ひく、と喉が鳴る。ひく、ひく、と。だめだとわかっているのに、ぽろぽろと熱いものが頬を滑り落ちていく。
「いや、」
小さく言う。嫌、と。行きたくない、と。けれど、大きな手を持つその人は、振り返ってはくれない。痛いのと言っても、わめいても、手をゆるめてはくれない。
「あたし、」
あたし、と声が震える。なんでこうなったの? なんで。どうして。
「カッコウの子だから」
だから。
舌が回らない、ひたすらに身体のどこかが、さわれないどこかが、熱くて冷たくて痛い。
「違う」
ぽつん、と声が降ってくる。ぶっきらぼうで、なんだか怖い。
「じゃあなんで!」
叫ぶ。はぁはぁと息が切れる。繋いだ手はとてもとても熱くて、火傷しそう。
ずるずると引きずられる。まるで犬のように。
どうしても手を引き抜けなくて、引っ張られるように歩く。ぬかるんだ小路に、ぽつんと小鳥が転がっている。かわいそう、と思う間もなく並木の、その一本がかさかさと鳴り、ひょいと猫が降りてきた。そうしてふんとこっちを見て、小鳥をくわえてどこかへ行ってしまう。とことこと、軽やかに。とても自由に。
「行きたくない」
「もう決めたことだ」
ぐい、と手を引かれる。転びそうになって、すぽんと靴が片方脱げてしまった。つやつやして、黒くて、赤いリボンがついているかわいい靴は転がって、土がついていた。
その人は、しゅっと息を吐いた。鋭く、荒々しく。いつもの「きちんとした」様子はない。娘の靴が脱げたことも、泣いていることも、なにも応えないことも、どうだっていいようだった。
「お前という存在は、最初からいなかったのだ」
低くそのひとは言う。その眼は、小路の先の邸を睨みつけていた。
そして。門扉が開かれ、閉じられる。
諦めて、くすんと鼻を鳴らして、小路を振り返る。
大好きな靴が、くすんだ色の空の下、土にまみれて置き去りにされていた。
「私が行く必要があります?」
ふ、と息を吐く。青を基調とした室――白い卓の上には菓子や茶が置かれている。盛りつけは美しく、香りはやさしい。だが、手をつける気にはならない。向かいに座る魔女をじっと見る。黒い髪は艶があり、眼は生き生きと輝いている。まるでいたずらっ子のようだった。似ていますね、と他人からよく言われる。似ていますねお二人は。お世辞だろうと思う。ちなみに魔女とシスネの間には直接的な血のつながりはない、はずだ。さかのぼればわからないけれど。第一に、黒髪はどこにでもいる。第二に、シスネの眼は灰色。魔女の眼は青系統の色――怒った時は独特の輝きを宿す。ドラゴン、とシスネは魔女を密かに呼んでいた。ドラゴン――竜をくすぐるべからずとホグワーツでは言う。つまり、東の
「わかっているだろう。私は忙しい」
「……隠居ですよね?」
「可愛い子どもたちと過ごしたい」
「仕事から逃げる口実に家族を使う男みたいな言い方やめてくれますか」
「お前もかわいいよ」
にこにこ。孫娘を見る慈悲深い祖母のようなまなざしである。魔女の正確な年齢は知らないが……遅くにできた娘か、早めにできた孫か、微妙な年齢差だろう。いや、祖母くらいなのだろうが魔女は若々しい。自然な若々しさだ。だから年齢不詳だった。なんでこの人はグリフィンドールに入らなかったのだろうか、とシスネは常々疑問に思っていた。
祖母、いや違った。魔女の双眸に、眼を細めるシスネの姿が映った。黒髪をボブカットにし、革の外套を着たまま、中のシャツは黒い。館に呼びつけられ、直接訪ねたので着替える暇もなかった。そもそも着替える必要などない。ここはシスネの家でもあるのだから。
「私に同性愛の趣味はありませんよ」
「かわいくない。それなら誰かいい人はいないのか」
めんどくさい人だ、と軽く睨みつける。からからと笑い、魔女は茶を飲んだ。
「悪かったよ――でも」
魔女の声から柔らかさが失せる。代わりに鋭利なものが浮かんできた。シスネは背筋を伸ばす。
「お前に行ってほしいな。私の代理として。なあ
「ほかの子どもたちでは?」
魔女には子どもたちがたくさんいる。別に誰だっていいはずだ。
「会場は森の近くでね。なんぞあったときに適任だろう」
森やら荒野やらは得意だろう。
無理矢理なこじつけもあったものだ。野伏――レンジャーとは、魔法生物の保護官であり、森の守護者、森の人とも呼ばれる。かつて密猟者が幅を利かせていた時代――たとえばアッシュワインダーズという組織もあった――密漁者狩りに精を出していた。シスネはその野伏であり、怪我をした一角獣の様子を見ているときに、こうして呼び出しを食らったのだ。
「行けばいいじゃないですか、あなたが」
「私が行くと面倒だもの」
「押しつけると?」
「そうだなあ、セーミャも来るかもしれないなあ」
「……彼女はどうでしょう」
父親が闇祓い長官だ。同行しているかもしれないが、妙に絡まれる可能性を考慮して出てこない可能性もまたある。高官息女であり、本人は大変シャイというか思慮深いのだが……一部男性から人気がある。見目も悪くなく、穏和しい性格で、奥様向きとのことだ。実際はどうだか知らない。都合よく物事を見る男は多い。シスネからすれば、セーミャは極めて常識的な娘なだけだろう。頭の回転も早い。
セーミャならば火の粉は自分で払えるだろうが、その前に闇祓い長官殿が火種ごと叩き潰しそうだ。なんだかんだ言ってあの闇祓いは娘を大事にしている。噂じゃ婿探しに必死。「じゃあうちの子誰かいるか」と魔女は闇祓いに言っていた。まるでうちの鶏、一羽いる? くらいの軽さである。家と家の婚姻なんてそんなものだといえばそんなものだが。
そこで気づいた。闇祓い長官が出てくる。大臣も出てくる。そこまではいいとしよう。
「嫌ですよ」
「そこをなんとか。なんならブルガリアの大臣とか日本の土御門とかとおしゃべりしときなさい。セーミャが来てたら彼女の護衛でもしてあげたら」
「逆に私が護衛されそうですけど。いえ、だから……」
唸る。魔女はあれこれ理由を付けているが、シスネをクィディッチワールドカップ会場に行かせようとしている理由なんてわかりきっている。
「あの人は私を捨てたんですよ」
女はいらないと。お前などいらない。最初っから娘なんていなかったのだと。
吐き捨てる。父親のすっと伸びた背、皺一つない衣、磨かれた靴が浮かぶ。そうして、置き去りにしてしまった、黒くて赤いリボンのついた、小さな靴を思い出す。
『貴女に託します』
そう、彼は言った。なんの別れの言葉も残さずに、シスネのほうなんて見ないで行ってしまった。
「話せとは言わない。だが一応、遠目にでも様子を見てきたらどうだ」
父君なりに考えてのことだよ。あまり恨まないことだ、と魔女は言う。バーテミウス・クラウチ・シニアの娘に向かって。
「仲良くパーティでもすればよろしいですか?」
皮肉に、魔女は口端を震わせた。
「いやあ、あれは爽快だったぞ」
あとで散々国外から非難されたが。知ったこっちゃない。
パーティの邪魔をすることは許されないのだよ。
そう、養い親――女傑、ミリセント・バグノールドは笑った。
クィディッチワールドカップに出向き、微妙な態度のファッジに「ミリセントは元気かね」と訊かれたり、表面上は穏やかな顔をしたルシウス・マルフォイに「令嬢の眼は星のようだ。我が妻の血統を感じさせる」と誉めているのだか、嫌味なのだかわからないことを言われたり。彼と握手を交わしたとき、互いに互いの手を握りつぶそうとしていたから、ルシウスの言は嫌味だったのだろう。つまりこうだ。お前はバグノールドという名の衣をまとっていようが、本質は「こちら側」だと言いたいのだろう。
ともかく疲れる夜だった。あとは寝て帰るだけだったのに、それどころではなくなった。
「もう大丈夫ですよ」
閃く光の数々は、怯えきったマグルの一家を照らしては消えていく。管理人小屋からいくらか離れた夜の森、その端でシスネはすすり泣く婦人の背をさすり、乱れた寝間着をそっと直してやった。
ちら、と管理人小屋のあるほうを見る。夜空にあがる花火、酔ったような叫び。歌にもならない歌。光に浮かびあがるのは四つの影。ふよふよと浮き、たまに上下左右に回転する。風船をいくつももらって喜ぶ子どものようだ。邪悪な子ども。愚かな彼らは、獲物がかすめ取られたことにも気づいていない。
「あんたは警察か?」
シスネは意識を戻す。はあはあと息を吐き、震える手で子どもたちを抱き寄せて、男は言った。彼の眼はシスネの格好を検分している。脳裏におかしな格好をした連中の影がよぎっているのだろう。スカートをはいた老人だとか……。忘却呪文で綺麗さっぱり消されているにしろ、心の奥底には強烈な体験の影くらいは残るだろう。キャンプ場の管理人ロバートは、思わぬ宿泊予約の増加に小躍りしていたのかもしれないが、わけのわからない騒ぎに巻き込まれてしまったのだからプラスマイナスゼロだろう。
「私服警官です」
シスネはさらりと答えた。マグルの格好のはずだ。ローブは着ていないし、三角帽子も被っていない。疑われる要素はない。
通報を受けて現場に、と嘘八百を口にしながら、引き続き婦人の背をさする。与り知らぬうちにキャンプ場周辺がクィディッチワールドカップの会場にされ、マグルだからといって玩具にされ、婦人が泣くのも無理はない。かわいそうに思う一方で、ちりちりとした痛みが胸の底を這う。
「いったい、なにがどうなって」
ロバートの掠れた声が遠くなる。
――弱い人だった
きちんと世話をしてもらえないと、たちまち枯れてしまうような。か弱いひとだった。シスネが覚えている母親――実の母の記憶は、うつむき、身を震わせ、しくしくと泣く女の姿でしかなかった。世界一可哀想だと思いこんでいる人の姿。思い出はほかにあったかもしれないのに、塗りつぶされてしまった。
「……浮いて……なんだなんだあの仮面は……」
それに、あんたもどうやって助けて……? とロバートが囁くように問いかけてくる。窮地から逃れた安堵と、疑いと怯えが彼の眸を暗く染めている。混乱して幻覚を見たと思いこんでくれれば楽なのだけど、とシスネはため息を吐いた。
「忘却せよ」
さっと杖を振る。一気に四人まとめて記憶を消した。婦人の震えがおさまり、ロバートと子どもたちの眼が虚ろになる。まったく、ぞっとしない眺めだ。
続いてもう一振り。夢のない穏やかな眠りに一家は沈んでいった。さてどうするか。いつもならば闇祓いの誰か――選ばれた誰かが側にいるのだが、今は騒動の鎮圧で忙しい。四人を引き寄せるのとほとんど同時に幻影を出し、短距離姿くらましで森へ退避……という我ながら荒業をし過ぎた。この上、安全だと思われる場所――たとえばクィディッチスタジアムに四人抱えて姿くらましとなると、疲労と緊張もあるのだからバラけてしまうかもしれない。下手をするとマグルの一家はバラバラ死体になってしまう。シスネ・バグノールドは死喰い人の一味だった! なんて日刊予言者に書かれかねない。シスネの出自をわざわざほじくり返して難癖をつけようとする者だっているだろう……。
「いや」
正確にはシスネではなくバグノールドに傷をつけたい者もいるだろう。マグル一家はなんとか無事に帰してやらないといけない。ひとまず、存在を秘匿して、獣のように息をひそめておくほうがいいか。救援信号を放とうものなら、肉にむらがるピラニアのように浮かれた連中が押し寄せてきそうだ、と思ったときかすかな足音がした。シスネはさっと己とマグル一家を隠す。
「……シスネ?」
柔らかな声。足音が近づいてくる。月と、とりどりの閃光に、整った輪郭が浮かぶ。赤とも金ともつかない髪が、導きの灯のように揺らめき、淡い蒼の眼がこちらを見透かす。まるでダンブルドア先生の、なにもかもを――過去も未来も、あらゆるすべてを見通すような眼を思い出してしまうのだ。セーミャ・アレティの眼は。
シスネは隠蔽を解いた。「こっち」と軽く片手を上げる。セーミャは片膝を突き、すやすやと眠る一家を見やる。
「あなたがいて幸いだった」
お陰でやりやすくなったもの。父なんてここぞとばかりに暴れているわ、とセーミャは苦笑する。冷静沈着な能吏の印象が強いルーファス・スクリムジョールが暴れているのは、さて死喰い人と思われる連中の馬鹿騒ぎに腹が立っているからか、それとも娘との私的な時間を邪魔されて怒髪天なのか。決勝戦の間、闇祓い長官殿は貴賓たちの近くに陣取りつつも、娘を隣に座らせて(お前は闇祓いの娘という自覚はあるのか。変に距離をとらずにどうこうと叱っていた)、獲物がいれば即座にしとめてやるといわんばかりの鋭い眼で会場を見回していた。長官殿、もしかして娘との私的な時間を過ごすためにわざわざ出張ってきたのでは? とシスネは疑った。
「ここに潜んでいたほうがいい?」
馬鹿らしい疑いを内に押し込め、シスネはそっと訊いた。セーミャは実力者だ。闇祓いにこそならなかったができるほうだ。対してシスネは野伏だ。戦う術もそこらの一般人よりは持っているが、闇祓い――すくなくとも闇祓いの門戸を叩いた者――の知見に頼った方がいい。
「そのうち騒ぎはおさまると思う。マグルのご一家も救出したし、大半が酔った馬鹿者だもの」
セーミャは辛辣だった。ちかりと光るその眼は、色こそ違えど彼女の養父によく似ていた。
「本気じゃないしね」
声に苦いものが滲む。馬鹿者どもはマグル一家を宙に浮かせ遊んだだけ。ちょっとはしゃいだだけ、酔っていただけ、だ。酔っているくせに死の呪文も磔刑の呪文も使っていないし、森に人が逃げ込んでいるとわかっているだろうに火を放つ様子もない。人々が怯える様を見て喜んでいる。下衆な優越感に浸っているだけだ。
『わかっていないんだよ』
シスネ、と声が耳朶を震わせた――気がした。どこか柔い声。
『みんなわかっていないんだ』
あのお方の偉大さを。なあシスネ……。
にこにこと、こちらを見る――。
首を振る。黙って。どこかへ行ってしまえ。お前なんて――。
「シスネ?」
はっと我に返る。一つ年下の友人の、その繊手がシスネの背を軽く叩いていた。なにをやっているのだろう。こんな時に思い出すなんて、とシスネは臍を噛む。終わったことだ。もういなくなった。亡霊は亡霊のまま……その魂は孤島の、潮風にさらされた監獄に閉じこめられているのだし、その身体は冷たい土の下で朽ちているだろう。永遠に救いのないまま。
――それだけのことをしてしまったのだ
報いだ。
「大丈夫」
と言ったか言わないか。セーミャの眼を、肌を、緑の輝きが染めた。彼女から見たシスネも同じように染まっているのだろう。一帯のすべてが禍々しい――死の呪文を思わせる色に呑み込まれている。
顔を見合わせたのは一瞬。灰色と蒼――燐を思わせるそれが交わり、ほとんど同時に空を見る。
シスネは、眼を見開いた。
「ありえない」
『ロングボトム邸襲撃』
邸の上に躍る印。恐ろしいこと、と母は震えていた。なんてことなの。非道いことだわ……。
クズどもが、と呻く父。卓の上に放られた新聞をシスネは見る。
ジュニア、お前はこんな連中になるのではないぞ。父は鋭く言って、言うべき相手が数日前から家を空けていることを思い出す……。
そうして、呼び鈴が鳴り――使用人の悲鳴――踏み込んできた闇祓いたち。先頭に立つのは、獅子の眼をした男。
『バーテミウス・クラウチ』
残念な報せだ。
貴殿の子息が――。
「嘘だ!」
悲鳴を上げる。
毒々しい緑の髑髏と蛇の舌。例のあの人の象徴。
闇の印が、あるはずがない。
出現していいはずがない。
人間、あまりに動揺すると単純なことしか口にできなくなるのだ。その実例を当時九歳だったシスネ・クラウチは目の当たりにした。
いつもと変わらない日常。そこに入り込んだ非日常。魔法省の「偉い人」、日刊予言者の一面に「次の魔法大臣か」と書かれていた父親の、色を失った顔。
「息子は外泊を」
時は一九■■年。十一月。クラウチ家長男、バーテミウス・クラウチ・ジュニアはホグワーツから一旦帰還していた。『例のあの人』の脅威が去り、もう安全だろうと判断し、ほんの二月ほど前に送り出した子どもたちを一度呼び戻す、あるいは自ら帰還するなど、ホグワーツの人の出入りは激しかったらしかった。ただでさえ外――ホグワーツの外では、生徒たちの親が、親族が殺されることが頻繁にあったし、消息の知れないものは把握しきれないほど。その後始末に少しの間ホグワーツを離れる者は多く、兄――ジュニアの帰還もさして目を引くものではなかった。少なくとも、父母はあっさりと受け入れた。学業に専念しろと言いたいところだが、事態が無事に終息したのだから、家族が顔を合わせるのもよかろう、と。父にしては鷹揚な態度で、できた息子の唐突な帰宅を喜んでいるように見えた。母は使用人と妖精のウィンキーに言いつけて、ジュニアの好きな料理をこしらえた。
――闇の時代が終わったことに
ハリー・ポッターに乾杯、と杯を合わせたのは数日前。父はつらつらとこれからの魔法界についての展望を語り、闇祓いリーン・リアイスとジェームズ・ポッターの死を悼み「なんという損失だ。スクリムジョールも頭が痛いだろう……」とこぼし「しかし、ロングボトム夫妻が残っているからな。彼らがこれからの闇祓い局で中核を成すだろう」と言った。闇の残党、ゴミのような輩がいようとも、綺麗に掃除できるだろうよ、と。父の機嫌はよかった。母は少し顔をしかめていた、と思う。たしかに気分はよくないだろう。いくら死喰い人でもゴミ扱い害虫扱いはどうなのかとでも思っていたに違いない。良識的で心優しい母。貴族の娘。恵まれない者たちへの支援も積極的に行っていた、善き人だった。善き人でしかなかった。
魔法大臣の座へと手を伸ばしていた父。闇を赦さない父。心優しい母。善き人でしかなかった母。
二人とも、恵まれているがゆえに暗がりを知らない。そういう育ちをしていない。ある意味では不幸なことなのだろう。彼らは――杯を持つ息子の手が少し震えていることも、ハリー・ポッターを讃える時にわずかに頬がひきつっていたことも気づかなかった。夜が明けて、美しく彩られる空をみるばかりで、背後に忍び寄る影に、ぽっかりと空いた陥穽に気づけるはずもなかったのだ。
ふ、と非日常――獅子の眼をした男が笑う。
「外泊先とやらは」
ロングボトム邸でな。
ひぃ、と息を呑んだのは母。凍り付いたように獅子を見て震えるばかり。父は唸った。
「スクリムジョール。いくら大臣の椅子がほしいからと――」
「そのためにこんなくだらん嘘は吐かない」
父の唸りなど可愛いものだった。獅子の眼が猛々しく光り、紛れもない憎悪に満ちた眼を父に向けた。その唸りはもはやグリフィンのようであった。びりびりと窓が震えたような気さえして、シスネは椅子に座ったまま縮こまった。九歳の女の子にできることなどなにもなかった。まさか、と思うしかできなかった。どうしようと混乱するしかなかった。シスネは蚊帳の外で、この場は大人たちのためのものだった。
「聞かせてやろうか。やつがどんな「お遊び」をしていたか」
獅子が進み出て、ちらとシスネを見て顔をしかめた。彼がひょいと杖を振れば、シスネの周りにはごちゃごちゃとした、意味の分からない話し声しか聞こえなくなった。彼は「眼を瞑っていなさい」と唇を動かした。シスネはあまりに恐ろしさに言うことを聞いた。きゅっと眼を瞑ったのを見計らうように、卓の上に何かが――軽いなにかがぱさりと落ちた――ような気がした。
とん、と肩を叩かれる。獅子がシスネの隣に立ち、なにかを懐に入れるところだった。ちらと見た限り、それは写真のように思えた。音が戻る。世界が戻る。だが、目の前に広がるのは崩壊した日常だけだった。ふらふらとした足取りの父母が、闇祓いに連れられていく姿だけが眼に鮮やかだった。
「令嬢」
静かな声が、ぐらぐらと揺れるシスネの思考を、混乱しきった思考をつなぎとめた。獅子が、淡々と言った。
「私はこれで失礼する。ご両親は心配せずとも――直接的な関与、あるいは幇助がなければ返そう」
部下を置いていく。身の安全のためだ。
言うべきことを言うと、獅子はさっと身を翻す。まるでクラウチ邸の主のように。父にとって代わるかのように。
シスネは、彼に手を伸ばしかけた。彼が言ったことを、子どもには難しいとされるであろう言葉をシスネは理解していた。新聞はちゃんと読んでいた。わからない言葉は兄が教えてくれた。幇助の意味もわかっていた。だから、訊きたかったのだ。
私も罪に問われますか、と。
両親は知らないけれども。兄が『例のあの人』を好きだってことを知っていた。
帰ってくるたびに聞かされた。あのお方は偉大なのだと。正義を成すのだと。善きことをするのだと。
そして「外泊」に行くと言ったとき、ほんの少しやつれた顔に笑みを浮かべていた。
「シスネ」
僕の可愛い妹。
お父さんには就職のため、研究のためと言うけれどね。本当はね。友達のところに行くのさ。そして消えてしまった太陽を取り戻しに行くんだよ。そうだ、帰りはダイアゴン横丁にでも行って、なにか買ってきてあげる。
内緒にできるね、シスネ?
いくつもある「内緒」にもう一つが加わったのだ。兄の腕にある刺青のこと。父が嫌っている『例のあの人』を兄が大好きなこと。シスネはうんと頷いた。賢い兄。箒や馬に乗せてくれる兄。穏やかな兄がシスネは好きだった。『例のあの人』は世の中を良くしているのだ、と兄が言えば――心のどこかで疑いながらも――信じてしまうほどに。
父が言ったのだ。「お前は兄のようになりなさい」と。成績優秀でできた子に、と。
だからシスネは悪くない。両親に「内緒」を持つことなんて普通のことだ。そう思いつつ酷く恐ろしかった。自分がとんでもないことをしでかした気がした。
獅子にすべてを告白したくて、そうと気づかないうちに自分が楽になりたくて、呼び止めようとする。しかし無情にも扉が開いて閉じた。
告白の機会は永遠に失われた。ロングボトム夫妻は永久に壊された。もはや取り返しがつかないほどに。
後年、バーテミウス・クラウチ・ジュニアの詳細な供述書を手に入れて、シスネは泣き叫んだ。
彼はこう述べていた。
ロングボトム夫妻を襲ったのは、闇祓い局の次代を担う者として、認められていたから……というのもある。僕はベラトリックスに強要された。仕方なかった。恐ろしかった。やつら、従わないと妹を拷問するって言ったんだ。血も涙もない。どこまで痛みに耐えられるか磔刑にしてやるって。
大嘘吐きな兄。強要されたなんて真っ赤な嘘だとシスネは知っている。「妹」を思う兄を演じ、さも被害者のような顔をして無罪を主張した。
そして。
ロングボトム夫妻が襲われたのは、父の発言のせい。彼らを「耐久試験」の生け贄にしてしまったのだ。
シスネは確信している。
兄はベラトリックスに負けないほど磔刑の呪文をかけたのだろうと。彼らの苦しみをまざまざと眼に焼き付けて、唇を歪めていたのだろうと。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアは。
紛れもない怪物であり、シスネはその怪物の手助けをしてしまったのだ、と。
シスネ・バグノールド(正式名シスネ・アポロニア・バグノールド)
ミリセント・バグノールドの養女。出身はクラウチ家。バーテミウス・クラウチ・シニアの娘。ジュニアの妹。
黒髪に灰色の眼。祖のブラック家の血が濃く現れた。家族には似ていない。
ミリセント・バグノールド
前の魔法大臣。女傑。ドラゴン
ルキフェル・リアイス
リアイス一族第三分家の次男。闇祓い。シスネの護衛の一人。金髪紫眼。
セーミャ・アレティ
ルーファス・スクリムジョールの養女。シスネの友人。