聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜   作:斉宮 柴野

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己の命を燃やし、シュラへ挑む紫龍!

磨き上げた聖剣をぶつけ合う師と弟子。
だがシュラの目には、紫龍が昔から抱えていた危うさが見えていた。

守るべき者のためならば、自らの命さえ惜しまない――。

追い詰められた紫龍が選んだのは、老師から固く禁じられた最後の奥義!

敵もろとも天空へ昇り、自らの命を捨てようとする紫龍へ、シュラの怒りが爆発する!

死ぬ覚悟ではなく、生きて守る覚悟を。

師シュラが弟子へ贈る、最後の授業!

そして磨羯宮に現れる、百の龍――!

君は、小宇宙を感じたことがあるか!



禁断の亢龍覇! 紫龍、命を捨てるな

紫龍は変わっていない。命じられたからではない。守るべき相手がいると決めた途端、自分の生死を勘定から外してしまう。

 

パライストラにいた頃から、その危うさだけは変わっていない。

 

紫龍の右手が、手刀の形に伸びる。

小宇宙が、一本の刃となって腕へ集束していく。

教えたとおりの呼吸。踏み込みへ移る直前まで力を散らさず、肩から指先までを一つの刀身に変える。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

訓練場には、石を斬る音が何度も響いていた。

 

紫龍は荒い息を抑え、石柱の前で右腕を構え直した。

 

すでに何度振り下ろしたか分からない。石の表面には斜めの傷が増えている。それでも、一本として両断できてはいなかった。

 

「腕へ集めた小宇宙が、踏み込んだ瞬間に散っている」

 

「エクスカリバーは、腕だけで振るうものではない。敵を斬ると決めた瞬間、迷いも恐怖も捨て、自らの肉体すべてを一本の刃へ変える。足も、腰も、肩も、腕も、指先もだ」

 

パライストラで相対した日から、シュラの刃を何度も見てきた。構えに特別なものはない。力んでいるようにも見えない。だが、振り下ろされた右腕は、触れたものを一度として斬り損ねなかった。

 

シュラから授けられているのは、聖剣エクスカリバーの基礎だ。

 

形だけを真似ても、あの刃にはならない。

 

足裏で地面を捉え、腰を回し、肩から指先までを一本につなげる。石を敵と思う必要はない。ただ、斬ると決めた自分の意思だけは疑わない。

 

右足を踏み込んだ。

 

小宇宙を通した右腕を振り下ろす。

 

手刀は石柱の上端から根元までを走り抜けた。

 

一拍遅れて、石柱が左右へ割れる。

 

「できた……!」

 

振り返ると、シュラはすでに次の石柱を顎で示していた。

 

「一度斬れた程度で気を抜くな。今の感覚を、考えずとも再現できるまで身体へ刻め」

 

「はい!」

 

認められたことが嬉しかった。それ以上に、この刃を身につければ、守れるものが増える。そのことが嬉しかった。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

床を蹴る音が、現在へ引き戻した。

 

紫龍の姿が正面から消える。

 

右へ踏み込みながら首を傾けると、黄金の斬線が頬の脇を通り抜けた。背後の石柱へ斜めの切れ目が走り、上半分が重い音を立てて滑り落ちる。

 

悪くない。

刃の鋭さも、間合いへ踏み込む迷いのなさも、あの頃とは比べものにならない。

 

だが、素直すぎる。

 

「はああああッ!」

 

続けて振り下ろされた右腕へ、自らの右腕を下から打ち当てた。

 

刃と刃が衝突する。

 

黄金と緑の光が弾け、衝撃で宮の床が放射状にひび割れた。

 

押し負けまいとする紫龍の右腕が震えている。

 

「力を刃へ変えるところまでは覚えたか。だが、刃筋を読まれれば何にもならん!」

 

左の掌底を胸当てへ叩き込む。

 

紫龍は後方へ弾かれたが、空中で身を捻り、両脚から床へ着地した。間髪を容れず腰を落とす。右拳へ集まった小宇宙が足元へ流れ、龍を描き出した。

 

「廬山――昇龍覇ァァァァッ!」

 

拳とともに、緑色の龍が下方から牙を剥く。

 

正面から受ける必要はない。

 

鼻先を掠める寸前に床を蹴り、龍の顎より高く跳ぶ。紫龍の視線がこちらを追った。そこへ身体を反転させ、両脚を肩へ絡める。

 

「ジャンピングストーン!」

 

昇龍覇の勢いを殺さず、そのまま後方へ投げ返した。

 

紫龍の身体が石床へ激突する。砕けた床材が跳ね上がり、土煙が膝の高さまで広がった。

 

すぐに気配が動く。

 

煙を破って迫った拳を右腕で受け、続く蹴りを左の前腕で逸らす。紫龍は止まらない。肘、拳、手刀。廬山の流れに聖剣を混ぜ、近距離から急所を狙ってくる。

 

一撃ごとの重さは増していた。

それでも、先が読める。

 

守る相手を思うほど強くなり、同時に自分への扱いが雑になる。踏み込むたび、防御が一つずつ消えていく。

 

右腕を振り上げる。

 

刃は紫龍の右腕へ触れる寸前で止めていた。

 

紫龍が目を見開く。

 

「俺の鍛え上げた聖剣の前に、斬れぬものなど存在しない」

 

「ならば、なぜ腕まで斬らなかった!」

 

「それすら分からんから、甘いと言っている!」

 

踏み込んで右腕を薙ぐ。

 

紫龍は上体を反らしたが、胸当てへ横一線の亀裂が走った。返す刃で右肩、左脇、腰の留め具を斬る。肉体へ届かぬ深さだけを選び、龍座の聖衣を切り離していく。

 

砕けた装甲が床へ散った。

 

一歩退いた紫龍が、残った胸当てを自ら外した。両腕の装甲も投げ捨て、上半身を晒したまま拳を構える。

 

「聖衣を捨てれば、俺の刃を受けられるとでも思ったか」

 

「受けるつもりはない。俺のすべてを、この一撃に懸ける!」

 

小宇宙が跳ね上がった。

命まで燃やすつもりか。

 

以前より強くなった。聖剣も、拳も、疑いようがないほど磨かれている。

だが肝心なものだけは、あの日から何一つ学んでいない。

 

「来い、紫龍! その甘さごと斬り捨ててやる!」

 

紫龍が床を蹴った。

 

右拳を迎え撃とうとした瞬間、その身体が低く沈む。懐へ潜り込まれ、両腕が胴へ回された。

 

脇の下で腕が固く組まれる。

 

「何……!」

 

振りほどこうと腰を落とした途端、足元で緑色の小宇宙が渦を巻いた。

 

シュラの記憶にある廬山の技のどれとも違う。上へ、ただひたすら上へ向かう力が床下から噴き上がり、巨大な龍の紋章を描いていく。

 

「待て、紫龍! この小宇宙は……!」

 

両腕へ力を込めても、紫龍は離れなかった。

 

締めつける腕から骨の軋む音が伝わる。それでも拘束は緩まない。両腕を折られようと、このまま背骨を砕かれようと構わない――そう告げるように、紫龍の小宇宙はさらに燃え上がった。

 

「老師との約束を破った罰ならば、死後にいくらでも受けよう! だが今は、貴方とともに天へ昇る!」

 

「馬鹿者が!」

 

床に描かれた龍が、眩い光の中で首をもたげる。

開かれた顎が二人を呑み込んだ。

 

「廬山――亢龍覇ァァァァァァッ!」

 

轟音とともに、緑色の光柱が爆発した。

 

足が床から離れる。

 

龍の顎に押し上げられた身体は一息で音を置き去りにし、宮の天井へ激突した。

石造りの天井が内側から吹き飛ぶ。紫龍の腕に捕らえられたまま、シュラは砕けた石材とともに十二宮の上空へ放り出された。

 

磨羯宮が遠ざかっていく。

十二宮も、聖域を囲む山々も、瞬く間に眼下へ沈んだ。

 

烈風が黄金聖衣を叩く。

呼吸すら許さぬ上昇の中でも、紫龍の腕は緩まない。

 

緑色の龍は雲海を縦に穿った。白い水蒸気を抜けると、頭上には暗い天空が広がっている。大気との摩擦で二人の周囲が赤く燃え始めても、上昇は止まらなかった。

 

このまま星の彼方まで昇り、自分もろとも敵を葬るつもりか。

 

あまりにも紫龍らしい。

 

腹立たしさに奥歯を噛んだ。

 

力ずくで拘束を解くのは容易い。だが、この技だけを潰しても、この男なら次の機会にまた命を差し出す。守るためなら死んでもよいという考えを捨てないかぎり、何度でも。

 

「なぜだ、紫龍!」

 

「なぜ、お前はそこまで容易く自らの命を投げ出せる! お前が命と引き換えに守ろうとしているものに、それほどの価値があるというのか!」

 

「問われるまでもない!」

 

紫龍の唇から血が散った。

声は、まっすぐに返ってくる。

 

「俺はアテナの聖闘士! アテナのためにこの命を懸けることは、聖闘士として当然のことだ!」

 

聞きたいのは、その言葉ではない。

神の名を掲げれば、自分の死まで正しいものにできると思っているのか。

 

「紫龍よ。俺が聞いているのは、アテナという名のことではない」

 

「何……?」

 

「お前がそこまで慕うアテナとは、何者なのだ。神の権威でも、地上を統べる女神という役目でもない。お前自身が見てきたアテナが、どのような相手なのかを聞いている!」

 

紫龍の眼差しが揺れた。

 

ほんのわずか、返事が途切れる。

しかし、上昇する小宇宙は弱まらなかった。むしろ、迷いを呑み込むように強く燃え上がる。

 

「沙織さんは……守ってあげたくなるような人だ!」

 

「陽気で、星矢の彼女で……休みの日にはギャルゲーに夢中になって、神とは思えないようなことで笑ったり、怒ったりする。俗っぽくて、わがままで、俺たちを振り回してばかりいる!」

 

女神を語っているとは思えぬ言葉ばかりだ。

 

だが、紫龍の声には、アテナの権威を口にしたときにはなかった熱があった。

 

「それでも、俺たちが傷つけば誰よりも悲しみ、誰かが苦しんでいれば自分のことを忘れて手を差し伸べる! アテナだから守るのではない! 俺たちは、そんな沙織さんとともに生きてきたからこそ、命を懸けてでも救いたいんだ!」

 

「……そうか」

 

胸の奥にあった苛立ちが、わずかにほどけた。

肩書ではなく、一人の少女を見ている。その答えならば、否定するつもりはない。

 

「そんなアテナであったなら、俺も納得したかもしれん」

 

だからこそ、なおさら許すわけにはいかなかった。

 

全身の小宇宙を爆発させる。

黄金の光が緑色の龍を内側から押し広げ、周囲にまとわりついていた炎を吹き飛ばした。

 

「だが――今のアテナは何だ!」

 

「対話を求めて訪れた使者を、問答無用で殺そうとした! 人間一人の苦しみに耳を傾けることもなく、自らの肉体を守るためならば聖闘士さえ捨て駒として使い潰す! あれはもはや、お前が語った城戸沙織ではない!」

 

紫龍は答えられなかった。

だが、視線は逸らさない。

 

「神の名を掲げているというだけで、お前はあの意思にまで従うつもりか! 城戸沙織と、彼女を喰らおうとしている神を同じアテナという言葉で括り、そのどちらにも命を捧げるというのなら――お前の忠誠に正義はない!」

 

「違う……俺が救おうとしているのは……!」

 

「ならば、生きて救え!」

 

小宇宙を反転させた。

 

紫龍が生み出す上昇力と正面からぶつける。

緑色の龍の鱗が剥がれるように光の粒となって散り、耳をつんざいていた咆哮が低く軋んだ。

 

上昇が鈍る。

なおも押し上げようとする力を、一つずつ黄金の小宇宙で噛み潰していく。

 

やがて、眼下へ流れていた雲が止まった。

 

二人の身体が天空で静止する。

 

「亢龍覇の推力を、小宇宙だけで押し留めたというのか……!」

 

「禁じ手に頼れば、必ず敵を倒せると思ったか!」

 

右腕へ小宇宙を集束する。

紫龍を斬る必要はない。

 

斬るべきものは、この男が帰る道まで奪おうとしている天空そのものだ。

 

「自らの死を勝手に決め、その代償を相手にも押しつける。それは覚悟ではない! 生きて勝つことを諦めた者の逃げ道だ!」

 

右手を振り上げる。

黄金の光が、一本の刃となって暗い空を貫いた。

 

「見るがいい、紫龍! お前の命を奪うはずだった天空ごと、俺の聖剣で斬り捨ててやる!」

 

遥か眼下の磨羯宮と、いま立つ天空を隔てる空間。その距離へ刃を入れる。

 

「エクス――カリバーッ!」

 

手刀を振り下ろした。

黄金の斬線が暗い空を走る。

 

雲も大気も光も、一本の線を境に左右へ分かれた。空間へ刻んだ裂け目の向こうに、遠ざかったはずの磨羯宮が口を開ける。

 

直後、断たれた空間が閉じようとする反動が二人を呑み込んだ。

 

天地が入れ替わる。

紫龍の拘束を受けたまま裂け目へ落ち、次の瞬間には磨羯宮の崩れた天井が目前へ迫っていた。

 

小宇宙を全身へ巡らせる。二人の身体が宮の中央へ叩きつけられた。

 

轟音が磨羯宮を揺るがす。

 

床が陥没し、石柱が根元から折れ、砕けた石材と土煙が視界を埋めた。

 

背中へ回っていた腕から、ようやく力が抜ける。

 

その一瞬に両腕を開き、紫龍を振りほどいた。

 

紫龍の身体は石床の上を何度も跳ね、血の跡を引きながら崩れた柱の前まで転がっていく。

 

シュラは片膝をつき、荒れた呼吸を一度だけ吐いた。

山羊座の黄金聖衣には亀裂が走り、角の一部も欠けている。右肩も痺れていた。

 

だが亢龍覇は止めた。

紫龍も生きている。倒れた胸が、浅く上下していた。

 

「紫龍!」

 

床を掴み、起き上がろうとしている。肘がわずかに持ち上がり、すぐに崩れた。

それでも、目は閉じない。

 

「お前は純粋すぎる! 守ると決めた相手のためならば、自分が失われることなど何とも思っていない!」

 

紫龍の指が、もう一度床を掻いた。

 

「だが、お前が死ねば、その死を背負って生きなければならない者がいる! 五老峰で帰りを待つ春麗を忘れたか! 老師を、星矢を、氷河を、瞬を、一輝を忘れたか!」

 

春麗の名を出した瞬間、紫龍の指が止まった。

唇が動く。声にはならない。

 

「守るために命を懸けることと、命を捨てることは同じではない! 死ねばすべてが解決するなどという甘えを、聖闘士の覚悟と呼ぶな!」

 

右腕を紫龍へ突きつけた。

 

あの日、訓練場で教えたのは、敵を斬る覚悟だった。

だが、この男に本当に教えなければならなかったのは、斬ったあとも生きて帰る覚悟だったのかもしれない。

 

「容易く命を捨てるな! 生きて戻り、自らの手で守り抜け! これは、パライストラで伝えきれなかった――俺からお前への最後の授業だ!」

 

「シュラ……」

 

かすれた声が、今度は確かに届いた。

 

それだけで十分だった。

 

右腕を下ろし、両脚を開く。

 

腰を落として両腕を左右へ広げると、紫龍の目が見開かれた。

 

この構えを知らぬはずがない。

 

童虎が二百年以上をかけて磨き、後継者へ託そうとしている最大の奥義。

その頂を、紫龍はまだ遠くから見上げている。

 

シュラは童虎の動きを幾度も見た。

 

呼吸、踏み込み、腰の回転、全身を巡る小宇宙の分岐。アッシュから学んだ解析法で一つずつ解きほぐし、自らの肉体へ組み直した。聖剣と同じ形にはならない。ならば無理に剣へ変える必要もなかった。

 

優れた技を受け継ぎ、磨き、次へ渡す。

 

教師として教壇に立つと決めた日から、そうしてきた。

黄金の小宇宙が背後でうねる。

 

一頭、十頭。さらにその奥から、数え切れぬ龍が姿を現した。黄金の鱗を持つ龍が石柱へ巨体を絡ませ、崩れた天井を覆い、床を光で埋めていく。

 

「そ……その構えは……!」

 

「技は、一人の人間とともに朽ち果てるためにあるのではない!」

 

両腕へ百の流れを集束する。

 

一つの巨大な力を百に裂くのではない。

百の力を、百頭の龍として同時に生み出す。それぞれへ異なる軌道を与え、ただ一人へ収束させる。

 

殺すための急所は外した。

 

だが、加減して受けられる技ではない。紫龍が生きて次代を背負うというのなら、この程度で砕けてもらっては困る。

 

「受け継ぎ、磨き、さらに次の世代へ渡すためにある! 紫龍、お前が真に新たな時代を背負うというのなら、目を逸らすな!」

 

倒れたまま、紫龍が顔を上げた。

 

逃げる力など残っていない。

それでも迫る龍から視線を外さず、一頭ずつ軌道を追っている。

 

ならば見せてやる。

命を捨てて届く強さではない。

 

生きて学び、生きて受け継いだ者だけが辿り着ける場所を。

 

「その身体で覚えろ! お前がいつの日か辿り着くべき頂を!」

 

両掌を突き出す。

 

「これが、新時代を背負うお前たちへの手向けだ!」

 

百頭の龍が一斉に顎を開いた。

 

「廬山――百龍覇ァァァァァァッ!」

 

最初の龍が紫龍の胸を打ち、二頭目が腹部を跳ね上げる。三頭目を肩へ、四頭目を両脚へ。身体の一箇所だけへ衝撃が重ならぬよう軌道をずらしながら、休む間も与えず次の龍を叩き込む。

 

「ぐあああああああッ!」

 

紫龍の身体が宙へ舞った。

 

そこへ十、二十、五十を超える黄金の龍が殺到する。

 

一撃ごとに血が散り、身体が跳ねる。それでも紫龍の目は閉じなかった。黄金の流れを追い、両腕へ小宇宙が分かれる瞬間を見ようとするように、こちらを見据えている。

 

上等だ。

それでこそ、童虎が選んだ男だ。

 

「うわあああああああああッ!」

 

最後の龍が紫龍を呑み込み宮の奥へ吹き飛ばした。

 

身体が石柱へ激突し、柱ごと床へ崩れ落ちる。

砕けた石材の中から、腕が一本だけ伸びた。

 

指先が床を掻く。

 

なお立ち上がろうとしている。

 

だが、二度目はなかった。腕から力が抜け、床へ落ちる。燃え続けていた小宇宙も、今度こそ静かになった。

 

シュラは両腕を下ろした。

荒い呼吸を整えながら、倒れた紫龍のもとへ歩く。

 

勝ったという感覚はなかった。

手を伸ばし、胸元へ触れる。

鼓動は弱い。だが、一定の間隔で指先へ返ってくる。

 

「まったく……老師が禁じた理由を、少しは身をもって理解したか」

 

返事はない。

聞こえていなくとも構わなかった。

 

「次に目を覚ましたときは、死ぬための技ではなく、生きて守るための拳を選べ。春麗を泣かせれば、老師より先に俺がお前を斬るぞ」

 

立ち上がり、遥か麓へ意識を向けた。

星矢とアッシュの小宇宙は、いまも激しくぶつかり合っている。

 

その中心にいるのは、城戸沙織。

そして彼女の内側から目覚め、自らの聖闘士さえ駒として扱おうとしている女神アテナ。

 

右腕を静かに構えた。

忠誠を捧げたのは、人間を犠牲にして降臨する神ではない。

 

血を流し、迷い、誰かを守るために立ち上がる人間たちの聖域だ。

 

「アテナよ……」

 

「この男は、貴女の名を信じたから命を懸けたのではない。城戸沙織という一人の少女を愛し、ともに生きたいと願ったから、ここまで辿り着いたのだ」

 

倒れた紫龍へ、最後に一度だけ目を向ける。

 

「このような素晴らしい男を……よもや、捨て駒などと言わないでくれ」

 

踵を返し、磨羯宮の奥へ歩き出す。

 

右腕に宿る聖剣は、神の命令へ盲従するための刃ではない。

この聖域で生きる者たちの未来を守るための剣だ。




紫龍「シュラ……最後に一つ聞きたい」

シュラ「なんだ」

紫龍「なぜ貴方が百龍覇を使える」

シュラ「見て覚えた」

紫龍「見て覚えた!?」

シュラ「童虎殿の動きを解析して、俺の身体で再現できるよう組み直した」

紫龍「老師が磨いた奥義を!?」

シュラ「教師たるもの、教材研究は怠らん」
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