聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
人馬宮に立つのは、血まみれになったサガとアイオロス。
十三年前から何一つ決着のつかなかった二人は、ついに拳だけの殴り合いへ!
一人で答えを出し、一人で罪を背負おうとするサガ。
沙織も、親友も、何一つ捨てることを認めないアイオロス。
現実を選ぶのか。
奇跡へ賭けるのか。
互いの生き方そのものを叩きつけた果て、サガが放つ最後のギャラクシアンエクスプロージョン!
それを迎え撃つのは――ただ一つの拳!
十三年越しの喧嘩、ついに決着!
君は、小宇宙を感じたことがあるか!
アイオロスの拳が、サガの頬へめり込んだ。
口の中で歯が鳴り、血の味が広がる。首を戻す勢いのまま、サガも右拳を振り抜いた。アイオロスの顔が横へ向く。頬から飛んだ血が石畳へ落ちるより先に胸ぐらを掴まれ、二人そろって床を転がった。
上になったのがどちらかなど、もう関係ない。馬乗りになれば殴られ、殴った腕を掴まれて引き倒し、今度は下から顎を突き上げる。受け流す余力がないのではなかった。
目の前の顔を見ていると、守りへ回す拳が惜しかった。
「どうして、お前はいつも……!」
どうして、いつも俺を置いていこうとする。
修練場でも、教皇候補に選ばれたときも、十三年前も。振り返ればこちらがいると疑いもせず、自分だけ先へ進み、追いつかないほうが悪いという顔をする。
「お前が! 行けるのにいこうとしないから、だろうが!」
額へ頭突きを受け、サガの視界が白く弾けた。胸ぐらを離せば倒れる。だから指へ力を込め、至近距離からアイオロスを睨み返す。
「行きたかったのかよ! こんな場所まで! こんな、どうにもならない状況まで!」
「どうにもならないさ! こんな時まで、お前はもどかしいんだよ!」
腕を振り払われ、襟首を掴み直された。
「俺はいつも思っていた。こいつはどうかしてる。頭おかしいんじゃないか? とな! いつもすました顔で、俺の血の滲むような努力をあっさり上回りやがって! なんでこんな奴が……聖闘士になりたいんだ……てな!」
腹へ膝が突き刺さった。
折れた肋骨の隙間から内臓まで押し上げられたような痛みに、喉の奥から血が込み上げる。襟を掴まれていなければ、その場へ膝をついていた。
「いい機会だ! そのすました頭をかち割って、中身を見てやる!!」
「がっ……! ふざ……けるな……!」
何が、すました顔だ。
アイオロスの軸足を内側から蹴り払った。傾いた身体へ肩からぶつかり、床へ押し倒す。上を奪い返した途端、腹の痛みも忘れて拳を振り下ろした。
「俺だって同じこと考えたよ! なんでお前みたいな『天然』が聖闘士を目指すんだってな! スリルが欲しいんなら、決まって俺を巻き込むな!!」
「はっ! 俺の性格にケチつけるなよ!! このトラブルメーカーが!!」
「お前、どの口で言いやがる!!」
右を受けたら左で返す。拳が届かなければ肘を落とし、腕を押さえられれば額をぶつけた。互いの技を知り尽くしているからこそ、技など使わないほうが早い。
聖域最強と呼ばれた黄金聖闘士が二人。
砕けた石粉が血と唾液に混じり、泥のようになって口へ入った。
少年の頃と同じ味がした。
「ああ……そうだな! 決まってトラブルを起こすのは俺だったさ! だがな、神の化身様は、文句や懸念だけ言ってまともに動きやがらねえからな!!」
顔面を打ち抜かれ、サガは横へ転がった。床へ手をついて起き上がったところへ、アイオロスの声が追い打ちをかけてくる。
「アッシュがお膳立てして! 俺が抑え役に回って! ここまでお膳立てしてやっても、お前はまともに動きやがらねえ! 尻が重たいんだよ! 床に接着剤でもくっつけてんじゃねえのか!」
「ぐっ……てめぇ……!」
「そんなに嫌ならどっか行きゃ良いのに、お前はずっとアッシュを待っていただろうが!!」
胸の奥を拳より深く抉られた。
待っていた?誰が。
いつ帰るとも知れない男を気にかけ、聖域へ残り続けたことは認める。改革の案を一つずつ検討し、実現したときの問題まで洗い出した。アッシュが戻った途端に動けるよう、裏で準備を整えていた。
待っていたのではない。必要な仕事をしていただけだ。
「誰が待ってなどいるか!!」
拳がアイオロスの顎を跳ね上げた。
「俺は動いている! 裏で根回ししていた!! お前らが破天荒すぎるから、いつも後始末で苦労するのは俺なんだよ!!」
「待っていたろうが! 興味ない顔して、見え見えなんだよ!!」
腹へ頭から飛び込まれた。二人分の体重を受けた柱が背中で割れる。サガはアイオロスの肩へ肘を落としながら、十三年分の苛立ちまで見透かされたようで、殴られた箇所とは別の場所が熱くなるのを感じていた。
◇◇
やはり待っていたのではないか。
アッシュの名を出した途端、声が大きくなった。興味がないなら、誰より早く改革案の穴を見つけ、誰より先に対策を用意するはずがない。
昔からそうだ。動かないのではない。動く前に考えすぎる。
全部数えて、数え終わる頃には一人で最悪の役を引き受けようとしている。
今回も同じだった。
「お前は……どうするべきか分かっていながら、やりたくないってほざいてばかりだ!」
身体を押し返され、アイオロスの背中が柱から離れた。サガは血に濡れた拳を握り、息を切らしながら怒鳴る。
「いつまでも綺麗なままでいたいんなら、そこで膝を抱えていろ! 現実を見るのが嫌なら目を瞑って耳塞げ!」
「サガ!!」
「邪魔なんだよ! 神の機工を潰す? 代替案も出せないくせに! 俺のやることなすこと! 勝手に値踏みするな!!」
沙織を殺す。
サガは初めから、その役を渡すつもりなどなかった。
代替案がないなら、自分が殺す。
アテナの機工を止め、人間の聖域を残す。アイオロスには憎まれればよい。殴り殺されるのも、戦いが終わったあとなら構わない。
なんと勝手な男だ。
「答えが出てるのに躊躇するな! 英雄なんてクソ食らえ! 聖闘士なんて願い下げだ! いい加減目を覚ませ!!!」
踏み込んできた拳が、アイオロスの顔面を捉えた。
首が後ろへ弾かれ、口の中が切れる。血を床へ吐き捨て、顔を戻した。
倒れてやるものか。
この男は、自分が倒れれば本当に一人で行く。
「だ……から。させないと言っただろう!」
サガの胸ぐらを両手で掴んだ。
「渡さないぞ! 沙織は! そして……勝手に一人で行こうとする、お前も止める!」
「……っ!」
シオンが死んだとき、間に合わなかった。
サガが一人で沈んでいたときも、何も知らず、止めることができなかった。
女神を抱いて聖域から逃げるしかなく、残した親友が十三年間どこで何を背負うのかさえ考えきれなかった。
あの夜、手を離した。何も知らないまま。仲間外れだ。もう離さない。離してはならない。
「誰も死なせない!! ここにいろ! サガ! 俺はもう、誰もとりこぼさない!!」
サガの目が揺れた。
言葉が届いた。そう思った直後、拳が頬へ飛んできた。
「だから……それが……寝ぼけてるって言ってんだよ! このバカヤロウ!!」
視界の向こうで、サガの目元が滲んでいる。
血が入っただけかもしれない。アイオロスの視界も、同じように滲んでいた。
こんなものは涙ではない。
二人とも、確かめる気はなかった。
◇◇
拳が頬へ食い込むたび、サガの中から言葉がこぼれた。
「だいたい……昔からこんな感じだったな」
「何がだ!!」
頬を殴られながら、腹へ拳をねじ込んだ。骨へ当たった。
アイオロスの息も止まる。どちらの痛みが深いかなど、比べる意味もない。
「がはっ……! 勝手に背負うな! 命をかけるところを間違えるな! 頼んでもいないのに、人の理屈に踏み込むなよ!」
ずっと、そうだった。
自分の中で答えを出し、覚悟を決め、あとは実行するだけというところまで来ると、こいつは必ず泥足で踏み込んでくる。
考えが足りない。甘い。何も解決していない。なのに、諦めるという最後の一歩だけは、こちらの足首を掴んででも踏ませない。
腹立たしい。
あの手に救われたことがあるなど、死んでも認めたくなかった。
「なのに、救いたいんだろう? 娘を。アテナの聖闘士は辞めたんだろう? ……なのに、いつまで俺を頭数に入れてやがるのか……!」
自分はもう、アテナへ忠誠を捧げる聖闘士ではない。
神の機工を壊すためなら、その化身である沙織を手にかける覚悟まで決めた。
アイオロスが娘を救いたいという願いに、加わる資格などない。
それなのに、こいつは当然のように「俺とお前」と言う。
「お前は、いつまでたっても大人になれないガキのままだ! このアホウが!」
胸を押し返すと、アイオロスが数歩よろめいた。サガの膝も笑っている。立っているだけで全身の傷が軋んだが、ここで倒れれば、あの馬鹿は自分の言葉が通じたと勘違いする。
「気合いで何でも解決するなら、神なんかいない! アテナもポセイドンもハーデスもあるものか!!」
人間の力だけでは届かないものを、嫌というほど見てきた。
努力した者から死んだ。正しい者が報われるとは限らなかった。神は人間の覚悟など知りもせず、世界を盤上の駒のように動かす。
気合いで覆せるなら、とっくに覆している。
「アテナ(沙織)を殺させたくないなら、ここで俺を殺って蹴りをつけろ! 男なら腹をくくれ!!」
それで終わる。
アイオロスが勝てば、沙織を守るために先へ進める。サガが勝てば、神の機工を止める。どちらが生き残っても、決断は一つに定まる。
もう、それでよい。
◇◇
口の中へ溜まった血を吐き捨てながら、アイオロスは笑った。
いま、この男は何と言った。
沙織を守りたいなら自分を殺せ。
どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。
「ふざけるなよ! そんな理屈なんて……言われたら絶対やってやらねえ。お前を捨てるなんてな!」
「じゃあ、どうすりゃいいか言ってみろ!!」
「何度も言ってる! 俺とお前とアッシュで、神の機工を打倒する! 何日和ってるんだ! 俺とお前で、何とかならなかったことなんかないだろ。倒せなかった奴もいないだろ!」
本当に、何度言わせるのか。
方法など後で考える。三人いれば、誰かが馬鹿を言い、誰かが止め、残った一人が実現する形へ整える。昔からそうしてきた。
今回だけ無理だと、始める前から決める理由はない。
「俺に賭けろよ! お前は!」
サガの顔が歪んだ。
怒ったのか、泣きそうなのか。おそらく両方だ。
「……いい加減に!! しろ!!!」
枯れかけていたはずの小宇宙が、サガの身体から噴き上がった。
聖衣はない。血に濡れた生身の肉体が、銀河の中心に立っているように輝き始める。
論理も、諦めも、勝手に死のうとする覚悟も、全部まとめて叩きつける気だ。
「ギャラクシアン・エクスプロージョン!!!!」
星々を砕く奔流が迫る。
避ければ、サガの後ろへ回れる。技を外させれば、もう一度殴る機会も作れる。
違う。
これを正面から折らなければ、サガは自分の結論を曲げない。
アイオロスは銀河へ踏み込み、右拳を引いた。皮膚が裂け、肉が焼け、腕の骨まで圧し潰されそうになる。
関係ない。
「これで!!! 折れろ!!!!!!」
右拳を振り抜いた。
銀河が拳の正面で割れた。
押し寄せる星々を左右へ弾き、焼けた右腕が奥へ伸びる。驚愕に見開かれたサガの目が近づき、その鼻梁へ拳が届いた。
骨を打ち抜いた感触と同時に、銀河の光が消えた。
◇◇
天井が見えた。
いつ倒れたのか。全身の骨が軋み、胸は呼吸のたびに痛む。右手の指を動かそうとして、どこにも力が入らないことだけは分かった。
負けた。
拳で銀河を割る馬鹿が、どこにいる。
いた。昔から、目の前に。
「この…………わからずやめ…………。いい喧嘩だったな」
力が抜けた。
アイオロスの拳と一緒に、胸へ詰まっていたものまで抜けてしまったらしい。
「ああ」
返事のあと、隣で重い音がした。
顔を向ける力は残っていない。視線だけを動かすと、アイオロスがすぐ横へ座り込み、両膝を立てて荒い息を吐いていた。右腕はだらりと下がり、指先から血が滴っている。
「お前は、勝てるよ」
方法もなく、根拠もなく、最後には銀河まで拳で割った。
もう好きにしろ。
この男が勝てないなら、初めから誰にも勝てない。
「俺達で……だ」
まだ言うのか。
サガは首をアイオロス側へ向けようとした。動いたのは、髪が床を擦る程度だった。
「聖衣無しで?」
「もちろん」
答えだけは早い。
アイオロスの笑い声が、途中から咳に変わった。血を吐きながら、まだ笑っている。
無謀。無計画。付き合わされる側の苦労など考えもしない。
腹立たしいほど、いつものアイオロスだった。
「……とりあえず、メロンソーダでも飲むか」
戦場へ場違いなほど甘い炭酸飲料を持ち込んだ、アッシュの顔が浮かんだ。
アイオロスが声を上げて笑う。脇腹が痛んだらしく、すぐに呻き声へ変わった。
サガも笑った。
動かせない身体の内側で、消えかけていた小宇宙が、もう一度灯った。
アイオロス「なあ、サガ」
サガ「なんだ」
アイオロス「いい喧嘩だったな」
サガ「…ああ」