聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
だが巨蟹宮には、死を操る黄金と、冷徹なる管理者が立ちはだかる!
アンドロメダの鎖が次元を裂き、紫龍が怒りの拳を握りしめる時――
聖域改革の闇が牙を剥く!
「巨蟹宮のトリックアートと、黄泉への片道切符」
君は、死のカウントダウンに抗えるか!?
『REMAINING TIME 10:45:30』
赤い光の下を、四人の少年たちが走っている。青銅聖闘士の紫龍、瞬、氷河、そして一輝だ。彼らは息を切らせ、十二宮の石段を駆け上がっている。本来なら、一つの宮を突破するごとに死闘を繰り広げ、満身創痍になりながら進むのが「十二宮編」の醍醐味のはずだ。しかし、現実はどうだ。
「おい、どうなっているんだ?」
氷河が走りながら訝しげに呟く。 彼の吐く息が白い。金牛宮では、入り口に『休憩中(BREAK TIME)』の看板がぶら下がっていた。さらに、本来なら迷宮となっているはずの双児宮に至っては、自動ドアのように入り口が開放され、中には誰もいなかった。ただ『教皇は現在、公務により不在です。御用の方は巨蟹宮までお越しください』という貼り紙があっただけだ。
「罠だ。間違いなく罠だ」
一輝が舌打ちをする。彼は疑り深い。「すんなり通れる=後でまとめて請求書が来る」という社会の仕組みを熟知しているような顔をしている。しかし、罠にしては露骨すぎる。やる気がないのか、それとも効率化されすぎて「無駄な戦闘はコストの無駄」と判断されたのか。
「でも兄さん、急がないと。あの時計、すごく正確だよ」
瞬が不安そうに上空を指差す。10:45:15……10:45:14……。あの時計は、電波時計並みの精度でアテナの余命を刻んでいる。誤差ゼロ秒。日本の鉄道ダイヤ並みに正確な死へのカウントダウンだ。
彼らは足を止めずに走り続ける。やがて、第四の宮が見えてくる。入り口には、禍々しいオーラが漂っている。巨蟹宮。死を司る黄金聖闘士が守ると噂される、不吉な場所だ。
四人は警戒しながら、宮の内部へと足を踏み入れる。中は薄暗い。照明が落とされ、間接照明のような薄ぼんやりとした明かりだけが灯っている。ひんやりとした空気が肌を撫でる。どこからか、ヒュオオオ……という風の音が聞こえる気がする。いや、よく聞くと空調の音かもしれない。
その時だ。先頭を歩いていた紫龍が、ハッと息を呑んで足を止める。
「な、なんだコレは……!」
紫龍の声が裏返る。つられて他の三人も視線を床へ、そして壁へと向ける。瞬間、瞬が「ひっ!」と短い悲鳴を上げて、一輝の背中に隠れる。
そこには、地獄絵図が広がっている。床一面に。壁一面に。さらに天井に至るまで。無数の「人の顔」が浮かび上がっているのだ。老若男女、様々な人々の顔。ある者は苦痛に歪み、ある者は悲しげに目を伏せ、ある者は何かを訴えかけるように口を開いている。まるで、石材そのものが人間の怨念を吸い込み、その形象を表面に浮き出させたかのような、おぞましい光景。
「こ、これは……人の顔!?まさか、これら全てが……」
瞬が震える声で言う。彼の純粋な心は、この光景を生理的に拒絶している。踏めない。床を歩けば、誰かの顔を踏むことになる。そんな冒涜的な行為ができるはずがない。
「フン、悪趣味な内装だ」
一輝が吐き捨てるように言うが、その眉間には深い皺が刻まれている。彼といえど、これほどの数の死に顔に囲まれるのは気分が悪い。氷河もまた、沈黙を守りながら周囲を警戒している。これはただの幻覚か?それとも、現実の死体なのか?
すると。宮の奥、一段高くなっている場所から、聞き覚えのある不快な笑い声が響いてくる。
「ククク……。哀れな奴らだな」
ドライアイスのような白い煙が、プシューッという音と共に噴き出す。演出過剰なスモークの中から、黄金の光を纏った男がゆらりと現れる。蟹座のデスマスクだ。彼はいつものようにニヤニヤと笑い、手のひらで自身の顔を覆うようなポーズを決めている。「俺、今、最高に悪役してる」という陶酔感が全身から溢れ出ている。
「ようこそ、俺の巨蟹宮へ。小僧ども!死者の顔に驚いたか?」
デスマスクが大仰に両手を広げる。彼の背後の壁には、一際大きな苦悶の顔が浮かんでいる。スポットライト(どこにあるんだ?)が彼を照らす。
「この顔は全て、俺がこれまでに殺してきた者たちの成れの果てよ!戦いの最中に死んだ者、俺に逆らって殺された者、そして巻き添えを食った運の悪い一般人……。フハハハ!全員、死してなお成仏できず、俺の宮に浮かび上がり怨嗟の声を上げているのだ!」
デスマスクの説明は、あまりにも残酷だ。彼はこの悪趣味なコレクションを、自慢のトロフィーのように語っている。無関係な人々まで殺し、その魂を自分の宮に縛り付けているというのか。
「き、貴様ッ!!」
紫龍が激昂する。彼の正義感は、この非道な行いを許容できない。長髪が怒りのオーラで逆立つ。背中の龍の刺青が浮かび上がりそうなほどのボルテージだ。
「罪もない人々を殺し、それをコレクションにするとは……!それが黄金聖闘士のやることか!聖闘士の風上にも置けん!」
紫龍が一歩踏み出す。彼が踏んだ床の「顔」が、苦しげに歪んだように見えた。紫龍は慌てて足を浮かせる。踏めない。やはり踏めない。
「貴様は人の命をなんだと思っている!その怨念の声が聞こえないのか!?」
紫龍の叫びが巨蟹宮に木霊する。シリアスな展開だ。正義の怒りと、悪の狂気。これぞ聖闘士星矢。これぞ少年漫画の王道。デスマスクも、紫龍の反応にご満悦だ。「そうそう、それだよ。その『許せねぇ!』って顔が見たかったんだよ」と言わんばかりに、さらに煽ろうと口を開く。
「ククク、もっと怒れ、もっと憎め!その感情が最高のスパイスに……」
その時だ。
コツ、コツ、コツ。
硬質な音が響く。それは戦場の足音ではない。綺麗に磨かれた大理石の上を歩く、ハイヒールの音だ。場の空気にそぐわない、あまりにもビジネスライクな足音が近づいてくる。
「……はぁ」
深い、深いため息。それは「怨念」や「殺意」とは無縁の、ただの「呆れ」を含んだため息だった。
「あまり子どもたちを驚かせるものではないでしょう、デスマスク」
冷静沈着な女性の声が、デスマスクの熱演に冷水を浴びせる。
「こけおどしで」
「げっ」
デスマスクの顔が引きつる。「悪のカリスマ」の仮面が一瞬で剥がれ落ち、「上司に見つかった平社員」のような顔になる。
スモークの向こうから現れたのは、一人の女性聖闘士だ。祭壇座の白銀聖衣を纏っているが、その着こなしは戦闘服というよりは、オーダーメイドのパンツスーツのように洗練されている。髪をきっちりとまとめ、鼻梁には知的な眼鏡がかかっている。手にはタブレット端末。エレナだ。聖域改革派の筆頭、アッシュ参謀長の妻にして、聖域の財務・実務を一手に引き受ける教皇補佐。実質的な「聖域の裏番長」である。
瞬が目をぱちくりさせる。
「驚かすって……?こけおどし?」
瞬は純粋だ。言葉の意味が理解できない。だってたった今、デスマスクは「殺した者たちの成れの果て」だと言ったばかりじゃないか。成仏できない魂が浮かび上がっているんじゃないのか。
エレナは眼鏡の位置を、中指でくいっと直す。その動作だけで、場の空気が「バトル漫画」から「オフィスドラマ」へと切り替わる。彼女は冷ややかな視線を、床に浮かぶ「苦悶の顔」に向ける。
「その顔は、アッシュが日本からわざわざ取り寄せた職人に描かせた、精巧なトリックアートです」
「……はい?」
紫龍の怒りが空回りする。トリックアート?騙し絵?
「見る角度によって表情が変わる特殊塗料を使っています。さらに、床面の凹凸を計算して描かれているため、どこから見ても目が合っているように錯覚するのです。美術館などでよくあるでしょう?『飛び出して見える絵』とか、そういう類のアトラクションです」
エレナは淡々と解説する。まるで内覧会のガイドだ。
「材質は最新の強化コンクリートに、イタリア製の漆喰を混ぜています。施工費だけで予算の3割を持っていかれました。なかなか値が張るものですので、戦いで壊さないでくださいね?修理費がかさみますから」
「「「「…………」」」」
紫龍、瞬、氷河、一輝。四人の青銅聖闘士は、完全に沈黙する。言葉が出ない。さっきまでの恐怖と怒りは何だったのか。紫龍は、自分が踏まないように気をつけていた床の顔を、恐る恐るもう一度見る。よく見ると、確かに絵だ。すごいリアルな絵だ。でも、霊気は感じない。ただの塗料の匂いがする。
巨蟹宮に、戦場にあるまじき微妙な空気が流れる。壁の死に顔が、急にただのオシャレな(?)インテリアに見えてきた。「無印良品」ならぬ「無念良品」みたいなコンセプトショップの内装に見えなくもない。
「お、おいエレナ!なんでバラしやがる!今いいところだっただろうが!」
デスマスクが抗議する。彼は必死だ。せっかく作り上げた「恐怖の館」という設定が、たった一言で「金のかかったお化け屋敷」に格下げされてしまったのだから。
「俺の『恐怖の支配者』としてのブランディングが台無しだ!敵がビビり上がってこそ、俺の積尸気冥界波が映えるんだろうが!」
「嘘はいけません。貴方もその『露悪趣味』は辞めなさいと言ったでしょう」
エレナはタブレットを操作しながら、顔も上げずに答える。
「お客様(侵入者)に対して失礼です。それに、死体をコレクションしているなどというデマが流布すれば、聖域の対外的なイメージダウンに繋がります。コンプライアンス的に問題です」
「コンプライアンスだぁ!?俺たちは聖闘士だぞ!悪党を殺して何が悪い!」
「殺すのは結構ですが、それを壁紙にするのは趣味が悪すぎます。アッシュも言っていましたよ。『デスマスクの部屋、なんか落ち着かないんだよな。目が合うし』と」
「それがいいんじゃねぇか!俺のは趣味じゃねぇ、戦略だ!」
デスマスクが地団駄を踏む。彼は彼なりに真剣なのだ。
「敵をビビらせて精神的に追い詰める!つまりデバフだ!恐怖で動きが鈍ったところを狩る!これぞ高度な心理戦だ!アッシュだって『合理的だ』って褒めてくれたぞ!」
「アッシュは貴方の機嫌を損ねないように適当に相槌を打っただけです。真に受けないでください」
バッサリ。デスマスクの心が折れる音が聞こえた気がする。彼はガックリと肩を落とす。黄金聖闘士としての威厳が、音を立てて崩れ去っていく。
氷河が、小さくため息をつく。
「……なんだか、拍子抜けだな」
一輝も腕を組み、呆れたように鼻を鳴らす。
「フン、くだらん。壁の絵如きに動揺した俺たちが馬鹿みたいだ」
瞬だけが、まだ少し怯えている。
「で、でも、すごくリアルだよ……。夜中にトイレに行く時とか、怖くないのかな」
「慣れればどうということはありません。むしろ防犯対策には最適です」
エレナは事もなげに言う。彼女のメンタルはダイヤモンドよりも硬いらしい。
「……さて、坊やたち」
エレナはデスマスクの抗議を完全にスルーし、くるりと踵を返す。彼女は青銅聖闘士たちに向き直る。眼鏡の奥の瞳が、スッと細められる。そこにあるのは、事務的な冷たさと、確かな強者の光だ。
「久しぶりですね。パライストラ以来ですか。皆さん、背が伸びましたか?」
世間話のような口調だが、彼女から放たれる小宇宙は、冗談ではないレベルで練り上げられている。彼女は事務員ではない。れっきとした白銀聖闘士であり、しかも「教皇の影」と呼ばれる実力者だ。
紫龍が警戒心を強める。デスマスクという道化(ピエロ)の横に現れた、この冷静な女性こそが、真の脅威かもしれないと直感する。
「エレナさん……。貴女まで、僕たちの邪魔をするのですか?」
瞬が悲しげに問う。エレナはフッと微笑む。優しい微笑みではない。「未払い金を回収に来た徴収員」のような、逃げ場のない微笑みだ。
「邪魔?人聞きが悪いですね。私は管理しているだけです」
エレナはタブレットを閉じる。パタン、という音が響く。
「この巨蟹宮は、聖域防衛の要所。そしてデスマスクは、アッシュの大切な部下。貴方達に壊されるわけにはいきません」
「おもちゃ扱いかよ!」とデスマスクがツッコミを入れるが、無視される。
「ここを通るなら、入場料を払っていただきます。……通貨は『命』ですが、よろしいですね?」
エレナの背後に、銀色の祭壇(アルター)の幻影が浮かび上がる。デスマスクもまた、気を取り直してニヤリと笑う。ネタバレされたとはいえ、彼が黄金聖闘士である事実に変わりはない。そして、このコンビは意外と相性がいい。「暴走する悪役」と「それを管理する冷徹な補佐役」ある意味、最強の布陣だ。
紫龍は拳を握りしめる。トリックアートだろうが何だろうが、敵は敵だ。そして、制限時間は刻一刻と迫っている。
「行くぞ、みんな!この悪趣味な部屋を突破する!」
「おう!」
◆
「チッ……まあいい。ネタバレちまったもんは仕方ねぇ」
彼は気を取り直すように、髪をかき上げる。彼は、目の前に立つ四人の青銅聖闘士たちを見回す。
「よう、紫龍!貴様も少しは成長したか?ククク。まさかまた『聖衣を脱げば強くなる』なんていう露出狂戦法で来るつもりじゃあねぇだろうな?」
デスマスクが挑発する。 紫龍の眉がピクリと動く。
「愚弄するか、デスマスク。俺は露出狂ではない。脱衣はあくまで小宇宙を高めるための最終手段だ」
大真面目に返す紫龍。この男、冗談が通じない。そこへエレナが、事務的に口を挟む。
「氷河、一輝。貴方たち二人は通りなさい」
その言葉に、全員の動きが止まる。
「何?」
氷河が怪訝な顔をする。彼は、常にクールを装っているが、こういう予想外の展開には弱い。一輝もまた、腕組みをしたまま眉をひそめる。
「俺たちを見逃すと言うのか?罠か?」
タダより高いものはないと知っている顔だ。しかし、エレナは眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、淡々と説明する。
「罠ではありません。業務効率化です」
彼女は宮の狭さを手で示す。
「見ての通り、この巨蟹宮は内装にこだわりすぎたせいで、戦闘スペースが非常に狭いのです。ここで六人が入り乱れて戦えば、自慢のトリックアートが破損する恐れがあります。修理費の見積もりだけで頭が痛くなる」
「そ、そんな理由で……?」
氷河が絶句する。聖域の戦いが、まさか予算の都合で左右されるとは。
デスマスクがニヤリと笑う。
「勘違いすんな。エレナの言う通りだ。ここは狭いからな。『タイマン』させてやるって言ってるんだよ!さっさと通りな!お前らの相手はこの先の宮で、順番待ちしてる奴らがいるんだよ」
彼は親指で出口を指差す。
「それとも何か?四人がかりじゃないと黄金聖闘士様には勝てないとでも言うのか?ああン?」
安い挑発だ。しかし、これに乗らない聖闘士ではない。特に一輝のようなプライドの高い男には効果てきめんだ。
「……フン、いいだろう。安っぽい挑発だが、先を急ぐ俺たちには好都合だ」
一輝が歩き出す。彼はデスマスクの横を通り過ぎる際、一切視線を合わせない。興味がないのだ。
「死にたがりは勝手にしろ」というスタンスだ。氷河もそれに続く。
「紫龍、瞬。無理はするなよ。何かあればすぐに戻る」
氷河は少し心配そうに二人を見るが、今の状況で全員がここに留まるのは得策ではないと判断する。アテナの命のタイムリミット(残り10時間45分)は、あのLEDディスプレイによって秒単位で可視化されているのだから。
紫龍が頷く。
「……いいだろう。行ってくれ」
彼は一歩前に出る。その背中には、覚悟という名のオーラが漂っている。
「デスマスク、貴様とは一度決着をつけねばならないと思っていた!パライストラでの借りを返す時だ!」
紫龍の小宇宙が高まる。
「ならば……俺と」
紫龍が名乗りを上げようとした、その時だ。
「僕が残ります」
柔らかい、しかし芯の通った声が割って入る。瞬だ。彼は紫龍の横に並び、敵意のない瞳でデスマスクとエレナを見据える。
「瞬?」
紫龍が驚く。
「何を言う。先に行け。ここは俺一人で十分だ」
「いいえ、紫龍。君一人にはさせない」
瞬は首を横に振る。彼の視線は、デスマスクではなく、その隣に立つ女性、エレナに注がれている。
「この女性……ただの補佐官じゃない。凄まじい小宇宙を感じるんです」
瞬の直感が警鐘を鳴らしている。デスマスクの禍々しい小宇宙の影に隠れているが、エレナから放たれる気配は、静寂にして深淵。底が見えない。
「もし紫龍がデスマスクと戦っている間に、彼女が動いたら……紫龍は背中を刺される。だから、僕が彼女を抑えます」
瞬の分析は正しい。これは一対一の決闘ではない。二対二のタッグマッチだ。
紫龍は少し考え、そして納得したように頷く。
「……わかった。瞬の目は確かだ。ならば、背中は任せる」
「はい!」
二人の間に信頼の絆が結ばれる。それを見た一輝が、背中越しに声をかける。
「フン、死ぬなよ、瞬」
「兄さんも」
短いやり取り。それが彼らの兄弟愛の全てだ。氷河が「必ず追いつけよ!」と言い残し、一輝と共に宮の奥へと駆け抜けていく。
デスマスクとエレナは、それを追おうともしない。デスマスクはあくびを噛み殺し、エレナはタブレットのスケジュール表を確認している。
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。巨蟹宮には、四人の聖闘士だけが残される。静寂。壁のトリックアートの顔たちが、心なしかニヤニヤと笑っているように見える。
「さて、各個撃破の準備は整ったわけだ」
デスマスクが、ポキポキと指の関節を鳴らす。
「俺たちがわざわざ二人でいたのは、本来なら最強の敵……アイオロスの相手をしなくちゃならんからだが……」
彼は肩をすくめる。
「まさか、ムウの野郎があっさり負けるとはな。予定が狂っちまったぜ」
「予定変更は現場の常です」
エレナがタブレットをしまい、眼鏡を外す。それを胸ポケットに丁寧にしまう。その動作が合図だ。彼女の雰囲気が一変する。できる事務官の顔から、冷徹な処刑人の顔へ。
「相手が子供でも容赦はしません。これも聖域を守るため。残業手当は請求しませんので、サクッと終わらせましょう」
彼女の言葉には、慈悲の欠片もない。あるのは、業務遂行の意志のみ。
「貴方たちには、確実に死んでもらいます。……物理的ではなく、霊的にね」
エレナが両手を広げる。その背後に、銀色の祭壇の幻影が浮かび上がる。それは神に生贄を捧げるための台座。魂を刈り取るための祭具だ。
紫龍が構える。
「来るぞ、瞬!」
「はい!ネビュラチェーン!」
瞬の両腕に巻かれた鎖が、生き物のように鎌首をもたげる。ネビュラチェーンが、敵の殺気に反応してジリジリと鳴る。円陣防御を展開し、紫龍の足元を守る。
デスマスクが、不敵に笑う。
「カッカッカ!いいねぇ、その必死な顔!壁のコレクションに加えるのが楽しみだぜ!」
彼の全身から、赤紫色の小宇宙が立ち上る。それは腐った死体の色ではなく、冥界の入り口に燃える鬼火の色だ。
「行くぜ、エレナ!俺たちの愛の共同作業と行こうじゃねぇか!」
「気持ち悪いことを言わないでください。……合わせますよ」
エレナの全身からも、漆黒に近い、しかし星空のように美しい小宇宙が噴き上がる。光と闇。陽気な殺人鬼と、冷淡な管理者。正反対の二人の小宇宙が、巨蟹宮の中空で混ざり合う。
空間が歪む。トリックアートの壁が、ぐにゃりと曲がる。遠近感が狂う。床が波打つ。これは幻覚ではない。現世と冥界の境界線が、強制的に曖昧にされているのだ。かつて黄金聖闘士の座を争った候補生同士であり、今は上司と部下(あるいはライバル)である二人だからこそなせる、完璧なユニゾン。小宇宙の波長が、完全に同期している。
紫龍が冷や汗を流す。
「な、なんだこのプレッシャーは……!デスマスク一人でも厄介なのに、彼女の小宇宙が加わることで、冥界への扉が無理やりこじ開けられようとしている!」
「鎖が……震えてる……!?」
瞬が驚愕する。ネビュラチェーンが、敵の攻撃方向を特定できずに混乱している。前後左右、上下、あらゆる方向から「死」の匂いがするからだ。
デスマスクが右手を高く掲げる。人差し指一本を天井に突き刺すポーズ。
「地獄への片道切符だ!特急券だぜ、ありがたく受け取りな!」
エレナもまた、優雅に左手を掲げる。指揮者がタクトを振るような、洗練された動作。
「魂ごと消えなさい!返品不可の旅路へご案内します」
二人の声が重なる。ハモリすら完璧だ。もはやこれは技ではない。死の二重奏だ。
「「積尸気冥界波!!!」」
ドォォォォォォン……!!!
音が消える。衝撃波ではない。爆発でもない。ただ、世界の色が反転するような、強烈な「吸引力」が発生する。紫龍と瞬の肉体が吹き飛ばされるのではない。肉体はその場に留まったまま、その内側にある「本質」だけが、強引に引っ張り出される。
「うわああああーーっ!!」
紫龍の絶叫。瞬の悲鳴。
二人の目から光が消える。半透明の青白い人魂のようなものが、二人の口元からずるりと抜け出す。魂だ。
巨蟹宮の天井に、ぽっかりと黒い穴が開いている。冥界へと続く穴(黄泉比良坂への入り口)だ。そこからは、亡者たちの呻き声が聞こえてくる。 ヒュオオオオ……。
「紫龍ーーっ!」
瞬の魂が叫ぶ。
「瞬!手を離すな!」
紫龍の魂が叫ぶ。だが、魂に手はない。二人の意識は、急速に遠ざかる現世の風景を最後に見る。倒れ伏す自分たちの肉体。そして、それを見下ろしてニヤニヤ笑うデスマスクと、冷ややかに見つめるエレナの姿。
シュポッ。
軽い音がして、二人の魂は黒い穴へと吸い込まれた。穴が閉じる。巨蟹宮には、再び静寂が戻る。残されたのは、魂の抜け殻となった紫龍と瞬の肉体のみ。彼らは糸の切れた人形のように、床に崩れ落ちる。
◆
「し、しまった……!ここは……!」
紫龍が叫ぶ。彼の魂は、なぜか慣れた様子で受身を取ろうとしている。リピーターの余裕というやつだ。彼は以前にもここに来たことがある。なぜなら、パライストラの演習でデスマスクに落とされたからだ。言ってみれば、黄泉比良坂は彼の「庭」みたいなものだ。
「瞬!落ち着くんだ!ここは黄泉比良坂!死の国の入り口だ!」
紫龍が、パニックになりかけている瞬に声をかける。
「し、死の国!?嫌だよ紫龍!僕、まだやり残したことがいっぱいあるよ!撮り溜めたドラマも見てないし、兄さんに借りたゲームもクリアしてない!」
瞬が涙目で叫ぶ。魂になっても、彼の悩みは等身大だ。二人の体はフワフワと浮きながら、しかし確実に巨大な穴――冥界への入り口へと吸い寄せられている。その穴からは、ヒュオオオオという風の音が聞こえる。それは亡者たちの嘆きであり、決して逃れられない死の重力だ。
「紫龍!手を離さないで!」
瞬が必死に紫龍の手を掴む。魂同士の接触。冷たい。でも、確かな仲間の感触がある。
「ああ!離すものか!だが、まずいぞ瞬!あの穴に落ちたら最後、二度と戻れない!俺の経験則がそう告げている!」
紫龍が焦る。前回の経験があるとはいえ、今回は状況が違う。前回はデスマスク一人だったが、今回はエレナという強力な管理者がついている。彼女の小宇宙は、システム的に「返品不可」の処理を完璧に行っているのだ。
頭上を見る。遥か彼方に、小さな光の点が見える。あれが巨蟹宮への出口だ。現世への扉だ。しかし、その光は急速に小さくなっている。自動ドアが閉まるように、次元の穴が収縮を始めているのだ。
「閉じる……!出口が閉じてしまう!」
紫龍が絶望的な声を上げる。さすがの彼も、空を飛ぶことはできない。このままでは、あと数秒でゲームオーバーだ。冥界行き決定。閻魔帳に名前が載ってしまう。
その時だ。瞬の腕。魂の状態でも具現化している、アンドロメダの聖衣。その両腕に巻かれた星雲鎖(ネビュラチェーン)が、カッと輝きを放つ。
「……そうだ。鎖なら……!」
瞬が顔を上げる。彼の瞳から、恐怖が消える。あるのは、生き残るための、そして仲間を救うための強い意志。
「ネビュラチェーンは、敵を探知するだけじゃない。空間さえも超える無限の長さを持っているんだ!」
瞬が叫ぶ。彼は右腕を高く掲げる。狙うは一点。遥か頭上、消え入りそうな現世への光。
「行って!ネビュラチェーン!!」
シュルルルルルッ!!
鎖が伸びる。物理法則を無視したスピードで。獲物を狙う蛇のように、あるいは天に昇る龍のように。重力に逆らい、次元の壁を突き破り、光の彼方へと突き進む。
「届け……!僕たちの、生きたいという願いと共に!」
瞬の小宇宙が爆発する。鎖の先端が、次元の穴の隙間に滑り込む。ギリギリだ。あとコンマ一秒遅ければ、穴は閉じていただろう。鎖は光の中へと消え、その先にある「何か」を求めて疾走する。
場面は変わる。現世、巨蟹宮。壁一面の「死に顔トリックアート」が、薄暗い照明の中で不気味に浮かび上がっている。床には、魂を抜かれた紫龍と瞬の肉体が、糸の切れた人形のように転がっている。
その横で、デスマスクとエレナが、一仕事終えたサラリーマンのようにくつろいでいる。
「ふぅ……。やれやれ、手間かけさせやがって」
デスマスクが、肩を回しながら息を吐く。彼は紫龍の体を爪先でツンツンとつつく。
「ま、これで終わりだ。あいつら今頃、黄泉比良坂でハイキングでもしてる頃だろうよ。地獄の一丁目で迷子になってな」
「油断は禁物ですよ、デスマスク」
エレナが、タブレット端末で何やらデータを入力しながら釘を刺す。彼女は倒れている瞬の体の脈を測り、生存反応が低下していることを確認する。事務的だ。あまりにも事務的な「殺害確認」作業だ。
「魂の連結を絶ちました。肉体の機能停止まで、あと数分。これで完全に『処理済み』ファイルに移動できます。巨蟹宮の防衛任務、完了ですね」
「おうよ。へっ、アッシュ師範にボーナス弾んでもらわねぇとな。残業手当も込みでよ」
デスマスクがニヤリと笑う。彼は腕組みをして、壁のトリックアートを見上げる。
「しっかし、この絵もよく見ると味があるな。俺の芸術的センスが理解できるのは、世界広しといえど……」
彼が自己陶酔に浸ろうとした、その瞬間だった。
ズズズズズッ……!
空間が震える。地震ではない。もっと局地的な、空間の歪みによる振動だ。
「あぁ!?」
デスマスクが眉をひそめる。何だ?音の発生源は、天井付近。先ほどまで開いていた、冥界への穴があった場所だ。もう閉じたはずのその場所から、何かが飛び出してくる気配がする。
「まさか……」
エレナがタブレットから顔を上げる。彼女の冷静な瞳が、初めて驚愕に見開かれる。
シュパァァァン!!
破裂音と共に、空間が裂ける。そこから飛び出してきたのは、一本の銀色の鎖だ。星雲鎖。それが、まるで意思を持った生き物のように、空中で鎌首をもたげる。
「なっ、鎖だと!?」
デスマスクが反応するよりも早く、鎖が動く。標的は、この場で最も小宇宙が強い存在。 つまり、デスマスクだ。
ガシィッ!!
「ぬおっ!?」
鎖の先端が、デスマスクの右腕に巻き付く。黄金聖衣のアームガードの上から、食い込むほどの強さで。それは攻撃ではない。「掴む」という動作だ。
「な、なんだこの鎖は!離れろッ!」
デスマスクが腕を振る。だが、鎖は離れない。それどころか、鎖の向こう側――次元の彼方から、強烈な「引力」が発生する。
グググッ……!
「お、おい!引っ張ってやがる!なんだこれ!?」
デスマスクの体が、前のめりになる。黄金聖闘士のパワーを持ってしても、抗えないほどの重み。それは物理的な重量ではない。二人の人間の、魂の重みだ。
エレナが息を呑む。彼女は瞬時に状況を理解する。理解したくないが、理解せざるを得ない。
「まさか……次元の彼方から、現世にアンカーを打ったのですか!?」
あり得ない。黄泉比良坂に落ちた魂が、現世に干渉するなど。物理法則も、霊的法則も無視した暴挙だ。だが、目の前で起きている事実は覆せない。あの少年、アンドロメダの瞬は、消えゆく次元の裂け目から鎖を放ち、たまたまそこにいたデスマスクを「杭」代わりにして、這い上がろうとしているのだ。
「ふざけんな!俺は手すりじゃねぇぞ!」
デスマスクが叫ぶ。しかし、鎖はさらに強く引かれる。ズズズズズッ!空間がきしむ音。 鎖が収縮する。巻き取られるワイヤーのように、黄泉比良坂にいる二人の魂を、強引にこちら側へと手繰り寄せる。
床に転がっていた紫龍と瞬の肉体が、ビクリと痙攣する。魂が近づいている証拠だ。肉体と魂が、見えないゴム紐で繋がれ、パチンと弾けるように引き合う。
カッ!!
閃光が走る。天井の空間の裂け目から、二つの光の玉が飛び出す。それは紫龍と瞬の肉体へと吸い込まれ、融合する。
ドスン!
着地の音。紫龍と瞬が、床に膝をつく。彼らは激しく咳き込みながら、しかし力強く顔を上げる。生きている。目には光が宿り、肌には血の気が戻っている。地獄の底から、生還したのだ。
「はぁ、はぁ……。危ないところでした……」
瞬が、荒い息を吐きながら鎖を回収する。デスマスクの腕から鎖がするりと解ける。彼は額の汗を拭う。本当にギリギリだった。あと少し鎖が短ければ、あるいはデスマスクがそこにいなければ、彼らは今頃、亡者の列に並んでいただろう。
「瞬、助かったぞ。お前の鎖がなければ、俺はまたあそこで永住するところだった」
紫龍が立ち上がり、瞬の肩を叩く。彼はタフだ。魂の離脱と帰還という、人体に多大な負荷のかかるプロセスを経ても、すぐに戦闘態勢に入れるメンタルを持っている。
「礼は後だ、紫龍。……まだ、終わってない」
瞬が視線を前に向ける。そこには、呆気にとられているデスマスクと、不機嫌そうに眼鏡を直すエレナがいる。
瞬は鎖を構え直す。ジャララ……という音が、巨蟹宮に響く。彼の表情は、先ほどまでの優しげなものではない。静かな、しかしマグマのように熱い怒りが込められている。
「僕たちを……あまり舐めないでくださいね」
瞬の言葉。それは、彼なりの宣戦布告だ。子供だと思って、甘く見ていたことへのしっぺ返し。黄泉比良坂への追放という、卑劣な手段に対する抗議。
デスマスクの顔から、驚きが消える。代わりに浮かぶのは、どす黒い怒りだ。黄金聖闘士である自分が、利用された。ただの足場として、手すりとして、小僧共に利用された。 その屈辱が、彼のプライドを逆撫でする。
「へっ、生意気な口をきくじゃねぇか!」
デスマスクが、腕に残る鎖の感触を振り払うように、力任せに空気を掴む。ギリギリと拳が鳴る。
「せっかく楽に死なせてやろうと思ったのによぉ!わざわざ地獄から舞い戻ってくるとは、そんなに俺に殺されたいか!ああン!?」
彼の全身から、再び紫色の小宇宙が噴き出す。今度は手加減なしだ。確実に、物理的に、肉体をミンチにしてやるという殺意が漲っている。
エレナもまた、ため息をつく。彼女はタブレットをしまい、再び戦闘態勢に入る。予定外の残業だ。スケジュールが狂う。それが何より許せない。
「……しぶといですね。ゴキブリ並みの生命力ですか」
彼女の口調は冷たい。侮蔑の色が濃くなる。
「ですが、次は戻ってこられませんよ?もう二度と、次元の穴など開かせません。この場で、魂ごとすり潰して差し上げます」
「上等です!!」
紫龍が吼える。
「デスマスク!貴様のその腐った性根、俺の拳で叩き直してやる!覚悟しろ!」
「ククク、やってみろよ!返り討ちにして、その顔の皮を剥いでコレクションに加えてやるぜ!」
エレナが、祭壇座の聖衣から黒い炎のような小宇宙を立ち昇らせる。それは「積尸気」のエネルギーを攻撃力に転化した、暗黒の炎だ。デスマスクもまた、凶悪な笑みを浮かべて構えを取る。カニの鋏のように両手を掲げる、独特のポーズ。
巨蟹宮の空気が、再び張り詰める。一度は死んだ者たちが蘇り、再び死を司る者たちに挑む。これ以上の皮肉で、これ以上のドラマはない。
上空のLEDモニターが、無情に時を刻む。
【REMAINING TIME 10:30:00】
星矢「お、おーい沙織さん……今回の巨蟹宮、なんか……もっとこう……怖いやつじゃなかったっけ……?」
沙織「いや最高だったでしょ……!!デスマスクの施工費が高いんだよ!のところで声出して笑ったわ……!」
星矢「笑うとこだったの!?あれ!?巨蟹宮ってもっとこう、魂を抜かれて……」
沙織「それよ!魂抜かれるのにトリックアート使うのおしゃれすぎ!!死のインテリアって概念天才かよ!!!」
星矢「インテリアなの!?あれ!!?」
沙織「あとエレナさんのコンプライアンス的に問題です!!なんで十二宮でその言葉が飛び交うの!?最高!!」
星矢「沙織さんの最高の基準がよくわかんないんだよなぁ……」
沙織「でも一番エモいのは--瞬がデスマスクを手すり扱いしたところね!!!」
星矢「いやそれは……確かに俺も笑っちゃったけど……相手黄金聖闘士だよ!??」
沙織「そうなの!!そこが最高なの!!黄金を手すりにする青銅っていう圧倒的精神力!!!あれはもう、推しの奇跡演出 SSR演出!!」
星矢「なんかもう……沙織さんの頭の中、アンドロメダの鎖が常に光ってない?」
沙織「うん。今日ずっと光ってる♡」