテナの御心のままにするべきだろう……」

 

アイオロスの口から漏れる言葉。それは、彼自身の本心ではない。聖闘士としての「楔」。アテナというシステムに組み込まれた、逃れられない忠誠回路が、彼にそう言わせているのだ。言葉とは裏腹に、彼が握りしめた拳からは、血が滴り落ちている。爪が掌を突き破っているのだ。痛い。見ているだけで、彼の心が悲鳴を上げているのが聞こえるようだ。

 

「……そんな顔で言うのかよ。父親だろ、あんた……」

 

アッシュの声が震える。怒りではない。あまりにも残酷な光景に対する、どうしようもない悲しみだ。あの親バカで、娘のためなら何でもした男が。「沙織の彼氏は俺が審査する!」と息巻いていた男が。今、その娘の姿をした「システム」に傅き、娘の人格が消滅したことを肯定させられている。これ以上の地獄があるだろうか。

 

『通信は終わりです。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)でお会いしましょう』

 

アテナが一方的に告げる。

 

『来なさい、アッシュ、サガ。貴方達もまた、私の駒として再利用してあげます』

 

プツン。

 

モニターの光が消える。黒い画面に、アッシュとサガの、絶望に染まった顔が映り込む。 教皇の間に、重苦しい静寂が戻ってくる。 サーバーの駆動音だけが、変わらずに低く響いている。

 

「……クソッ!!」

 

アッシュがデスクを蹴り上げる。書類が舞い散る。サガは、画面が消えた後も、黒いモニターを見つめたまま動かない。彼の脳内では、すでに最悪のシナリオへの対応策が計算され始めているはずだ。しかし、その計算式の中に、「沙織を救う」という解が含まれているかどうかは、誰にもわからない。

 

神の機工(システム)は起動した。愛と正義という名の暴走機関車は、もう誰にも止められない。ただ一人、あの少年を除いては。

 

 

 

 

 

 

日本、東京。グラード財団がその威信と財力、そして(おそらくは)アベルの「もっと派手にしろ」という無茶振りを形にした巨大建造物、グラードコロッセオ。

 

その内部は、異様な熱気と、それ以上に重苦しい緊張感に包まれている。

 

アリーナの広さは、東京ドームがすっぽりと入りそうなほどだ。 最新鋭のホログラム装置が古代ギリシャの神殿を映し出し、観客席には世界中から招かれたVIPやメディア関係者がひしめき合っている。しかし、フィールドの中央に整列する者たちにとっては、そんな演出はどうでもいい。

 

そこにいるのは、聖域からの召集に応じた聖闘士たちだ。 牡牛座のアルデバランが、その巨躯で腕組みをして仁王立ちしている。ケフェウス星座のダイダロスが、静かに状況を分析している。そして、星矢たち青銅聖闘士たちもまた、聖衣を纏って並んでいる。

 

だが、星矢の視線は対戦相手やライバルたちには向いていない。彼が見つめているのは、アリーナの最上段。黄金に輝く玉座に座る、一人の少女だ。

 

アテナ。かつて城戸沙織だった存在。

 

星矢は拳を握りしめる。ミシミシと、ガントレットが音を立てる。拳が震えている。それは武者震いなんかじゃない。恐怖と、混乱と、どうしようもない喪失感だ。

 

(沙織さん……いや、アテナ。俺は……どうすればいい?以前の沙織さんは消えちまったのか?)

 

星矢の脳裏に、数日前の記憶がフラッシュバックする。パライストラの中庭で見せた、あの冷たい瞳。デートの約束をした時の、恥じらうような笑顔はもうない。「星矢、ジュース買ってきて」とねだった、あの中学生らしい我儘も聞こえない。

 

そこにいるのは、完璧な女神だ。美しく、荘厳で、そして残酷なまでに無機質。

 

(でも、俺がそばにいなきゃ……誰が沙織さんを守るんだよ)

 

星矢は歯を食いしばる。たとえ中身が入れ替わっていようと、その身体は沙織のものだ。 彼女が「助けて」と叫んでいたのを、星矢は覚えている。消えゆく意識の中で、自分の名前を呼んでくれたことを、魂が覚えている。

 

「……」

 

ふいに、星矢の肩に重い手が置かれる。ビクリとして振り返ると、そこには黄金聖闘士、射手座のアイオロスが立っていた。彼は無言だ。いつものように「星矢!男なら背中で語れ!」とか「今日の筋肉の仕上がりはどうだ!」とか、暑苦しい激励は飛んでこない。 ただ、静かに星矢の肩を掴んでいる。

 

その手もまた、震えていた。黄金聖衣のガントレット越しに、アイオロスの悲痛な叫びが伝わってくるようだ。彼にとっても、あれは愛する娘だ。手塩にかけて育て、反抗期に悩み、それでも成長を見守ってきた家族だ。その娘が、今、自分たちを「駒」として見下ろしている。父親としての情と、聖闘士としての使命。その板挟みで、最強の黄金聖闘士でさえも、立っているのが精一杯なのだ。

 

星矢はアイオロスの震える手に、自分の手を重ねる。言葉はいらない。男同士、そして「沙織」を愛する者同士の、痛切な共感がそこにあった。

 

場面は変わり、アリーナを見下ろす最上階のVIP観覧席。ここは他の客席とは明らかに空気が違う。防弾ガラスで仕切られたその空間は、まるで異次元だ。そこに集まっているのは、人間のVIPではない。「神々」のファミリーだ。

 

翔子、アベル、響子。そして、琴座のオルフェウスと、盾座のヤン。彼らは優雅にソファに腰掛け、眼下で繰り広げられる悲劇を眺めている。

 

「……沙織。あれは一体どういうこと?まるでロボットじゃない。エリス」

 

翔子が、自身の内に宿る女神に問いかける。彼女の顔つきが、フッと変わる。妖艶で、どこか危険な香りを纏った表情へ。邪神エリスの顕現だ。

 

「神の機工(システム)に飲まれているな。我が娘ながら無様なことだ。だが……本来、神であるなら自我を失うようなことはないはず。依代の人格と融合し、新たな個として確立するのが常だ」

 

エリスはワイングラスを揺らしながら、冷ややかに分析する。

 

「私と翔子のように、あるいはヴィーナスと響子のように、共存こそが美しい。だが、あのアテナは違う。個を完全に排除し、純粋な『機能』としてのみ起動している」

 

「なんでそんなことに?」

 

「おそらく容量オーバーだ」

 

答えたのは、アベルだ。彼は退屈そうにバスケットボールを指先で回している。ここがVIP席だろうが関係ない。彼にとってボールは体の一部だ。

 

「聖域が他者(人間)のものであるというストレス、そしてこの日本に僕や母さん(エリス)、ヴィーナス様など神が多すぎるという環境要因。アテナのシステムは、地上の支配権を確立するために、最優先で『効率化』を選んだんだ」

 

アベルはボールを天井に向けて放り投げ、また指先でキャッチする。

 

「沙織の『個』、つまり人間としての感情や記憶は、システムの邪魔だと判断された。だから『アテナ』という巨大な防衛プログラムによって、ゴミ箱に放り込まれ、圧縮され、押し潰されたんだろう」

 

「……なんてこと。ヴィーナス、なんとかならないの?沙織ちゃんが可哀想よ」

 

響子が悲痛な声を上げる。彼女の瞳が揺らぎ、次の瞬間には美の女神ヴィーナスの光を宿す。しかし、その表情は冷淡だ。

 

「我らオリンポスは機工を絶対とするわ。それが秩序。それを妨げることは許されない。システムがそう判断したのなら、それが『正解』なのよ」

 

ヴィーナスは長い脚を組み替え、つまらなそうに頬杖をつく。

 

「……とは言うものの、あれはつまらないわよねぇ。美しくない。無機質な人形が玉座に座っていても、絵にならないわ。やはり愛と美があってこその支配でしょう?」

 

彼女たちの会話は、防音ガラスに守られているはずだった。しかし。 アリーナの中央、玉座に座るアテナが、ゆっくりと顔を上げた。数ルクスの輝きを持つその瞳が、正確にVIP席の神々を捉える。距離にして数百メートル。だが、神の知覚範囲に距離など関係ない。

 

『お黙りなさい』

 

脳内に直接響く声。観客席の人間たちには聞こえない、神々の周波数での通信。

 

『アフロディーテ……いや、ヴィーナスでしたか。エリスも、この地上に居座るのは感心しませんね』

 

アテナの声は、氷点下の冷気を含んでいる。

 

『地上に座する神は私一柱で十分であると知りなさい。お兄様とて例外ではありませんよ』

 

宣戦布告。アテナは、自分の家族であり、同格の神である彼らを「排除対象」として認識したのだ。

 

「ほう……?」

 

エリスの目が細められる。空気がピリつく。翔子の人格が奥に引っ込み、完全に争いの女神としての闘争本能が鎌首をもたげる。

 

「この私に喧嘩を売るとは。いい度胸だ、娘よ。教育が必要なようだな」

 

『貴方達については、聖域を奪還した後に神罰を加えます』

 

アテナは淡々と続ける。

 

『特にエリス。貴女は争いの種を撒きすぎる。我が母の肉体ごと、黄金の林檎に封じてあげますから、永遠に眠りなさい。そうすれば淋しくありませんよ』

 

「……ッ!」

 

エリスの周りに、黒い雷のようなオーラが走る。母(の肉体)に向かって「封印してやる」と言い放つその冷徹さ。もはや、そこに親子の情など欠片もない。

 

アベルが、回していたボールを止める。彼もまた、アテナを見下ろす。

 

「僕も封印する気かい?太陽神であるこの僕を?」

 

『例外はありません。太陽は一つでいい。私の足元を照らすライトになりなさい』

 

「ははっ、ライト扱いか。傑作だね」

 

アベルは乾いた笑い声を上げる。しかし、その目は笑っていない。太陽のような灼熱の小宇宙が、VIP席の室温を一気に上昇させる。 ……かと思いきや。アベルはスッと力を抜いた。

 

「ま、僕はパスだ」

 

『……何?』

 

「バスケの全中が近いんだよ。今年こそ赤司との決着をつけたいのでね。神々の戦争とか、練習の邪魔だ。ゾーンに入るための集中力を、こんな茶番で削りたくない」

 

アベルは再びボールを回し始める。

 

彼の優先順位は

 

1位:バスケ(対 赤司征十郎)

2位:学業(建前)

3位:世界征服 ……くらいのようだ。

 

「神話の戦争より、全中の決勝のほうが大事だ。悪いけど、僕を巻き込まないでくれるかな」

 

この期に及んでバスケ優先。そのブレない姿勢に、アテナの表情が一瞬だけ「理解不能」というバグを起こしたように歪む。

 

「ふふ、アベルらしいわね」

 

ヴィーナスがクスクスと笑う。

 

「でも、私はどうかしら?私に敵うと思う?神衣すら持たない、ただの依代の小娘が……美の女神に指図しようなどと」

 

ヴィーナスが立ち上がる。彼女の背後に、美しい薔薇と光の幻影が浮かび上がる。エリスもまた、座ったまま強大な殺気を放つ。アテナは玉座から動かず、しかしアリーナ全体を圧迫するほどの小宇宙を膨れ上がらせる。

 

一触即発。三柱の神(アベルはやる気がないが)の力が衝突すれば、このコロッセオどころか、東京そのものが地図から消滅しかねない。

 

その場の空気の張り詰め方は、ピリピリとしていて、かつ爆発寸前の危険な状態だった。

 

星矢はアリーナから、その異様な気配を感じ取っていた。空が暗くなる。雷鳴が轟く。 これは、ただの聖闘士同士の戦いじゃない。神々の代理戦争。いや、神々による内輪揉めの殺し合いだ。

 

(沙織さん……やめろよ……。そんな顔して、みんなを敵に回して……)

 

星矢は叫びたい衝動をこらえる。今、彼が動けば、均衡が崩れて戦争が始まる。

 

「……やるしかねぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まずい」

 

アリーナの袖で待機していた男が、額の汗を拭う。ドルバル総大主教。北欧アスガルドの出身であり、現在は聖闘士養成機関パライストラの理事長を務める男だ。年齢は32歳。 世間では働き盛りと言われる年齢だが、この数分間で彼の寿命は5年くらい縮んだ気がする。厳格な風貌をしているが、その中身は苦労人の教育者であり、極めて現実的な政治家だ。

 

(このままでは戦争が始まる。しかも、聖闘士同士の内戦どころか、神々のラグナロクだ。東京が消滅する。いや、私の可愛い生徒たちが巻き添えになる)

 

ドルバルは決断する。彼はマントを翻し、勇気を持ってアリーナの中央へと進み出る。 スポットライトが彼を照らす。数万人の視線が集まる。しかし、彼が意識しているのは、玉座に座るたった一人の少女だけだ。

 

「アテナ!お待ちください!」

 

ドルバルのよく通る声が、コロッセオに響く。VIP席と玉座の間でバチバチとショートしていた視線が、彼に集まる。ものすごい重圧だ。胃に穴が開きそうだ。それでも、彼は背筋を伸ばして立ち続ける。

 

「そのようなご無体はおやめください!神々の争いなど、今の地上には耐えられません! 銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)の開催は認めましょう。しかし、他の神々を巻き込んだ全面戦争になれば、貴女の守るべき『愛と正義』の対象である人類そのものが死滅しますぞ!」

 

正論だ。ぐうの音も出ない正論だ。しかし、相手は理屈で動く人間ではない。神の機工だ。

 

アテナの冷たい視線が、ドルバルをスキャンする。感情の色はない。ただ、敵対者か、服従者か、それとも資源ゴミかを選別しているだけの目だ。

 

『……ドルバル総大主教』

 

アテナが口を開く。

 

『貴方の顔データと経歴は照合済みです。パライストラの運営、および聖闘士の育成における功績、評価します。貴方の尽力により、これほどの聖闘士達が育ちました。感謝します』

 

丁寧な言葉だ。だが、そこには温度がない。AIが定型文を読み上げているような空虚さがある。

 

『しかし、これは決定事項です。不純物は排除しなければなりません。それが効率的な世界平和への最短ルートです』

 

取り付く島もない。ドルバルは冷や汗を拭う。ハンカチがぐっしょりと濡れている。彼は知っている。ここで下手に反論すれば、自分だけでなく、パライストラの生徒たち、そして故郷のアスガルドまでもが「敵対勢力」として認定され、消去対象になることを。

 

(引くわけにはいかん。だが、進むこともできん。ならば……)

 

ドルバルは、教育者としての責任と、政治家としての狡猾さを天秤にかける。そして、第三の道を選ぶ。

 

「……分かりました。アテナの御意志、とくと承りました」

 

ドルバルは一礼する。そして、会場全体に聞こえるように、朗々とした声で宣言する。

 

「では、我々パライストラ、および北欧アスガルド勢力は、この戦いにおいて『中立』とさせていただきます!」

 

会場がざわつく。中立。それは、どちらにも味方しないという宣言であり、同時に「我々を巻き込むな」という防衛線でもある。

 

「アスガルドの神闘士、およびパライストラの一般生徒も、この内戦には干渉しません。これはアテナへの反逆ではありません。不干渉です。我々は、次代の聖闘士を育てるという教育機関としての責務を全うするため、戦場からは距離を置かせていただきます」

 

詭弁かもしれない。逃げかもしれない。だが、守るべきものがある大人にとって、これはギリギリの選択だ。彼は、幼い生徒たちを、神々の狂った代理戦争の駒にはさせない。 その決意だけは、本物だ。

 

アテナは、しばらく無言でドルバルを見下ろす。その沈黙の数秒間、ドルバルの心臓は早鐘を打っていた。もし「許さん」と言われたら?その時は、オーディーン・ローブを纏って刺し違える覚悟で挑むしかない。

 

やがて、アテナは小さく頷いた。

 

『……よろしい』

 

許可が出た。ドルバルは心の中で深く安堵の息を吐く。

 

『所詮、未熟な生徒や、辺境の戦士など、戦力としては誤差の範囲。雑兵の手など不要です。私の尖兵となるのは、選ばれた最強の聖闘士のみで十分』

 

侮蔑の言葉。しかし、今はそれがありがたい。見逃されたのだ。アテナにとって、彼らは「リソースを割いてまで排除する価値のない存在」と判断されたのだ。

 

「……寛大なご配慮、感謝いたします」

 

ドルバルは恭しく頭を下げる。これで、生徒たちは守られた。彼は視界の端で、VIP席のエリスたちがつまらなそうに鼻を鳴らすのを見たが、無視だ。大人の仕事とは、泥を被ってでも最悪の事態を回避することなのだから。

 

ドルバルが下がると、アリーナの空気は再び張り詰める。中立勢力が去り、残されたのは、アテナに従うべきか迷う聖闘士たちと、事情を知らずに熱狂する観客たちだけだ。

 

アテナが、ゆっくりと立ち上がる。その右手には、一本の杖が握られている。勝利の女神ニケの杖。黄金に輝くその杖は、神の権能の象徴だ。

 

星矢は、その杖を見て胸が締め付けられる思いがした。以前、沙織はこの杖を見て言っていた。『ねえ星矢、これちょっとデザイン古くない?ここにリボンとか巻いて、先端を星型に改造したら魔法少女っぽくて可愛くない?いっそ、ケーキ入刀用のナイフにしちゃおうかしら』 そんな罰当たりなことを言って、辰巳を卒倒させていた。平和な日常の、馬鹿馬鹿しくて愛おしい記憶。

 

しかし今、その杖は冷酷な輝きを放っている。可愛げなど微塵もない。それは、敵を貫き、勝利を強制的にもぎ取るための、絶対的な兵器だ。以前の沙織が抱いていた「遊び心」は、完全に消去されている。

 

アテナは杖を高く掲げる。その先端から放たれる黄金の光が、コロッセオの照明よりも強く、会場全体を染め上げる。神々しい。誰もが息を呑み、ひれ伏したくなるようなカリスマ性。それが、今の彼女にはある。

 

『ここに集まりし聖闘士達よ。とても嬉しく思います』

 

アテナの声が響き渡る。マイクを通していないのに、鼓膜に直接届くような声だ。

 

『神話の時代より、貴方達は私の剣であり、盾でした。今、再びその忠誠を証明する時が来ました』

 

彼女は、カメラを通して全世界の人々へ、そして目の前の聖闘士たちへ語りかける。その言葉は、甘美な毒のように人々の心に浸透していく。

 

『今、聖域は逆賊に占拠されています。アッシュ、サガといった愚かな人間たちが、神の座を汚し、聖なる土地を冒涜しています。彼らは「改革」と称して、信仰を捨て、利便性を追求しました。それは堕落です』

 

観客たちがざわめく。彼らは詳しい事情など知らない。ただ、「女神アテナが悪と戦う」というわかりやすい構図に興奮し始めている。

 

『穢れた人間たちから、神の土地を取り戻すのです。秩序を、規律を、そして絶対的な支配を。それこそが、争いのない永遠の平和への唯一の道』

 

アテナは杖を振り下ろす。その切っ先が、西の空、遠きギリシャの方角を指し示す。

 

『さあ、戦いなさい。勝ち残った最強の聖闘士を率いて、私は聖域を浄化します。逆らう者は全て滅ぼします。なぜなら、私こそが正義だからです』

 

狂気だ。でも、圧倒的に美しい狂気だ。彼女は微笑む。その微笑みは、聖画のように完璧で、そして死体のように冷たい。

 

『地上の愛と正義のために、戦いましょう』

 

わぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!観客席から、爆発的な歓声が上がる。 「アテナ!アテナ!」「正義!正義!」 人々が熱狂する。神の言葉に酔いしれ、思考を停止させ、ただ熱狂の渦に身を投じる。

 

その異様な光景の中で。星矢だけが、立ち尽くしていた。彼の周りには、同じように困惑する青銅聖闘士たちがいる。紫龍も、氷河も、瞬も、言葉を失っている。

 

これが、俺たちの守りたかったものなのか?これが、俺たちの信じたアテナなのか?愛と正義って、こんなに冷たくて、一方的なものだったのか?

 

星矢の拳が、ガタガタと震える。爪が掌に食い込み、血が滲む。悔しい。悲しい。情けない。

 

沙織さん。あんたは、こんなこと望んでなかったはずだ。あんたは、もっとワガママで、人間臭くて、でも誰よりも優しかったはずだ。「世界征服」なんて言葉より、「明日のランチ」のほうを真剣に悩むような、そんな女の子だったはずだ。

 

それを、誰だ。誰が奪った。誰が、俺の大切な人を、こんな冷たい石像に変えちまったんだ。システム?宿命?神の意志?知ったことか。ふざけるな。

 

胸の奥から、熱い塊がせり上がってくる。それは言葉にならない叫び。理屈を超えた、魂の咆哮。

 

星矢は天を仰ぐ。人工的な照明が眩しい夜空に向かって、彼はその感情を爆発させた。

 

「……うぉぉぉーーっ!!」

 

星矢の叫びが、歓声の渦を切り裂いて響き渡る。それは、戦意高揚の雄叫びではない。 敵を威嚇する咆哮でもない。

 

それは、慟哭だ。行き場のない感情を、小宇宙というエネルギーに変えて、無理やり吐き出した、血を吐くような悲鳴だ。

 

星矢の叫びは不安定で、聞く者の不安を掻き立てる響きを持っていた。

 

アイオロスが、痛ましげに目を伏せる。ドルバルが、胸の前で十字を切る。VIP席のアベルが一瞬だけ、バスケットボールを回す手を止める。

 

そして、玉座のアテナだけが、無表情で星矢を見下ろしている。その瞳には、自分のために泣き叫ぶ少年の姿など、ただのノイズとしてしか映っていない。

 

「……五月蝿いですね。試合開始のゴングはまだですよ、天馬星座」

 

彼女の冷たい呟きは、星矢の叫びにかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。




沙織「……ねえママ、今回の私って消えてる扱いなんだけど、どういうこと?」

エリス「あら、心配しなくてもいいわ。あなたの精神はどこかの暗いフォルダに圧縮されているだけよ」

沙織「全然よくないんだけど!?あとフォルダ名が『athena_system_trash』とかだったら泣くわ」

エリス「安心なさい。『沙織_backup_final_v27』よ」

沙織「更新多くない!?しかもfinalって書いてるやつほど全然ファイナルじゃないやつじゃん!」

エリス「まあまあ。あなたを取り戻すために、星矢が今日も泣いて頑張っているわ。
母としては、あの子の努力を応援してあげたいのだけれど――」

沙織「けど?」

エリス「暴走中のあなたが邪魔すぎて無理ね」

沙織「私扱いがひどい!!」

エリス「次回も楽しみにしていなさい。あなたの人格が取り戻されるか、完全削除されるか……どちらも面白い展開よ」

沙織「やめて!?他人事みたいに言わないでママ!!」

十二宮編の最後は誰と誰の対決に?

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