聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
……のはずが。
路銀不足!
格安航空券!
乗り継ぎ三回!
二十時間の長旅!
ようやく辿り着いた北欧で彼女を待っていたのは――。
串焼き!
クレープ!
クラフトビール!
そして温泉!
任務はどうした、テティス!
君は、小宇宙を感じたことがあるか!
足を伸ばせるって、こんなに幸せなことだったのね。
畳の上なら、前の座席を蹴る心配もない。首を傾けても隣の人にぶつからないし、飲み物が欲しければ自分で取りに行ける。もう搭乗口を探して走らなくていい。それだけで、この部屋に払ったお金の価値はあった。
私の名はマーメイドのテティス。海皇ポセイドン様の密命を受け、はるばる極寒の地アスガルドまでやってきた誇り高き海闘士……のはずだったのだけれど……。
随分立派な旅に聞こえる。
実際には、浴衣に着替えてお茶を飲んでいるだけなのだけれど。ようやくここまで来たのだから、少し落ち着いたって罰は当たらないでしょう。
命令を頂いた時には、御三方のお役に立てるなら、何でもするつもりだった。少なくとも、命令の続きを聞くまでは。
『テティスよ、ポラリスのヒルダは重度の同性愛者の疑いがある。もしそうなら、そなたの手ずからその美貌で落としてまいれ!』
正直、全く気は進まないのよね。女同士の何が楽しいのかしら……男同士も無論ゾッとするけれど。
それに、美貌で落とせと言われても、どうすればいいのか分からない。きれいな服で会いに行けば済むの? 向こうから気に入ってくれるまで待てばいいの? 戦い方なら教わったけれど、女を口説く訓練なんて受けていない。
とはいえ、御三方をお待たせするわけにはいかない。まずは現地へ行き、状況を確かめる。考えるのはそれから。そう決めて出発の準備を始めたのに、ここへ着くまで二か月もかかってしまった。
「……アスガルドが観光地化しすぎて飛行機のチケットが取れなかったのよ!」
空席なし。予算に合わない。乗り継ぎが間に合わない。
毎日画面を見て、ようやく空いている便を見つけたと思ったら、片道で路銀が消える値段だった。向こうで何も食べず、どこにも泊まらずに任務を果たせというの?
海皇様から頂いたお金だから、ありがたく使わせていただく。でも、その額で買える航空券が存在するかどうかは、信仰心では変わらない。
仕方なく、日本で仕事を探した。
履歴書の職歴欄には困ったわ。海闘士と書いても、普通の会社には通じないでしょう。
特技なら泳ぐことと戦うこと。お菓子の会社の面接で、どちらを先に言えばいいのかしら。
結局、力仕事もできます、勤務日はできるだけ合わせます、と答えた。
それなら助かると言ってもらえた時には、どこか救援を受けたような気持ちになったものだ。
「でも、働く人生経験が得られたと思うことにしましょう……。まさか面接を受けて採用されたお菓子メーカーの社長が、オリンポス十二神の一柱・美の女神ヴィーナスの依代だったなんて……。日本の労働市場、奥深すぎるでしょ……!」
両星響子社長。三十歳、独身。
最初に聞いた時には、若いのに立派な方なのね、としか思わなかった。まさか、短期の働き口を探して女神の会社に入るなんて、誰が予想するのよ。
もっとも、お給料はきちんと出たし、仕事を覚えれば任せてもらえた。神に関わる相手でも、こちらの事情を聞いてくれる人はいる。日程が決まったら教えてね、と言ってもらえたおかげで、航空券を探す時間も取れた。
今思えば、あそこで働けたのは幸運だったわ。
そもそも、予定どおり北氷洋から行けていれば、日本で就職する必要なんてなかったのだけれど。
◇◇
北氷洋の柱を経由して、そのまま北欧へ。
それが最初の予定だった。海底神殿からなら、その経路が一番近い。わざわざ日本へ出て、遠回りするつもりなんてなかった。
ところが、到着しても誰もいない。出迎えまでは期待していなかったけれど、せめて話の通じる相手に会いたかった。頼れるものといえば、入口の張り紙だけ。
「なになに……?『所用により、しばらく留守にします。不在中の北氷洋の管理はソレント氏に代行させます。クラーケンのアイザック』」
所用の横には、視力低下改善のためのレーシック手術、とまで書いてあった。
事情はよく分かった。そこまで丁寧に知らせてくださるのは結構。でも、代行者については一度確認してほしかった。
「……ソレント様は、今まさにアスガルドで潜入中なんですけどーーっ!?」
そのソレント様に合流したくて、私はここにいるのよ。
これから来る私には誰が対応してくれるの。張り紙に聞いても、もちろん答えはない。
せめて活動経費だけでも、と金庫に期待したのが間違いだった。
「日本円で、たったの2千円…………」
数え直す必要もない。一目で分かる金額だった。
これで北欧まで行けるなら、誰も航空券の値段に悩まないわ。宿代どころか、空港に着くまでにどれくらい残るか考えなければならない。
誇り高き海闘士が、出発前から小銭の計算。けれど、財布を睨んでいても増えはしない。ここで待ち続けるわけにもいかず、日本へ回って路銀を足すことになったのだ。
仕事を始めてからは、できるだけシフトを入れた。あと何日働けば航空券に届く。
あと一回入れば、宿代も残せる。最初はそんな計算ばかりしていた。
そのうち、頼まれる前に次の作業が分かるようになった。
忙しい日に手伝いを申し出て、助かったと返される。それが少し嬉しくて、次も呼ばれれば引き受けた。できることが増えるのは悪くない。
ようやく支払いの画面まで進めた時には、本当にほっとしたわ。
格安航空券。乗り継ぎ三回。エコノミークラス。
安い理由は、乗ってから十分に理解した。
「辛かった……腰と首がバキバキになった20時間……。響子社長!! テティスは必ずこの任務を終えて戻ります!来期の正社員登用と、期末ボーナスを勝ち取るまでは……!!」
眠れそうになった頃に着陸。やっと席から解放されたと思えば、次の便の搭乗口を探す。座り直しても首の置き場が決まらず、時計を見るたび、まだこれだけしか経っていないのかと嫌になった。
海を泳ぐより楽なはずでしょう、飛行機って。
そう愚痴りたくなったけれど、自分で一番安い便を選んだのだ。
後悔しても、広い席に変わるわけではない。
正社員になったら、次はもう少し余裕のある便にしよう。乗り継ぎも減らしたい。そんなことを考えて耐えた二十時間だった。
◇◇
そして今日、ようやくワルハラ宮の前まで来た。
着いたからには、まず御三方に連絡を取りたい。今頃も苦戦しているのだろう。援軍が来たと知れば、きっと喜んでくださる。
「ワルハラ宮は………流石に観光客がいきなり入れるような場所じゃないわね。シードラゴン様たちは『完璧な変装』で潜入したらしいけれど……どうやって合流したものか……」
門番に、そのまま名乗るわけにはいかない。
海将軍を呼んでください、などと言えば、御三方の苦労を台無しにしてしまう。
かといって、変装した男性が三人いませんか、と尋ねるのも駄目でしょう。
どんな姿なのか、先に写真を送っていただけばよかった。街ですれ違っても、私には分からないかもしれない。完璧な変装というのは、味方にまで分からなくする必要があるのかしら。
ここで立ち尽くしていては目立つ。少し離れて、連絡の取り方を考えよう。
「へい、そこの綺麗なお嬢さん!! アスガルド名物のトナカイ肉の串焼きと、焼き立ての熱々チーズパンを食べていかないかい? 美味しいよ!!」
「あ……すっごく美味しそう……。ちょっとだけなら……」
お腹が空いていたのよ。
飛行機で食べたものとは違う、目の前で焼いているお肉。パンだって、袋から取り出す前から暖かい。寒いところに来た途端、こういうものが欲しくなるのは仕方ないでしょう。
串焼きを一本、パンを一つ。それで済ませるつもりだった。
けれど、せっかくなので歩きながら食べてみると、ほかにも気になる店がある。土地のことを知るのも任務のうち。観光地になったアスガルドが、どんな場所なのか見ておいて損はない。
ベリーのクレープは、そのために買った。
最初の一口で、もう一つ食べたいと思ってしまったのは予定外。甘いだけなら一つで満足したかもしれないけれど、酸味がちょうどよくて、食べ終わっても口に残る感じが重くなかったのよね。
二個目は、味を確かめるため。
言い訳だと気づいた。でも、もう注文していたのだから仕方ない。
クラフトビールも一杯だけ。ここでしか飲めないと言われると、帰ってから惜しくなる気がした。ほかの場所で同じものを探す手間を考えれば、今飲んでおくほうが合理的でしょう。
温泉については、言い訳すら必要なかった。二十時間も窮屈な席に座っていたのよ。
首も腰も辛いままでは、いざという時に動けない。少しほぐしておくべきだわ。
日帰りで入れる露天風呂を見つけた時には、これこそ必要な出費だと思った。
入ってみたら、本当に必要だった。
熱いお湯の中で、ようやく肩の力が抜ける。何時に搭乗するかも、次の空港でどちらへ進むかも考えなくていい。すっかり気に入ってしまった。
出るのが惜しくて、あと少しだけ、と何度思ったことか。
お土産屋さんのストラップは、最後のおまけだった。
小さなオーディーン様なら場所も取らない。木彫りの顔も、見ていると妙に愛嬌がある。海皇様にお仕えする身だけれど、旅の記念を一つ買うくらい構わないでしょう。
財布を開ける時、今日何度目だろうとは思った。
でも、その場では数えなかった。
◇◇
布団に横になると、また足を伸ばしたくなった。
いい宿を見つけたわ。飛行機代を切り詰めた分、今夜くらいはゆっくりしてもいい。
明日からは忙しくなるのだし、眠れる時に眠っておかないと。
「ん〜〜〜っ! 楽しかったわ〜〜!!雪景色を見ながらの露天風呂、最高に気持ちよかったし!!ご飯も海界の魚料理とは違って、山の幸とお肉が美味しかった〜!明日はどこを回ろうかしら!? あの氷の洞窟ツアー、午前中に行けば間に合うかな――」
午前中に洞窟。戻ってきたら、お昼は別の店にして。
それから。
「………………」
それから、何をする予定だった?
枕元のストラップに目が合った。オーディーン様。アスガルド。ワルハラ宮。
門の前まで行ったのは覚えている。そのあと串焼きを買って、パンを食べて、クレープを二つ。
御三方には。
「………………はっっっ!!!!!」
一度も会っていない。
連絡の取り方を考えるはずだったのに、いつから?
援軍として到着したことさえ、まだ伝えていないじゃない。
「わ、私……! 丸一日、ただの観光客として散財してただけじゃないのーーーっ!!?」
これを海皇様に、何と報告すればいいの。
無事到着しました。現地の食事と温泉は大変素晴らしく――。
駄目。続きを考えるまでもなく駄目。
二か月働いて貯めたお金なのよ。あれだけ空席を探し、値段を比べ、一回でも多くシフトに入ろうとしたのに。
明日こそは任務。洞窟より先にワルハラ宮。まず御三方と合流する。それだけは絶対に忘れない。
そう決めて案内の紙を伏せかけて、午前のツアーの欄がもう一度目に入った。
予約が必要なのね。
……だから、今それを確認してどうするのよ、私!
■マーメイドのテティス
海皇ポセイドンに仕える海闘士。
今回、海将軍たちの援護としてアスガルドへ派遣された。
到着まで二か月。
理由?
路銀不足らしい。
海界の経理担当は一度、俺と話をしよう。
■北氷洋
海界から北欧方面へ抜ける際に使える場所。
本来ならテティスもここを経由して、直接アスガルドへ向かう予定だった。
ところが管理担当のアイザックは不在。
代行予定のソレントもアスガルド潜入中。
組織としてどうなんだ、それ。
■アイザック
クラーケンの鱗衣を纏う海将軍。
今回、視力低下改善のため不在。
レーシック手術らしい。
身体のメンテナンスは大事だ。
そこについては何も言わん。
ただし、代行者が本当に現地にいるかは確認してから出かけろ。
■両星響子
日本で菓子メーカーを経営している社長。
テティスが路銀を稼ぐために働いた会社の経営者でもある。
仕事ぶりはかなり評価されているらしい。
……正社員登用を目指している。
まあ、本人が幸せならいいか。
■格安航空券
費用を抑える代わりに、乗り継ぎや移動時間などの条件が厳しくなることもある航空券。
テティスの場合、
乗り継ぎ三回。
エコノミークラス。
約二十時間。
よく頑張ったな。
■アスガルド観光
現在のアスガルドでは、雪景色や温泉、食文化などを活かした観光事業が成長している。
今回テティスも、
串焼き。
チーズパン。
クレープ。
クラフトビール。
温泉。
土産物。
を満喫した。
…………任務は?
■オーディーンのストラップ
テティスが旅の記念に購入した土産物。
小型の木彫り。
海皇ポセイドンの部下が、オーディーンの土産物を喜んで買っている。
平和で何よりだ。
本人の前では言わない方がいいだろう。