聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
だが、その瞳に意識はない。
気絶したまま放たれた凍気は、絶対零度へ到達したカミュの力と真正面から拮抗する!
師の叫びに応え、ついに白鳥が限界を突破する!
そして氷河が見つけた、自分自身の戦う理由。
神のためではない。
友・星矢へ、システムではない「城戸沙織」を返すために!
二つのオーロラエクスキューションが激突するとき、師と弟子の長き戦いに決着が訪れる!
氷河よ、絶対零度を越えて羽ばたけ!
君は、小宇宙を感じたことがあるか!
【06:05:00】
二つの凍気が押し合っていた境界が、白く弾けた。
轟音とともに床が揺れる。視界を埋め尽くした氷晶の向こうで、氷河の身体が宙へ浮いた。聖衣は胸から砕け、白鳥の翼を模した破片が凍気の中へ散っていく。
氷河は受け身を取ることもなく床へ落ちた。二度、三度と転がり、崩れた柱の手前で止まる。
小宇宙が消えていく。
先ほどまで私のオーロラエクスキューションへ食らいついていた凍気も、もはや感じ取れない。
閉じた瞼は動かず、呼吸の音さえ、凍りついた宮内には届かなかった。
届かなかったか。
絶対零度の間際までは来ていた。それでも最後の一線を越えられなければ、黄金聖衣を纏う私には勝てない。
分かっていたことだ。手加減をすれば、氷河は教えられた言葉へ縋ったまま、さらに先で命を落とす。
だから、これでよい。
「事切れたか……せめて安らかに眠れ。……むっ!」
氷河の右手が床を押した。
頭は垂れたまま、片膝が立つ。腰が上がり、ふらついた両脚が身体を支えた。だが、目は閉じたままだ。こちらへ顔を向けようともせず、呼びかけを待つような気配もない。
「氷河」
返事はなかった。
それでも、両腕だけがゆっくりと持ち上がる。
青白い光が、指先の間に生まれた。
意思を失ってなお、肉体に刻み込まれた動きだけで拳を放つつもりか。私が教えた型よりも滑らかで、迷いがない。思考も恐れも、越えられぬはずの限界さえ、今の氷河を縛ってはいなかった。
両手から凍気が迸った。
「無駄だ!」
片腕を突き出し、正面から凍気を放つ。
絶対零度に至らぬ力なら、触れた瞬間に呑み込める。氷河の身体を砕かぬよう、凍気だけを押し潰すつもりだった。
だが、白と青の奔流は宝瓶宮の中央で衝突し、そこから動かなかった。
押しても、退かない。
出力を高める。空気が凍り、床を覆う氷へ新たな亀裂が走っても、氷河の凍気は一歩も譲らない。
「な……なんだと……! 私と拮抗するとは……すなわち同等の凍気をもってしなければ不可能なはず……」
閉じられた両目を見て、ようやく理解した。
あれは私を見ていない。
私の声も届いていない。氷河自身が、自分の立っていることすら認識していない。
「な……こいつ……気絶している! 早く起きろ、氷河! このままだとお互いの凍気がお前を襲って、お前はバラバラになるぞ!!」
拮抗は長く保たない。
行き場を失った二人分の凍気が氷河へ殺到する。青銅聖衣を失った身体では耐えられない。絶対零度へ届くかどうかなど、もはや問題ではなかった。
「起きろ、氷河!」
「はっ……! う……うおおおおおおおおお!!」
氷河の目が開く。
焦点がこちらを捉えた瞬間、押し合っていた凍気の色が変わった。
青白い小宇宙が背後で噴き上がる。砕けかけていた白鳥の翼が大きく開き、その羽ばたきが凍気の奔流へ重なった。
境界が、私の側へ動く。
さらに力を加えても止まらない。氷河の凍気は一瞬ごとに密度を増し、こちらの絶対零度を押し退けながら迫ってくる。
弾けた白光が全身を呑み込んだ。
黄金聖衣の表面を霜が走る。腕を覆い、胸部へ達し、水瓶座の装甲を白く凍結させていく。
黄金聖衣を凍らせるには、絶対零度が必要だ。
見間違えるはずがない。長い鍛錬の果てに、私自身がようやく制御した領域である。
氷河は、意識さえ失っていた生と死の境で、そこへ足を踏み入れた。
「…………お前も至ったか……『絶対零度』へ」
押し返された凍気が霧となり、私たちの間へ漂った。
氷河の肩が大きく上下している。聖衣を失った身体には無数の傷が刻まれ、脚も震えていた。
「………我が師、カミュ。わかりましたよ。やっと……」
「ん?」
何を掴んだ。
絶対零度の感覚か。技の完成か。それだけなら、わざわざ私へ告げる必要はない。
「俺も、あなたと同じです。信じたくなったんですよ。友を」
「神の機工(システム)に飲まれていても、絶対に取り戻すと言う奴を。恐れ多くも『仕える神と交際する』なんて言う馬鹿を」
思い当たる者は、一人しかいない。
「……星矢のことか」
「ええ。俺達よりも強いくせに、アテナを……沙織さんを守るために麓に残ったあの男を! 俺はあいつに、システムとしてのアテナではなくて、『城戸沙織』を返してやりたい! だから! そこをどいてください! 俺はまだ先に進まなければならない! まだ先に敵がいるんです!」
どんなときも感情を殺し、クールになれ。
かつて教えた言葉など、微塵も残っていない。
それでよい。
感情に溺れ、拳を曇らせるなとは教えた。己で考えることをやめ、誰かに与えられた使命へ従えと教えた覚えはない。
凍気を極限まで研ぎ澄ませながら、その内側で何を守るのか。
ようやく、自分で選んだか。
「…………この先に、アフロディーテもアッシュもいない」
「え?」
「二人とも、迎撃のために麓へ下りた。お前がこの私を倒せば……そのまま教皇の間を抜け、アテナ神殿へ辿り着き、沙織の命を救えるだろう」
道は開いている。
残る壁は、私一人。
氷河がここで私を越えれば、その拳を阻む黄金聖闘士はいない。だが、師だからと道を譲れば、氷河が今しがた掴んだ答えまで偽物になる。
両腕を頭上へ掲げ、指を組んだ。
「構えろ、氷河」
「カミュ……!」
戸惑ったのは一瞬だった。
氷河も両腕を掲げ、頭上で指を組む。
先ほど受けた一度だけで、水瓶座最大の奥義を自らのものにしたか。
ならば、私もすべてを出そう。
師を越えると言うのなら、衰えた壁を越えた程度で満足させるわけにはいかない。
「行くぞ氷河!! オーロラエクスキューション!!!!」
「オーロラエクスキューション!!!!」
二つの水瓶から、絶対零度の奔流が放たれた。
宝瓶宮の中心で白光が激突する。
凍気の壁が押し寄せ、黄金聖衣の上から骨を軋ませた。足を引く余裕などない。氷河も同じはずだ。互いの間に技を逸らせば、均衡を失った側が絶対零度に呑まれる。
歯を食いしばり、両腕へ小宇宙を注ぐ。
氷河の水瓶は砕けない。
初めて放つ奥義でありながら、凍気は乱れず、こちらの流れを正面から押し返してくる。
腕が凍る。
指の感覚が失われ、肘が動かなくなる。
視界の端から白く閉ざされていく。
氷河の姿が、吹雪の向こうで揺れた。
まだ立っている。
ならば、これが最後だ。
残る小宇宙を一息に燃やし、すべて水瓶へ注ぎ込んだ。
氷河の凍気も同時に膨れ上がる。
白光が重なった。
音が消えた。
どれほどの間、目を閉じていたのか。
冷気の霧が薄れたとき、氷河はまだ正面に立っていた。
いや、立っているだけだ。
両腕を下ろし、肩で息をしている。こちらへ歩み寄ろうとした足が、床から離れない。
私も動けなかった。
全身が凍りついている。黄金聖衣の胸部から肩へ深い亀裂が走り、僅かに息を吸うだけで、内側からひび割れる音が返ってきた。
先に限界へ達したのは、私の凍気だった。
「…………見事だ、氷河。この生と死の狭間で……。このカミュの小宇宙をも遥かに超えて………。お前は……勝った……」
「カミュ……」
いまの氷河は、教えを受けるだけの弟子ではない。同じ絶対零度を操り、そのうえで私を越えた一人の聖闘士だ。
「お前は……私の自慢の弟子だ。だが……」
先を告げるより早く、氷河が答えた。
「わかっています。神の機工は、必ず止めて見せます。俺の、この『熱さ』で」
絶対零度を身につけた男が、熱さで止めると言うのか。
まったく、最後まで私の教えを都合よく越えていく。
「そうか………」
凍りついた踵が砕け、身体が後ろへ傾いた。
受け身を取る腕は動かない。背中から床へ落ち、衝撃が後頭部まで突き抜けた。視界の中で天井が揺れ、白い霧に覆われていく。
「できればお前を、この先も生かしてやりたい……お前の望みを果たさせてやりたい……。しかし……このカミュにも、もはやどうにもならないようだ……。許せ、氷河……」
返事の代わりに、何かが崩れる音がした。
氷河の小宇宙が床近くまで落ちる。私と同じように、立っている力を失ったらしい。
気配は消えていない。
だが、この冷気の中へ放置すれば、今度こそ二人とも助からない。
分かっていても、身体は動かなかった。呼吸は浅くなるばかりで、凍りついた黄金聖衣が胸の動きさえ妨げている。
意識が暗闇へ沈んでいく。
その直前、視界の端に壁の装飾が映った。
水瓶を囲む波模様。その中央に埋め込まれた、場違いなほど新しい金属片。
――そうだった。
一つだけ、まだ使っていないものがある。
アッシュ師範が宝瓶宮の改修時に設置し、私が不要だと言っても撤去しなかった装置。
右手の感覚を探る。
腕は動かない。それでも人差し指の先に、僅かな小宇宙を集めた。床を擦り、石の継ぎ目へ引っかけ、指一本分ずつ身体を壁際へ寄せる。
近いはずの装飾が、ひどく遠い。
氷河の呼吸は聞こえない。
急げ。
ようやく指先が金属片へ触れた。
「ぐっ………この装置を、実戦で使うことになるとはな……」
残った力で押し込む。
『ピッ。緊急暖房システム、作動します』
『宝瓶宮内の人員の生命確保に必要な室温まで、強制上昇します。人員は小宇宙による血圧制御を行ってください。直ちに医療班が向かいます』
床下で低い振動が始まった。
壁面の継ぎ目が開き、最新式のダクトから温風が吹き出す。凍気に触れた最初の風は白い霧へ変わったが、すぐに次の風が重なり、宮内の冷気を押し上げていった。
聖衣の表面から、小さな水滴が落ちる。
急激に戻り始めた血流が、凍りついた手足へ痛みとなって広がった。合成音声の指示どおり、小宇宙を細く巡らせる。高まりすぎる血圧を抑え、止まりかけた心臓の拍動を一定に保つ。
氷河の小宇宙も、まだ消えてはいない。
医療班が来るまで保てばよい。
「ふっ……。アッシュ師範の……過保護な設計に……感謝せねばな……」
暖かな空気が頬を撫でた。
こんなものを入れれば、修行の妨げになる。絶対零度を操る黄金聖闘士に暖房など不要だ。
設置するとき、私はそう言った。
師範は聞かなかった。
この男ならば必要になったときも意地を張る、とでも考えていたのだろう。
まったく、正しい。
今度こそ、意識が深いところへ沈んでいった。
死ぬためではない。
自慢の弟子とともに、明日を生きるために。