「しつっこいな」
バグノールド邸の客間。出された紅茶に口をつけ、ナイアードは吐き捨てた。
「斬ったから」
問題はない。人様の家の客間でサンドイッチを貪り食っているのは父方の従兄、ルキフェル・リアイスだった。傍目には優雅に流れるようにサンドイッチを食べているが、ひょいひょいと彼の胃に消えていっている。だから貪り食う、の表現が妥当だろうとナイアードは結論づけた。
貪り食うのも無理はない。従兄はお疲れなのである。
「いやほんとしつこいな」
ジュニア、とナイアードは口にする。
バグノールド邸に詰めている従兄から連絡があったのは一時間前のこと。伝言は極めて簡潔だった。シスネ・バグノールドが片腕を喪った。応急処置はしているが、癒者に診せたい、と。
薬学、癒療はナイアードたちの一族リアイス家の、第七分家が得手である。ナイアードが当主を務める第二分家は、おおざっぱに言えば職人たちの根城である。シスネ・バグノールドの「怪我」の件には関係がない……はずだった。
「腕ごと呪詛を切り離して浄化」
元の腕はない、と。
「一息に斬ったから、切り口は綺麗だ」
ルキフェルはさらりと言う。癒者でも臆して斬れないこともあるだろうに。躊躇いなく、一閃したのだろう。酔狂にも婚約までして助けた女の腕を。
「斬った時点でもう駄目だった。侵食されていたから……」
ぽつ、とルキフェルは言う。
「お前はよくやったよ」
バグノールド家のご息女のことは、癒者が診ているところだ。第七分家の長子。ナイアードたちの兄貴分、ヘカテの姉だ。女癒で、聖マンゴに勤めている。凄腕である。大蛇に襲われて瀕死のアーサー・ウィーズリーを死の淵から引きずり上げたのが彼女であった。もっとも、そう言ったところで「先に連絡をもらっていたから」と一蹴されるだろう。あの一件の際、ウィスタがいち早く連絡を入れたのだ。ヘカテとヘカテの姉に。前者へは襲撃があった旨を。第七分家当主にも共有するように、ということだ。後者には大蛇に襲われた患者が聖マンゴへ搬送されるから準備を、と。
――死の危機は脱したはずだ
シスネ・バグノールドは酷く弱っているが生きている。ひとまず問題はないはずだ。
「腕のことは任せておけ」
「頼む」
素直な「頼む」だった。平然としているように見えるだけで、内心は割り切れないでいるのだろう。誰も好き好んで他人の――それも、婚約者の腕を斬りたくはないだろう。
「第七分家と話を詰める……が」
ある程度、彼女が復調してからだな。なにせ患者は眠っているし、弱ってもいる。義手どうこうはいささか早い。ヘカテの姉がざっとした採寸は済ませるだろう。少なくとも長さはわかる。しかし、腕の径は変動する。いまはあまりに痩せているのだ。ひとまず意匠だけ起こすか、と算段しつつ従兄を眺める。かなり参っているらしい。目元に薄っすらと隈がある。鋼の精神に加え、化物じみた体力の主である。戦闘力については割愛。語るまでもない。
袋小路にはまりこんでいることに、従兄は気づいているのか? 従兄は神経をすり減らしている。シスネ・バグノールドは他人だ。リアイスでもない。ただの元大臣の息女。元息女だ。
せっせと世話を焼き、せっせと魔力――生命力――を分け与えているのだろう。大変に甲斐甲斐しいというか、尽くす男というか。そして一線はきっちり守る男だから、淑女の寝室においても紳士なはず。せいぜい手を繋いで熱を分けるか、回復が思わしくなくて、妥協して添い寝だ。接吻はあるまい。ないと思う。ナイアードだって恋人でもない淑女相手に寝ている隙にどうこうしたくない。盗人のようではないか? こそこそせずに正面から突破していい仲になっていいことをしたいものである……今は戦時なので、できてしまったら困るからそういうあれこれは控えてるし、いい相手もいないが。独身貴族でけっこうです。
「ほんと優等生なことだよ」
室温が二度ほど下がった。ナイアードは無視した。
「お前に利益なんてないだろ?」
バグノールド家は成り上がりだ。別にリアイスと結びつく必要はない。女傑ミリセント・バグノールドには好感を持てるし、彼らのこどもたちのことも同じくだ。ナイアードはバグノールドの長子と縁があった。妖女シスターズのリーダーで、友人だった。ナイアードを通じてルキフェルとも知り合いである。
だが、強いてバグノールド家と手を結ぶかと言われるとノーである。悪くはない、それだけだ。
「目の前で死にかけている人間がいたら助けるだろう」
場合によるね、という回答をすれば始末されそうだった。
「……お前が無私の愛とやらを発揮したのはわかってるよ」
「素面でよく言えるな?」
ルキフェルは渋面になった。ナイアードは遺書を最新版にしていなかったことを悔やんだ。
「異性間の……それか同性のそれだけじゃないだろう」
魔法界には同性婚も選択肢にある。珍しいがあるのだ。なので魔法法は
かび臭かろうがなんだろうが、今回は「両家」という概念、染み付いた感覚が役に立った。
助けるだけならできた。理屈の上では可能であった。魔法大臣の座に座っているあの飾りを締め上げて、勅命を取り下げさせればいいだけだ。野蛮で乱暴だが最短の解決法だ。知恵を絞れば完全犯罪だってやってみせよう……とはいかないのだ。やるのならリアイスを捨てなければならないし、事が終われば同族の手で始末される可能性が大。
「仮に僕が単独であのお飾りを締め上げるか始末しても」
シスネは喜ばないだろう。勝手に動いて勝手に死ぬなんて馬鹿がすることだ。美しい自己犠牲? 冗談じゃない。
ルキフェルが吐き出すように言った。
「愛どうこうはどうでもいい」
そういうのは神秘部の管轄だ。
「僕に付随する家名を使うには、婚約が一番妥当だった」
極めて由緒正しい古典的な正攻法、とルキフェルは笑う。
「シリウスがそう言った」
「……自分は恋愛婚したくせに」
「それは言ってやるなよ」
ひらひらと手を振って、ルキフェルは眼を細めた。
「僕は、あの二人を見ていると」
すごくいいなと思ったものだ。
過去形だ。リーン・リアイスとシリウス・ブラックは死別した。正確には引き裂かれた。裏切りと殺人によって……。
「俺もだよ」
紅茶を飲む。よい香りがするはずが、ひどく苦い風味がした。
「幸せでいてほしかった」
「……フランクとアリスも」
囁くような声。ルキフェルの紫眼は昏く澱んでいる。
「死ぬよりも辛いことは多いが、あれはあまりに惨かった。ナイアード、僕らはあのとき間に合わなかった。ネビルしか救えなかった」
ナイアードは沈黙する。深いところに根を張った、痛みの記憶。
踏み込んだ邸、砕けた花瓶、激しい戦いの痕、散らばる白い爪、つんとする排泄物のにおい。
透明な眼をしてへたりこむ二人。頬には涙の痕。唇から唾液を垂らし……。もがき苦しんだのだろう、爪は折れていた。それか剥がされていた。磔刑の呪文だけでは飽きたのだろう……面白半分に爪を剥がしたに違いない。あの獣どもは。
「ネビルだけでも救えたんだ」
最悪の中での唯一の救いだ。それしかできなかった。それくらいしかできなかった。
「……シスネが僕の助けを拒んで」
連れて行かれたとき。
「またなのか、と」
そう思った。紫眼がナイアードを射抜く。そしてナイアードはその視線を受け止めきれなかった。疵がある。きっと生涯残るものだ。あの光景は、ナイアードの魂にも深々と爪を立てた。
「お前だって同じようにしたはずだ」
条件はほぼ同じ。
「……お前がアリスとフランクを、ネビルを助けに行ったのも、」
いわば無私の愛だろう。
「血縁だった。ロングボトム家は姻族だ。見捨てるわけがない」
義務感だけだったのか。断じて違う。ナイアードはアリスとフランクが好きだった。年の離れた兄のような叔父、そして彼の妻。殺される危険など承知の上で、彼らは闇祓いとなった。高潔であった。紛れもなく。
――彼らは
殺し殺されることを覚悟していても、壊されることまでは想定していなかったに違いない。死よりも惨い結末だった。いいや、いまも悲劇は続いている。結末に至ることはない。緩慢に、何年もかけて終わりに向かっているだけだ。
「僕だってそうだ」
義務感だけではなかった。義務感だけならば。
「捕まる前に攫って逃げた」
強引に。手っ取り早く。なるべく時間を稼いだだろう。彼女が逃亡犯になろうが構うまい、永遠に疑いが晴れずとも構うまい、と。
「もちろん」
ふ、とルキフェルが笑う。
「たぶんそれも正解ではあった」
生存だけに絞るのならば。
「だけど、これからも生きていかなくちゃならないんだ。バグノールド家が沈んだら意味がない。魔法大臣にバグノールド家に手を出す理由を与えてはならない。たとえ理不尽な疑いであろうとも、シスネが非合法な手段に訴えるわけにはいかなかった」
完璧な勝利をおさめる必要があった。
「ほんと損な人だよ、彼女は」
ナイアードは返す。わかってはいるのだ。シスネ・バグノールドは「完璧な被害者」になる必要があった。魔法大臣の命に従い、いかに理不尽だろうと監獄へ赴き……生き延びる必要があった。
魔法大臣に「後ろめたいことがあったのだから逃げたのだ」と言わせるわけにはいかなかった。権力に溺れ、振りかざす昏君。あくまでも魔法大臣の命に従う姿勢を見せたシスネ・バグノールド。そんな絵を描く必要があった。反吐が出ることだが、現実は物語のように都合よくはいかないのだ。
「それを愚かだと言う者もいるだろう。己ひとりが助かればいいのに、馬鹿なことだと。家なんかのために、周りなんかのためにと」
噛みしめるように、ルキフェルは言う。
――嫌いじゃないんだよなあ
ナイアードも、そんな愚直な馬鹿は好きだ。そして愚直な馬鹿はころりと死ぬ。そうさせないためにルキフェルは動いたのだ。
「シスネが正しくあろうとしたならば」
僕も相応の手を打つべきだった。彼女が壊れる前に。
「鼠を食べてまで生き延びた、彼女のために」
正しく力を使うべきだ、と。
ナイアードは小さく拍手した。つ、と顔を歪めたルキフェルににやりと笑う。
「お似合いだよ。うちのお祖母様がよくやったとさ」
「……ファッジに吠えメールを送ったのは知っているが」
疑問がありありと浮かんでいるルキフェルに、言ってやる。どうせオーガスタ・ロングボトムはバーテミウス・クラウチ・ジュニアの妹に思うところがあるに違いない、と思っているのだろう。
「息子夫婦の事件をだしにして、自分の恐怖や不安を和らげるためだけに、一人の娘を監獄行きにするとは何事か、とさ」
ファッジのもとに乗り込むと火を噴いていた祖母を宥めたのはナイアードだ。ひとまず吠えメールで勘弁してやった。
『私の恨みや憎しみは私のものです』
関係のない若造が、息子夫婦の事件を蒸し返し「怪物の妹」だと騒ぎ、投獄した?
『ふざけるんじゃない』
ふざけるな、とオーガスタは卓に拳を打ち付けた。もう一度振り下ろそうとする前に、ナイアードは祖母の細い腕を掴んで止めた。
『私が怒りを向けるのはヴォルデモート。そして、情に負け息子を助けたシニア。同じくレディ・クラウチ……そして』
コーネリウス・ファッジもその中に入った。
『あの娘は、被害者なのです』
私と、アリスとフランクと、そしてネビルと同じように。
『けれど被害者だと言うことも赦されない。なぜなら加害者の血族……妹だから』
私たちとはまた違う苦しみでしょう。なんの咎もないというのに。
『それでも正しい道を選んだ。勅命に従った。どれほど恐ろしかったか……彼女は――』
「お祖母様、ロングボトム家の女傑はこう言った」
シスネ・バグノールドは、真の勇気を持っている、と。