唇を離すか離さないかの刹那、弾け飛ぶようにして扉が開いた。いいや、吹っ飛んだ。四角く切り取られた扉口に立つのは、子どもたちが絡めば戦闘力が十倍に跳ね上がりそうな魔女であった。ルーファスもセーミャが絡めば戦闘力が十倍になりそうだ……と、くだらないことを考える。セーミャは父が助けなくとも勝手に助かりそうである。蛙の子は蛙。獅子の子は獅子。闇祓い試験で
「……ほう」
ドラゴンの眼が炯々と光った。命の危険を感じる輝きがそこにある。
「落ち着いてください」
「お前なら行儀のよい番犬になれると思っていたのだが? 息子よ」
「待ってください不埒な行いはしていません」
接吻だけです、と口にする。
「だけでも大事だろうが。頬くらいはいい。友達の接吻だ」
ルキフェルだって友人というか護衛のままでいたかったとも。このドラゴンを義母にするのは大変な勇気が必要だ。
気まずいだのなんだの言っていられない、と。ルキフェルはため息を吐く。そこに鉄錆の香が混じっていることに気が付いた。あの一瞬のうちに呪詛はシスネを喰らおうとした。その命のすべてを。見れば、シスネの唇から血がつっと垂れている。
ルキフェルは親指でシスネの唇を拭う。殺気の源に向かって言った。
「古い魔法。身体接触口移し」
「てっきり房……」
片手を振ってかなり破廉恥な話題を遮った。手を繋ぐ、あるいは添い寝、唇を触れ合わせる――恋人のそれ。そして閨事と、やり方は色々あるのだが、閨事が最も効率的である。閨事の具体的な例に関しては、おおっぴらに言うことではない。慎みは大事である。
慎みを重んじる行儀のよい獅子こと、ルキフェルが選択したのは三番目。恋人の接吻である。咄嗟のことであった。吸い出された生命力を満たす必要があったのだ……とまで言わずとも、怒れるドラゴンは察したらしい。ひょいと杖を振る。飛び散った羽根がずたずたの枕に吸い込まれ、切り裂かれた寝台が修復され、砕けた窓もまた復元された。
ルキフェルは呻いた。なるほど。ドラゴンことバグノールドから見えた景色が想像できる。最低なクソ野郎と組み敷かれる娘の図である。娘は有らん限りの力を振り絞り抵抗するが……である。やめてほしい。
もうため息しか出なかった。ルキフェルは眠る彼女の頬に手を添え、ほんのりとした熱を感じる。どうにか一線は拾ったようだ。
――しつこすぎる
椅子――長椅子に背を預ける。だらだらと血が流れ、眼に入ってうっとうしい。暴れ回った呪詛のせいだろう。まったく性質が悪い。いっそのこと墓を暴いてやつの亡骸を灰に変えて海に還してやろうか。七度始末しても足りない。呪詛を灼いたから、もう煩わされることはないだろうが。
「おい、服を脱げ」
すぐ近くで声がする。いつの間にかバグノールドが踏み込んできていた。ルキフェルの顔やら首やらを見ている。疼くような痛みをようやく自覚した。衣もあちこち切り裂かれ、穴が空いている。獣の爪に裂かれ、牙を立てられたかのように。
「シスネを先に」
腕を斬りました、と告げる。細かいことは言わなかった。言えなかったというのが正しい。酷く疲れていたのだ。いくらか呪詛に喰われたのかもしれない。それでなくとも半年近く、気が休まる時がなかった。取り繕ってはいたが、焦燥は沈殿していった。ルーファスに「お前の仕事はご息女の護衛だ」と特別任務を与えられ、ここのところバグノールド邸に入り浸っている。粋な配慮なのか、部下の焦燥を鑑みて、どうせ仕事にならないから「ご息女」につけておけということか。ルーファスに訊く気にもなれない。
「……お前には足を向けて寝られないよ」
止血もしているようだし、呪いはないし、ひとまずシスネは問題あるまい。察しのいいことである。ルキフェルは渋々ながら服を脱いだ。はぎ取られるよりはマシだろう。襤褸布になったシャツを放り投げる。放物線を描くそれに、くすんだ紅が散っているのを認めた。
バグノールドが長椅子の側に膝を突き、腹にはしった傷に杖を押し当てる。囁くような詠唱とともに痛みが引いていった。
「シスネの印のことは……?」
「一人で風呂に入れると言い張るから聞き出したら、な」
惨いことだよ。声は静かだった。しかし揺らぎがそこにあった。ぐっと傷の一つに杖が当てられる。ルキフェルはたまらず呻いた。
「すまん」
「……肉を削いでも復活しました」
「試したことはあるよ。痛みを感じないようにして……」
同じだった。
杖が動く。傷がまた癒えていく。
「この十数年、印は静かなものだった。問題はあるまいと棚上げにしていたのだ。ジュニアは死んでいる……蛇の刺青は外聞が悪いが、ただちにどうこうということはなかろう、と」
腕を落とす必要はない、と。下手に隠蔽の術を施してもまずいであろうと現状維持であった。隠すということは後ろめたいことがあるからなのではと受け取られる可能性があったので。
「……私は大臣だった。ハリー・ポッターによってヴォルデモートが消えて十年。印は沈黙していた。ファッジに交代して数年……静かなものだった。シスネの監視もそろそろゆるむだろう、と思っていた」
魔法大臣ミリセント・バグノールドの子どもたちには護衛がついていた。全員ではなかったようだが、とにかく護衛がいたのである。そして数年前にミリセント・バグノールドからコーネリウス・ファッジへと権力が移った。バグノールドの子どもたちは「元大臣の子女」となった。護衛たちは任を解かれた……元子女の中でただひとり、シスネ・バグノールドの護衛だけは継続して。
シスネは監視を受け入れた。受け入れるしかなかったといえる。彼女は己が無害だと証明し続けるしかなかった。魔法省――ファッジの膝元――に入ったのもあえてであろう。もし怪物の妹もまた怪物であると証明されたなら、いつでも首を差し上げます、という。ですからバグノールドに手を伸ばさないでください、と。
――ただ
怪物の妹に生まれたというだけで。そんなことは自分には関係がないと割り切ることもできずに十数年。シスネ・バグノールドは十分に証を立てていた。彼女はクラウチではなくバグノールド。脅威にはなり得ない、と。闇祓い局でも声が上がっていた。もうよいのでは。死喰い人は死喰い人。妹は妹。監視はもはやいらないだろう。護衛たちはルーファスに奏上した。ルーファスもいいだろう、と言った。闇の脅威が去ったからではない。あの娘は十分に代償を支払った。理不尽にさらされてなお、と。まるで護衛たちが監視は不要と言い出すのを待っていたかのように。
執務室で、ルーファスは金貨の詰まった袋をキングズリーに放った。
『最後の日に使え』
黄褐色の眼で壁の暦を眺め、呟いた。
『クィディッチワールドカップが終わった後、どこかで』
お前たちは半休をとるがいい。
仕事の調整はしてやるから「お前たちの息女」と飲みにでもいけ、という計らいだった。少なくとも護衛たちはそう受け取った。護衛たちは頷いた。誰も余計なことは言わなかった。それでも、互いの考えていることはわかった。ああよかった。やっと彼女は解放される……、と。
――そして
すべては打ち砕かれた。夜空を染める緑、禍々しい闇の印によって。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアによって。
「バーティめ」
また一つ傷が消える。
「あの愚か者め」
ひとつ、ふたつ、みっつ。バグノールドの手はよどみなく動く。声だけが。常は威厳あふれるそれだけが、ぐらぐらと沸騰していた。
「レディ・クラウチめ」
今度は腕に杖が当てられる。
「ジュニアめ……」
「ヴォルデモートめ」
「……なにより愚かだったのが」
私だ。
血を吐くような呻き。ルキフェルは肯定も否定もしなかった。
「あの時はあれが正しいと思っていた……」
あまりに罪人が多かった。現行犯で捕まえて、証言がとれれば十分だと思っていた。目に見えるものが真実であると。
「罪人など、監獄行きがふさわしい。構っていられない」
傲慢だった。
「たとえ服従の呪文にかかっていようとも、知ったことではない。どこかに隙があったのだろう。なんとか英国を維持しなければならぬ……私は魔法大臣なのだから、責任がある。善なる者を守らねばならぬ」
どこかで侮蔑していたのだ。
「私は這い上がった。ただの雑用係から、最も高いところへと。幸運はあった。だがそれは、私の努力が引き寄せたのだと思っていた」
杖が、止まった。
「裁判なしで罪人を――罪人とされる者を監獄に送り込んだ報いを」
私ではなく、私の娘が払うことになってしまった。
「罪人のことは簡単に切り捨てられたのに」
たぶんきっと、私は命を救うためであれ……娘の腕を斬ることなど、できなかったろう。とてもではないができぬ。これ以上、あの子から奪えようか。
ルキフェルは、俯くバグノールドを見下ろした。そこにいるのはドラゴンではない。功罪を背負う魔女であった。
「悔いることができるだけ、まだいい」
ただ言えることは。
「あの混乱期、英国魔法界を支えたのは……まぎれもなく」
あなただということだ。
そう結ぼうとした。結んだか結ばないかのうちに、小さな悲鳴が聞こえた。ルキフェルとバグノールドはそろって吹き飛んだ扉のほうを見た。
「お養母様、ルキフェル……」
バグノールドの子どもたちが眼を見開いて二人を見ていた。寝台に転がるシスネ。長椅子に腰掛ける半裸の男。そばに膝を突く養母。
二人は凍り付いた。妙な誤解を生みそうであった。多少治療されたとはいえ血を流し、思考力が低下しているルキフェルより、バグノールドのほうが早かった。さっと立ち上がる。
「シスネの面倒をみてくれ」
有無を言わさない命令であった。よくしつけられた子どもたち――姉妹たち――は、そろそろと寝室に入ってくる。兄と弟たちは義理とはいえ、異性の寝室は遠慮したようだ。姿がない。もっとも、長男はふらふらしているのかたいてい邸にいないのだが。公演で忙しいから。世界を飛び回っている男なのだ。
「……で?」
姉妹たちは寝台を見て、シスネを見て、ルキフェルを見た。その「で?」にはすべてが内包されていた。洗いざらい説明しろ、と。
ルキフェルは降伏した。緊急事態における救命措置についても吐いた。絶対にシスネに言うなと釘を刺して。
姉妹たちは意識が朦朧としている女に対しての仕打ちをもって、ルキフェルを軽蔑しなかった。それどころか、こう言ってのけた。
「世界一ピュアなキスね」
と。
シスネが監獄より帰還して数週間、約一ヶ月。
シスネは短い覚醒と長い眠りを繰り返していた。命が流れ出すことはなく、顔色もよくなった。だが、完全に覚醒するまでには至らない。
そろそろのはずなのだが、と思いつつルキフェルは長椅子に腰掛ける。寝室の扉は新たにはめられ、化粧台や箪笥、机や椅子も元の通りに置かれていた。未だ悪夢に苦しめられているが、魔力を放つまでには至っていない。破壊の心配はないだろうという判断からだった。箪笥の中には着心地のよい病衣が用意されている。いずれ外に出たときに……出られるようになった時に困らないように、靴や装飾品、外出着も揃っていた。ルキフェルの従兄弟が用意したものだった。義手の話は起きてからだとも。とびきり良いものをつくろう、と従兄弟はにやりとしていた。
ルキフェルはどうも集中できず、書類を長椅子に放った。特別護衛任務の報告書だ。形式や建前は大事なのである。ルキフェルは護衛なのだ。婚約者の看病をしているのではなく。
馬鹿なのではないか、とルキフェルは何度目か思う。いくら護衛対象でも、長い付き合いでも、シスネにとってはありがた迷惑のお節介なのでは、と。明らかに線を踏み越えている。越えなければ助けられなかったわけだが。目の前の誰かを助けるためだった。助けないという選択肢は存在しなかった……。
ふ、と声が聞こえた。
シリウスのものだ。ブラック本邸で、シスネを救出できたことを報告したときのこと。
よかったな、と彼は言い。満足げに喉を鳴らしたのだ。
『巡り合わせだろう』
息女が攫われた。お前がその日の護衛だった。そしてお前はリアイスだった。
『たまたまですよ』
まさか運命だなんて言うんじゃないでしょうね。婚約は建前ですよと返した。シリウスはますます笑った。
『俺は運命なんて言葉は嫌いだが……』
リーンと出会ったのはたまたまだった。同じ年に生まれ、似たような境遇だった。俺はブラックで、あいつはリアイスだった。俺はグリフィンドールで、あいつはスリザリンだった。正反対でありながら、鏡写しだった。
『そして』
放っておけなくなった。愛だの恋だのは知らない。俺は博愛主義者では間違ってもない。だから、リアイスでありながらスリザリンに組分けされた女のことだって、どうでもよかったはずだった。腹立たしい存在だった。気になる存在だった。
あまりに惨い仕打ちを受けている女だった。
どうしても、
『放っておけなくて』
手を伸ばした。衝動的に、後先も考えず。
『偶然』
俺の視界に入ってきた女に。
お前もそうなんだろう、とシリウスはにやにやしていた。ルキフェルはなにも言わなかった。あなたたちは運命の番なんでしょうよと言おうとしてやめた。運命なんてろくなものじゃない。現に、二人は死によって永遠に分かたれた。
「君と僕は、別に運命なんかじゃないはずだ」
立ち上がる。寝台に眠る女の顔を覗きこむ。白――銀のきらめきが宿る髪は綺麗に整えられている。少し前髪が長くなったか、とそっと指で払う。眉どころか、睫も色が抜けていて、なぜだか心が痛かった。
『……運命なあ』
天狼星の名を持つ者は言った。切なげに。
『俺と結びつくより』
あいつが曇りのない、愛された子ども時代を過ごして。
「運命なんて嫌いだよ。君に惨いことばかりする」
監獄に入れられて、壊れそうになって。傷だらけになって。呪われて、片腕まで喪って。
喪ってばかりで。奪われてばかりで。
「ただ僕は」
『あいつに幸せになってほしかった』
「君が少しでも幸福であれ、と」
思ってしまった。
囁いたとき、女の瞼が震え――遠い祖、アポロニアより受け継いだ、星の色が輝いた。
※世界一〜な◯◯
解説
FF10はいいぞ