聖闘士星矢異伝 〜聖域なき聖域改革、時代遅れの場所には住みたくない〜   作:斉宮 柴野

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闇の底で呼び合う名、重なる拍。
黄金の風が戻り、見えない弦が鳴る。

アイオロス「愛している。だから守る」
翔子「愛している。だから応える」

義は弦、望みは矢。
紫の波を切り割き、絶望の手首を撃ち抜け――
黄金は帰還し、心はひとつ。
さあ、運命ごと貫け!


闇より還る黄金!射手座、願いの矢を番えよ!

(アイオロス視点)

 

 

――闇だ。

 落ちているのか、沈んでいるのか、そもそも世界が消えたのか、判断がつかない。視覚も聴覚も嗅覚も、まとめて刈り取られたみたいに静まり返り、触れればあるはずの床すら手の記憶でしか思い出せない。

 

魔矢の毒が五感の回路を切った――事実は一行で足りる。だが、その一行の冷たさが、俺の全身を占めていた。

 

 暗がりの底に刃より細い声が落ちた。

『なぜそこまでして一人の女を助ける? 聖闘士とは英雄だ。慈愛は世界に注げ。特定の一人への色恋にうつつを抜かす者は、真の聖闘士ではない。敗れた者に情けは不要――それが戦士の道だ』

 

 敵の残響か俺の臆病が生んだ影か。どちらでもよかった。

論は冷たく、芯に刺さる。俺はアテナの聖闘士。地上の愛と正義を守るため、非情を選ぶ場面も知っている。翔子への想いが俺を鈍らせたのか? 眉先ほどの揺らぎが、いまの転落を招いたのか?

 

 胸奥で灯が細る。消える前の炭みたいに赤黒くなったとき、別の音が入ってきた。

 

『立て、アイオロス』

 がらりと乾いた声。軽口の奥で現実に手をかける――デスマスクだ。

 

『美は折れるためにある言葉じゃない。おまえの美学は、起き上がる形のほうを選べ』

 香りを連れた声。刃先まで端正――アフロディーテ。

 

『言葉は要らん。来い』

 短く鋼の質感――シュラ。

 

『勝ち方を設計しろ。義務の前に、決心を置け』

 低く整った律動――アッシュ。

 

『……愚か者め、ここで終わるな』

『友よまだだ。おまえはそこでは終われない』

 サガが俺の名を叩く。

 

 笑いが喉の奥で無音に弾ける。火がぽっと灯った。炭の赤が、芯から明るさを取り戻す。

 

(俺は希望の聖闘士だ。ここで消える柄じゃない)

 

 闇の肌理が粗くなる。

 

 

 

 

 

 そこで、別の問いが俺の内側から上がる。

『……本当に?』

 

 アフロディーテの問いが重なる。「おまえ自身の望みは何だ? 一人の男として、今何を望む?」

 デスマスクが嗤う。「“地上の愛と正義のため”なんて看板、風が吹けば飛ぶ。動くのは“おまえがやる”と決めたからだ」

 シュラは傍らに立つだけで、覚悟の重さを分けてくれる。

 アッシュの言葉が、順番を整える。「目的→設計→実装。逆走するな」

 そしてサガの声が、最後の敷居を軽く跨がせる。「踏み込め」「迷うな」――いや、ここは言い換えよう。俺は、決める。

 

 アテナを守る気持ちに嘘はない。何度でも命を張れる。では翔子は? “同じ天秤に載せるな”と教えられてきた。だが――

 

(違う)

 

(義務だから守るんじゃない。愛だから守る。愛があるから、義務を胸に入れられる)

 

(俺は――翔子を守る)

 

 はっきり言葉にした瞬間、刃が骨に変わる感触があった。決心は内側から体幹を組み替える。

(アテナも守る。地上も、聖域も、アッシュとの約束も。だが最初の矢印は俺の望みから出す。俺は一人の男として翔子を守る――それでいい)

 

 火は一度だけ強く唸り、黒い毒の糸に触れた。ここで“焼く”と決める。比喩でなく、現実の感覚で。一瞬、耳奥の圧が抜け左の人差し指がじりと痺れる。

 

喉の裏側に温い筋が通った。燃やし尽くすというより、凍った配線に通電する手応えだ。

 

 音が先に戻る。石の軋み、砕けた柱の粉が転がる微音、遠くで小宇宙が擦れる気配。匂いが続く。血と古香と砂。視界はまだ薄い白膜の向こう側だが、輪郭が滲みから線へ変わり始めた。

 

 肘を引く。膝に重みを乗せる。筋繊維が“勤務再開”の印を押し合う。そこへ別の現実が差し込む。――聖衣がない。裸身は理不尽に対して脆い。ジャガーの蹴りをもう一度もらえば、骨は素直に折れるだろう。

 

 呼ぶしかない。命令ではなく、告白で。義務の文法じゃなく、望みの言葉で。

 

 俺は胸に火を集め、天に声を投げる。

「答えろ、俺の小宇宙! どこまでも燃えろ、究極まで高まれ!」

「そして、ここに来い――射手座(サジタリアス)の黄金聖衣!」

 

 呼んで来なかった。あのとき足りなかったのは出力じゃない。“願い”だ。心の配列が空欄を抱え、俺自身がそれを見ないふりをしていた。聖衣は見抜く。だから来なかった。

 

 今は違う。空白に最初の言葉を置いた。――翔子を守る。俺の本位は埋まった。

 

 城戸邸の静かなガラスの箱の中で、眠っていた黄金が目を開ける。矢羽根が震え、胸甲が低く唸り、肩当てが星光を寄せる。金属は歩かない。跳ばない。ただ、帰る。主の小宇宙へ。

 

 夜を裂く光条。天蓋の破れ目で一瞬だけ白さがはぜ、黄金の筋が神殿の空へ針を通す。

 光は俺の前で停まり、きちんと呼吸のテンポを取ってから、音もなく分解した。肩、胸、腰、脚――星座の歯車が関節に噛み合いトルクを配る。潮

の重みが均等に背へ載り、歩幅のバランスが自然に定まる。金の輪郭は、最初から俺の骨に刻まれていた設計図をなぞるみたいに、ぴたりと合った。

 

 拳を握り、開く。耳奥の圧はもうない。指先の痺れは、走るための合図に変わった。視界は完全に澄む。砕けた柱の断面、古い修復の筋、床石の微かな起伏まで数えられる。

 

 そのとき、神殿のさらに奥――紫の小宇宙が強く脈打った。エリス。重く冷たい波が、境内の石をひとつずつ撫でる。そして、その波の縁で、青い火が震える。翔子だ。細いが折れていない。むしろ、押し返そうとしている。

 

 脚が前へ出る。ここで「迷わない」と言い足す必要はない。走るという事実が、すでに答えだ。

 

 廊を抜ける間、別の残響が肩に降りる。次元の継ぎ目、ジャガーが残した蹴りの軌跡、デスマスクの笑い、アフロディーテの花粉、シュラの短い頷き――全部が俺の背を押す。押されて進むのではない。押し当ててくる世界に、こちらが応えるのだ。

 

 広間の入りに立つ。紫と青がぶつかる。青の中心に、彼女の名がある。

「翔子」

 

 その二文字だけで十分だ。振り返る必要も、説明も要らない。俺は弓を取る。目に見えない弦が張られ、指がその反発を確かに掴む。

 

 狙うのは神の額でも、誰かの喉でもない。――絶望だ。人の背後に隠れて喉を締める、見えづらい黒い手。それを撃ち抜く。

 

 俺は吸う。吐く。その拍で、聖衣がきれいに明滅した。合図は整った。ここから先は、言葉じゃなく小宇宙で話す。

 

 ひとつだけ、夜の名残が耳を掠めた。最初に俺を刺した“声”だ。『色恋にうつつを抜かす者は――』

 笑える。今の俺には、その糸はもう絡まない。色恋と呼びたければ呼べばいい。俺は、それを“矢の芯”と呼ぶ。芯が定まれば、射はぶれない。ぶれない矢は、戦場を救う。

 

 弓を引き切る。

 矢が起つ。

 黄金の肩甲が、空気の角をやわらげる。足元の石が、飛び出した先端を受け止める。背骨にかかった潮の重みは、もう負担じゃない。力の配分を教えてくれる師だ。

 

 俺は走りながら、心のどこかで短く祈った。アテナ見ていてくれ。

 

これは義務でも赦しを請う儀式でもない。俺の望みを、俺の戦いの真ん中に置く宣言だ。

 そして翔子。遅くなった。けれど、間に合わせる。間に合わせるために、ここにいる。

 

 広間の中心で、紫がうねり、青が刺し返す。神の笑いは冷たく、少女の歯は食いしばられ、床の砂は僅かに鳴く。俺はその全部をまとめて視界に入れ、余白を捨てる。必要なものだけを残し、撃つための線だけを立たせる。

 

「――行く」

 

 声は小さく、しかしはっきりと前を指した。

 矢が離れる。見えないはずの軌跡に、金の筋が一瞬、霜のように残る。

空気の膜が裂け、紫の波の間に一本の道が通る。絶望の手首が、そこで確かに切れた。

 

 音は遅れてやって来た。耳奥に柔らかな圧が乗り、すぐ抜ける。指先の痺れは消えた。かわりに掌の中央が熱い。そこに、さっき抜いた“願いの矢”の根元が、まだ脈打っている。

 

 俺は一歩、さらに前へ。

 暗闇はもう遠い。孤独も。

 足元には、確かな影ができている。影があるということは、光があるということだ。光は、前に射すためにある。

 

 さあ、続けよう。

 俺が選んだ順番――男の望み、聖闘士の義務、その二つを同じ心臓で打ち鳴らす順番で、未来を開ける。

 

 開いた道の先で、紫がわずかに揺らいだ。女神の視線が、こちらを警戒から計測へと変える。俺の矢は神を殺すためではない――だが、神の足場を崩すための速度は持っている。波の整合が一瞬崩れ、そこへ青が入り込む。翔子の小宇宙が、細いのに芯の通った音で鳴った。たぶん、彼女は歯を食いしばりながら、ほんの少しだけ笑った。そういう時の顔を俺は知っている。

 

 身体は完全ではない。右のふくらはぎに残った硬直が、一歩ごとに軽く軋む。胸骨の真ん中が、かち、と小さく鳴って位置を合わせ直す。だが、動きの見取り図は戻った。耳の奥の静けさが、敵の呼吸の速さを拾ってくる。指の腹は、空気の密度の差で距離を測る。戦える。いや、戦う。

 

 ふと、視界の端に砕けた柱が見えた。あのときジャガーに叩き付けられ、ようやく意識を確かめた場所だ。倒れている間、誰かが俺を動かした痕跡がある。

 

 

 紫の波が、苛立ちを帯びた。エリスが言葉を投げる。「英雄が、個に囚われるな」――理屈はさっきの声と同じだ。だが、いまの俺にはもう届かない。俺の矢は、英雄の看板では引けない張力で張ってある。個に囚われるのではない。個から世界へ矢印を引き直すのだ。個を守るために、道を作る。そう決めた。

 

 翔子が、俺の名を呼んだ。目は合わない。だが、確かに呼んだ。青の中に俺の名前の形ができ、ほどけて、またできる。俺は短く返す。「ここにいる」。言葉はそれだけでいい。長くすればするほど、矢の起点がぼやける。

 

 聖衣が、胸の上でわずかに熱を上げた。星座が回転する音がする。肩口で、小さなクリック音が連続し、機械ではないのに機械的な整合が進んでいく。俺の呼吸と、翔子の拍と聖衣の光が、三拍子で揃う。

 

 紫の波が、正面から押し寄せた。間に合う。足を半歩ずらし、肩のラインで受け流し、空いた斜めの溝に青の筋を通す。俺が作った道を、翔子が使った。それでいい。俺の矢はいつでも誰かに使われていい。結果として守れれば、それが一番早い。

 

 エリスが舌打ちをした気配。女神の冷笑は温度を持たないが、苛立ちは熱を持つ。熱は膨張する。膨張は隙になる。そこへ、俺は次の線を引く。絶望のもう片方の手首へ。

 

 矢はまだ放っていない。だが、胸の“願い”は二本目を生んだ。俺の中で、願いは増殖する種類の燃料だ。増やし方を間違えなければ、力は濁らない。濁らせない。

 

 ここで一度、深く息を吸う。鼻腔に、砕けた石の粉の匂いと、金属の薄い匂いが混ざる。耳の奥で、圧がゆっくり抜ける。左の薬指が、弦を恋しがって震えた。それで十分。感覚は戻った。五感を逐一確認する必要はない。使えるものから使えばいい。

 

 俺の背後で、見えない誰かが微かに笑った気がした。デスマスクか、アフロディーテか、あるいはシュラか。誰でもいい。俺は前だけを見る。

 

 青が強くなった。翔子が、もう一歩自分で立っている。エリスの紫が、その分だけ波形を荒らす。女神は、均衡を好む。荒れは嫌う。ならば荒れを増やす。俺が矢を差し込み、翔子が踏み込み、青と金で紫を糸切りにする。

 

 思い出す。アッシュの声。「目的→設計→実装」。目的は決めた。設計は、今描いている。実装は――この手でやる。

 

 

「翔子、呼べ」

 短く言う。彼女はすぐ分かった。青が丸く膨らみ、次の瞬間、鋭い針になって前を刺す。俺はその針の軌跡に矢を重ねる。二つの線が重なれば、どちらか一方では届かない深さまで入る。

 

 矢が放たれた。今度の軌跡は、霜ではなく、薄い雨の筋みたいだった。音はまた遅れて届き、耳奥で優しく跳ねて消える。紫の波は、確かに一段沈んだ。エリスの気配が低く唸る。

 

 俺はそこで初めて、口角をわずかに上げた。勝利の笑みではない。“間に合う”笑みだ。

 

 もしこの先、さらに深い闇が口を開けても、俺はもう沈まない。沈む前に、誰かの名を矢にして射てる。俺自身の望みを芯にして。義務は、その周りに美しく巻かれる。そういう順番で、これからも戦う。

 

 俺の中に、見えない矢が一本補充された感じがした。数えない。必要なときに、必要な分だけある。それが今の俺だ。

 

 さあ、もう一歩だ。紫の根はまだ太い。だが、太い根ほど切り口は大きく見える。狙いは簡単だ。恐れず、正確に、まっすぐに。

 

 黄金聖衣が肩で短く鳴いた。合図だ。俺は小さくうなずき、前へ出る。

 

 

 

 

(翔子視点)

 

 禍々しい玉座の間と、畳の匂いが残る家の道場が、空の色だけ同じみたいに重なっている。柱は黒曜石、床は板間。掛け軸の「心技体」と、蛇の紋章が同じ壁を奪い合って見ているだけでくらりとする。

 

 外の現実では、四本の黄金の光が立ち上がっていた。目を閉じているのに、まぶたの裏が金色で熱い。あの人たちの決意が、ここまで届いている――そう分かるだけで胸が勝手に呼吸を深くする。

 

 玉座に脚を組んで座るエリス(私の身体)。彼女は私の視界の奥から、外の光を眺めて口角を上げた。

「フン……見事な小宇宙ではないか、ショーコ。人間は争い、憎しみ合うときほど、美しく輝く」

 

「違う……!」私は道場の隅、擦り切れたミットを抱くみたいに拳を握った。「あれは憎しみの光じゃない。誰かを守りたいっていう、希望の光だよ。アイオロス君も、みんなも!」

 

 言い切った瞬間、胸の奥で金色の火が一つ跳ねる。四本柱の中でもとりわけ一本――弓を引く気配が、私の名前を呼んでいる。聞き違えようがない声。

 

「翔子。待たせた」――あの人だ。

 

 エリスは鼻で笑った。

「希望? 守る? 甘い言葉だ。結局それらは、より激しくより悲惨な争いを生むための餌だ。……お前もすぐに知る」

 

 軽い挑発に見えるけれど、声の芯は冷たい。いつもの彼女。私は畳の中央に一歩踏み出して言葉を探した。

 

「どうしてそこまで『争い』にこだわるの? みんなが傷つけ合うのを……本当に、それだけを見たいの?」

 

 問いが落ちた瞬間、精神世界の景色がふっと変わる。玉座の柱が遠のき、白い大理石の回廊、杯が並ぶ宴の広間。きらびやかな輪の一番外、誰も近づかない影の帯に小さな女の子が一人。金の髪を結い、背筋は伸びているのに、手の置き場が分からず彷徨っている。

 

 その子がこちらを見た。目の色は今の彼女と同じ紫だった。

 

 

──エリス視点──

 

 

 ショーコの問いに、歯向かう言葉はいくらでも持っていた。だが舌が先に動く前に、古い景色が勝手に立ち上がる。あの宴の周縁、笑い声の届かぬ位置。私はそこで育った。呼ばれない名、呼び出されるのは不祥事の火消しのときだけ。

 

「……私は、争いと不和の女神として生まれた。それが私の存在理由であり、私のすべてだ。神々からも、人間からも、恐れられ、疎まれ……愛されることは許されなかった」

 

 言うつもりのなかった言葉が、口から出る。黄金の林檎の内側――光も音も削られた長い長い時間。あそこでは、時間がやがて形を持たなくなる。永遠というものが、どれほど寒いか私は嫌というほど知っている。

 

「黄金の林檎の中はな……永遠に続く静寂と、光のない闇だけだった。あまりにも、寂しい場所だったのだぞ、ショーコ」

 

 彼女は息をのんだ。私はすぐに笑いで塗りつぶそうとしたが、笑いは途中でひび割れた。

 

いけない。仮面を失うな。私は争いの女神。しおらしさは似合わぬ。

 

 

 

──翔子視点──

 

 エリスの声から、いつもの棘が少し抜けた。胸がきゅっとなる。道場の壁に、古い写真が浮かぶ。私と、姉の響子。二人で道着、ピンぼけの笑顔。

 

「……私にも、少しだけなら分かるよ。ひとりの寂しさ。私にはお姉ちゃんがいたけど、時々、本気で喧嘩して、嫉妬して、ひどいことも言っちゃった。それでも、最後には『家族』だった。ひとりじゃなかった。それが、いつも私を繋ぎ止めてくれた」

 

 私は幻の写真から視線を外し、玉座の彼女をまっすぐに見た。

 

「あなたが『そう生まれたからそうしなきゃ』って言うなら……本当にそれだけ? 運命かもしれない。でも、どう生きるかは、選べるんだと思う。寂しいなら、寂しいって言っていい。誰かと一緒にいたいって、願っていい」

 

 エリスの肩が小さく揺れた。紫の瞳が一瞬泳ぐ。

 そのとき、現実の天井から重い音が突き抜けてきた。門が砕ける轟き。空気が震え、精神世界の畳の目がさざ波になる。外で誰かが入ってきた。黄金の気配――ひとつではない。

 私は知っている。シュラ君、デスマスク君、アフロディーテちゃん。そして――

 

 

 

──エリス視点──

 

 黄金の気配が一度に押し寄せた。嫌な汗を押し殺し、私はわざとらしく笑い声を重ねる。

「来たか、黄金の虫けらども! 良い、実に良い。最高の争いを始めようではないか!」

 

 ショーコの胸の奥で金の火が跳ねる。射手の気配。あの男はまだ死んでいないのか。いや、先ほどまで沈んでいたはずの灯が、今や堂々と燃えている。私の紫に邪魔な金が一筋、筋を入れてくる。

 

「ショーコ、引っ込め」私は低く命じる。「私が前に出る」

 

「やだ」反射の速さで返ってきた。彼女は畳の中央に立ち、両手を広げて身体の境界を主張する。

「ここは私の心。あなたに全部は渡さない。……怖いなら、怖いって言っていいんだよ」

 

 危うい。言葉の角度が危うい。私の中で、何かがほどける音がした。すぐに巻き直す。

 

 

「黙れ、小娘がァ! 神である私に、人間ふぜいが説教とは、片腹痛い!」

 

 叫びながら、私は別の作業を同時に走らせる。現実の身体への命令を紫の糸で締め直す。ところが――立てない。足の関節が、外の衝撃に応じて震えるばかりで踏み出すという順序に入らない。

 

 ショーコの側でも同じらしい。彼女が“立とう”と命じると、筋肉がその意志を受け取り、しかし次の拍で力が空転する。主導権の拮抗が今の動作を許していないのだ。

 

「……ちょっと」ショーコが眉を寄せる。「今は、あなたでも私でも上手く動かせないの?」

 

「認めたくはないが、状況はそうだ」私は舌打ちした。「ならば次善策だ。精神で先に制圧する。外の侵入者の心を叩ける」

 

「私が話す。あなたは休んでて」

「逆だ。お前こそ退け」

 

 二人で同じ方向へ踏み込もうとして、同じところで膝が笑う。その滑稽さが、ほんの一瞬だけ私たちの口元に同じ形の苦笑を作った。

 

 

 

──翔子視点──

 

 

 笑ってる場合じゃない、のに笑ってしまった。変なの。緊張で手が震えてるのに、胸の真ん中が少し軽くなった。

「ねえ、エリス。さっきの話、続きはまた後ででもいい? 今は――来てるよ」

 

 頭上のどこかで、空気が切り裂かれる。黄金の風。弓を引く気配。名前を呼ぶ声が、私の中をまっすぐ通り抜ける。

「翔子」

 その一言で、足の指先まで感覚が戻るような気がした。いや、気がしただけ。実際の身体はまだ動かない。それでも、心が立ち上がる。

 

「……聞こえてる」私は小さく答える。「アイオロス君。遅くないよ。まだ間に合う」

 

 エリスが目を細めた。私のやり取りに、露骨に神経を尖らせる。

「馴れ合いは終わりだ、ショーコ。あの男は、私の夫(もの)になるに足るかどうかの試金石――」

 

「ならない!」間髪入れずに遮った。「そういうのは、本人の前で言って。私の前じゃなく」

 

 言葉の速さで譲らない。そのとき道場の襖が風に鳴り、玉座の間の大扉が現実で砕け散った。視界の端に、金が走る。

 

 エリスの紫が警戒に変わった。彼女の中で、怒りと戸惑いが行ったり来たりするのが分かる。私は深呼吸をして彼女に向き直る。

 

「エリス。選べるって言ったの、忘れてないよね。あなたが怖いって言ったら、私は笑わない。もし寂しいって言ったら、手を取るよ。……その上で、戦うなら戦う。私はあなたの前で逃げない。あなたも私の前で逃げないで」

 

 彼女はしばらく黙って、やがてゆっくりと立ち上がるしぐさ――のつもりで、肩を張った。現実の身体はまだ動かない。けれど、彼女の“姿勢”は確かに変わった。

 

 

──エリス視点──

 

 

 ショーコの言葉は、まっすぐすぎて目に痛い。だが目に痛いからこそ、曇りなく届く。

 選べる、か。

 

 私は争いの女神として生まれ、争いで自分を保ってきた。争いを否定することは、自己否定と同義だった。だが“選ぶ”という言葉は、否定ではない。別の階段を示すだけだ。

 

 扉が割れ、黄金が入ってくる。金の風が、私の紫を撫でる。矢の視線。あの男。

 胸のどこかが、小さく跳ねた。苛立ちに似て、まるで別の物。

 

「……ショーコ。私が仮面を外したとして、何が残ると思う?」

「さあ。でも、外してみないと分からない」

「怖い」

「うん。怖いよね」

 

 ほんの二言で、足元がふらついた。私はすぐに仮面をかぶり直す。歪みは最小限に。

 

「それでも、私は私だ。争いの女神は、最上の争いを欲する。――行くぞ、ショーコ。あの男と、その仲間たちに私の流儀を見せる」

 

「うん。私も、私の流儀で返す」

 

 紫と青が、同じ身体の中心で交差して、奇妙に静かな合意を結んだ。

 

 

 

──翔子視点──

 

 現実の感覚が、徐々に戻ってくる。指が、肩が、首が。五感が輪郭を取り戻す。まだ自由じゃない。でも、前よりずっと良い。

 視界の先で、黄金の弓がきらりと光る。アイオロス君が立っている。射手座の聖衣が、私の呼吸に合わせてほんのり輝度を上げたり下げたりして見える。気のせいだとしても、嬉しい。

 

「アイオロス君」

 

 声は掠れていたが、届いた。彼は短くうなずく。

 

「来たよ、翔子。遅くなった」

 

「ううん。間に合ってる」

 

 たったそれだけで、胸に絡んでいた固い糸が、少しだけ解ける。背後でエリスが小さく舌打ちしたが、前ほど棘はない。

 

「ショーコ、覚えておけ。愛も友情も、火種だ」

「うん。だからこそ、温める方に使う」

 

 私が言うと、彼女は鼻を鳴らして黙った。否定の音にしては、妙に弱い。

 

 外の戦場では、三つの黄金がそれぞれの敵を制していた。山羊の剣は盾を断ち、蟹は英霊を率い、魚は血を吐きながらも花を守った。四本の柱の最後――射手は、ここで矢を番える。

 

 私は足に力を送る。エリスも同じ。二人の命令が重なり、ぎこちないけれど、身体が一歩、前へ出た。

 立てる。まだ倒れない。

 

 エリスが私にだけ聞こえる声量で言う。「ショーコ。もし、お前が本当に寂しさを抱いたなら、呼べ。私は来る」

 

「うん。あなたも、そうして」

 

 たぶん今、私たちは敵同士の顔で、同じ約束をしている。変だ。でも、悪くない。

 

 

──エリス視点──

 

 矢の狙いがこちらに向く。私は微笑む。恐怖ではない。期待だ。争いは怖い。だが、最上の争いは、美しい。

 ショーコの青が、隣で静かに燃える。あの男の金は、真正面から刺してくる。

 良い。仮面は被る。だが、その下で震えるものの名ぐらいは、覚えておいてやる。

 

「さあ、来い。英雄」

 

 私は両手を広げ、堂々と受けて立つ。

 

「そして見せてみせろ。お前の“守る”が、どれほどの速度を持つか」

 

 

──翔子視点──

 

 私はうなずいた。

 

「じゃあ行こう、エリス。私たちの選ぶやり方で」

 

 黄金の風が前髪を揺らす。目の端で、姉の笑顔が、景色の重なりの奥に小さく浮かんで消えた。心は怖い。怖いけど、ひとりじゃない。

 私はエリスと一緒に、同じ身体で、一歩を踏み出した。

 新しい局面は、たしかに、ここから始まる。

 

 

──対峙──

 

 弓の先がわずかに下がり、彼がはっきりと言った。

 

「その身体は、翔子のものだ。返してもらう、エリス」

 

 名指し。紫が反射で逆立つ。エリスは笑う。

 

「嫌だ、と言ったら? この器は私の玉座だ。お前に譲る理由はない」

 

 私は胸の内で答える。(大丈夫。私はここにいる)

 指先がぴくりと震え、掌がわずかに開く。五感は戻りつつある。けれど動作はまだ粗い。エリスも同じ。彼女は堂々と腕を広げてみせるが、肘の内側が微かに揺れている。内情は引き分けだ。

 

 アイオロス君の気配は、さっきまでと違う。毒の影が薄く、視線が澄んでいる。彼の胸の奥から、迷いのない熱がこちらへ真っ直ぐ届く。――誰かに教わった言葉ではない、自分の言葉で立っている熱だ。

 

「俺はアテナの聖闘士だ」彼は続ける。「そして、一人の男として、翔子を守る」

 

 短い宣言が、玉座と道場の重なりを震わせた。エリスが舌打ちを飲み込み、かわりに肩で笑う。

 

「言うではないか。ならば、守ってみせよ。神を前に“守る”など、無力の別名だぞ」

 

「試すか?」彼は矢を番える。「なら、結果で語る」

 

 張り詰めた空気に、私とエリスの心臓が同時に打つ。内側の拍が揃ったことに、二人とも気づいて、だが口には出さない。出した瞬間、何かが決定的に変わってしまうから。

 

 足元の畳と黒い石が、同時にきしむ。私は彼の矢筋に身を合わせる。エリスはその動きに合わせて、わずかに顎を上げた。

 

 敵であり、同居人。守られる者であり、抗う者。私たちは今、その両方で、彼の前に立っている。

 

「覚えておけ、英雄」エリスが言う。「私が争いを欲するのは、破壊のためだけではない。価値が互いを削り合い、なお残る形――それが“美”だ。お前の守るが、美であるならば、私の不和もまた、美の片翼だ」

 

「なら、両方まとめて貫く」アイオロス君は一歩出た。「不和が生む絶望ごと、翔子の前から退ける」

 

 私たちは同時に息を呑み、そして同時に息を吐いた。

 

 私は心の中でだけ、彼の名を呼ぶ。(信じてる)

 

 エリスは心の中だけで、私の名を呼ぶ。(退くな、ショーコ)

 

 矢の光が、紫と青の境界を横切った。次の瞬間、現実の身体が一段軽くなる。扉の破片が崩れる音、砂の擦れる音、全部がはっきり聞こえた。

 立てる。行ける。

 

 私とエリスは、同じ足で、同じ方向へ、さらに一歩を踏み出した。

 




翔子「ねえ、選んで良い。……何を選ぶ?」

エリス「問う前に宣言するとは、ずいぶん大胆だな。――私は“仮面”か“素顔”を選ぶ局面にいる」

翔子「私は“怖さ”か“前へ進む”だよ。怖いのは消えない。でも歩くのは私が決める」

エリス「ならば私は告げよう。“孤独で保つ”か“誰かと揺れる”か。美はどちらにも宿るが、今日の私は――揺れを選ぶ」

翔子「私も選ぶ。“守られる”か“並んで守る”か。私は、並ぶ」

エリス「いいだろう。では私の選択は、“破壊のための争い”ではなく“価値を削り合い残すための争い”。それが私の美だ」

翔子「私は、“名前を呼ぶこと”。何度でも。あなたが仮面を外したら、笑わないで受け止める」

エリス「……覚えておけ。選び続ける限り、敗北もまた一時の形に過ぎぬ」

翔子「うん。選ぶのをやめたときが、ほんとの負け」

エリス「最終確認だ。選んで良い。――お前は、何を選ぶ?」

翔子「“立つ”を。あなたと世界に、ちゃんと向き合う」

エリス「私は“応える”を。呼ばれた名に、逃げずに答える」

翔子「じゃあ、また次で」

エリス「ああ。次だ。選びは、続く」

十二宮編の最後は誰と誰の対決に?

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