自由なる舌   作:白藤さん

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対話

ある晩、陶房からの帰り道、美食倶楽部の裏庭で月を仰いでいた男がいた。

 

 岡星良三。

 美食倶楽部の厨房でも指折りの実力を持つ中堅料理人でありながら、近年は陶芸でも頭角を現していた。彼の焼いた器はすでに、雄山先生によっていくつか選定され、実際に供された料理に使われている。

 

 私が轆轤を回しはじめて数日後、その岡星さんが何気なく声をかけてきた。

 

 「お前、白磁を選んだんだってな」

 

 「ええ。自分の料理には、それが一番しっくり来る気がして」

 

 岡星さんはふっと笑った。

 

 「いいね。迷いがないってのは」

 

 その声にはどこか棘があった。

 

 私は返す言葉に迷った。岡星さんの器は見事だった。繊細で、均整が取れ、そこに静かな感情のようなものが宿っていた。陶芸の経験は私とさほど変わらないはずなのに、その完成度は明らかに上だった。

 

 「岡星さんの器、厨房で使われているのを見ました。素晴らしかったです」

 

 素直にそう告げると、岡星さんは小さく笑った。だがその笑みは、どこか曇っていた。

 

 「嬉しいよ。でもさ、あれは“才能がある”って言われるための器だ」

 

 「……どういう意味ですか?」

 

 「俺さ、昔から器用だったんだよ。味の勘も早かったし、包丁の手もそこそこ早く覚えた。陶芸だって、雄山先生に言われて始めたら、なんとなく形になった」

 

 岡星さんは手にしていた湯呑を見つめながら、ぽつりと続けた。

 

 「だけど、俺が何を作っても、誰かが言うんだ。“上手いね”って。──それだけなんだ。“お前の料理だ”とは、言われたことがない」

 

 その言葉は私の胸に突き刺さった。

 

 彼は技を極めた料理人であり、器を焼いても名品を残す。その姿は、私にとっては「先を行く背中」だった。しかしその内側には、誰にも知られたくない闇があったのだ。

 

 「お前はさ、そういうのがないだろ。誰かの背中を真似るより先に、自分の舌で料理してる。そういう奴を見ると、羨ましいんだよ」

 

 「でも僕も……ずっと兄の背中をなぞってきました。観山の味から逃げたくて、ここに来たようなものです」

 

 岡星さんは驚いた顔をして、湯呑を下ろした。

 

 「そうか……お前にも“影”があるんだな」

 

 彼の目に、ほんのわずかに柔らかな光が宿った。

 

 「なあ蓮。器を焼くってのは、料理人にとっての“自画像”みたいなもんだ。嘘をつけない。どこまで自分と向き合えるかが問われる」

 

 私はうなずいた。

 

 「だから俺も、焼き続けてる。……いつか、誰かに言われる日を夢見てさ。“この器と、この料理は、お前にしかできない”って」

 

 その夜、私たちはしばらく黙って、同じ月を見ていた。

 

 不器用な優しさと、静かな劣等感を抱えた男──岡星良三。

 だがその陶器には、彼の繊細で誠実な心が確かに刻まれていた。

 

 

 

 

 それは、ふとしたきっかけだった。

 

 厨房の棚に、岡星さんの作った志野焼風の皿が一枚、慎重に包まれて運び込まれた。土色に鮮烈な白が走り、微かに鉄絵が浮かぶ、まるで早春の霜柱を閉じ込めたような趣のある器だった。

 

 「ちょうど今日、試作してた皿を雄山先生が見てな。蓮、お前の料理と合わせてみろって言われた」

 

 岡星さんが気恥ずかしげに差し出したその器を、私はしばらく黙って見つめていた。

 

 この器には、余計な技巧がなかった。だが土の呼吸と、炎の瞬きを封じ込めたような“素直さ”があった。

 

 私は瞬時に、そこに何を盛るべきかを思い描いた。

 

 ──春の走り。芽吹きの前の、余白と静けさ。

 

 私は、菜の花の辛子和えを下に敷き、さっと炙った鰆の薄造りを交差させて盛った。肝をほんのわずかに溶かした土佐酢のジュレを添え、仕上げに青柚子の皮を削って香りを立たせる。

 

 皿の緋色が、鰆の皮目の焦げと呼応し、絵のように一体となる。

 

 料理を盛り終えた瞬間、良三が小さく息を呑んだ。

 

 「……こんなふうに使われるとは思わなかった」

 

 その声に、私は小さく笑って答えた。

 

 「この皿が呼んでましたから」

 

 そして、主任・中川得夫が近づいてきた。

 

 彼は何も言わずに皿を前に立ち、視線で隅から隅までなぞった。箸を手に取り、一切れの鰆を持ち上げ、ゆっくりと口に含む。

 

 咀嚼。沈黙。

 その沈黙が、何よりの審査だった。

 

 やがて、ぽつりと。

 

 「……皿と料理が喧嘩していない。むしろ、語り合っているな」

 

 その言葉に、私も岡星さんも思わず背筋を正した。

 

 「この皿、やわらかい。造り手の性格が出てる。そこに蓮の鰆の焦がしが、芯を通している。片方だけでは成立しない料理だ。……良いものを見せてもらったよ」

 

 中川さんは淡々とそう言うと、次の仕事へと戻っていった。

 

 私は、黙って隣の岡星さんの顔を見た。

 

 彼は少しだけ、目を伏せていた。そして、いつもの皮肉っぽさを混ぜずに、ただ静かに言った。

 

 「……ありがとう。あの皿、やっと料理に出会えた気がする」

 

 「僕こそ。器に導かれたんです」

 

 言葉は少なかった。だが、器と料理を通じて交差したものは、互いにしか感じ得ない共鳴だった。

 

 その晩、火の落ちた厨房で、私たちは皿と料理が交わる“奇跡”を、静かに見つめていた。

 

 

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