【完結】転がり落ちた雛鳥は、   作:扇架

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番外編。ネタバレあり。


番外編
わるものたちの夜


 悪夢のようだった。

 いいや、悪夢そのものだ、と彼女は思った。

「……なんだと?」

 悪い夢は覚めたはずだった。ヴォルデモートは消えた。英国は平和になった。リーン・リアイスが殺され、ポッター夫妻が殺されたものの、深い闇は脱した――はずだった。

 頭脳明晰、女傑と讃えられる女は、ぽつ、と呟いた。

「行方をくらましていた」

 妻が殺されたのにも関わらず、消息を絶っていた「夫」が姿を現した。

「シリウス・ブラックが」

 市街地で発見された。

 十数人のマグルと一人の魔法使いを殺して。

 

――間違えたのだ

 とある夜。ロンドンの地下。英国魔法省本部。幾重もの守りが施された迷宮を、かつての魔法大臣、夜闇をまとったドラゴン、ミリセント・バグノールドはゆく。

 足取りは颯爽としていたが、心は重い。間違えたのだ、という声ばかりが響く。それを人は自責と呼ぶ。良心の呵責と名付けた。

 心とは裏腹に、歩は進む。かつ、と高く鋭く靴音を響かせ、深い紺の外套を翻し。魔法大臣たるもの堂々とせねばならぬ。その座を退いても、永の習慣は消えない。身体に染み付いてしまっていた。

 長い長い廊下を行きながら、頭は勝手に考える。かつての過ちを。

 己が獄に押し込んだ、シリウス・ブラックのことを。

 裁判などいらぬ、とバーテミウス・クラウチ・シニアは主張した。

『やつは妻子を裏切った。友を裏切った』

 物証はない。だが、証言がある。ダンブルドアはシリウス・ブラックが秘密の守り人だと言った。シリウス・ブラックはジェームズ・ポッターの親友であった。なんの不自然もない。そしてシリウス・ブラックならば、リーン・リアイスの殺害に荷担もできただろう。なにせ彼女の夫なのだから。

 シリウス・ブラックならば、マグルを十数人殺害できただろう。なにせあのブラックなのだから。

 シリウス・ブラックならば、ピーター・ペティグリューを粉微塵にできたろう。

 やつは優秀だった。優秀すぎた。だからできたとバーテミウス・クラウチ・シニアは吐き捨てた。

 お前のその憎しみはなんだ。能吏バーテミウスよ。私の次の座を狙う者よ。お前が罪を許せないのも、悪を唾棄しているのも知っている。潔癖――非情なほどに潔癖なのだ、と知っている。悪と裏切りが蔓延るこの時代、ある意味では必要な資質だとも思っている。お前ならば喉元に杖を突きつけられようが、賄賂を受け取らないだろう。務めを果たすだろう。

 男の眼に燃える冷たい炎は、度が過ぎていた。ミリセントにはそう思えた。それほどにブラックを憎むのは、お前が妻子を愛しているからか、と訊きたかった。極めて優秀すぎるがゆえに、人間味がないと言われているのを知っていた。身体が弱い女を娶ったことを知っていた。あまりにもか細く、生家においてよい扱いを受けていなかったらしい女。心の優しい女を、とても子は産めそうにない女を、それでも娶った。

 あの能吏が娶った女について、下世話な話が飛び交っていたものだ。聞きたくもなかったが噂は否応なく耳に飛び込んできた。

 子がなにがなんでもほしいなら、愛人でも囲っている。

 そう、バーテミウスは言ったという。そして彼は愛人を囲うような男ではなかった。ただ一人を娶った。

 そしてか細い女は二人の子を産んだ……末の子は女の子で、ブラック家の血が色濃く現れた……。

――赦せぬか

 バーテミウスはあらゆる意味でブラックを赦せないのだろう。シリウス・ブラックは、生家を捨てた。彼は証明したはずだった。善なることを。その身に流れる血は黒ではなく紅である、と。そして真紅の血の一族の女と結ばれた。それが。敵対する家の者どうしが手を取り合った。まるで御伽噺のようだとミリセントは思っていたし、バーテミウスも思っていたのではないか。困難を乗り越えてそれでも結ばれる。そんな物語を、バーテミウスもまた持っていたから……。

――これは止まらぬな

 潔癖と苛烈は似ている。白い布巾についた一点の汚れも赦せぬ。そして加速する。この世には穢れなどいくらでもあるのに、ひたすらに真っ白い世界を目指す。烈しく。己を滅ぼす勢いで。

 どうするか。ダンブルドアの証言は確かだとしよう。だがそれ以外は? 恐慌をきたしたマグルたちの言は信じられるか? 現場は悲惨だった。そして記憶というものは書き換えられやすい。バーテミウスはブラックを監獄に放りこむ気だ。ブラックを死喰い人だと「決め打ち」している。ならばマグルの証言「ごとき」、好きなようにできるのではないか。調べを捻じ曲げてはいないか?

 ピーター・ペティグリューがシリウス・ブラックに対峙した? わざわざ?

 ペティグリューが実力者だと聞いたこともない。それがシリウス・ブラックを追いかけた?

 シリウス・ブラックはリーン・リアイスの夫だった。いくらでも機会はあった。寝台で眠る妻を殺すこともできた。小さな息子も同じようにできた。なんだってできた……。

 わざわざ、生かしていた理由は?

 わざわざ、路を吹き飛ばした理由は?

 路を吹き飛ばしたのが主たる理由で、マグル殺しもペティグリュー殺しも「ついで」に見えるのは気のせいか。

 違和感を覚えるのはなぜか。

 ダンブルドアが「儂の知る限り」と強く言ったのはなぜか。

 本当にシリウス・ブラックは守り人だったのか。

――あまりに

 不確定だ。ポッター夫妻、あるいはリーン・リアイスが生きていれば……しかし真実はわからない。

 確たる反論が浮かばない。仮にミリセントが待ったをかけたとして、どうなるか。目の前の男は、ミリセントを引きずり下ろそうとしかねない。大臣は激務で精神に異常をきたしたとでも言って……。ミリセントとてはいはいとやられるわけにはいかない。逆にバーテミウスを叩き落とすくらいはしてやろう。大臣と魔法法執行部の長が争っている余力は? ノー。シリウス・ブラックの潔白は証明できるか? 当事者たちは既に死亡している。ノー。

――やむをえまい

 ミリセントはぺろり、と唇を舐める。これは必要な犠牲だ。

 お前は敗北したのだ。シリウス・ブラック。

「好きにしろ」

 死喰い人、シリウス・ブラックをアズカバンへ収監す。

 美しい飾り枠、禍々しい語が並んだ羊皮紙に、羽根ペンを滑らせる。

 常は流れるような署名が、その時ばかりはひっかかり、乱れた。末尾に魔法大臣印を押捺する。じんわりとインクが滲む。

 死喰い人を裁判なしで監獄に入れる。散々、許してきたことだ。眼を背けてきたことだ。新たに一人、加わったに過ぎない。しかし、慣れてはいけない重さというものがある。

「覚えておけバーテミウス」

 私もお前も罪深い。

「いつか、」

 しっぺ返しがあるぞ。

 掠れた声に、バーテミウスは笑った。冷ややかに、無慈悲に。傲慢に。

「貴女も私も」

 正義を成したのです。

 確信に、満ちて。

――それは無惨にも破られた

 バーテミウス・クラウチ・ジュニアが死喰い人として捕縛され、その父たるシニアは失脚し、ミリセントは彼に娘を託された。彼らは一種の共犯関係であった。あるべき手続きを軽視した。緊急事態の名において、法を「すっ飛ばした」。階を転がり落ち、汚泥に沈む共犯の、その娘を引き取るのに否やはなかった。

「バーテミウスよ」

 やはり我々は間違えていた。

 お前は死んで罪を償ったと思っているだろう。息子によって殺されるという結末で「足りている」と。

 しかしだバーテミウス。お前は忘れてはいないか。

 お前は息子が怪物であることに気づけなかった。善人から怪物が生まれることは多々ある。子は親を選べぬ。子もまた親を選べぬ。それが狡猾な子ならなおさら気づけまい。これを罪とするのは酷ではあるが、やはり罪であろう。

 お前は愛する妻の言を受け入れ、死喰い人を脱獄させた。

 お前は裁判なしで罪人を監獄へ入れた。法を司る者にも関わらず。

 お前は娘を守るためとはいえ、娘の心を砕いた。あの子がどれほど傷ついていたか……。

 お前の死ごときでは足りぬ、と神は仰せだ。そして私の罪は重いと仰せだ。

 だから、神は私の娘、お前の娘に、惨い仕打ちをなさったのだ。

 唸る。

 後悔が渦を巻く。大臣のままでいればよかったのか。守ってやれたのか。そうすれば娘はあのようにならなかったのか。

 やせ細り、心を欠けさせて。

 裁判なしで「裁き」を下すべきではなかったのか。

 我々の振る舞いを見た者が、それに倣うこともなかったのか。

 娘が、髪を白くして。

 片腕を失くすこともなかったのか……。

 眼を瞑る。あまりに苦く、あまりに重く、あまりに遅い後悔を押し込める。

 奥――かつての巣に、ミリセントは向かう。廊下に控える闇祓い、未来の息子がミリセントに一礼した。

「叱ってやってください」

 紫の眼は炯々と光っていた。この男は敵に回したくないな、と思い。息子にするなら頼りになるな、とも思う。

『私の勝手で、我儘です』

 ご息女との婚約をお赦しください閣下。

 承知しなければどうなるかわかっているだろうな、とその眼は言っていた。まるで猛獣、獅子だなと思った。紅き血流れる黄金の獅子だ。喉を咬み切られてはかなわぬ。そして気に入った、とミリセントは両手を上げた……。

「よく我慢した」

 息子よ。ぽん、と義理の息子の肩を叩く。扉口から中に入る。いや、扉口――枠そのものも破損していた。盛大に、滑らかに、容赦なく両断された扉が室内に倒れ伏している。どうやらルーファスの腕は衰えていないようだ。守りが重ねられた扉を斬ってのけた。お見事。

「ミ、ミ、ミリセント」

 「話し合い」は済み、室内には男が一人、へたりこんでいる。山高帽子は吹っ飛び、髪はくしゃくしゃ。上着の釦はちぎれ飛んでいる。

「助けてくれ」

「やだよ」

 お前、私からの最後通牒を渡されたろう? ウィスタ・ブラック=リアイスから。

 さらさらとミリセントは言う。この愚かで情けない男は、あの少年……いや、もう青年か……がリアイスの当主だと知るまいな、と当たりをつけた。

 彼の青年がバグノールド邸に乗り込んできて、謝罪を要求してきてもミリセントは驚かなかった。彼はシリウス・ブラックの息子だった。しかし、彼がリアイスの当主だと聞いて多少は驚いた。びっくり仰天驚天動地、とまではいかないが。ミリセントの驚きは、ヴォルデモートが暴れていた「一回目」でほぼ使い果たされていた。そして残り滓はこの前の事件で底を突いた。

「人の娘をアズカバンに放り込んでおいて、それを言うか?」

 そうか悪いのはこの口か、と汚いおっさんの頬を掴む。それを言ったらミリセントは婆なのだが、世の中言ってはいけない、知らんぷりする問題はある。そしてこいつは色々棚上げして知らんぷりしようとしている。股の間のものを萎びさせる呪いをかけてやろうか。

 子どもたちの前ではなるべくお上品にしようとしているが、ミリセントは口が悪いし性格も悪いし惨めな弱者をいたぶりたい気分だし、優しくもないのである。

 ひんひんと豚が鳴く。豚のほうが可愛いかもしれない。このおっさんは可愛くない。

「なあ大臣閣下」

 もう片頬も掴む。ぐいぐいと引っ張った。

「逃げようと思うなよ?」

 ルーファスもアメリアも、私の息子も。ほかにもたくさん。お前を大法廷に引きずって行くだろうよ。手足をへし折ってでも。

「せめて自分の足で歩いて来い。それくらいできるだろう」

 我慢だ、と言い聞かせる。こいつをひき肉にしても意味はない。大法廷にて、公に裁きが決定される。そしてシスネが望むなら、ミリセントはこいつの首を刎ねてやろう。

――たぶんあの子は

 そんなことを望まないけれど。優しくて残酷な願いを口にする。

 死ぬより惨いことを、あの子は知っている。

 たとえば親に捨てられること。

 たとえば怪物の妹ゆえに、不当に、監獄へ堕とされること。

 たとえば永遠の闇に沈むこと。

「コーネリウス・オズワルド・ファッジ」

「お前はきちんと裁かれるべきだ」

 あの子は人の善意を知っている。

 それは、とミリセントは振り返る。金の髪の闇祓いは、静かに廊下に立っている。

 あの子を見守ってきた人間の一人。そして監獄から、闇から掬い上げた男。

「それが責任だ」

 震える豚を蹴る。細切れにしたい。ああしたいと思いながら踵を返す。

「一生震えていろ馬鹿が」

 どうせシスネはお前を生かすさ。

 生きて恥辱にまみれろと言うさ。死ぬより惨いかもしれなくて、けれど死ぬよりはマシだろう。なにせ監獄に入らないのだから。

 ああもう、と言いながら廊下へ戻る。ぽつ、と息子が呟いた。

「耳でも削ぎましょうか」

 豚が鳴いた。ミリセントは息子をたしなめた。

「シスネの土産にするには汚い。花にしなさい」

「……そうしようかな」

 どれにしようかな、と息子は唸る。

 なんと可愛らしい猛獣か、とミリセントは笑った。

 そして未来の義母と未来の婿は、夜の廊下を進む。

 二人にとっての、愛しい者のところへ帰るために。

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