聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
十三年前、未来の少年たちへアテナを託したアイオロスの言葉を胸に、紫龍と氷河は先を急ぐ。
だが、無人の宮を満たしていたのは、黄金聖闘士の頂点に立つ男――双子座のサガだった!
アナザーディメンションによって引き裂かれる紫龍と氷河。
そして人馬宮へ帰還したアイオロスの前に、十三年間忘れることのできなかった友が立ちはだかる!
交わせなかった言葉を拳に変え、いま、宿命の二人が激突する!
君は、小宇宙を感じたことがあるか!
【REMAINING TIME 07:25:00】
人馬宮は、戦わずに抜けられる。
その期待があったからこそ、紫龍は宮へ踏み込んだところで、ようやく乱れきった呼吸を意識した。ここまでの戦いで身体はとうに限界を越えている。氷河も何も言わないが、石段を蹴る自分の足音は先ほどより明らかに重かった。
せめて、この宮だけは休まず駆け抜けられる。
そう思っていた紫龍の足が、壁際で止まった。
「紫龍?」
氷河を制し、薄暗い石壁へ近づく。そこには何者かが刻みつけた言葉が残されていた。
『ここを訪れし少年達よ、君らにアテナを託す。』
文字を追ううちに、紫龍は沙織を抱いて闇の聖域を逃れた十三年前のアイオロスを思い浮かべていた。
味方と呼べる者を失い、生きて日本へ辿り着けるかさえ分からぬまま、それでも赤子一人を守ろうとした少年である。
「アイオロスが、脱出する前に残したのだろうな」
氷河の声にも、いつもの冷ややかさはなかった。
「自分が生き延びられるとは、思っていなかったのか」
「だから、名も知らぬ後の世の聖闘士へ託した。その者たちが本当に現れるという保証など、どこにもなかったはずなのにな」
その言葉を無謀と呼ぶことは、紫龍にはできなかった。
十三年前のアイオロスが信じた「少年達」とは、きっと自分たちのことなのだ。彼が生きている今でさえ、その事実は胸へ重くのしかかる。
紫龍は無意識に拳を握ったが、掌へ爪が食い込む前に手を開いた。いま感傷に浸ることは、託された時間を浪費することにほかならない。
「行こう、氷河」
踵を返しかけた紫龍は、そこでようやく別の違和感に気づいた。
足元へ視線を落とし、石床を指でなぞる。指先には何もつかない。十三年も主を失っていた宮なら、積もった埃を踏み荒らしながら進んでいてもおかしくないはずだった。
氷河も壁際の灯火へ目を向けた。炎は小さいが、油は新しい。石柱には目立たぬ補修が施され、十三年も主を失っていたとは思えないほど、宮は整えられていた。
アイオロスは死んだものとして扱われていた。それでも誰かが、彼の宮を今日まで守り続けていたのだ。
帰るはずのない主を待っていたのか。それとも、聖域に残された彼の名誉を守っていたのか。
紫龍には分からなかった。ただ、この清浄さを不気味だとは思えなかった。十三年間、アイオロスを忘れなかった誰かがいた。
「先へ急ごう。ここを守ってきた者が誰であれ、沙織さんを救ったあとなら話を聞ける」
「ああ」
二人が宮の奥へ向き直ったとき、静かな声がそれを押しとどめた。
「そう急ぐこともあるまい」
背筋が凍った。
紫龍は声の方向へ振り向こうとしたが、身体がすぐには従わなかった。
殺気も感じない。それなのに、振り返った先にいる何者かを見てしまえば、もう後戻りできない。そんな確信だけが全身を縛りつけている。
隣では、氷河も同じように息を詰めていた。
「誰だ……?」
問いかけながら宮の片隅へ目を向けた紫龍は、自分の目を疑った。
青い髪の男が、粗末な椅子へ腰掛けていた。
脚を組み、頬杖をつき、退屈そうに二人を眺めている。いま姿を現したのではない。自分たちが人馬宮へ入ったときから、ずっとそこにいたのだ。
なぜ気づかなかった。
紫龍は自らの感覚を研ぎ澄まそうとして、すぐに諦めた。男の小宇宙は大きすぎた。あまりに自然に宮を満たしているため、どこからどこまでが石壁で、どこからが男の気配なのか区別できない。
自分たちは男を見落としたのではない。
男の小宇宙の中へ入っておきながら、無人の宮にいるつもりでいたのだ。
「ずいぶん疲れているようだな。天蝎宮まで休みなく登ってきたのだろう?」
男は二人の警戒など意にも介さず、壁面の表示を見上げた。
「休息は大事だぞ。あのLEDによれば、時間にはまだ余裕がある。残り三つの宮を通り抜けるだけなら、少しくらい座っていても間に合うだろう」
気遣っているようにさえ聞こえる口調が、かえって紫龍の恐怖を深くした。
逃げ道を探そうにも、視線を動かすことすらできない。わずかでも隙を見せれば死ぬ。そう悟っているのに、目の前の男はまだ、自分たちを敵として見てさえいなかった。
「もっとも――」
男の視線が紫龍たちへ戻る。
「時間より先に心配すべきことがある。この先を突破できるかどうか、だ」
聞き覚えがあった。
十二宮へ響き渡り、黄金聖闘士たちを動かしていた声。パライストラの卒業式で自分たちに聖衣を与えた男。
理解した瞬間、紫龍の喉がひどく乾いた。
「なぜ……あなたが、人馬宮に……」
「教皇の間で待ち続けるのも退屈なのでな。それに、ここなら――」
男はゆっくりと椅子から腰を上げた。
「奴と決着をつけるには、ちょうどいい」
椅子の背後に置かれていた黄金の箱が、重い音を立てて石床へ倒れた。蓋が開くと同時に噴き出した光の中で、双子座の黄金聖衣が男の全身を包んでいった。
「双子座の……サガ!」
名を呼んだだけで、紫龍は自分の声が震えたのを悟った。
恐れている場合ではない。沙織の命が懸かっている。たとえ相手が教皇であろうと、ここで退くわけにはいかない。
小宇宙を燃やせ。
そう自分へ命じた紫龍の前で、サガが右手を上げた。
「アナザーディメンション」
小宇宙を高める間さえ与えられなかった。
視界が反転し、踏みしめていたはずの石床が消える。身体が落ちているのか、上へ吸い上げられているのかも分からない。星々の流れる異空間が上下左右から押し寄せ、現実の人馬宮をたちまち遠ざけていった。
「紫龍!」
氷河の声が聞こえたが、その姿は歪んだ空間の向こうへ引き離されていく。手を伸ばしても届かない。
戦うどころか、一撃を受けた実感すらなかった。
これが黄金聖闘士の頂点。
自分たちがこれまで潜り抜けてきた死闘さえ、教皇サガにとっては指先一つで片づけられる程度のものなのか。
「安心しろ」
遠ざかるサガの声だけが、不自然なほど鮮明に届いた。
「異次元の果てへ捨てるつもりはない。それぞれの相手が待つ場所へ運んでやるだけだ。着くまでの間、少しは休んでおけ」
返す言葉も見つからぬまま、紫龍の意識は星々の彼方へ呑み込まれていった。
異次元への穴が閉じ、人馬宮に静けさが戻る。
サガは右手を下ろすと、壁に刻まれた文字を見た。
『ここを訪れし少年達よ、君らにアテナを託す。』
昔から、アイオロスはそういう男だった。
馬鹿がつくほど真っ直ぐで、根拠もなく人を信じ、その無謀な信頼を最後には現実へ変えてしまう。かつては眩しくもあり、疎ましくもあった性質を思い出し、サガは小さく息を吐いた。
足音が聞こえた。
待っていた小宇宙も、すでに近い。
十三年前には最後まで交わせなかった言葉がある。問いただしたいことも、拳でなければ確かめられないことも、数え切れないほど残っていた。
それでもサガは、急いて入口へ迎えに出ようとは思わなかった。
ここは人馬宮だ。帰ってくる男を迎えるなら、本来の場所で待つべきだろう。
やがて入口を赤い光が満たし、神邪霊聖衣を纏ったアイオロスが姿を現した。
◇◇
十三年ぶりに足を踏み入れた自らの宮は、記憶にある姿をほとんど失っていなかった。
荒れ果てているものと覚悟していた。あるいは、壁の文字も削り落とされているかもしれないと思っていた。
だが、石床は磨かれ、灯火には油が満ち、あの日と同じ言葉が壁に残されている。
誰が守っていたのかは分からない。
問いかけたい気持ちはあったが、その答えを探す時間はない。
何より、自分の宮の中央には、十三年間忘れようとしても忘れられなかった男が立っている。
「サガか」
口から出たのは、それだけだった。
驚きはない。いずれ自ら行く手を塞ぐだろうとは思っていた。
ただ、よりにもよってこの場所を選ぶとは。
嫌味の一つでも言ってやるべきなのだろうが、久しぶりに見る旧友の顔を前にすると、不思議なほど昔と同じ言葉しか出てこなかった。
「悪いな。こんなところまで降りてきてもらって」
「気にするな。俺とお前の仲だ」
サガも昔と変わらない調子で答えた。
その声を聞いた瞬間、アイオロスの胸から、十三年という歳月は消えていた。
聖域で共に修行していた頃、二人は顔を合わせれば競い合った。
どちらが先に課題を終えるか。どちらが強い拳を打てるか。
次の教皇に相応しいのはどちらか。
些細なことから互いの誇りまで、何一つ譲ろうとしなかった。
もしかしたら、いまもそんな関係でいられたのかもしれない。
アイオロスはその考えを胸の奥へ押し込み、宮の奥へ続く道を示した。
「どうだ、サガ。このまま一緒にアテナ神殿まで行かないか? 積もる話もある。まず沙織の命を救って、そのあとで思う存分、喧嘩を楽しもう」
「アラサーにもなって喧嘩を楽しむ、か」
サガが懐かしそうに笑った。
「お前も日本で暮らすうちに、面白い冗談を覚えたらしい」
「年齢の話はやめてくれ。少し気にしているんだ。これでも日本では若く見られるように努力している」
「その努力が実を結んでいるかどうかも、いずれゆっくり聞いてやりたいところだが――」
サガの笑みが消えた。
最初から分かっていた。この男が懐かしさだけで道を譲るはずがないことも、互いに背負ったものを言葉だけで捨てられないことも。
それでも一度は誘ってみたかった。
十三年前にできなかったように、隣へ並んで歩けないかと。
「できない相談だ。お前をここから先へ通すわけにはいかん」
その声に迷いはなかった。
残ったわずかな期待が消える。落胆だけではない。
変わらぬ眼差しで立つサガを見ていると、どうしようもなく嬉しくなる自分もいる。
神に屈したわけでも、誰かの言葉に従ったわけでもない。
サガはサガ自身の意志で、ここに立っている。
ならばアイオロスも、自分の意志を拳へ乗せるだけだった。
「そうか」
腰を落とすと、聖衣の翼が大きく開いた。
背中から広がった赤い光には、今なお肌へ食い込むような禍々しさがある。この力を得るために何を受け入れたのか。サガならば、拳を交えた瞬間にすべてを見抜くだろう。
「ああ、そうだ」
サガも両腕を開いた。
黄金の小宇宙が膨れ上がり、その背後へ数え切れぬ星々が浮かぶ。
かつて何度も追いかけ、超えようとした男が、十三年を経たいまも、自分の前に誰より高い壁として立っている。
アイオロスは口元へ笑みが浮かぶのを止められなかった。
いつから、この戦いは始まっていたのだろう。
沙織の胸が黄金の矢に貫かれたときか。
城戸沙織が、神の機工へ呑み込まれたときか。
あるいは、教皇シオンが命を奪われ、すべての運命が狂い始めた十三年前の夜か。
どれも違うように思えた。
もっと以前からだ。
まだ二人とも何も背負わず、ただ最強の聖闘士を目指して拳を競い合っていた頃から、いつか決着をつけなければならないと知っていた。
あの頃は、こんな形になるとは思ってもいなかったが。
「行くぞ、サガ!」
「来い、アイオロス!」
二人が同時に踏み込んだ。
アイオロスの拳へ、聖衣の翼から無数の光が流れ込む。十三年分の後悔も、沙織を救うという誓いも、もう一度サガと拳を交えられる歓喜さえ、光の奔流へ変えて正面へ叩きつけた。
「ケイロンズ・ライト・インパルス!」
サガの両腕の間では、一つの銀河が終焉を迎えていた。
友であるからこそ、手加減などできない。
「ギャラクシアンエクスプロージョン!」
二つの拳が放たれた瞬間、アイオロスにはサガが笑ったように見えた。
自分もきっと、同じ顔をしている。
そう思った直後、光と銀河が正面から衝突し、人馬宮から音も色も消えた。
遅れて押し寄せた轟音が石柱を砕き、天井を突き破った光が夜空へ立ち昇る。十二宮を貫いた震動の中でも、壁に刻まれた十三年前の言葉だけは失われなかった。
明滅するLED表示から、また一秒が消えた。
沙織「せっかく再会したのに、いきなり宮を半壊させるって何? アイオロスパパ、マジで会話ってもの知らなくない?」
アテナ「聖闘士は拳を交えることで、言葉以上に深く理解し合うものです」
沙織「出た。何でもそれっぽく正当化する神様理論」
アテナ「サガとアイオロスは、互いにこの日を待ち望んでいたのでしょう」
沙織「こっちは胸に矢が刺さって死にかけてんだけど? 待望の再会イベントやってる場合?」
アテナ「その程度で取り乱しては、女神の器は務まりません」
沙織「だから、その女神って肩書きを押しつけてくるのやめてくれる? あたし、あんたのことマジで嫌いなんだけど」
アテナ「存じています」
沙織「その澄ました顔が一番ムカつく!」
アテナ「ですが、サガとアイオロスの戦いは見届けたいのでしょう?」
沙織「……そりゃ、ちょっとは見たいけど」
アテナ「素直ではありませんね」
沙織「うっざ! 先に言っとくけど、宮を壊した修理代はあんた持ちだから!」
アテナ「地上の所有物に、神が金銭を支払う必要はありません」
沙織「やっぱあんた最悪!」