【完結】転がり落ちた雛鳥は、   作:扇架

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十話

 シスネ・バグノールドが光の下へと還る数日前。リアイス一族第三分家の住まい、シージャント城奥の間、執務室。

「……恋情がなければ」

 助けてはいけませんか。

 ルキフェルはすっくと立ち、机の向こう――己が父を睨みつけた。その眼光の鋭さは曾祖父アシュタルテ・リアイスを彷彿とさせたのだが、彼自身は気づいていない。ただ冷ややかに、その紫眼――父ゆずりのそれを光らせている。

「病んでいるやもしれないぞ」

 ルキフェルの父、第三分家当主、号を《シージャント》は素っ気なく言った。眉間には軽く皺を寄せ、いかにも気が進まないようであった。己が次男と『堕とされたバグノールド』の婚約に。理由など明らかだ。

――どこまでも忌々しい

 ルキフェルは内心で己が母を罵倒する。第二分家出身の姫君。彼女は第三分家との婚姻を嫌がった、らしい。珍しくもない政略婚。どこにでもある話であった。父は受け入れ、母は拒んだ。もちろん母にも自由意志がある。被害者なのだ、と言えたらどれほどよかっただろう。母上おかわいそうに、と素直に言えたなら。

 しかし、姫君は夫を拒絶し、冷めた愛の結晶である息子二人も拒んだ。愛がなくとも交われば子は成せるのだ、といつの頃からルキフェルは悟っていた。ただの行為に過ぎない。そして自分たちは結果に過ぎない。その結果の片方、次男のルキフェルのことを姫君は殊に拒絶し、憎んだ。彼は姫君の夫によく似ていたので。忌まわしき紫の眼、と姫君は呪いの言葉を吐いた……。私には私の人生があったというのに、と。

 仕方のないことだ。悪くない縁組みだったはずのそれが壊れたことは。母に好いた誰かがいたとして、しかしリアイスを捨てることはできなかったのだ。付随するあらゆるものが惜しかったのか、すくんだのか。その誰かと逃避行し、グレトナ・グリーンへ行くこともなかった。いわゆる「極めて由緒正しい古典的な正攻法」の一つ。たとえ身ひとつであっても結びつきたければグレトナ・グリーンへ行くべし。

 現代の魔法法において、婚姻は両姓の合意が重要であり、親の同意は必要ない、とされる。だがあくまでも「魔法法は」そうなっているというだけである。すべてが法と良心の下に完璧なはずがない。親の同意など得られまい、見つかればただでは済むまい、仲を引き裂かれ由緒正しい純血婚を強いられることになると生家を飛び出し「穢れた血」の男と手を取り合い、隠されしグレトナ・グリーンへ赴き「結う者」立ち会いのもと婚姻を成立させたのがアンドロメダ・ブラックとテッド・トンクスである。後に激怒した生家の人間に詰め寄られた際、アンドロメダはにっこり笑ってグレトナ・グリーン発行の婚姻証明書と、古い古い家門――結う者の署名を見て諦めたのだ。ただの法は自動的に罰を下してくれるわけではないが、グレトナ・グリーン婚を他者が引き裂こうとしようものなら、無粋な者たちにどんな呪いが降りかかるか知れなかった。よって、アンドロメダは勘当だけで済んだのである。

 姫君はアンドロメダ・ブラックではなかった。それほどの勇気も決断力もなかった。ルキフェルは姫君に同情を寄せることをやめた。自分たちが破綻した婚姻による失敗作だという事実も考えないようにした。ルキフェルたちはけして優しく完璧な息子ではなかったのだ。

 考えないように、見ないようにしていたが、問題は常に横たわっていた。そして今、ルキフェルに牙を剥いている。

「バグノールドのご息女には同情しよう。あまりに不当だと」

 監獄に入れられてどこまで保つかな、と父は言う。正論だからこそ腹の立つことはある。父の言がまさしくそれであった。シスネ・バグノールドの崩壊が進行しているであろうことは百も承知だ。この婚約にたいした益がないことも。ルキフェルはそれなりに利害の合致する候補がいることも。又従姉のクロードと、そう悪くない婚姻が結べるであろうこともわかっている。

「彼女を愛しているからとでも言えば、父上は満足ですか」

 恋情がなければならないか、と先の問いを繰り返す。政略婚が破綻した男に向かって。政略だろうが恋愛だろうが破綻するときはするだろう。ルキフェルはどちらでもよかった。そのうち適当な相手と婚姻するだろうと思っていた。気楽な次男の手元には、結婚という手札があったものの――積極的に切る必要性などなかったのだ。

「病んだ妻に負い目があるのは、父上の事情だ。僕の事情ではなくてね」

 正論をたたき返した。ルキフェルは親の結びつきによって生まれたけれども、けして親と同一の存在ではないのだと。

「僕は礼儀としてあなたの同意を求めた」

「ルキフェル」

 逸るな、と父が呻く。ルキフェルは鼻で笑った。もしかすると、初めて父親に逆らっているのかもしれない。気楽で替えのきく次男坊は兄のことが嫌いではなかった。なにせ姫君という共通の敵がいたので、互いに身を寄せ合っていたのだ。ルキフェルは兄こそが次の《シージャント》であると思っていたし、けして彼を脅かすつもりはなかった。そして父には同情めいたものを感じていたし、父は親としての義務を果たしてくれた。それで十分であった。

「僕はリアイスだ。監獄の闇に沈んだ者がいる。あまりに不当に、ただ死喰い人の妹だからと。罪などあるものか……僕は、護衛たちは彼女をずっと見てきた」

 夏の暑い盛りに護衛をすれば、なるべく早く外出を切り上げようとした。飲み物を買って渡してくれた。些細な気遣いだ。それができない護衛対象は多い。守ってもらって当然と考え、護衛などただの背景、下手をすれば肉の盾と思う者もいる。

 監督生になったの、と誇らしげに言っていた。護衛たちは拍手をした……。新人の闇祓いを護衛につけても文句ひとつ言わず「研修」に協力した。立派な闇祓いになってね、と新人を激励していた。

 ただの護衛対象だ。そして監視対象だ。闇祓いの「護衛」たちはシスネ・バグノールドと随分と長い間接してきた。情のひとつもわく。

「使える手札がある。それで救えるなら救いたいと言っているだけだ。リアイスが魔法騎士だの戦争屋だの言われているのはなんのためです。偉そうにふんぞり返っているだけならバカでもできる」

 僕らは温室育ちの弱腰貴族じゃないはずだ。魔法騎士だ。彼女を見捨てることは、道に背くことだ。

「……好き放題言ってくれる」

「今まで従順な息子だったでしょう」

 唸れば、父は額を手で押さえた。ちらりと扉を見て言った。

「わかった。私が悪かった」

 意地の悪いことを言った、と父は大変素直だった。ルキフェルは片方の眉を上げる。そして背後――扉をちらりと見た。

「兄上、入ってきたらどうですか」

 返事の代わりに扉が開いた。杖を構え、まっすぐに父へと向けたままで兄が入室した。

「父親を脅す息子があるか」

 父は苦々しげに言う。兄はにやりとした。空の青が煌めく。

「あんまりぐちゃぐちゃ言うなら、父上に隠居願おうかと思いましたよ」

 自らの父を引きずり下ろし《シージャント》の号を継ぐ、と兄は言った。あまりにさらりと、当然のように。

 ルキフェルは息を吐いた。ありがとうと囁けば「水くさいぞ弟よ」と笑われた。

「父上だってシスネ・バグノールドのことは嫌いじゃないでしょうに」

 兄はちくちく言う。父は苦い顔をした。

「逃げようと思えば逃げられたのに、監獄に入った勇気は買う。なかなかできまいよ……」

 それに、と父は続けた。

「彼女が監獄に自ら入ったことは」

 ファッジとかいう愚か者を引きずり下ろす一手となるだろうよ。

 

「ウィスタ・ブラック=リアイスに公式に謝罪、シリウス・ブラックの冤罪が間違いであったと認める、賠償金を払う」

 それでよろしいですね。大法廷にアメリア・ボーンズの冷えた声が響く。公式な弾劾の場である。ヴォルデモートが神秘部に現れ、ついにファッジの政治生命は尽きようとしていた。もはや尽きているも同然である。アメリアは内々に付いた話を――非公式な弾劾で決まった話を、改めて確認しているに過ぎなかった。

「……う、はい」

 階段状の席、すり鉢の底に置かれた椅子に腰掛ける「大臣」は冷や汗を流しているようだった。できることならば「いいえ」と答えたかったのだろうな、とルキフェルは彼を見下ろした。ルーファス・スクリムジョールとアメリア・ボーンズの近く、高みに彼はいた。今日のルキフェルはファッジの護衛ではない。次の大臣となるであろう二人を守るためにいる。そして護衛すべき二人は谷底にいるファッジを睨みつけていた。いいえと言えば赦さない、ということだ。

 その場の圧迫感は並のものではなかった。魔法法執行部の面々はもちろんいる。ペネロピー・クリアウォーターが長そっくりな眼をして、ファッジを睨みつけている。書記なのだが、握った羽根ペンを今にも折りそうだった。

 魔法生物規制管理部もいる。長はもちろんのこと、手の空いている者は出てきていた。エイモス・ディゴリーもまた、ぞっとするような眼でファッジを睨んでいる。

 野伏局の者たちも着座していた。長――マグダラ家当主はひたすらに静かだった。その実、どうやって「大臣」を料理しようか考えている……そのようにルキフェルには思われた。物騒なことを考えていそうなのは、彼の部下たちも同じくだった。くりくりとした眼の、どちらかというとかわいらしいという言葉が似合いそうな野伏――たしか名をポピー・スウィーティング。祖は伝説的な野伏の一人であり、彼女は祖の名を引き継いだ二世であった――から殺気がこぼれていた。

 ほかには魔法ビル管理部から幾人か、魔法警察の長とその部下たち。護送隊の者たちもいる。

 ここには「大臣」、いいや元大臣となることが確定している男、コーネリウス・ファッジの味方はいない。補佐官――秘書のパーシー・ウィーズリーは大臣の近くに付き添っているが、役には立たないだろう。ルキフェルの気のせいでなければ、彼の眼にもファッジに対する侮蔑の念が透けて見えた。

「証拠はそろっている」

 闇祓いの長、ルーファス・スクリムジョールが口を開く。黄褐色の眼は爛々と光り、獲物をけして逃がすものかという気迫が窺えた。「話し合い」の際、大臣執務室に立てこもろうとするファッジに悲鳴を上げさせたのは彼であった。執務室の扉を一刀両断にしたのである。見事な切り口であった。ファッジに対するルーファスの怒りがひしひしと感じられた……とルキフェルは振り返る。彼は「話し合い」の際、外に控えていたのだ。万が一にでもファッジが逃亡しないように。もちろん「助けてえええ!」と叫ばれようが無視した。内部から又従弟の地を這うような声がしても当然だとしか思えなかった。ファッジはやりすぎたのだ。むしろウィスタにもっとやれと言いたかった。

「座から下りていただけますね」

 大臣、とルーファスは丁寧に言った。証拠はあるし話し合いは済んでいるし、根回しはもはや終わっているし、どうしようもないんだからとっとと下りろ、を一文に込めていた。もちろんファッジはわかっていただろう。しかし理解と納得は別である。

「……私は、」

 私だけが悪いんじゃない。

 ぼそっとファッジが言った。その瞬間、大法廷の壁の一部に亀裂が入った。誰の殺気か。全員の殺気だったのかもしれない。灼熱が渦を巻いて、はじけようとしたその時――。

「ほんとうにお前は」

 どうしようもないやつだな。

 声とともに、扉が開く。いいや、ドラゴンの意を受けて、独りでに開いた。

 こつ、と靴音。ぎ、となにかがこすれる音。

 黒髪のドラゴンは車椅子を押して入廷する。ぎ、ぎ、と車輪の音を響かせる車椅子に乗るのは魔女であった。ひゅっと誰かが息を呑む。ルキフェルはちらりとドラゴンたちを――正確には車椅子に乗った魔女を見た。どうするかと些か迷う。その迷いを見抜いたように、ルーファスとアメリアが目配せした。ここはいいから行け、と。ルキフェルは感謝を込めて目礼し、彼らの側を離れる。速やかに魔法警察が護衛の任を代わった。

「彼女は――」

 ぜいぜいとファッジは喘ぐ。愚かな軟弱者、自分がしでかしたことをここに至るまで認めようとしなかった男の言を聞きながら、ルキフェルは車椅子の隣に立つ。護衛すべき者の側へと。

「――お前があらぬ疑いを……疑いにすらならない疑いをかけて」

 ドラゴンの口から炎が出ていないのが不思議なほどだった。高みにあるドラゴンは、谷底のファッジを睥睨する。

「監獄送りにした私の娘だ」

「……その姿は」

「お前のせいだ」

 賢明にも、ファッジはアンブリッジのせいだとは言わなかった。それをさせないだけの力がドラゴンの声にはこもっていた。くわえて、車椅子の魔女の姿に、ファッジは衝撃を受けていた。それだけの感受性が、想像力がファッジには残っていた。眼を見開いて魔女を見るファッジをよそに、アメリアは問いかけた。あくまでも冷静に。膨れ上がる熱を冷ますように。

「レディ・バグノールド」

 言って、彼女はふと首を傾げる。

「いいや、レディ・シルヴァー」

 月の美称(シルヴァー・レディ)を口にした。最大限の敬意を込めて。

「どうしたいかね」

 問いに、白銀の魔女は灰色の眼を伏せた。照明に、銀の髪と、同じく銀の片腕が煌めく。

 色を喪い、片腕をも欠けさせた魔女は呟いた。

「賠償……」

 それはお母様に。とつとつと、ゆっくりと口にする。彼女はあまりに傷ついており、未だに癒えてはいない。途切れ途切れに、ぽつぽつと言葉をつなげていく。

「辞めてください、大臣」

 ああ、とファッジは返した。魂が抜け落ちたような声だった。やっとのことで、己の所業を理解したようだった。ようやく、ここまでして。一人の女を半ば壊して、やっと。

「そして、二人の、」

 と、魔女はアメリアとルーファスを見やった。二人は口を開きかけた。もうよい、と言おうとしたのかそうでないのか。どちらにせよ、魔女の言葉は続いた。

「次の大臣の、補佐を」

 あなたは真の悪人じゃないから、と魔女は言う。マグル保護法も通した、と。よいことも悪いこともした、と。ぷつ、と魔女は言を切る。何度か息を吸って吐いて、続けた。

「嫌いでは、なかった」

 時代が違えばもしかしたら。よい大臣になっていたかも。

「……もういい」

 ファッジが呻いた。その眼が潤んでいたかそうでないかはわからない。惨めな敗北者は声を震わせた。

「申し訳なかった」

 魔女――アメリア・ボーンズによってレディ・シルヴァーの称号を贈られた女は、その眼をファッジに向けた。どこか冷たい月女神のように。

「謝罪はいらない」

 英国に尽くして。大臣を支えて。

 あなたはまだ、生きているのだから。

 

 ルキフェルは結末を見届けず、車椅子を押した。見届け役は彼女の母、偉大なドラゴンに任せればよい。

「……立派だった」

 廊下に出て、ルキフェルは囁いた。片手を車椅子のハンドルから離し、少しだけかがむ。彼女の片手――銀のそれに触れた。

 彼女の片腕は喪われた。

 

 ルキフェルが、切り落としたから。

 

 

 

「感謝しているよ」

 娘を助けてくれたこと。

 シスネ・バグノールドが帰還して数日。邸の客間でドラゴンは言った。双眸は青。時折緑の影が差すさまが、ミリセント・バグノールドの揺れ動く心を映していた。季節は冬。品よく調えられた室に、暖炉の火が躍る。常ならば楽しげにみえるそれは、なぜだか元気がないように見えてしまった。バグノールド邸そのものもしんとして、寒々しく思える。横たわる問題が心に(かさ)をかけているからだろう。

「なにも終わっていませんよ」

 ルキフェルはドラゴンの言を切って捨てた。まったくもって無礼極まりない。元とはいえ大臣なのだ相手は。しかも彼女の任期は長かった。女傑ミリセント・バグノールドは伝説であった。魔法省で出世する道は複数あるが、たいてい魔法法執行部から階を駆け上がり、大臣の位へ登ることが多い。ミリセント・バグノールドもその口ではある。魔法ビル管理部から何度かの異動を経て、魔法法執行部へ、そして大臣に、というのは大変珍しい。もしかしたら前例がないかもしれない、ということを除けば。伝説になるのも頷ける。そんな偉大な元大臣にルキフェルのような若造――もう三十路だが。驚くことに――が生意気な口を利いていいものか。否である。リアイスは傲慢などとよく言われるが、礼儀を知らないわけではない。バグノールドに敬意を抱いているものの、ルキフェルは大人の対応を窓から放り投げた。

「……わかっているよ」

 バグノールドは虚空を睨む。今の彼女は、ドラゴンではなくただの魔女に見えた。娘を案じる親に。

「終わりではない。それとも始まってさえいないか」

「命を拾っただけです」

 ルキフェルは放り出すように言った。シスネは眠っている。生ける屍の水薬の力によって死に近い場所にいる。彼女は暗闇を恐れた。見えぬなにかを見て悲鳴を上げた。だから眠らせるしかなかった……。

「……眠りすらも」

 彼女を安堵させはしない。

 薬による安らぎをも、監獄の闇は打ち砕く。安息から引きずり出され、彼女は叫ぶ。嗄れた声で、残った力を振り絞るようにして。

 もちろん聖マンゴに入れることも検討された。しかし、悪夢と現実の狭間、狂気と正気の境界線上にいるシスネは、その名を聞いて震えた。呻き、弱々しく首を振る仕草すら、彼女の崩壊を早めるように思えてならなかった。聖マンゴは嫌だ、と。

 シスネにとってそれは禁忌の名であったのだ、とバグノールドの主と、彼女の子どもたちと、ただの部外者であったはずが、シスネと婚約したことで関係者になったルキフェルは再確認した。シスネが繊細で脆く、感受性が強いなどと笑えるだろうか? 聖マンゴにはロングボトム夫妻がいる。シスネの「兄」が荷担した犯罪の犠牲者、壊され、損ねられてしまった者たちが。自らの息子のことさえわからない無惨さは……ロングボトム夫妻の家族のみならず、シスネにも影を落としていた。

 シスネはバグノールド家の名で聖マンゴに寄付をしていた。しかし聖マンゴに出向くことはなかった。きょうだいの誰かに頼んでいたのだ。恐れが深く根を張っていることをきょうだいたちも了解していた。彼らは自分たちの稼ぎも上乗せして、快く聖マンゴへ赴いた。バグノールドの庇護を受け、彼らは救われたのだと理解していたし、彼らは養母が大臣であるからよい扱いを受けていると理解していた。地位には責任が伴うのだと、了解もしていた。であるから寄付に抵抗がなかった。そしてきょうだいたちの結束は固かった。もし、聖マンゴに行ってロングボトム夫妻の家族――オーガスタ・ロングボトムやネビル・ロングボトムとすれ違えば。あの「兄」の妹だと知られたら……という姉の、妹の恐怖を重々わかっていた。

『安っぽい自己満足なの』

 私が少しでも救われたいからやっているの。いつだったかに吐き捨てるようにシスネは言った。ルキフェルはこう返した。偽善だろうが自己満足だろうがやらないよりはマシだと。君が聖マンゴに贈ったガリオンで、きっと誰かが救われるだろうと。

 茶器に眼を落とす。暗い色の水面はかすかに波打っていた。

「……言わないでくださいよ」

「オーガスタがあのクズに手紙を送ったことか? それとも君が下げたくもない頭を下げたことか」

 聖マンゴどうこうは言っていないのになぜわかった。それにルキフェルが具体的にどうやってあのク……外道を説き伏せ、シスネを解放させたかもなぜ察した。ルキフェルは戦慄し、己の心の守りに綻びがないか入念に確かめた。がっちりと閉じられている。

「見ていればわかる」

 バグノールドは囁き、続けた。

「言うまいよ。ロングボトムの女傑が、シスネのために手紙を送ったことも、リアイスの男がクズに頭を下げたことも……本当に、よくやってくれた」

 最後の呟きはルキフェルに向けたものだった。

「いいんですよ」

 絶対にシスネには言うまい。気に病むだろうから。ルキフェルは誇りを投げ捨てたつもりはない。誰も救えない誇りなどいらない。祖たちが魔法学校をつくったのは誰かの――誰かたちのためだった。ルキフェルは祖に倣っただけだ。魔法騎士は弱き者、か弱き者の庇護者なのだから。血筋を誇示するだけなら誰でもできる。積み重ねてきた信頼と歴史を、なにかのために使わずしてどうするのか。

 頭を下げている時はファッジの首を切り飛ばしてやろうかと思っていた。しかし、シスネを迎えに行ったとき、己の中に燃えあがる屈辱はうずくだけになり、やがて鎮まっていった。よかった、と思ったのだ。鉄格子の向こう、光に照らされた彼女が、まだ生きていることに。心の底から。

「婚約も」

 事と場合によっては破棄しても構いませんし。喉から押し出した言葉を、バグノールドは鼻息で消し飛ばした。

「お前、そんなふわっとした感じでシスネと婚約したいですと私に言ったと? 父君を説得したと」

 へえー、と言われ、ルキフェルは唸った。

「なんですか、貴女の大事なご息女を脱獄させてグレトナ・グリーンに連れて行けばよろしかったんですかね」

 ちなみに脱獄を実行する場合はあなたも道連れですよ、お義母様、と付け加える。

「今やたらればだが、そりゃあ娘を救出する見せ場は私のものだ。だって私」

 元大臣だし。自由だし、ときた。

「元じゃなくてもルーファスもやりそうですよね」

 ぽろりと言ってしまう。闇祓いの長、ルーファス・スクリムジョールには娘がいる。セーミャ・アレティ。養女であった。そしてルーファスは彼なりに頑張っているがその愛が伝わっているかは微妙だった。考えただけで泣けてくる。

「……あいつ、吸魂鬼がいようが看守がいようが蹴散らして鉄格子をぶった斬るだろうね」

 愛である。

「話を戻すぞ」

 バグノールドが嘆息する。ちろりとルキフェルを見た。

「お前はいい男だよ。少なくとも私はそう思っているし、婚約という手札をシスネのために使ってくれたことをありがたいと思っているさ」

 なにせ「バグノールド」では足りなかったのだから。

 かつての名大臣、女傑は寂しげに言う。いくら彼女が名を馳せようが、バグノールド家そのものが積み上げた信頼と歴史がなかったのだ。なにせ成り上がりであったので。むしろバグノールドはミリセントから始まったとさえ言える。

「彼女の同意なくね」

 歩み始めたばかりのバグノールドの魔女に返した。

 なにせシスネは監獄の中。下手に面会しようものならファッジの疑心暗鬼が深まりそうであった。やはり死喰い人と共謀して、自分を引きずり下ろそうとしているのでは、とか。当然、手紙のやりとりもできない。そもそも制度はあったはずだが、運用されているかどうか。囚人は手紙を読み書きできる精神状態ではないはずだから。

 「極めて古典的な正攻法」を使うにあたって、親の同意は得た。ファッジが何事か言ってきてもそれで押し通すつもりだった。前々からリアイスとバグノールドで話はついていた、と。結局取り越し苦労だったわけだが。

「……後でシスネに訊きたまえ」

 添い寝でもしながらな。

「同意なく婚約を整えた、一応部外者の男に対して母親が言うことですか」

 義理のきょうだいならともかく、とさすがに言った。聖マンゴに入れることができないので、シスネの面倒は使用人やきょうだい――主に姉妹たちがみている。もちろん母たるミリセントも面倒をみている。明るい室で、悪夢に震える娘を宥めているのだ。

「まさかお前、手を繋ぐくらいしかしていないと」

 それ以上ができるか馬鹿野郎と言いたかった。

「手を繋ぐくらいでも熱をわけることはできるでしょう」

「他人だし?」

「……本来なら部外者の男を娘の寝室に入れるのはどうなんですかね」

「大丈夫だお前は紳士だ」

「高く買ってくださってありがとうございます。お義母様」

 言って、席を立った。

 これだけつつかれれば、行かないという選択肢はない。

 己が婚約者の寝室へと。

 

 シスネの義妹と交代し、ルキフェルは寝室に踏み込んだ。ちりん、ちりん……と愛らしい鈴の音。そして香の匂い。

 壁には亀裂。家具は長椅子と寝台だけ。箪笥も机も化粧台も撤去されている。絵画も鏡も同じくだ。

 悪夢にのたうち回るシスネが放った魔力により、椅子が一脚砕けてから撤去されたのだ。

 ルキフェルは、今のところ無事な椅子に腰かける。細い細い指、骨ばった手が痛ましい。あちこちに包帯が巻かれ、かすかに血のにおいがした。特に左腕は酷く傷ついていた。そして白い髪は短く、また乱れている。

 闇の中、正気を保つためにシスネは己を傷つけていたのだろう。己を生の側につなぎ止めるために、それか恐怖を忘れたくて痛めつけ、傷つけ、血を流し、爪を剥ぎ、髪を引き抜き……自らを苦しめた。痛みのほうがまだ楽だとでも言うように。真の恐れに向き合うよりは、深淵をのぞき込むよりはまだ、と。

 シスネは確かに太陽の下へ還ってきた。だが、心は闇の中にあり、刻々と命を枯らしている。ゆるやかな終わりへと向かって。

――シスネの母は

 血と肉と命を与えた母は、蒲柳の質だったらしい。その形質が娘に引き継がれている気がしてならなかった。あまりに細く、小さく、脆く思えた。顔かたちは似ていない。ルキフェルは資料でシスネの母の顔を知っていた……。

 小さな手をそっと握りながら、ルキフェルはかろうじて脈打つ命を感じていた。監獄の闇に沈みながらも生還した、強靱な魂を感じた。それは生みの母から継いだものか、それとも育ての母から授けられたものか。なんにせよシスネの魂には炎が宿っていた。怒りでも憎しみでもよい。それが彼女をつなぎ止めるのなら。

 しかし、魂があっても、身体は徐々に衰えている……。

 手から手へ、そっと(いのち)を分け与える。ただの時間稼ぎかもしれないと思いながら。むざむざと死なせたくないと思いながら。ならば添い寝くらいすべきではないのかと悩みながら。原始的な魔法だ。あるいは呪いだ。身体接触による庇護、繋がり。シリウスが監獄の闇に沈みながら、身も心も正常なままで――少なくとも表面的には――還って来られたのは、伴侶の庇護があったからだ。衣の袖からちらりと見える刺青がその証。濃い交わりによる守護。

 そこまで思い切れない。

 ルキフェルは良識を呼び起こした。命か尊厳か。彼女を踏みにじり、蔑みの眼で見られるか。ただでさえ同意なく勝手に婚約者になっているのに。

 ひとまず様子を見て、あまりに回復の兆しがないのなら添い寝だけだと決めた。彼女が暴れても、ルキフェルなら押さえ込める。傷だらけになるだろうが。

 眉間に皺を立て、思わず彼女の手を強く握ってしまう。慌てて力を抜いたが、彼女は呻きはじめた。

 痛い、と。

「すまない」

 手を離す。身を乗り出し、彼女を抱き起こした。片腕で彼女を支え、己の胸に寄りかからせる。彼女は酷く冷たかった。その背を、空いた手でさする。何度も何度も。言葉もなく。

 いつもならこれで落ち着くはずだった。だというのに彼女は震えていた。激しく、苦痛を訴えて。

 助けて、と。

 じわじわと、ねっとりとした熱がルキフェルに伝わる。よくないものだ。穢れたものだとなぜだかわかる。彼女を呑み込み、ルキフェルにまで波及する呪いを感じる。

 どこだ、と思った時、片腕が掴まれた。細い指がルキフェルの肉に食い込んだ。じわりと、と激しく熱が……。シスネの左腕、そこに刻まれた印がにぃ、と嗤った。

「腕、」

 斬って、痛い、助けて……。

 彼女が喘ぐ。ルキフェルは彼女を寝台に横たえ、片手で杖を抜いた。

 振るう。血飛沫がはねる。的確に、滑らかに、印は削り取られた。肉片ごと取り除いたというのに――えぐり取られた肉が見る見るうちに盛り上がり、復活を果たす。印もまた同じく。

 彼女の腕は傷だらけだった。その訳がわかった。燃えるような呪詛を、妹を幸福にすまいというそれを、爪を立て、傷をつけてでも壊したかったのだろう。

 傷をつけたところで、呪詛からは逃れられなかった。今になって。いいや……ジュニアが死んだからこそ。執着が牙を剥いたのか。それとも恨みか。嫉妬か。

「斬って」

 彼女が薄目を開ける。灰の眼が銀に煌めいていた。呪詛によって安息から起こされ、身悶えし、ルキフェルに願った。

「解放、して」

 呪詛は牙を剥く、灼熱で彼女を喰らう。幸せなど赦すまい。いっそのことお前も。監獄でお前の正気をつなぎ止めてやったのは誰だと。恩知らずめと。

 こんな惨めな姿になるくらいなら、終わってしまえと。

 呪詛から伝わる念は、どろりした悪意に満ちて、満ちて、満ちていた。妹を灼き、その灰すらも溺れさせようとしていた。永遠に救いのない奈落へと。

「お前はずっとそこにいろ」

 地獄に。闇に。救われぬ場所に。

 唸る。彼女の左腕を押さえつける。

 杖が歌う。

 音もなく、速やかに彼女を縛る悪縁を斬った。腕が飛ぶ。血を振りまき、見る見る黒くなり――絨毯に落ちた。絶たれる刹那、呪詛は最後に悪あがく。妹の命をすすり……黄金の炎に灼かれた。

 ルキフェルは彼女の傷口を灼く。浄火は、名残の黒を祓っていく。

 そうして、ルキフェルは彼女の唇を奪い。

 (あい)を分け与えた。

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