聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
そこにいたのは――謎の隻眼男グリム!
酒好き、隻眼、五百年前を知る男。
まさか、その正体は……?
そして焚き火の夜、テティスの胸に芽生える新たな想い。
人魚姫の恋は、どこへ向かうのか。
君は、小宇宙を感じたことがあるか!
「う…………ん…………」
温かい。
少し眠っていたい。身体を動かすのが億劫だ。頭が痛いし、瞼も重い。さっき何をしていたのだろう。お酒を運んで、兵隊に追われて、それから……。
岩。
大きな岩が落ちてきた。
生きているの、私?
目の前には焚き火があった。頬へ伝わる熱がうれしくて、ほっと息を吐く。地下の穴とは違う場所らしい。風の音は遠い。背中にも温もりがあって、寒くない。
そこで、ようやく気がついた。
背中の、これは何?
無造作に乱れた黒髪。彫りの深い横顔。その下には、鍛え上げられた褐色の胸がある。
眼帯のお客。いえ、グリム。そうだ、一緒に逃げてきたのだった。
「………………?」
近い。
胸元に自分の身体が密着している。二人にかかっているのは、一枚の毛布。目を落としてから、しばらく何も考えられなかった。
私のコートは?
服は?
「………………………………」
「いやああああああああああああああああッッッ!!!!!!」
毛布を抱え、火のそばへ逃げる。背後の岩に肘をぶつけた。痛い。けれど、いまはそんなことに構っていられない。
「な、な、何事ぉぉぉぉぉぉっ!? 目の前に裸のイケメンがいるし、ていうか私も素っ裸じゃないのーーーっ!!? グ・リーーーーーーー・ムーーーーーーーーッッッ!!!!」
「お? お目覚めか? ……おはよう、人魚姫」
「『おはよう』ではない!!! 『おはよう』ではないわーーーっ!!!! 大事なことだから2回言ったわよ!! どういう状況なのよコレは!!」
どうして平然としているの。酒瓶を置きなさいよ。人の顔を見て、ちゃんと説明しなさい!
「見りゃ分かるだろ。服が濡れて凍りついてたから脱がせて乾かして、低体温症で死にかけのお前を俺の体温で温めてやってたんだよ」
火から離れたところに、見覚えのある服が広げられていた。泥のついた袖。擦り切れた膝。説明は分かった。助かったことも分かった。分かったけれど!
「アンタさっき、私のことは寝取らないってハッキリ言ったじゃないの!!」
「ああん? 別に入れてはいねえだろ。命がけで崩れる洞窟から連れ出して介抱してやったんだ。抱きしめて暖を取るくらいは、男の役得ってやつだろうがよ」
「役得ですって!? 私の裸はね、そんなに安くないのよーーっ!!」
助けてくれたことと、勝手に見たことは別でしょう。少しは悪びれなさいよ。礼を言いかけた私が馬鹿みたいじゃない。
濡れた服のそばには、この男の上着もあった。確かに着られそうにはない。ほかに方法がなかったのかしら。
「この不届き者が……って、つっ……痛っ……」
頭に触れた指が、布に引っかかった。
巻いてある。傷の上を覆うように、しっかりと。毛布を押さえながら端を探ると、黒い布だと分かった。
「これ……黒い布……? そういえば、アンタの眼帯……」
左の瞼は閉じていた。そこに古い傷がある。隠されていた部分を見るのが悪い気がして、一度目を逸らす。けれど、聞かずにはいられなかった。
「アンタ………その左目は…………」
「ああ。そっちは見えねえよ。まあ……これは大昔に、俺自身が望んで差し出したようなもんだ。気にすんな」
「………………」
望んで、差し出した。
聞き覚えのある話だった。
隻眼。異常な酒好き。そして、グリムという名。
路地で火をつけたときも、壁に指先を走らせていた。マッチだと聞いて納得したけれど、あの手つきは妙に長くなかったかしら。単に擦ったのではなく、何か書いていたとしたら。
ルーン文字?
グリームニル。仮面を被り、人の姿で旅をする大神。
五百年ぶりの道だと言っていた。酒のせいだと思って聞き流した。さっきの洞窟から、どうやって私を連れ出せたのかも、まだ聞いていない。
まさか。この男……!?
「いや〜〜、それにしてもお前さんの胸も滑らかな肌も、マジで極上だったぜ! どうだ? 命の恩人に感謝の印として、このまま一発――」
「この変態がーーーーーーーーッッッ!!!!」
手が痛い。
思いきり頬を張ったのだから当然だが、後悔はしない。もう一度同じことを言ったら、もう一度叩く。
やっぱり違う!! あるわけない!!
こんなドスケベな酔っ払いが、北欧を統べる大神のわけがないわ!!!
「アンタねぇ!! 『グリム』なんて畏れ多くもオーディーン様にちなんだ立派な名をもらっておきながら、そんな下劣な発言ばかりして恥ずかしくないわけ!?」
「お? ………………ああ、そうだな。違いない。仰る通りだ。……じゃあ、テティス。そのオーディーンもどきが、一つだけ人生に役立つ良いことを教えてやろう」
「…………何よ?」
期待はしない。この男の忠告を信じた結果が、あの地下道だ。ありがとうと言える話が出てくるとは思えなかった。
「お前の胸、今のブラのサイズじゃ少し窮屈そうだぞ。もうワンサイズ上げた方が――」
「死ねーーーーッッッ!!」
「ぶべらっ!?」
焚き火の端にあった燃えさしを投げつけたら、ようやく黙った。
何を見ているのよ。何を覚えているのよ。こんな男を大神かもしれないと思った自分にも腹が立つ。
「もういい!! こんな変態男と一緒にいられるもんですか!! こうなったら、私一人で歩いて山を下り……つっ……さっ……寒っっっ!!」
入口へ寄っただけなのに、息が止まった。
毛布の端から入る風が冷たい。外は白く、木の幹すらろくに見えない。ここを出て、どこへ行くというの。
「外は普通にクソ寒いからな。服も着てねえ小娘が飛び出しゃあ、一分で凍死体のお出ましだ。意地張ってねえで、毛布の中に入って大人しくしてろ」
「ぐ……っ…………」
悔しい。仕方がない……! 背に腹は代えられないわ!
暖を取るのよ。余計なことは考えない。服が乾いたら着る。それから離れればいい。いま無理をして、また運ばれる羽目になるほうが情けない。
元の場所へ座り直し、背中を預ける。腕が伸びてきて、びくりとした。逃れようと腰を浮かせると毛布に隙間ができて、また寒い。
悔しい。温かい。悔しいけれど、この場から離れたくない。
「まあ、服が乾くまでの辛抱だ。いい男に抱きしめられて温まるのも、女にとっちゃ悪くねえだろ?」
「……口を開けば自惚ればっかり」
素肌から伝わる熱に、強張っていた背中が緩んだ。胸も腕も逞しく、少し体重を預けた程度では動かない。固い筋肉の感触に落ち着かなくなり、冷えた指を毛布にしまい込む。
温かい。こうしていると、手足が少しずつ楽になる。さっきの吹雪の中へ戻ることは、もう考えられなかった。
顔が整っていることも、認めないわけにはいかない。焚き火に照らされた鼻筋を見上げて、慌てて目を戻した。
何を品定めしているのよ、私。
ジュリアン様。私には、命を捧げてお仕えすると誓ったあのお方がいる。
助けられて、うれしくなっているだけでしょう。今夜はひどい目に遭いすぎた。気が弱くなるのも仕方がない。
落ち着こう。まず温まって、それから考えよう。
◇◇
薪の爆ぜる音に、肩が跳ねた。
まだ身構えていたのだと、自分で気づく。何も起きていない。腕は、さっきと同じところにある。ときどき毛布を直すほかは、動く気配もない。
酒の匂いはする。聞こえてくる話も、褒めているのかからかっているのか分からない。けれど、警戒していたようなことは起きなかった。
一時間。二時間。
何の反応もなかった。肩を支える腕はそのまま。毛布の下へ手を差し入れることも、胸や腰に触れてくることもない。
火にくべる薪の数を見て、時間が経ったことを知る。服はまだ湿っていた。そちらへ手を伸ばすと、冷たいから触るなと止められる。毛布の端も、肩からずり落ちる前に直してくれた。
そんなふうに普通のことを言えるのなら、最初からそうしなさいよ。
目が覚めたときは、何をされたのかと怖かった。いまは、何もされていないと分かる。
その違いは大きかった。
首を後ろへ向ける。残った右目は、岩屋の天井を見ていた。
「………………」
「グリム…………」
「あ? ……グビグビ……ヒック」
まだ飲んでいる。
酒瓶を持つ手にも、肩を支える手にも、落石の傷は見当たらない。無事でよかった。あんな大きな岩を、どうやって避けたのかしら。
聞きたいことはあったが、先に言うべきことがある。
「……………ありがと」
「礼を言われる筋合いはねえよ」
「ううん……助けてくれたこともそうだし。その……手を出さないでいてくれたことも」
身体が温まって、ようやく思い出せるようになった。落石が当たった痛み。立てなくなった足。頭の上に迫った岩。
あそこで私は、何もできなかった。
「言ったろ。他人に惚れてる女を力ずくで奪うのは、俺の趣味じゃねえってな。……確か、童話の『人魚姫』は、美しい声を魔女に差し出して陸の上に上がったんだったか。だが……お前は、実にいい声をしているな」
「アンデルセン? 神もどきにしては、ずいぶんと近代の物語を知っているのね」
「所詮はモドキだからな。流行り物には目を通すさ。……お前こそ、そんな身体で、一体誰にそこまで尽くしてるんだ? 人魚姫モドキ」
モドキじゃないわよ。
いつもなら、すぐ言い返すところだった。いまは、別の言葉が出てきた。
「……………私は、昔ね」
あの砂浜のことを、人に話すのは久しぶりだった。
釣り針が痛かった。息ができなくて、海へ戻りたくて、けれど身体は思うように動かなかった。砂の感触を覚えている。照りつける日の眩しさも。
そこへ手を伸ばしてくれた人がいた。
私を見下ろす目に、面白がる感じはなかった。弱っていた私を海へ返してくれた。
水に包まれたとき、ようやく生きられると思った。
忘れられるはずがない。
「砂浜で……命を助けられたから。あの人のためなら、海を捨てても、どんな戦いに巻き込まれても構わないって……そう思ってここまで生きてきたの」
あの方の役に立ちたかった。
救ってくださった命を、今度はあの方のために使いたい。それがうれしかった。
海闘士になって、名を名乗って、おそばに仕える自分を誇らしく思えた。
つまらない、と言われたら嫌だな。
恩を返したい気持ちと恋を間違えているのだと、そんなふうに決めつけられたくなかった。
「……そうか…………」
それだけだった。
ほかに聞いてこない。相手の名も、どんな身分なのかも。私の話を途中で笑うこともなかった。
胸の前に回された腕に、少し力がこもる。背中が肌に触れ、頬が熱くなった。振り返ると、すぐ近くに肩があった。
「あ……………そんなに強く抱きしめなくても、もう寒くはないわよ……?」
「……嫌か?」
「……………………」
答えなければいけない。
寒いから仕方がないと、さっきは自分に言い聞かせた。
離れたいなら離れられる。
「……………………いいえ。嫌じゃないわ」
この男は、本当に狡い人。
たったそれだけで、こんなに恥ずかしくなるなんて。
からかわないで。そのまま、聞かなかったふりをしていてほしい。
ジュリアン様のことを、思い出さなくなったわけではない。命を助けられた日のことも、お仕えすると決めた気持ちも、そのままある。
それなのに、ここにいたい。
何と呼べばいいのだろう、この気持ちは。
◇◇
「『永遠の君に願う……時よ止まれ』……ってな」
今度は何の冗談だろうと思った。けれど、横顔は焚き火へ向いたままだ。酒場で聞いたときのような、間延びした声ではなかった。
「……ゲーテの『ファウスト』? 本当に意外だけど……アンタ、教養があるのね」
「ふん………言ったろ? オーディーンは武の神であると同時に、詩と『知恵の神』でもあるんだぞ?」
まだオーディーンもどきを続けるつもりなのね。
続きが気になった。知っている言葉なのに、この男の口から聞きたくなった。
「で? ……その有名な詩の、続きは?」
瓶を置く音がした。
こちらへ向いた右目を、近くから見返す。笑っていない。
聞かなければよかったかもしれない。
そう思ったのに、目を逸らせなかった。
「お前は…………誰よりも、美しいからだ」
「っ…………」
心臓の音が大きい。
美しいと言われたのは初めてではない。酒場のお客にも言われた。この男にも、さっきから散々言われている。
いまは、同じ返事ができない。
当たり前でしょうと威張ることも、からかわないでと怒ることもできなかった。褒められたことが、ただ、うれしい。
泥で汚れて、包帯を巻いて、髪も乱れたままなのに。
私は、この男に。
「……アンタも…………ずいぶんと、いい男よね」
「…………………………………………ああ。よく言われる」
やっぱり自惚れ屋だ。
「いつから? ……いつから私のことを、そんなふうに見ていたの?」
答えを聞くのは、怖くなかった。
うれしい答えを期待している。そのことを、もう否定できない。
「一目惚れだ。あの酒場で、威勢よく酒を運んでいた時からな。………………お前は?」
「…………………………」
路地で助けてくれたときは、礼を要求する嫌な男だと思った。地下道では、本気で置いていこうと思った。あのときから好きだった、なんて言えない。
助けられたから好きになる、という話にもしたくない。
乱暴な冗談は嫌い。酒臭いのも嫌。人の身体のことを勝手に言う癖も、直させてやる。
それを言えば、またあの調子で笑うのだろう。
その顔を、明日も見たいと思った。
一緒に朝の話をしたい。何を食べるか、どの道を歩くか。そんなことを、この人と話したい。
ああ。分かってしまった。この人が好き。
ジュリアン様のお顔を思い出すと、胸が痛んだ。そんなはずはないと否定したくなる。
けれど、目の前の男から離れたくない。
名前を呼んでほしい。もう一度、私を見てほしい。
こんな気持ちは、誤魔化せない。
「………………………今よ」
言えた。
顔を隠したい。けれど、どんな顔をしているのかも見たい。ゆっくり身を離すと、すぐそばに右目があった。
毛布を握っていた指をほどき、首の後ろへ回す。近づく顔を見上げたまま、目を閉じた。
ああ……きっと私は今――恋をしてしまった。
【アッシュの用語集】
■グリム
黒髪と眼帯が特徴の謎の男。
かなりの酒好き。
古いアスガルドの道を知り、数百年前のことまで妙に詳しい。
左目は、本人曰く「自分から差し出したようなもの」。
……情報を並べると、かなり怪しいな。
■グリームニル
北欧神話において、オーディーンが人間界を旅する際に用いた名の一つ。
「仮面をつけた者」といった意味でも知られている。
グリム?
偶然かもしれない。
偶然ならな。
■オーディーン
アスガルドにおいて最高神として崇められる存在。
武だけでなく、知恵や詩とも深く結びつく神。
隻眼でも有名。
…………。
いや。
まだ何も断定していないぞ。
■ジュリアン・ソロ
テティスが長く慕い続けてきた青年。
幼い頃、傷ついたテティスを海へ返し、その命を救った。
その恩と恋心は、テティスが海闘士として生きる大きな理由になっている。
だからこそ、今回芽生えた感情は本人にとって簡単なものではない。
■『ファウスト』
ゲーテによる文学作品。
今回グリムが、その有名な一節を口にした。
酔っ払いだと思っていた男が突然古典文学を語り始める。
テティスでなくても驚く。
■人魚姫の恋
ずっと一人の相手を想い続けてきたテティスの胸に、別の感情が芽生えた。
本人が出した答えは
……恋というのは、理屈通りにはいかないものらしい。