聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜 作:斉宮 柴野
これでようやく、ワルハラ宮へ堂々と潜入できる!
しかし――。
グリムとアンドレアス。
二人の過去には、何やら大きな秘密が……?
君は、小宇宙を感じたことがあるか!
……朝からよく飲むわね。
そのお酒、少し控えたら? と口を開きかけて、やめた。昨夜から一緒にいるくらいで、急に奥さんみたいなことを言うのも変でしょう。
……何を考えているの、私。
髪に指を通すと、途中で引っかかった。痛い。こっちは櫛すら持っていないのに、あの男は寝起きの顔も様になっている。ずるい。せめて口元のにやにやをやめなさいよ。
何か言いたいなら言えばいいでしょう。
ああ、駄目。顔を見ると、昨夜のことを思い出す。
私。耳元で、今よ、なんて。
……よし。仕事の話をしよう。
「……ヒルダ様に会いたい……ねえ」
「そうよ。そのためにわざわざ海を越えて、この極寒の地までやって来たんだもの」
「何のためにだ? 宮殿の連中から追われてまで、会う理由があるのか?」
「ポ……いえ、とにかくアスガルドを離れるわけにはいかないのよ。何としてもワルハラ宮に足を踏み入れなきゃいけないの!」
危ないっ!
何を言いかけているのよ。相手はアスガルドの人間なのよ? 海皇様の命令ですと白状して、どうするつもり?
しっかりしなさい、テティス。
「まあ…………お前ほどの別嬪なら、ヒルダ様も大歓迎だろうよ。……『お気に入りの情婦』としてな」
「この野郎……! もう少し淑女に対する配慮のある言い方ができないわけ!?」
人を売り渡す相談じゃないのよ!
ふかふかのベッドでお待ち兼ね。あんな招待の仕方がある? 門を叩いた途端に寝室へ案内されたら、どうすればいいの。
「事実を言ったまでだ。あのお方は今、国中から美女を囲い込むことに全力を注いでいらっしゃるからな。……で、どうやって宮殿に入り込む気だ?」
「だから、そうやって囲われないように、安全に接触したいのよ! それに……実は、私の知り合いも今、ワルハラ宮にいるはずなのよ!!」
「……へえ。知り合い? そいつの名前は?」
シードラゴン様。
……言えるわけがないじゃない!
その名を聞いて、へえ、お友達なのか、で済ませてくれる人だったら苦労しないわよ。海将軍筆頭のお名前よ?
あのお方なら、今頃は敵の中枢に入り込み、冷酷非道に暗躍していらっしゃるはず。
私のせいで正体を暴かれたら、海に帰れなくなる。
ソレント様もイオ様も駄目。三人とも駄目。こんなことなら、連絡用の偽名を決めておいてほしかったわ……。
「………………言えない」
「………………」
うう。その目。
せめて何か言ってよ。じっと見られると、余計なことを喋ってしまいそうになるじゃない。
「うっ……! そ、そんな目で見ないでよ! 怪しすぎるのは自分でも分かってるんだから!!」
断られるかしら。名前も目的も明かさず、宮殿に入れてくださいなんて、虫がよすぎるものね。
服を乾かしてもらった。傷の手当もしてもらった。ここから町へ下りる道を教われば、あとは自分で――。
「はあ…………やれやれ。惚れた女にここまで頼まれちゃあ、放り出すわけにもいかねえな。――おいテティス。俺の義理の弟を紹介してやる」
……惚れた女。
そう。朝になって急に気が変わったりはしていないのね。
よかった。
……ん? 弟?
「弟さん???」
「ああ。血は繋がってねえが、昔からの腐れ縁でな。あいつは今、ワルハラ宮の宮廷医師をやってる。顔も広いし宮殿の出入りも自由だ。あいつに頼めば、ヒルダ様への橋渡し役くらいは手配してやるよ」
宮廷医師!?
もっと早く紹介してよ! 昨日あの穴に入る前に!
いえ、あの穴に入らなかったら、昨夜は……。
いやいや。それとこれとは別! 生き埋め寸前だったのよ、私たち!
宮廷医師なら、兵隊とも顔見知りのはず。ヒルダ様に取り次いでくださいと頼める。
追い回されずにお会いできるのなら、こんなにありがたい話はない。
「本当!? 嬉しい!! ありがとう、グリム!!」
両手で握ると、指が余った。大きな手。
昨夜、この手に抱かれて眠ったのだ。……また考えている。何度思い出せば気が済むのよ。
「へいへい。その代わり、命を助けた礼と今回の仲介料だ。キス十回か、ベッドイン三回で手を打ってやるぜ?」
十回。ずいぶん細かく数えるのね……。
あ、近い。そんな顔で覗き込まないで。昨日なら頬を張っていたわよ。昨日なら。
もう、分かっていて聞いているくせに。
「………………後でね」
「………………むう」
……あら?
その顔は何。
聞こえなかった? 言い直すのは嫌よ。こっちは精いっぱいだったんだから。
「……何よ?」
「いや……お前さん、そういう時は『死ね変態!』って角材でも振り回して怒鳴り返してくれないと、こっちの調子が狂ってつまらんだろ……」
「からかわないでよ!! 恋する乙女の純情を馬鹿にするなぁーーーーッッッ!!!!」
ううう!
取り消し。さっきの返事は取り消しよ。弟さんを紹介してくれるのはありがたいけれど、それはそれ!
笑うな! 人が恥ずかしいのを我慢して返事をしたというのに!
◇◇
……靴、脱いだ方がいいかしら。
床がきれいすぎる。コートの裾から落ちた泥を、さりげなく靴先で寄せておく。
白衣の先生は、赤い髪もきちんと整っていた。机には揃ったカルテ。薬瓶にはラベル。ああ、よかった。ちゃんとした人のお家だわ。
この人が義理の弟さんなのね。グリムの酒臭さを注意してくれると助かるんだけど。
「で…………早朝から私のところへ転がり込んできたと?」
「おー、そういうことだ。ロ――」
目の前を分厚い本が横切った。
「ぐべらっ!?」
ひっ!は、鼻。鼻から血が出ている!
「おや、手が滑りました。余計なことをその汚い口先から滑らせようとするのは……この口かな???」
滑っていませんでしたよ、手。しっかり握っていましたよ。
医学百科事典……それ、人を殴るための本じゃありませんよね?
さっきの安心を返してほしい。
私、何も言っていませんからね。ロ、の続きも聞こえていませんからね。
「初めまして、麗しの小魚さん。宮廷医師を務めております、アンドレアスと申します。……忠告しておきますが、あまりこのグリムという男に深入りしない方が賢明ですよ? これに見えて、一度ベッドに連れ込めば三日三晩寝かせてくれないくらい、獣のように激しい男ですからね」
…………はい?
しかも小魚って何。人魚姫の次は小魚? 兄弟で勝手に呼び名をつけないでくださる?
「てめぇ、いつの女の話を持ち出してやがるんだ!! あることないこと吹き込むな!!」
……いたのね。そういう女性が。
「おや、否定はしないのですね。……で、またそうやって新しい女を引っ掛けてきたと。懲りない方ですねえ。今回の獲物は、南の海から迷い込んだ小魚さんですか……」
獲物じゃありません。
昨夜、私から……ああ、もう!!
そもそも、この先生に関係ないでしょう。昔の女のことも、後で本人に聞くわ。
何人いたのか。みんなに一目惚れと言っていたのか。
……聞いたら聞いたで、腹が立ちそうね。
「…………小魚じゃありません、テティスです」
「これは失礼、テティスさん。……まあ良いでしょう。貴女がワルハラ宮へ行きたいのであれば、そう難しい話ではありませんよ。私が今日から雇い入れた『臨時助手兼看護師』ということにして、正規の身分証明書を発行してあげましょう。それを持って、私の往診に同行すれば堂々と正門をくぐれます」
……本当に? それでいいの?
裏口を探さなくていい。兵隊に追いかけられない。狭い穴に胸を押し込まなくていい!
「やったーーーーっ!! 入れる!! ……はっ! ごほんっ! ありがとうございます、アンドレアス様!」
深く頭を下げたら、包帯の下が少し痛んだ。うっ。浮かれすぎた。
看護師か。職歴ばかり増えていくわね。
注射を頼まれたら困るけれど、荷物持ちならできる。お名前を呼んで患者さんを案内するくらいなら。ええ、働きます。宮殿へ入れるのなら、喜んで。
「ふん……今更猫を被ったって、手遅れだろうがよ」
あんたは少し黙っていなさい。
私だって、きちんとご挨拶くらいできるんです。
「まあまあ、いいではありませんか。女性の愛嬌というものですよ、オー――」
今度は机の下で、嫌な音。
「ぐふっ……!?」
痛そう……!
覗く脛を見て、思わず自分の足を引っ込めた。蹴ることないでしょう。
お医者様が歩けなくなったら、今日の往診はどうするの。
「……お互いに、口の軽さは厳禁だぜ、義弟(おとうと)よ」
ロ、と、オー。
……何なの、その呼び名。
グリムのグですらないじゃない。また隠し事?
ちょっと、気になってきたんだけど。
「……相変わらず、情け容赦のない蹴りですねえ……。ふふ……で、貴方は一体、何を企んでいるのです?」
「企むのは、元よりお前の専売特許だろうが」
「おや、心外ですね。何のことやらさっぱり分かりかねますよ?」
あの、お二人とも。
私の身分証明書は、いつ受け取れば……。
「とぼけるな。……『世界樹(ユグドラシル)』はどうなっている?」
探っちゃ駄目。うっかり手を出したら、こっちの気づかれたくないものを全部知られてしまう。
……もう知られている?
南の海。小魚。さっきから、やけに言い当ててくるじゃない。
「………………。まだ…………その『時』ではない……ですかね」
「??? ちょっと、アンタたち……さっきから何の話をしてるの? 世界樹って、北欧神話の伝説の……?」
返事をしてよ。
私、すぐ隣にいるんだけど。
グリム。ねえ。窓の外じゃなくて、こっちを見て。
「冥府の暗闇を飛び立ち、虹の橋(ビフレスト)を越え……新たな太陽の光を、俺はもう一度この目で見たいのさ」
……どうして、そんな声で言うの。
急に遠くへ行かないでほしい。さっきは変な冗談を言って、私を怒らせていたでしょう。あれくらいでいいのに。
冥府って、死者の国のことよね。そこにいたの? 誰かを置いてきたの?
聞きたいのに、口が動かない。
「……それが、この小魚さんですか? くくっ……あははは! なんて皮肉なことでしょう。願い求めた曙光の先が、海の捨て駒とは。……救いなど、永劫に貴方には訪れないというのに」
捨て駒?何も知らないくせに。
命を預けるお方は、私が選んだのよ。あなたに憐れまれる筋合いはないわ。
……なのに、なぜ海の話をするの。
「………………」
違うわ。昨夜は自分の恋の話をした。あの話を聞いて、仲間に売るために抱きしめてくれる男じゃない。
……違うわよね。
ねえ、何か言って。
どうして黙っているの。私だったら怒るわ。鼻血を出したときより、ずっと怒る。
「まあ……良いでしょう。貴方がそこまで本気になったというのなら……手を貸して差し上げますよ。……ふっ、貴方とこうして同じ盤上に立つのは、黄昏以来ですねえ」
「…………………それでも……な。暗い運命なんぞに、いつまでも縛られて生きてられるかってんだ」
……うん。
嫌なら、やめればいいわ。誰に何を言われたのか知らないけれど、あなた自身のことでしょう。
昨夜の私にも、好きな相手のことを聞いてくれた。
あなたの話も聞きたい。
小魚には分からないと、そう言うつもり?
「――っと! テティス、悪いな! 俺たち義兄弟は、昔からこういう詩的で思わせぶりな掛け合いをするのが趣味でな!!」
……嘘つき。
さっきの顔を見せられて、それで納得すると思うの?
そんなに聞かせたくないなら、外で待てと言えばよかったじゃない。我慢したわよ。
「詩的か何か知らないけれど、私を放置して二人だけで盛り上がるとはいい度胸ね!! あんなに情熱的に『お前は誰よりも美しい』とか愛を語ってたくせに!!」
……あっ。何を口走っているの、私。
違うのよ、取り合ってほしくて言ったのよ。言いふらしたかったわけじゃないの。
ああ、こっちを見た。お願い、その顔で笑わないで!
「おお! 我がテティス!! 麗しき海の人魚姫よ!! お前のその怒った瞳さえも愛おしく、私の胸は今にも張り裂けそうだァァァッ!!」
膝をつくなっ!
……もう。 その顔なら、知っている。
昨夜も今朝も、散々私を怒らせた顔。ちゃんと目の前にいる。勝手にどこかへ行ったりしない。
「……はあ。この男の真面目モードは昔から『三分』しか持たないんだから……付き合うだけ時間の無駄ですよ、小魚さん」
「だから小魚言うなーーーーッ!!」
【アッシュの用語集】
■アンドレアス
ワルハラ宮に出入りする宮廷医師。
赤髪に白衣。
物腰も穏やかで、仕事も几帳面。
一見すると非常にまともな医師だ。
一見すると
グリムとは昔からの義兄弟らしい。
……どれくらい昔なんだ?
■臨時助手兼看護師
今回テティスが与えられた仮の身分。
アンドレアスの往診へ同行することで、正規の身分証を使ってワルハラ宮へ入れる。
最初からこれで良かったんじゃないか?
■世界樹(ユグドラシル)
北欧神話において、世界そのものを支える巨大な樹。
アスガルドとも非常に縁が深い。
今回、グリムはアンドレアスへその状況を確認していた。
なぜ宮廷医師と酔っ払いが世界樹について秘密の話をしているのか?
俺も知りたい。
■虹の橋(ビフレスト)
北欧神話に語られる、神々の世界と他の世界を結ぶ橋。
今回グリムは、
「冥府の暗闇を飛び立ち、虹の橋を越え、新たな太陽を見たい」
と語った。
……ずいぶん意味深だな。
■黄昏
アンドレアスが口にした言葉。
曰く、グリムと同じ盤上に立つのは「黄昏以来」
北欧で神々の黄昏と聞けば、思い当たるものはある。
だが――。
今はまだ、本人たちの口から聞くまで黙っておこう。
■小魚
アンドレアスによるテティスの呼び名。
本人はかなり気に入っていない。
グリムは「人魚姫」
アンドレアスは「小魚」
テティス。名前を覚えてもらうまで頑張れ。