ざざ、ざざ。ざざ、ざざ。
寄せては引いて、引いては寄せて。波は歌う。
人の世の外、打ち捨てられし領域で、繰り返し繰り返し、口ずさむ。
果てよ、果てよ。朽ちよ、朽ちよ。
壊れ、崩れ、散るがいい。
それが救いだ、と。
鉄錆の香に鼻腔が塗りつぶされる。いいや、髪からも、眼からも、爪の間からも、皮膚からも、ありとあらゆる隙を窺い、入り込もうとしているようだった。呼吸をひとつするたびに、ルキフェルという存在が爛れ、腐り落ちていくような錯覚に見舞われる。
――この空間そのものが
大監獄アズカバンそのものが、一種の『場』なのだ。元はただの島だった。いいや、古い一族が住み着いていたのかもしれない。そうであったとしても、痕跡は塗り替えられているだろう。島の元の名すらも時の流れの中に消えている。
確かなのは、ここは監獄であった、という点だ。発見されたときからそうであった。一人の魔法使い、あるいは魔女がいた。島の主、あるいは侵略者。そいつはこの島で虜囚を使って悲鳴を奏で、玩具にし、飽きたら捨てた。死は降り積もり、やがて吸魂鬼が現れた……とされる。どこからともなくよそからやってきたのか、生まれたのか、それとも悪しき試みにより人工的に生み出されたのかは判然としない。記録はそこまで語らない。
名もなき悪は姿を消した。吸魂鬼が島の主となった。
そして時の魔法大臣が忌まわしき、謎めいた島に眼をつけた。元からある監獄を利用し、拡大し、今に至る。
看守の先導に従い、ルキフェルは歩を進める。守護霊の銀光に照らされて、石床を這う褐色の筋が浮かび上がる。
轍だ。何人もの囚人が刻んだ血の轍。裸足にされ、最後の小島から舟で運ばれ、監獄島に着けば岩場で足を切る。囚人たちは血を流し、床に足跡を刻む。赤いそれを。
血は洗浄しにくい。それも、アズカバンのような特殊な場ならなおさらだ。死が降り積もり、狂気が渦を巻き、悲鳴が木霊する。最初は床を洗い流そうとしたのかもしれない。やがてその努力は放棄されたのだろう。構うことはない、綺麗にしたからなんだ? たとえ血を拭おうと、ここが打ち捨てられた廃棄場であることは変わらない……。
階段を降りる。監獄入口近く、比較的浅い層では、まだ囚人たちに余裕があった。ぽそぽそ、ひそひそ、と彼らは話していた。いわゆる中間層、俗に人界と呼ばれる層は、比較的罪の軽い者が入ると言われる。そこから、罪の程度により振り分けられる。上か、下か。天か地か。大罪人はもっとも高い層――天界か、深い層――冥界へ入れられる。シリウスは最下層、冥界の最も深い場所へ堕とされた。なんにせよ、天界も冥界も、人の住まう場所ではないのだ。
――こんなところに
階段を降りる。空気が粘りを帯びる。ルキフェルはきつく拳を握った。
「――囚人番号■■■は」
最下層に。
看守は静かに言う。その背に向かって「ああ」とだけ返した。なにを言っても無駄だ。事は起こってしまった。彼女は人の世界から堕とされてしまった。シスネ・バグノールドに罪はないというのに。
――生まれてきたことが
罪だ、という者もいるだろう。当然のように、無邪気に、あるいは悪意をもって。怪物と血をわけた者なのだから。どんな因子をもっているかわからないのだから。怪物と同じ血が流れているのだから……。
人は驚くほど残酷になれる。かつて大陸で起こった『グリンデルバルドの夜』がその証だ。輝く金の髪を持つ、希代の詐欺師。ゲラート・グリンデルバルド。彼はその悪しき輝きで民衆の眼を、心をくらました。そして引きずり下ろされ、ヌルメンガードに放り込まれた。
――そこで
終わっていればよかったのだ。悪しき太陽は天から堕ちた。前を向いて、新しい明日を刻めばよかったのだ。しかし、ゲラート・グリンデルバルドの所業は、人々から建前――あらゆる綺麗事を剥ぎ取った。社会を維持するための、あるべき理想を打ち砕いた。人々は血を流しすぎた。災禍によって喪いすぎた。後に残ったのは、血に酔った理性と、抑えきれない炎だ。
その名を憎悪、と言う。
人々は復讐を叫んだ。報復を誓った。世界のためだと言った。平和には犠牲がつきものだと歌った。
二度と過ちは繰り返すまい。
騙されるまい。
そのためには、悪しき芽は摘まねばならぬ、と。
だってそれは必要な犠牲。
平和には血がつきものだ。
さあ探せ。
悪しき一族を。
さあ首を刎ねよう。
悪しき一族を絶やすために……。
ゲラートは高みから落ちた。平和な夜がやってきた。
グリンデルバルドの一族は、狩られていった……とされる。
もはやグリンデルバルド姓を名乗る者はゲラートひとり。そう遠くないうちに、グリンデルバルドは絶えるであろう。
シスネも似たようなものだ。怪物ではないのに、怪物のせいでこんな目に遭った。グリンデルバルドの姉妹とされる『火刑の魔女』と違って、命だけはある。それだけが救いだ。
『――お前に』
シスネの面倒を一生みろ、とは言わない。 そう、ミリセント・バグノールドは言った。彼女の娘との婚約を申し出た時だった。
『お前が決断し、こうして動いてくれただけで十分なのだ』
監獄から出してくれるだけでもありがたい。
『もし、あの子が壊れてしまっていたら』
私が面倒をみる。親の責任だ。私が死んだその後には、しかるべき施設に入れるようにする……。これは私のせいなのだから。
『お前には、なんの益もないのだ』
もしものときは、婚約を解消してくれ。重荷を背負わせるわけにはいかない……。
女傑と呼ばれたかつての魔法大臣、ドラゴンの声は震えていた。アズカバン。そこは人からあらゆるものを奪う。シリウスは十二年保った。極めて正気なままで、彼は耐え抜いた。そしてシスネはシリウスではない。
『助けるために理由はいらないでしょう』
そう、ルキフェルは吐き捨てた。
『私は、』
壊れているからといって誰かを捨てるつもりはない。
『どうせ壊れていたならば』
彼女に確認もとれないでしょう。そしたら婚約は継続ということになる。だって本人の意向がわからないんですからね。
『これは私の我儘なんですよ』
無性にむかむかしていた。見くびるのも大概にしろと思った。ルキフェルはどうしようもない母親、心を病んだ女の息子なのだ。そしてそんな母を離縁もせず、きっとうんざりしながらも、それでも母のもとへ通っている男の息子なのだ。男は言った。放り出して、それでどうなる? 夫婦の情などない。破綻した婚姻だ。ただの政略婚だ。私は割り切った。別にあれのことは嫌いではなかった。よい夫婦になれればよいと思った。しかし無理だった。あれは、私とは別の人間を心に住まわせているのだろう。割り切れなかった。人間だから。仕方のないことだ。あれも、なんとか頑張ろうとはしたのだ。お前たちがその証だ。
いまさら第二分家に突き返せるか? 壊れた不良品だから、いりませんと? ものじゃないんだよあれは。第三分家当主がそんな情けない真似をできるか。最初の頃、離縁しようかと申し出たら「負けた気になるから嫌です」とか言ったんだぞあれは。
『壊れてましたいりません、と』
不良品でしたから捨てます、なんて。
『僕は死んでも言わない』
ぴしゃりと言った。その瞬間のドラゴンの顔は見ものだった、と言っておこう。
熱い吐息を漏らす。看守に問いかけた。
「生きているんだな?」
「生きてはいます」
相手が同族でなければ、胸ぐらを掴んでいたかも知れない。女だろうが構うものか。
「生きて「は」」
「近寄れないので」
我々を恐れます。闇ばかり見通して、きっと鼠を捕まえて食べている……。魔法の力は枯れていない。鼠くらいならどうとでも……。なにせ食事の量はぎりぎりだ。
「身動きはしている。呼吸もしている」
それくらいしかわからない。彼女の崩壊を早めるわけにはいかないので。
淡々と、看守は言う。ルキフェルはそれ以上踏み込まなかった。聞いても聞かなくてもたいした違いはない。生か死か、正気か狂気か、線のこちら側か向こう側か。それだけだ。生きているのならば連れて帰る。迎えに行くと約束した。死んでいても連れて帰る。やることは変わらない。
無言のまま階段を降りて、降りて、降りる。闇の底へ。深いところへ。人の世から冥界へ。
ひょうひょうと風が吹く。冷たく、まとわりつくように。臭いが濃くなる。鉄錆と、排泄物と、吐瀉物か……。永年の穢れのにおいだ。
こつ、と靴音が石床を踏む。湿り、ぬめったその感触に鳥肌が立った。腐乱死体だろうが、バラバラ死体だろうが、皮を剥がれた死体だろうが、醜悪な肉の塊だろうが、顔色一つ変えない自信があるのに。闇祓いの仕事が華やかなものか。憧れて難関を突破した者たちの何人かが脱落するのだ。
唇を引き結ぶ。得体のしれない唸りが、ちぎれた叫びが木霊する。生きてはいる。だが壊れた者たちの残骸が、独房の向こうにうずくまっている。終わりという救済を待っている。
「――ほう」
刃が閃いた。そう、思った。響いた声はそれほどに鋭かった。曇り、欠けようが、錆びてはいなかった。
「ルキフェルか」
何事か言おうとした看守を制する。ルキフェルは歩を進め、しかし声の出どころを探ることはせず、返した。
「馴れ馴れしいな。レストレンジ」
「ブラックだ」
「ベラトリックス」
「優しくないな、お前は」
どこかの妹と違って。
くすくすと、声は笑う。からかうように。
「お前に優しさとやらを恵んだ誰かは、まるで天使だな」
違いない、と声は返す。
「そしてお前は堕天使だ」
「知らないのか。男の子は優しい天使が好きで、自分は堕天使を気取りたがる」
「格好をつけたがる、と」
「そうだな。男の子だから」
くだらない会話だ。多少の因縁がある死喰い人と、なにを話しているのだか。
「格好をつけたい堕天使よ」
かわいそうな天使が待っているぞ。
にぃ、と悪魔の唇が弧を描く……そんな光景が浮かんだ。独房のどれか、光の輪が届かない暗がりにいる悪魔は、きっと笑っているのだ。
「兄の巻き添えでこんなところに。いやはや。哀れなものだよ。善きものというのはかわいそうなものだ。損ばかりする」
わたしは気に入っているけれどね。大変に健気だ。それがよい。おしゃべりに付き合ってくれたしね。
「おしゃべりな悪魔だ」
「善き悪魔と言ってほしい」
「お前は地獄へ行くさ」
「よいとも。わたしは我が君にお供するのさ。ああ、わたしの天使も連れて行こうか」
「――誰がお前に渡すか」
唸る。悪魔が甲高い笑い声を立てた。ここは地獄の底。悪魔が正気なのも、生き生きとしているのも当然なのだろう。地獄なのだから。正気が狂気となり、狂気が正気となる場所だ。人の世の理など通じはしない。
「お前の名を呼んでいたぞ」
鼻を鳴らす。可愛くないなと言われても黙殺した。可愛い三十歳がいてたまるか。
「いずれまた会おう」
「お前たちは一生出てくるな」
あっはっは、と笑う声を置き去りに、通路を進んだ。やがて看守が立ち止まる。
光の輪に照らされて、それはいた。
こちらを見て、悲鳴を――ざらざらとしたひび割れた声を上げ、うずくまり、身を丸めて。
ちらちらと、銀の光が揺れる。壁に浮かび上がるのは、どす黒い文字だった。
cisneと描かれて、何度も描かれて、isneとなり、neとなり、最後はただの引っかき傷に成り果てている。
己がなにものか忘れないための、縋るような試みの痕、戦いの痕なのだと悟った。
「……ネ」
囁く。怯えさせないように。耐えて耐えて、耐えて耐えた彼女を、壊さないように。壊れないように。
――どうか、と
祈るように。
「シスネ」
彼女は顔を上げ、瞬いた。そこには光があった。両の眼は、涙をこぼしながらもルキフェルを見ていた。ルキフェルだけを。
彼女の唇が動く。ルキフェルは踏み込んだ。境界を越え、彼女の下へと。
引っかき傷だらけの顔が痛ましい。白く変じた髪はところどころむしられて、頭皮が見えている……。
枷を外す。指先に、白いものはない。ただ赤黒い色がついている。爪を剥がしてでも、正気を保とうとしたのだ……。
そっと彼女を抱き寄せる。抱え、牢を出た。二度と彼女をここに戻すまい。吸魂鬼にも渡すまい。いいや、吸魂鬼にしろ人にしろ、彼女に魔手を伸ばすのならば。
すべて叩き斬る。
逃げることを選ばず、他者のために監獄に沈んだ女を守る誰かがいてもいいだろう。
誰かを助けるのに、理由などいらない。
救いたいと思った。ただそれだけだ。