降り積もる。降り積もる。闇が降り積もる。
とろりとした暗闇のなか、己の輪郭すら曖昧で、解けていきそうだった。
なぜ生きているのか、なぜ死なないのかもわからぬまま、ただ呼吸だけをする。
「……惜しいな」
妹。
囁きが聞こえる。掠れ、ざらついていても、美しい声だと思ってしまった。返事をしたくてもできなかった。どうやって声を出すのか、言葉とはなんだったか、人を人たらしめているものを、こぼれさせていたので。
「兄のやつは、数日で参ってしまいそうだった」
お前はここまでたどり着いた。
「見事だよ」
だから耐えろ。
わかっている、と言いたかった。耐えないといけない。己の最後の欠片まで手放してはいけない。だって迎えにきてくれるはずだから。
「我が君は私を必要としてくださる」
必ずや迎えに来てくださる。ああ、印は今日も燃え上がる……。
柔らかな響きだった。そうだ、迎えに来てくれる……印が。
印が、と腕をひっかく。だが、皮膚をこするだけだ。そうだ、爪を剥いだのだ、と思い出す。奪われるなら手放したほうがいいと思って。いや違う。吸魂鬼がおそろしくて……渦巻く悲鳴をかき消すために、そうするしかなかった。
誰かが治そうとしてくれた、ように思う。黒々とした影がやってきて、振り払おうとした。がちゃんと鎖が鳴って、獣のように唸った。酷いことをされる。また吸魂鬼がやってくる誰も信じられない。迎えに来てくれるというのも嘘かもしれない。信じてはいけない。そうしたら大丈夫。だって誰も。
誰も、この闇を知らない。
「そらそら、頑張るんだ雛鳥」
この闇を耐え抜いたならば、お前には資格があるのだ。
「私の勘ではもうすぐだ」
我が君がいらっしゃる。
女が紡ぐ言葉は、恋歌に似ていた。求めてやまぬ。引き離された。また会うまでは諦めない……。
「我が君の下へおいで」
どうやら、ジュニアのお陰で我が君が帰還なされたようだし。
ふふ、と女は笑う。あの坊やもやるじゃあないか。
「どうせ外に出ても、歓迎されるまい」
それにジュニアの願いでもあるしな。叶えてやろうとも。
「しかし……」
皮肉なものだ。は、と女は笑う。
「アポロニア」
太陽の名を冠する女は、とびきり美しかったらしくてな。ところがくだらない男に恋をして……邪魔な穢れた血なんぞをわざわざ監獄送りにしたそうだ。
「そしてその子孫がこの様だ」
哀れ射落とされ真っ逆さま! 私もお前も落とされた。いいや闇に踏み入った。自らの意志で。
「お前は愛されていたろうに。くだらぬ愛とやらを、シニアどもから与えられていたろうに」
そんなことはない、と言おうとする。けれど、ひゅうひゅうという喘鳴しかこぼれなかった。
捨てられた……彼らは兄のことしか見ていなかった……。
「シスネ・アポロニア」
名付けがその証だよ。伝統に則った適当な名付けではあるまい。
シスネは白鳥。アポロニアはすなわち太陽。ブラックの伝統に則るのならば、デネブとするはずだろう。デネブ・アポロニア。たとえばシリウス・オリオン・ブラックのように……。
声は饒舌だった。闇のなかにあって生気を放っていた。狂わねば、こうもまともになれないのか。正気と狂気がひっくり返っている。まともではない女がなめらかに話し「生きて」いる。まともなはずのシスネが言葉もなにもかも忘れたようで……壊れて、終わろうとしている。
「アポロニアというのももしかしたら、偶然かもしれないな」
太陽が必要だったのだろう。光ではなく。もっと高次で、神性のあるものが望ましかったのだろう。なるべく響きの美しいものを。
つらつらと女は語る。まるで「外」で……外とはなんだったろう……お茶でも飲んでいるように、雑談に興じている。返事のない、一人きりの雑談。
「白鳥と太陽。すなわち」
不死鳥。
生命力を秘めた名だ。
答えない。答えられない。ひたすらに身を丸める。ちゃりちゃりと鎖が鳴る。
――誰が
名を付けたのだったか。母だった……生んだだけの女。
未熟児で……ひ弱かった。産み落とされたはいいが、あまりにも脆弱だった。
明るい名前がいいと思ったの。
柔らかい声が響く。どこからか。己の内側から、木霊する。
あんまりにも小さくて、心配で。だからね。
シスネと付けたのはあの人。羽ばたいて、飛んでいけるようにと。それに美しい、と。
アポロニアと名付けたのは私よ。シスネ・アポロニア……不死鳥。
ひ弱でもなんでも、どうにか生きてほしかったから。
極限の中で思い出したそんな欠片すら、闇は呑み込んでいった。
覚醒と昏睡を繰り返し、狂気と正気の狭間をさまよい、時間の概念すら定かではない中、崩壊は進んでいく。
少しずつ亀裂が入り、ぽろぽろと欠片がこぼれ、泥の中に落ちていく。灼熱の痛みに包まれる。幸せにはさせない、と呪いの歌が響く。
助けて、解き放ってと叫び――塗り込められた闇の中、ふっと光が見えた。
手を伸ばし――なにかに触れる。あたたかいなにか。
ぼうやりとまぶたを開けた。ぼやけた世界に金色が見えた。光が見えた。
シスネ、と呼ばわれる。覚醒を促す声。呼び起こす声。こちら側へ、シスネをつなぎ止める言霊。
「は……い」
たったの二音を絞り出す。紫の眼がシスネを射抜く。夕暮れの色だ、と思う。太陽の名残の色。金糸の髪は光そのもの。輝けるもの。彼の名は、そんな意味だった、と思い出す。
「ルキ、フェル」
うん、と彼は言う。シスネの手を強く強く握ったままで。ざらついた感触。傷跡に、胼胝に。戦う者の手。魔法騎士の手だった。
「よく頑張った」
お帰り、と彼は囁いた。
なんだかその顔が悲しげに見えてしまった。思わず手を伸ばす。掴まれているのとは逆の手を。
だが動かない。言うことを聞かない腕を――腕の方を見る。薄い布団の下、左腕があるはずの場所に。
あるはずの膨らみが、なかった。
「すまない」
震える声が言う。
「斬るしかなかった……」
ばらばらになった記憶が繋がる。灼熱の痛み。助けてくれ、と叫んだ。
どうか、と。
そうなのか。怒りも悲しみもなかった。ただそうなのか、と思った。心の内にためこんでいたなにかは、監獄の底で枯れ果てたのかもしれない。シスネという器の中にはひたひたと絶望が満ちて、あらゆる負の念が波紋を描き、それすらも吸いつくされた。最後に、かろうじて箱底に残ったのは、ひとかけらの
左腕は永遠に喪われた。そして刻まれた印も消え失せた。やっとのことで。それでいい。必要なことだったのだ。
「……いいの」
あなたは私の願いを叶えてくれたのだから。
呪縛を、絶ち切ってくれたのだから。
そして冬が終わり春となって、夏が訪れた頃。
コーネリウス・ファッジが失脚し、新たな大臣がその座についた。
その名をルーファス・スクリムジョールという。
「あなたのお陰だ」
レディ・シルヴァー。静かな声に、眼を泳がせる。バグノール邸の庭園、池を臨む東屋には、シスネとルーファス・スクリムジョールだけ。秘書のパーシーと護衛は少し離れたベンチに控えているらしかった。シスネは薄い茶器、その縁を指でなぞる。何度も剥いでは治療され、とうとう匙を投げられて放置されていた爪は、今は綺麗に整えられている。監獄での日々などなかったように素知らぬ顔で指の先におさまっている。なにもかも奇妙な心地だった。こうして生きていることも、東屋で池を眺めていることも、花々の匂いを感じることも。
監獄は血の匂いで満ちていた。シスネも戦慄していたはずなのだが……あらゆるものをすり減らさなければあの闇を生き延びられなかった。感情を、身体も少しずつ少しずつ切り分け、差し出していた。囚人は自傷にはしる。シスネもまたそうだったのだ。あのベラトリックスたちでさえ、己の腕に噛みつくくらいはしただろう。
「……別に」
ぽつ、とシスネは返す。考えることはできる。言葉をつなげて話すのが難しい。あそこは人から言葉を奪う。闇から抜けてでもなお、シスネを縛り付ける。
「たいしたことでは」
「美化する類のものではなかろうな」
ふ、とルーファスが息を吐く。新たな魔法大臣は多忙なはずなのだ。しかし、こうして訪ねてきた。新大臣から前任の大臣へのご挨拶、とのことだ。コーネリウス・ファッジが前の大臣のはずなのだが、そのあたりはすっ飛ばしたらしい。
ファッジの存在を思い出し、シスネは唇を引き結んだ。けして嫌いではなかった。だが……やはり、大嫌いの箱に入れるべきだろうか。それすらも嫌である。考えたくない。魔法大臣印と署名が鮮やかに脳裏に蘇る。ファッジは、シスネの死刑執行の書類に署名したようなものだった。監獄の深いところに落とされるということは、消極的な死刑である。いいや、積極的かつ残忍な死刑といえるかもしれない。監獄に押し込めても、問題はなくならない。ファッジはたしかに、シスネの死を願ったのだ……。
「わからないんです」
ぽつぽつとこぼす。かつてクラウチ邸に現れた男、シスネの実の父母を連行していった男……恐れてもいいはずだった。しかし、あの闇を見た後では、なにも恐ろしいと思わなくなっていた。単に感情が削られすぎているのか、シスネという人間はやはり壊れてしまったのかわからない。それこそ神様にでも訊かない限り。でも神様は意地悪だ。どうせ答えてくれないのだ。シスネを助けてくれたのは、神でもなんでもない。人間だった。
「……あれで、正しかったのか」
「高潔だったよ」
ルーファスは優しく返した。シスネは元気な時だったらもう少しなにか反応できたのだろうな……と思いながら、実際には瞬くくらいしかできなかった。元気や健康なんて概念はどこかに消えてしまったのだ。冬に救われて、床から起きあがれるようになって、なんとか歩けるようにもなった。歩行用の杖を使って、だが。先日開かれた、公的な弾劾には車椅子で赴いた。数ヶ月経っても身体が萎えているのだ。骨を生やすことはできる。だが、萎えた身体を都合よく元に戻す魔法はない。できて、一時的に誤魔化すくらい。
「出てくるのは嫌だったろうに」
「……みっともない、ですから」
可憐な乙女ならここで涙の一粒でも流していたろうか。髪どころか眉も睫も――あらゆる毛髪から色が抜けてしまった。やせるどころかやせこけてしまって、眼ばかり大きい。左腕もなくしてしまった。ルキフェルの従兄弟のナイアードが、それは美しい義手を作ってくれたし、生身の右腕よりもよほどなめらかに動くけれど、自分にはもったいない気がしてならない。
「それでもあなたは出てきたのだ」
ルーファスは事実だけを述べた。それがありがたかった。シスネは黙って耳を傾ける。
「……あなたが公に、あの場に出てきたからこそ」
あれは屈服したのだ。
「意外なほどに楽に済んだ」
ルーファスは喉を鳴らす。獲物を狩ったはいいが少し物足りない、そんな風に聞こえた。彼の獲物は闇の使徒たちである。ファッジなんかではまったく足りないのだろう。
「あなたはなんでもできたのだ。おそらく、あの場にいた者たちはそれを是としたろう。ファッジよりもよほど強靱な魂の持ち主に敬意を抱いていたから」
「……たとえ、監獄に入れても」
意味がないから。
母に連れられて魔法省に――弾劾の場、ウィゼンガモット大法廷に赴くその道中、なにを言ってやろうかと考えていた。近づくにつれ気が重くなった。帰りたかった。ファッジは勝手に裁かれればいいとも思った。見たくなかった。シスネを監獄に投げ入れた男が、情けないほどの凡俗だったなんて現実は。極めてすぐれた悪ならば、それか極めて突出した善ならば、シスネは納得できたかもしれない。しかし現実はそうでなかった。ファッジは眼が曇った、ただの人間だった。
「大臣、閣下の、盾にでも」
すればいいと。どうせなら、使いつぶされて、誰かの役に立ったほうがマシだと。とつとつと続ければ、ルーファスはにやりとした。
「よかろう。ご息女の仰せとあらば」
本来は監獄行きでもおかしくはなかったのだ。それくらい受け入れるだろう。ファッジはご息女に一生頭が上がらぬよ。まあ、上げようとすれば。
「私……いや、ルキフェルが踏みつけるか」
「仮の、婚約です」
「仮でも婚約だ。おめでとうと言っておこうか」
あっちもこっちも立て込んでいて、今頃言えたわけだが。
「建前の」
どうしよう、とばかり思う。監獄から連れ出された時に言われたらしいのだがまったく覚えてなくて、何度目かに目を覚ましたときは左腕がなくなっていて、それから寝込んだり起きたりして、ルキフェルに経緯を説明され……そーっと「実は僕ら婚約しているんだ」と言われ、シスネは固まった。鈍っていた思考でさえ、その事実は衝撃的だった。起きたら婚約ってどういうこと?
シスネの放心をどう受け取ったのか「すまなかったどうしようもなかったんだ僕くらいしかちょうどいいのがわかった破棄しよう」と早口でルキフェルは言った。仮とはいえ婚約。婚約とはいえ仮。そして仮だろうがなんだろうが外から見たらわからないのだ。「仮の婚約届」なんてものがあるわけがない。仮ですよ、と宣言したわけでもない。つまり、シスネとルキフェルは世間的には正式に婚約している。ルキフェルはわざわざ己の一族――リアイスに仮ですよ建前ですよなんて言わないだろう。
ルキフェルは破棄が簡単にできるといわんばかりだったが、それは離婚よりは楽という意味だ。
「ルキフェルの内心は知らないが」
目の前に死喰い人におそわれている人間がいて、助けない闇祓いはいない。ルキフェルはそうしただけだ。
「それがたまたま婚約という手段で……」
その気になれば煙突飛行ネットワークを止めるとか、省から人を引き上げるとか言えるからなリアイスは。あと聖マンゴ設立にも噛んでるし……。ぶつぶつとルーファスは言う。頭が痛い、と言わんばかりだ。
「リアイスとマグダラは怒らせる、ディゴリーのことも怒らせる。グリーングラスも当然怒らせる、省内に火をつけて回ったようなものだし、ご息女の件で「純血」たちからもそっぽを向かれる」
馬鹿かあいつ。
「純血、とは」
問いかける。ファッジは毒にも薬にもならないちょうどいい大臣として候補に入り選挙に勝った。そしてシスネが監獄に入れられようが、いわゆる過激派にとってはどうでもいいはずだ。
ルーファスは唸った。
「やはりまだ療養がいるな」
シスネの思考力がまだ戻っていない、と暗に言う。彼はちら、とシスネの眼を見て、呼吸を二つおいて言を継いだ。
「死喰い人の妹だからという理由だけで言いがかりを付けた」
「監獄に入れた」
「それがどれほどやつらの気に障ったことか? いいや、死喰い人の血族――彼らと袂を分かった者たちにとっても、ファッジは警戒すべき、排除すべき者となった。直接ファッジを椅子から蹴り落としたわけではないが、ファッジを擁護することもしない」
秘書たちからも見限られたしな。味方は泡沫のような連中ばかりで、大物はいなかった。それどころか大物の怒りを買った。
ルーファスは茶器を傾け、懐から封筒を何通か出した。
「ファッジからむしりとったガリオンと、省からの見舞金の詳細が書いてある。あとうちの秘書から花が届いているはずだ。後で確認するといい。こちらは闇祓い局、あなたの護衛たちからの見舞金の詳細」
封筒が卓に置かれる。
シスネはそっと、手を伸ばした。
◆
ルーファスはシスネを玄関ホールまで送り届けると帰って行った。彼が言っていた通り、花が届いてた。贈り主であるはずのパーシー・ウィーズリーは、シスネに軽く目礼したのみで言葉を交わすことはなかった。彼がファッジの秘書だったからといって、なにを思うわけでもない。
杖を突きながらゆっくりと歩き、そろそろと階段を上り、自室へ。寝室――据えられた寝台に横になる。着替えないと、と思いながらおっくうで仕方がない。
はあ、と息が切れる。なにがレディ・シルヴァーだ。こんなに弱くなってしまって。元から強くもなかったのだけど。
封筒を破り、中に眼を通す。文字が中々頭に入ってこない。ゆっくりと二度読んで把握した。ファッジ家の資産のうち何割かをむしりとったらしい。どうでもいい。金銭で買えないものがあるのだ。まともに動く身体とか、悪夢をみない日々とか。
むしりとった明細を寝台から払い落とす。次の封筒は、玄関ホールに届けられていた花束に入っていたものだ。差出人はペネロピー・クリアウォーターだった。体調が思わしくないでしょうし、直接のお見舞いを控え……パーシーに言伝して……とある。二人は恋人同士らしかった。パーシーは「あんな大臣」に仕えていた自分が許せないらしい。シスネを投獄した件に関して、さすがにまずいだろうと大臣に意見したらどうこう……秘書を辞めようにもどうこう……なんでも家族と仲がこじれてどうこう……ペネロピーのすすめで、大臣の狗のふりをしていたようだ。ペネロピーはこう書いていた「もう最悪私とパースで大臣をどうにかするしかないかもと思い」。やめてほしい。
震える手で手紙を折って封筒に入れる。なんだかとても疲れた。
「どうにかしなくて、済んだんだから」
ルキフェルがなんとかしてくれたから。その彼はバグノールド邸にいないのだ。もうシスネの護衛ではないから。
手を伸ばす。広い寝台、その真ん中にある抱き枕を引き寄せる。大きな獅子の抱き枕というかぬいぐるみというか。ナイアードが爽やかな笑顔とともに持ってきたものだった。眼は紫色だった。シスネはありがとうとだけ言った。間違ってもルキフェルの眼の色ね、なんて言えない。ナイアードは期待していたらしいけれども。
獅子を抱きしめる。そして護衛のことを思う。もう護衛ではない彼のことを。なんだか胸がざわついた。長い間護衛をしてくれていた。キングズリーも、ウィリアムソンも、ほかのみんなも。だけれどもなぜかルキフェルのことを考えてしまう。
『初めまして。バグノールド閣下のご息女』
シスネ嬢、と彼はとびきり柔らかく言った。片膝を突いて。騎士のように。
『今日からあなたの護衛に加わりました』
ルキフェルと申します。
いかなる火の粉も払いましょう。もしそれができなければ、攫って逃げましょう。
その手をとって。
さらりと言い、彼はくすくすと笑った。
『小説の一節だそうですよ』
真似をしてみました。
それはシスネの緊張をほぐすための「おふざけ」だった。
シスネは後でセーミャに訊いてみた。こんな台詞がある小説ってあるの? と。
そしてセーミャは答えた。
ああそれは、エルドリッチ・ディゴリーのご息女と彼女の騎士になった男の物語よ。とてもかっこいいの。
そうよね、と答えたと思う。そうよね。
「『私の魔法騎士』」
その題をそっと呟く。心のどこかがむずむずして、シスネはきつく、きつく獅子のぬいぐるみを抱きしめた。
ここにはいない誰かの代わりのように。
その日、ひとつの星が墜ちた。
柩をのぞき込めば、皺の刻まれた面がある。瞼は閉じられ、少し眠っているだけのように見えた。
この人でさえ――アルバス・ダンブルドアでさえ逝ってしまったのだ、とようやくのことで実感が迫る。誰しも死からは逃れられないのだと。
花を二輪、彼に手向ける。婚約者は葬儀に出席していない。随分と健康を取り戻しているものの、人の多いところは嫌なようだった。白く変じた髪を、彼女は恥じている。削げた頬も、やせ細った身体もおおむね元に戻ったけれど――髪だって気にすることはない。綺麗な白銀色だとルキフェルは思うのだけど――それでも、彼女はバグノールド邸に引っ込んでいる。監獄の闇が彼女から自尊心を奪い取ったのだろう。簡単に言えばそういうことだ。心ない言葉を誰かから言われた可能性もある。君が監獄に入って出てきたのは恥じることではない、と言ったところで上辺だけの空しい言葉だろう。監獄の闇を知る者だけが口にできる言葉というものがある。ルキフェルはただ、君が生きているだけでいい、と囁く。それが本音だから。底まで落ちた者に、疲れ果てた者に、前向きにだとか頑張ってなんて言葉は残酷なように思う。彼女が浸った闇は、そんなものでは祓えやしない。ルキフェルはただ静かに側にいる。できるのは、隣を歩くことくらい。
――歩いていければいいのだが
柩から踵を返す。婚約してから約一年数ヶ月。現状を維持している。彼女は――シスネは婚約を破棄してくれ、と言わなかった。ルキフェルも強いて訊かなかった。元々ルキフェルが勝手にしたことだ。破棄するなら少し下準備が必要だった。放蕩貴族のルキフェル・リアイスの噂を流し、婚約者がいるにも関わらずどうこう、とか。どうこう、の詳細はあまり健全な話でもないので割愛である。ルキフェルの名誉には少々の傷はつくけれど、リアイスの家名があるのだから別に構うまい。問題はない。
「お悩みかしら」
魔法騎士殿。葬儀が終わり、ぱらぱらと人が散るなか、クロードが囁いた。筆頭分家当主、当代一の先視の言に、ルキフェルは眼を眇めた。
「……どこまで視えてる?」
「言わないわよ」
二人並んで歩き出す。真っ直ぐ帰るのも芸がない。目指すのは湖だ。ぐるぐると湖の周りを歩きながら話し込むのが、ルキフェルたちの世代――リアイスたちのお決まりだった。散歩しながら話したほうが捗るのだ。ほどよい運動にもなることだし。
無言で歩き続けることしばらく。湖に到着し「お決まり」の経路を辿る。
「魔法騎士とは言うけれどね」
エルドリッチ・ディゴリーの息女とリアイスの「あれ」は、とルキフェルは口にする。ご息女とリアイスの故事を下敷きにした「らしい」小説は複数あるが、ここで指しているのは『私の魔法騎士』である。
「……小説と実態は違うだろう」
ディゴリー家の息女とリアイスの男は確かに婚約した。そして「悪い魔法使い」を倒した。これは事実である。なにせルキフェルたちの祖の話なのだから。曾祖父アシュタルテの祖にあたるのだ。ご息女とリアイスの男は。ディゴリー家の家督はご息女の幼い弟が継いだ。その系譜がセドリック・ディゴリーに行き着いた……。そして彼は殺された。
暗い気分を振り払う。今は小説と実態の話である。つまり、脚色の話でもある。
「なにせご息女は上から降ってきた」
「その日、彼は運命に出会った……」
クロードがくすくすと笑う。なんとまあ脚色の偉大なことよ。
「そしてその彼は降ってきた彼女を避けた」
「魔法騎士、舞い降りたる運命を受け止める」
「避けたんだよ」
「小説的には受け止めるでしょう」
「だろうね。僕だって反射的に避ける」
「猫のように美しい眼をしたご息女は、まるで」
「どこぞの館の上階の窓から飛び降りたあげく、猫よろしくにゃんぱらりんだぞ」
「ご先祖、最高よね」
「ただの傍観者だったら面白いだろう」
エルドリッチ・ディゴリーのご息女、実はじゃじゃ馬だったのだ。そしてリアイスの男は運命に首根っこを掴まれた。
「私を攫ってくださいな」
「今、私に手を出そうとした好色……」
こほん、と咳をする。好色爺を花瓶で殴り倒して脱出したのだけど。
「あなた、私と婚約してくださらない?」
「そこは合ってるんだよなあ……」
「だって私の護衛ですもの」
「そこも合ってるんだなあ」
ぐるぐる、ぐるぐると二人は歩く。ダンブルドアが逝ってしまったのに、一体なにをやっているのか。人生には息抜きが必要である。
「いかなる火の粉も払いましょう。もしそれができなければ」
攫って逃げましょう。その手をとって。
さあ『私の魔法騎士』における、有名な台詞は実際どうであったのか?
「ご息女、何ガリオン払えますか。なにせご息女は元息女なので、これは職務の範囲外です」
「……ご先祖、金欠だったらしいし」
リアイスとて多少の浮き沈みはある。ご先祖は金欠だったのだ。詳細は不明だが。こつこつ真面目に働いて、その真面目さを買われてご息女の護衛に抜擢された……らしい。
「絶対世間には言えない」
ふう、とクロードが息を吐く。
「でもねえ、ご先祖は結局、紆余曲折の末に言ったそうじゃないの」
「悪い魔法使い」の手の者を蹴散らしながら。
「いかなる火の粉も払いましょう……」
ルキフェルは呟く。歌うように。昔に、戯れで口にしたなと思い出す。バグノールドのご息女に。護衛に囲まれていても、なんだか彼女がひとりぼっちに見えてしまったから。それに、歯の浮くような台詞を口にして、ご息女がおかしがって笑ってくれればいいと思ったのだ。バグノールド「閣下」の大事なご息女。父親によって巣から放り出された雛鳥だと聞いていた。少しでも笑顔でいてほしかった。
似合わない道化になったら、ご息女は固まっていたが。あんまりにも歯の浮く台詞だったので、たぶんルキフェルは選択を間違えたのだろう。そっとしまい込んでいた記憶だった。若いときの過ちである……。
「……大丈夫よ、あなたは歯の浮くような台詞もさらっと言えるから」
問題なしと言われても。
「シスネをバグノールド家にやるように伯父様に言ったのは私なの」
ルキフェルは立ち止まる。急な話題の転換と、思わぬ告白が足を止めさせた。まじまじと、クロードの――先視の、薄青とも銀ともつかない眼をみやる。
「暗いものが視えた」
クロードは再び歩き始める。ルキフェルも従った。
「いくつかの分岐があった。シスネはクラウチ家にいる限り……」
理由がわかったのは後からだった。今なら言える。
「シスネの路は絶たれた。彼女は首を絞められ、あるいは、傷もなく転がっていた。それか死喰い人になっていた……ジュニアが服従の呪文でもかけたんでしょう」
暗い路ばかりだった。分岐の中で、明るい光が瞬いているものがあった。
「それが、シスネがバグノールド家の養女になる路」
とても暗い路。だけれども命脈を絶ちきられず、闇に堕ちない路。光があった。わずかでも、希望があった。
「たぶんそれがあなただった」
ルキフェル。
「偶然だよ」
シスネの兄ことどこかのジュニアの遺体を掘り起こし、細切れにしたい衝動をこらえ、ルキフェルは返した。ろくでもない兄である。
「偶然でもなんでもいいのよ。シスネを助けたのはあなただった。溺れる者の手をとったのはあなただった。行動したのはあなただった」
たまたま力ある家名を持ち、たまたま彼女の護衛になった。偶然が重なればそれは必然となる。
「あの子を助けてくれてありがとう」
やっぱりあなたは魔法騎士なのよ。
「僕を買いかぶっている」
「シスネとそっくり」
クロードは鋭く言った。
「逃げることもできたのに、それを選ばず監獄に入って、耐え抜いて出てきたあの子。あの子を助けるために手札を切り……片腕も斬ってみせたあなた」
たいしたことなのよ。
お似合いよね。
「……後で」
ちゃんとお墓を詣でるんだから。寝台の上、獅子の抱き枕をそっと撫でる。
本当は行きたかった。だけれども躊躇った。だってファッジがいるでしょうから。どんな顔をすればいいかわからない。真っ白になった髪を誰かにどうこう言われるのも嫌だった。意地の悪いひとはどこにでもいるものだ。いちいち気にしていられないのだが、平気なふりができることと、傷つかないことは違うのだ。
ルキフェルは綺麗な髪だと言ってくれたけど。たぶん本音なんだろうけど。
そんな人だから「婚約ごっこ」に付き合わせるのは気が咎める。そんな人だから、シスネは婚約破棄を言い出せない。
『なるようになるさ』
そう、母は言った。
『形から入ってもいいだろう。そこから芽生える感情はあるかもしれない』
あいつはいい男だよ、シスネ。
お前が幸せになってくれるなら、結婚してもしなくてもいい。強制もしない。なにせ私はお前の親だから。子には笑顔でいてほしい。
『お前は一度、監獄で死んだのだ』
闇に沈み、光の下に還ったのだ。生まれ変わったのだ。
『クラウチではなくバグノールドに成った。悪縁は絶ち切られ』
運命が飛び込んできた。
『逃してはいけないよ』
本当に楽しげに母は言った……。
「運命なんて嫌い」
神様なんて嫌い。辛いことばかりで、シスネを壊そうとしてきた。助けてもくれなかった。
助けてくれたのは、ただの人だった。
かたん、と音がする。ふっと窓の向こう――露台を見て眼を見開いた。寝台を降り、駆け寄って窓を開ける。ためらいもなく。
「ルキフェル」
正面から来なかったの、どうしたの、と言おうと思った。だが、言葉に詰まった。露台から寝室へ踏み込まず、彼はただ立って、シスネを見ていた。深い紫の眼が、ただシスネを見ていた。シスネだけを。喪服の黒を身にまとい、彼は少し息を吸って、吐いた。
「こんな時なのにどうかしているとは思う」
今は戦時だ。だけれども、どうしても答えを訊きたくなった。
「……巡り合わせとやらを、確かめたくなった」
囁くように彼は言う。シスネは息を呑んで立っているしかできなかった。なんの答えだろうか。もしかして、破られてしまうのだろうか。婚約を? それでも構わないと思っていたはずだった。ルキフェルはリアイスで、シスネは成り上がりのバグノールドだ。釣り合わない。善意にすがってばかりではいけない……と。
一歩、下がろうとする。しかし、ルキフェルの眼に射抜かれて、立ちすくんでしまった。
彼は小さく笑んで、片膝を突く。いつかのように。
「あなたに降りかかる火の粉を払うことを」
「それができずとも、あなたを意地の悪い神のもとから攫うことを」
お許しいただけますか。
僕のご息女。
少し明るい声で、軽い調子で彼は言う。いかがいたしますか。この約束を、と。シスネが断っても笑い話で済むように。おふざけでしたよと言えるように。
破棄しても、ただの友人に戻れるように……。
「嫌よ」
囁く。ルキフェルが眼を見開く。紫が、ひび割れた。深い深い痛みが覗く。
シスネは線を越える。露台へと、彼の下へと踏み出す。片膝を突く、彼の手を握った。生身の手と、銀の手で。精一杯。ルキフェルが立ち上がる。シスネは彼の肩に手をかけて。
「あなたは私の護衛で」
少し、背伸びをする。この感情の名は知らない。だた、思いに身を任せた。
「飛び込んできた運命なんだから」
離さない。
そっと、彼の唇を奪った。
そして、一年が経った頃。
あらゆる生と死が交錯し、大悪が倒されたその日。
空を流星群が翔る夜、やっとのことで帰ってきた魔法騎士を、彼女は出迎える。
お帰りなさいと言うつもりで。
あいしていると告げた。
魔法騎士は息女をそっと抱きしめて、こう言った。
僕もだ、と。
何度だって言おう。
君の幸福を祈っている。いいや、欲張りなことに。
ずっと隣を歩いていきたい。
僕はご息女の魔法騎士だから、と。