聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜   作:斉宮 柴野

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神に最も近い男、乙女座シャカ。
その思想、格、技、そして全知の目。

青銅四人は倒れ、一輝も吹き飛ばされ……
絶望の処女宮。

だが——

優しさが神を落とす。

次回『天上天下唯我独尊、および物理的退場』
お楽しみに。


天上天下唯我独尊、および物理的退場

『REMAININGTIME09:00:00』

 

シャカは、蓮華座の上から一歩も動かない。ただ両目を開き、そこに座っているだけで、四人の青銅聖闘士を地面に縫い付けている。重力波とも、サイコキネシスとも違う、純粋な「格」による制圧。紫龍、氷河、瞬、一輝。彼らは床に這いつくばり、指一本動かすことができない。汗が頬を伝い、冷たい大理石の床に落ちる。

 

「くっ……うぅ……!」

 

紫龍が、歯を食いしばって顔を上げる。首の骨がきしむ音がする。それでも彼は、目の前の「神に近い男」を睨みつける。納得がいかないのだ。圧倒的な力の差にではない。その力が、「なぜそちら側にあるのか」という事実にだ。

 

「シャカ……!答えろ!なぜだ!」

 

紫龍の叫びが、処女宮の高い天井に反響する。

 

「『最も神に近い男』と呼ばれるお前が、なぜアッシュたちの行う聖域改革という名の冒涜に……邪悪に組みする!アテナを見捨て、人間のシステムを選ぶなど、聖闘士の道に反するとは思わないのか!」

 

紫龍の問いかけは、悲痛だ。彼はパライストラで学んだ「聖闘士の規範」を信じている。正義はアテナにあり、悪はアテナに仇なす者であると。その単純明快な図式が、ここでは通用しない。

 

シャカは、ふっと鼻で笑う。その両目は見開かれたままだ。宇宙の深淵を湛えた瑠璃色の瞳が、紫龍の葛藤を冷ややかに見下ろす。

 

「邪悪、か……」

 

シャカの声は、感情を排したスピーカーの音声のようにクリアだ。

 

「紫龍よ、善悪とは絶対的なものではない。それは立場によって変わり、時代によって流転する、あやふやな概念だ」

 

シャカは指先を動かす。それだけで、紫龍にかかる重圧が少しだけ増す。

 

「善悪は双方のもとにあるのだ。正義もまた然り。私がその目で見る限り、サガやアッシュの行いは『正義』だ。彼らは民を飢えから救い、聖域に秩序をもたらし、無駄な血が流れるのを防いでいる。彼らの統治下で、聖域周辺の経済効果は昨年比150%で成長している。これは紛れもない事実だ」

 

「数字の問題ではない!」

 

氷河が叫ぶ。彼もまた、床に伏せながら反論する。

 

「詭弁だ!正義とは普遍なものだ!経済がどうとか、効率がどうとか、そんなものは商人の理屈だ!アテナに従い、愛と平和を守ることこそが、聖闘士の唯一無二の正義のはず!」

 

「普遍?……ふふ、面白いことを言う」

 

シャカは、氷河に視線を移す。その視線だけで、氷河の周囲の温度が数度下がる気がする。

 

「ならば氷河、問おう」

 

シャカは淡々と、しかし鋭利な刃物のような事実を突きつける。

 

「お前の師、カミュもアッシュ側についているようだが……お前は師をも『邪悪』と断ずるのか?」

 

「なっ……!」

 

氷河が言葉に詰まる。痛いところを突かれた。師であるカミュは、氷河にとって絶対的な存在だ。そのカミュが、今回の反乱に加担しているという情報は、氷河も薄々感づいていたが、直視するのを避けていた事実だ。

 

「わ、我が師カミュであれば、話せば分かってくれるはずだ!彼はクールだが、誰よりも熱い正義の心を持っている!」

 

「フッ、甘いな」

 

シャカが一蹴する。

 

「『自分の知っているあの人はいい人だから、悪の側につくはずがない』……それはただの願望だ、氷河。自らが奉じる神に従わない者はすべて邪悪と決めつけ、思考を放棄する。これは随分な盲信だな」

 

シャカは、憐れむような目で四人を見る。

 

「パライストラで『宗教戦争の歴史』について習わなかったか?人類史において、最も多くの血が流れたのは、悪人が暴れた時ではない。『正義と正義が衝突した時』こそが、最も悲惨で、終わりのない争いを生むのだと」

 

シャカの口調が、教師のそれになる。諭すような、しかし単位を落とす生徒を見るような冷たさ。

 

「私がそのあたりのカリキュラムを組んだはずだが……君たちは授業を聞いていなかったのかね?それとも、睡眠学習でもしていたのかな?」

 

「……なんだと?」

 

一輝が顔を上げる。彼の眉間に、深いシワが刻まれる。

 

「あの退屈な座学の……眠気を誘うお経のような教科書を作ったのは、貴様か……!」

 

一輝が歯噛みする。パライストラでの忌まわしい記憶が蘇る。午後の第五時限目。『聖闘士倫理学』や『比較神話学』といった、眠気との戦いを強いられる講義。そのテキストの監修者名に、確かに『S.Virgo』という記載があったことを思い出す。あれは、この男だったのか。

 

「お前のおかげで、俺の赤点が増えたんだぞ……!」

 

一輝の怒りの方向性が少しズレているが、シャカは意に介さない。

 

「……だが、これは人間の戦争とは違う!アテナと人間では格が違う!神の正義は絶対だ!」

 

一輝が吠える。彼なりの理屈だ。人間同士なら正義は相対的かもしれないが、神が絡めば話は別だという主張。

 

「同じことだ」

 

シャカは断言する。

 

「神を絶対視し、他者の価値観を認めぬ狭量さ……それこそが争いの火種よ。アテナが絶対だと信じる君たちと、システムこそが最善だと信じる我々。どちらも譲らぬなら、力で決めるしかない。……だが」

 

シャカの小宇宙が、さらに膨れ上がる。黄金の光が、処女宮の白壁を染め上げる。

 

「議論は終わりだ。君たちの偏差値では、私の講義についてこれないようだ」

 

シャカが、ゆっくりと両手を合わせる。印を結ぶ。それは、講義の終了を告げるチャイムではない。落第生への退学処分の通告だ。

 

「消えなさい」

 

無慈悲な宣告。

 

「天魔降伏!!」

 

ドゴォォォォン!!

 

黄金の光が炸裂する。それは物理的な爆風となって、四人の体を襲う。床に縫い付けられていた彼らは、その拘束ごと吹き飛ばされる。

 

「ぐああああああーーッ!!」

 

紫龍、氷河、瞬の三人が、ボールのように弾き飛ばされる。彼らは処女宮の壁に激突し、そのまま床に転がり、動かなくなる。気絶。あるいは、戦闘不能。シャカの一撃は、的確に彼らの急所を捉え、意識を刈り取ったのだ。

 

土煙が舞う。静寂が戻るかと思われた処女宮。だが、そこに一つの影が残る。

 

「ぐっ……!ぬぅぅ……!」

 

一輝だ。彼は膝をつき、両手で床を支えながら、耐えている。全身から血を流し、聖衣は砕け散っているが、その瞳の炎だけは消えていない。

 

「ほう……」

 

シャカが、わずかに眉を動かす。他の三人が一撃で沈む中、この男だけは耐え切った。鳳凰星座の耐久力。あるいは、地獄を見てきた男の精神的なタフネスか。

 

「みんな!……くそっ、先に行けと言っただろうが!」

 

一輝が、倒れている弟や仲間たちを見て叫ぶ。彼らは答えない。完全に沈黙している。

 

「フッ、行かせるとでも思うか?雑魚は寝ていろ。それが彼らにとっての慈悲だ」

 

シャカは冷淡に言い放つ。彼は、一輝に向き直る。他の三人はもう、彼の視界には入っていない。脅威ではないと判断したからだ。

 

「さて、一輝。君はどうする?おとなしく彼らの横で眠るか?それとも、無駄な抵抗を続けるか?」

 

「寝言はあの世で言え!」

 

一輝が立ち上がる。ふらつきながらも、その足取りは力強い。彼の背後から、炎の翼が立ち昇る。傷つけば傷つくほど、燃え上がる小宇宙。

 

「鳳翼天翔ーーッ!!」

 

一輝が叫ぶ。炎の翼を広げ、シャカに向かって突撃する。直線的で、殺意に満ちた特攻。今の彼に残された、全力の一撃だ。

 

だが、シャカは動じない。彼は座ったまま、片手を軽く上げる。まるで、飛んできた虫を払うような動作。

 

「ぬるい」

 

シャカが呟く。彼の手のひらが、一輝の炎を受け止める。いや、受け止めるまでもない。黄金の小宇宙が壁となり、炎を霧散させる。

 

シュゥゥゥ……。

 

一輝の必殺技が、風に吹かれた蝋燭のように消える。熱気さえ届かない。

 

「この程度、このシャカにとっては涼風にすぎん。エアコンの設定温度を一度下げたくらいのものだ」

 

「なにっ!?」

 

一輝が驚愕する。自分の最大奥義が、片手であしらわれた。これが「神に近い男」の実力。次元が違う。

 

「君は熱すぎる。少し頭を冷やすといい」

 

シャカの手のひらから、異質な小宇宙が放たれる。それは熱気でも冷気でもない。次元の歪みだ。

 

「君のような修羅の如き男には、ふさわしい地獄がある。観光案内をしてやろう」

 

シャカの背景が歪む。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天。六つの世界が、走馬灯のように回転する。

 

「落ちろ、六つの冥界へ!六道輪廻!!」

 

ドヒュゥゥゥン!!

 

一輝の足元の床が消える。物理的に穴が開いたのではない。彼の精神が、肉体から切り離され、強制的に異次元へと放り出されるのだ。一輝の体が硬直し、白目を剥く。魂が、六道の世界を巡る旅に出る。地獄で焼かれ、餓鬼に喰われ、修羅と殺し合う。永遠に続く苦しみの輪廻。通常の精神力なら、数秒で崩壊し、廃人となる攻撃だ。

 

シャカは、腕を下ろす。これで終わりだ。そう確信して、目を閉じようとする。

 

しかし。

 

カッ!!

 

一輝の体が、発火する。物理的な炎が、彼の肉体を包み込む。そして、白目を剥いていた瞳に、正気の色が戻る。

 

「……はぁっ!はぁっ!」

 

一輝が、大きく息を吸い込む。戻ってきた。地獄の底から、わずか数秒で。

 

ボロボロだった聖衣が、炎の中で再生していく。ヒビが埋まり、欠けたパーツが修復される。自己修復能力。聖闘士の中でも唯一、鳳凰星座の聖衣だけが持つ特性だ。

 

「ほう……」

 

シャカが、感嘆の声を漏らす。目を見開いたまま、興味深そうに一輝を観察する。

 

「戻ってきたか。君が落ちそうなのは修羅界か地獄界だと思ったが……地獄の鬼たちも、君の扱いに困って追い返したか?」

 

「はんっ……!」

 

一輝が、口元の血を拭う。不敵な笑みを浮かべる。

 

「あいにくだが、地獄は定員オーバーだったようだぜ。それに、俺はフェニックス!地獄の炎の中から、何度でも蘇る!」

 

一輝の小宇宙が、先ほどよりも強くなっている。死の淵から蘇るたびに強くなる。サイヤ人のような特性を持つ男だ。

 

「そして貴様を倒す!どんな神だろうと、俺の翼をもぐことはできん!」

 

一輝が再び構える。あきらめない。その執念深さは、シャカにとって計算外の要素だ。

 

「……面倒だな」

 

シャカが、本音を漏らす。物理的に倒しても再生する。精神的に落としても帰ってくる。倒す手順が多すぎて、効率が悪い。アッシュ参謀長なら「コストに見合わない敵」に認定するだろう。

 

「ならば、蘇る気力すら奪おう。再生する意志そのものを、根こそぎ刈り取る」

 

シャカが、両手を広げる。その背後に、巨大な曼荼羅の紋様が浮かび上がる。処女宮の景色が一変する。壁も床も消え、宇宙空間に極彩色の仏画が描かれたような、異様な空間が出現する。

 

「天舞宝輪!!」

 

シャカが宣言する。攻防一体の戦陣。この空間においては、シャカこそが絶対的なルールであり、世界の支配者となる。敵は攻撃することも、防御することもできない。ただ、まな板の上の鯉のように、料理されるのを待つのみ。

 

一輝の体が、金縛りにあったように動かなくなる。「くっ……!体が……!」

 

「第一感、剥奪」

 

シャカが、指を一本折る。バシッ。乾いた音が響く。

 

一輝の視界が、暗転する。真っ暗闇。シャカの姿も、倒れている仲間たちの姿も、自分の手足さえも見えない。視覚が消えたのだ。

 

「ぐあっ……!目が……!」

 

一輝が呻く。だが、次の瞬間、彼の口元が歪む。恐怖の表情ではない。狂気じみた、歓喜の笑みだ。

 

「ハハハ……!やはりな!」

 

一輝が高笑いする。見えない目で、シャカの方角を正確に見据える。

 

「シャカ、お前が普段目を閉じているのは、視覚を遮断し小宇宙を高めるため!そうだな?」

 

「……いかにも」

 

シャカが答える。視覚という膨大な情報処理をカットすることで、そのエネルギーを小宇宙の蓄積に回す。それが彼の強さの秘密の一つだ。

 

「ならば俺も同じ!お前が悪に与すると言うならば、俺は五感など惜しくはない!全てくれてやる!」

 

一輝の小宇宙が、爆発的に膨れ上がる。視覚を失ったことで、逆に行き場を失った神経エネルギーが、小宇宙へと変換されているのだ。一輝は、わざと技を受けたのだ。自分の感覚を犠牲にして、小宇宙を極限まで高めるために。

 

「さあ来い!次は何を奪う!聴覚か?嗅覚か?全部持っていけ!」

 

一輝が両手を広げて待ち構える。完全な捨て身。五感を全て失ったその瞬間に、爆発的なセブンセンシズに目覚め、そのエネルギーで自爆攻撃を仕掛けるつもりだ。相打ち狙い。格上の相手を倒すための、狂気の戦術。

 

しかし。シャカの目が、冷ややかに細められる。彼は動じない。一輝の狙いなど、彼にはお見通しだ。

 

(……そう来ると思ったよ)

 

シャカの脳内で、冷静な分析が行われる。

 

(五感を奪えば、君は第六感を代償にしてセブンセンシズに目覚め、私との相打ちを狙うだろう。このパターンは、過去の聖戦の記録や、アッシュとのシミュレーションでも確認済みだ)

 

シャカは、アッシュとの会話を思い出す。

 

『少年漫画の主人公タイプは、追い詰められると自爆覚悟でパワーアップする傾向がある。下手にいじると火傷するぞ』

 

『では、どうすれば?』

 

『簡単さ。パワーアップの条件を与えなければいい。あるいは、その前にリングから降ろせばいい』

 

(自爆特攻……。実に君らしい、短絡的かつ厄介な戦法だ。だが)

 

シャカは、指を止める。第二感の剥奪を行わない。

 

「さあ来い!早くしろ!」

 

一輝が焦れて叫ぶ。感覚があるうちに、早く奪ってくれと懇願する奇妙な光景。

 

「断る」

 

シャカが、短く告げる。

 

「!?」

 

一輝が動きを止める。見えない目で、困惑の色を浮かべる。

 

「断る……だと?何を言っている!」

 

「君の狙いには乗らないと言っているのだ。五感剥奪は中止だ」

 

シャカは、展開していた曼荼羅を霧散させる。天舞宝輪の解除。一輝にかかっていた金縛りが解ける。

 

「君のその『殴ってください』と言わんばかりの態度は、見ていて痛々しい。私が君のスイッチを押してやり、君が爆発する……そんな安直なシナリオに付き合う義理はない」

 

「な、なに!?」

 

一輝が狼狽する。計算が狂った。相手が技を出してくれないと、カウンターの自爆ができない。

 

「代わりに……物理的にご退場願おう」

 

シャカが、手のひらを一輝に向ける。そこには、黄金の小宇宙が渦巻いている。だが、それは破壊の光ではない。巨大な質量の塊だ。

 

「君が戻ってきても、火時計が消えるまで何度でも吹き飛ばし続ければ良いだけのこと!君の再生能力が尽きるか、君が諦めるか、あるいはアテナの命が尽きるか。根比べと行こうか」

 

「貴様……!ふざけるな!」

 

一輝が突っ込もうとする。だが、遅い。

 

「処女宮の石段とは別方向……あちらの山の麓へ落ちろ!!ここからなら、徒歩で戻ってくるのに2時間はかかるだろう!」

 

シャカの宣告。それは死刑宣告よりもタチが悪い、遅延行為の宣告だ。

 

「天魔降伏・場外乱闘版!!」

 

ドォォォォォォン!!

 

シャカの掌から放たれた衝撃波は、一輝を破壊するのではなく、巨大な空気砲のように彼を弾き飛ばす。処女宮のテラス側の壁が粉砕される。その穴から、一輝の体が砲弾のように射出される。

 

「うわあああああああーーッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しまっ……!?」

 

一輝の思考が、強烈なGの中で明滅する。視界が高速で流れる。処女宮の天井、砕けた壁、そして広がる青空。体が軽い。いや、軽すぎる。シャカの放った「天魔降伏・場外乱闘版」は、一輝を破壊するためではなく、純粋に遠くへ飛ばすためだけに調整された衝撃波だ。ダメージは少ない。だが、そのベクトルがあまりにも強大すぎる。

 

(体が……空へ!?まるでロケットだ……!)

 

一輝は空中で体勢を立て直そうとするが、推進力が足りない。このままでは、聖域の結界の外、あわよくばエーゲ海まで飛ばされる勢いだ。ここから戻るのに何時間かかる?徒歩で山を登り直し、雑兵を蹴散らし、十二宮の階段を駆け上がる。そのためのロスタイムを計算し、一輝は愕然とする。間に合わない。アテナの命が尽きる前に戻ってくることは不可能だ。

 

(シャカめ……!俺を殺さず、戦力外通告するつもりか!なんて合理的な……!)

 

一輝が歯噛みする。最強の男のプライドが、物理的な距離によってへし折られようとした、その時だ。

 

ジャララッ!!

 

金属音が空気を裂く。一輝の右腕に、冷たい感触が走る。何かが巻き付いた。それは、銀色に輝く一本の鎖。

 

「なっ……!?」

 

一輝が目を見開く。鎖はピンと張り詰め、一輝の体が空中で急停止する。強烈な慣性がかかるが、鎖は切れない。そして、その鎖の先には、処女宮の床に踏ん張る一人の少年の姿があった。

 

「兄さん!行かせないよ!」

 

瞬だ。彼は気絶していたはずだ。シャカの天魔降伏を受けて、壁のシミになっていたはずだ。それがいつの間にか立ち上がり、ネビュラチェーンを極限まで伸ばして、兄を繋ぎ止めている。

 

「瞬!?」

 

一輝が叫ぶ。瞬の隣では、紫龍と氷河もよろめきながら立ち上がり、小宇宙を燃やし始めている。彼らは終わっていなかった。神に近い男の一撃を受けてもなお、その闘志は消えていなかったのだ。

 

「……チッ。雑魚どもが目覚めたか」

 

シャカが、舌打ちをする。その美しい顔には、似つかわしくない不快感が漂っている。計算外だ。彼の計算では、紫龍たちはあと3時間は目を覚まさないはずだった。そして一輝は、今頃アテネ市内のカフェのテラス席あたりに着地しているはずだった。

 

「だが無駄だ。一輝、君の小宇宙がセブンセンシズに到達しつつあることは認める。君だけは厄介だ。だからこそ、遠くへ行って欲しかったのだがね」

 

シャカは、鎖の先にぶら下がる一輝を警戒する。この男だけは、何度倒しても蘇る。しかも、その度に強くなる。コストパフォーマンスが悪すぎる敵だ。だからこそ、物理的な排除を選択したのに、それを阻止されたことが不愉快でならない。

 

シャカは、背後の三人には目もくれない。彼らにとって、満身創痍の青銅聖闘士など、脅威ではないからだ。彼の意識は、空中にいる一輝と、それを繋ぐ鎖を切断することに向けられる。

 

「終わりだ。その鎖ごと、今度こそ彼方へ消え給え」

 

シャカが掌を向ける。黄金の小宇宙が集束する。一輝に向けられた追撃。鎖を伝って衝撃波を送れば、瞬ごと吹き飛ばせる。

 

だが。その一瞬の隙を、瞬は見逃さない。

 

「兄さん、今だ!」

 

瞬が叫ぶ。彼は鎖を強く引く。一輝を引き戻すのではない。鎖の張力を利用して、自分自身が飛ぶのだ。

 

「なに?」

 

シャカが反応するよりも早く、瞬の体が床を滑る。いや、飛ぶように移動する。鎖をアンカーにして、振り子の原理で加速し、一気にシャカの背後へと回り込む。

 

「背後?愚かな。死角など私にはない」

 

シャカは冷淡に言い放つ。彼は全方位を感知できる。背後に回ったところで、何ができるというのか。羽交い締め?そんな原始的な技が、黄金聖闘士に通じるとでも?

 

シャカは、体から小宇宙を放出して、背後に迫る瞬を弾き飛ばそうとする。全身から放たれる黄金の衝撃波。これに触れれば、瞬の体などバラバラになるはずだ。

 

しかし。

 

「……っ!?動かん!?」

 

シャカの表情が凍りつく。小宇宙が、出ない。いや、出そうとした瞬間に、何かに抑え込まれている。見えないロープで全身を縛り上げられたような、強烈な拘束感。

 

「ネビュラストリーム!」

 

瞬の声が、シャカの耳元で響く。いつの間にか、処女宮の空気が変わっている。静寂だった空間に、激しい気流が渦巻いている。それは瞬の小宇宙が生み出した、不可視の嵐だ。

 

「僕の小宇宙の気流が、貴方の動きを封じています。動けば動くほど、気流は強くなり、貴方を締め付けます」

 

瞬は、シャカの背後からガッチリとホールドする。密着した、逃がさないための抱擁だ。黄金聖衣の上からでも伝わる、瞬の熱い小宇宙。そして、周囲を取り囲む気流の檻。これが、アンドロメダの隠された最強の技。

 

「馬鹿な……。鎖を使わずに、気流だけで私を縛るとは……」

 

シャカが呻く。油断した。この少年を、ただの甘ったれた弟キャラだと思っていた。だが、その内には、兄にも劣らない強大な小宇宙を秘めていたのだ。

 

一輝が、鎖に引かれてテラスへと着地する。彼は息を切らせながら、弟の勇姿を見る。

 

(瞬……。お前、いつの間にこんな技を……)

 

紫龍と氷河も、その光景に驚愕している。あのシャカが、動けない。神に近い男を、瞬が一人で抑え込んでいる。

 

瞬は、シャカをホールドしたまま、じりじりと移動を始める。向かう先は、宮殿の中央ではない。崩れかけたテラス。断崖絶壁の縁だ。

 

「瞬……君は何をする気だ?」

 

シャカが問う。焦りの色が、その美声に混じる。

 

「私を道連れに飛び降りる気か?それとも、ここで私を絞め殺す気か?甘いぞ、君の力では私を殺しきる前に、君の体が持たん」

 

シャカの言う通りだ。ネビュラストリームは強力だが、シャカの小宇宙は底なしだ。いずれ気流を破られ、反撃される。長期戦になれば、不利なのは瞬の方だ。

 

「シャカ……貴方の言うとおりです」

 

瞬は、悲しげに、しかし決意を込めて微笑む。その笑顔は、聖母のように優しく、そして狂気的に純粋だ。

 

「僕たちには時間がない。シャカ、貴方は強すぎる。倒すには時間がかかりすぎる。兄さんたちも、もう限界だ」

 

瞬は、シャカをテラスのギリギリまで押し込む。眼下には、雲海が広がっている。遥か下には、十二宮の入り口が見える。

 

「しかし……貴方を殺さなければならないわけではありません」

 

「……?」

 

シャカが眉をひそめる。殺さない?ではどうやって勝つというのだ。

 

「良いことを聞きました。さっき、貴方は兄さんを飛ばそうとしましたね?『物理的に退場願う』と」

 

瞬の声色が、少しだけ明るくなる。まるで、素晴らしいピクニックのアイデアを思いついた時のように。

 

「僕と一緒に、麓までご一緒しましょう」

 

「な、なに……!?」

 

シャカが絶句する。意味が分からない。麓まで?一緒に?

 

「僕はできることなら争いたくないんです。貴方のような素晴らしい人と、殺し合うなんて悲しいです」

 

瞬は真剣だ。大真面目だ。

 

「だから、道中、ゆっくりお話ししましょう。アテナが目覚めたら必ず悪いようにはならないと説得しますから。僕たちの想いを、貴方に伝えたいんです」

 

「はぁ!?」

 

シャカの冷静な仮面が崩れる。

 

「ハイキングでもしながら、話し合いましょう。ここから下までは、いい運動になりますよ」

 

「待て!正気か!?」

 

シャカが叫ぶ。こいつは狂っている。戦いの最中に、ハイキングの誘いだと?

 

「この十二宮にはアテナの結界がある!テレポートでの移動は不可能だぞ!飛ぶこともできん!」

 

シャカは、聖域のルールを説明する。アテナの結界により、空間転移などの特殊能力は封じられている。だからこそ、侵入者は徒歩で登るしかないし、守り手も持ち場を離れにくいのだ。

 

「ええ、知っています」

 

瞬は頷く。そんなことは百も承知だ。

 

「だから、いかに『最も神に近い男』と言えど……ここから落ちたら、自分の足で登るしかありません」

 

「!!!」

 

シャカの顔色が、黄金聖衣よりも蒼白になる。理解した。この少年の狙いを。

 

「下まで落ちれば、また最初からです。白羊宮、金牛宮、そして双児宮……それらを全部抜けて、またここまで登ってこなければなりません」

 

瞬は、悪魔的なタイムロスを提示する。

 

「さらに、下には今、アイオロスさんもいます。登る途中で彼らと鉢合わせれば、必ず足止めになる。アイオロスさんは強いですよ?貴方でも、簡単には突破できないはずです」

 

「くっ……!」

 

シャカが唸る。その通りだ。アイオロスと戦えば、千日戦争になりかねない。いや、それ以前の問題だ。

 

「その間に、兄さんたちがアテナを救えます!貴方がいない処女宮なんて、ただの通り道です!」

 

瞬の作戦。それは「シャカの排除」だ。倒すのではなく、戦場から遠ざける。物理的な距離という、最強の盾を使って。

 

シャカの顔に、初めて焦燥の色が浮かぶ。「相打ち」ならば、聖闘士としての誉れもある。だが、「遅刻」などという敗北理由は、末代までの恥だ。何より、シャカには致命的な弱点があった。

 

「離せ!離すんだ瞬!!」

 

シャカが暴れる。小宇宙を爆発させ、気流を押し返そうとする。

 

「私は……私は階段を登るのだけは嫌いだーーッ!!」

 

シャカの魂の叫びが、処女宮に響き渡る。彼は「神に近い男」だ。普段は浮遊している。移動もテレポートだ。自分の足で、あんな長い階段を、汗水たらして登るなんて。そんな泥臭い行為、美学に反する。いや、単純に面倒くさい。アッシュ参謀長がエレベーターを作った気持ちが、今なら痛いほど分かる。

 

「嫌だと言っても、行きます!」

 

瞬は容赦がない。彼は優しいが、時にその優しさは残酷な強要となる。「一緒に歩きましょう」という純粋な善意が、シャカにとっては拷問となる。

 

「行きます!ネビュラストーム・全開!!」

 

瞬の小宇宙が極限まで高まる。処女宮を取り巻く気流が、爆発的な推進力となって二人を押し出す。

 

ドォォォォン!!

 

壁が砕ける音。そして、風の唸り声。瞬はシャカを抱きかかえたまま、処女宮のテラスから大空へとダイブした。

 

「ウワァァァァァァァーーーーッ!!!!」

 

シャカの悲鳴が、青空に吸い込まれていく。

 

重力が二人を捉える。自由落下。景色が上へと流れていく。

 

瞬は、遠ざかる処女宮のテラスにいる兄たちに向かって、笑顔で手を振る。

 

「兄さん!紫龍!氷河!先に行って!」

 

「シャカさんは僕が責任を持って、下までお送りします!」

 

「ふざけるなぁぁぁ!離せぇぇぇ!」

 

シャカの声と、瞬の声が混ざり合い、二人の姿は雲の下へと消えていった。まるで、心中する恋人たちのように、彼らは聖域の底へと落ちていった。

 

残された処女宮のテラス。風が吹き抜けていく。沙羅双樹の花びらが、舞い落ちる。静寂が戻った。だが、その静けさは、先ほどまでの荘厳なものではない。何か、とてつもない突っ込みどころを残された、シュールな静けさだ。

 

一輝は、テラスの端に立ち、弟が消えていった雲海を見下ろす。

 

「瞬……」

 

一輝が呟く。その表情は、感動と呆れが入り混じっている。

 

「とんでもない手を使いやがった……」

 

「ああ。あのシャカを『物理的に排除』するとは……」

 

氷河も隣に立つ。彼は冷や汗を拭う。まともに戦えば、全滅していただろう。シャカの実力は本物だった。だが、瞬の機転が、その実力を封殺したのだ。

 

「しかも、テレポート封じの結界を逆手に取るとはな。策士だよ、お前の弟は」

 

「いや、あいつは天然だ。本気で『ハイキングしながら話し合えば分かる』と思ってるだけだ」

 

一輝は首を振る。瞬の「殺したくない」という想いが、結果として「一番エグい手段」を選ばせたのだ。純粋な善意ほど、時として恐ろしい武器になる。

 

「……急ごう。瞬が作ってくれた勝機だ」

 

紫龍が、痛む体を引きずって歩き出す。彼の盾はボロボロだが、その目は死んでいない。

 

「シャカがいなくなった今、処女宮はただの空き家だ。ここを抜ければ、次は天秤宮。……我が師、老師の宮だ」

 

「ああ。行くぞ」

 

三人は、主のいなくなった処女宮を駆け抜ける。もはや妨害するものは何もない。ただ、美しい花びらが舞うだけの、静かな神殿。

 

彼らが宮の出口へ向かう途中、眼下の谷底から、風に乗って微かな怒号が聞こえた気がした。

 

 




星矢「なぁ沙織さん……。シャカ、めちゃくちゃ強かったけど……最後どうなったんだこれ……?なんで落ちたの?」

沙織「うふふ……話し合いながらハイキングしましょうって言われて、堕ちるの、最高にエモいじゃない?」

星矢「いやエモいとかじゃねぇだろ!?なんで瞬がシャカ抱えてダイブしてんだよ!!」

沙織「だって瞬くん、昔から倒したくないけど勝ちたいタイプでしょ?RPGでも攻撃しないでバフだけかけて、敵のMP切れ待つタイプの子よ?」

星矢「そんなタイプは聞いたことねぇよ!!」

沙織「しかもシャカさんの弱点が階段嫌いって……あぁ〜……公式設定にしたい……薄い本出したい……」

星矢「お前……本当にアテナだよな……?」

沙織「違うわ。私は城戸沙織。推しが苦しそうに階段を登る姿にも価値を見出す女神なの」

星矢「初耳だよッ!!」
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