「私はこれから」
ダウニングのところに詰める。夏の夜。バグノールド邸の食堂に、家長――ミリセント・バグノールドの声が響く。ドラゴンの声はよく透り、シスネの背筋は嫌でも伸びた。長机の上座には母が座り、あとは好き勝手にこどもたちが腰かけている。長兄だけが不在だった。あとは揃っている。次兄、姉、一妹、二妹、弟。そしてシスネ。シスネは七人きょうだいの四番目、真ん中くらいの子どもであった。七番目ではなく。もっとも、母とは血の繋がりがないわけだし、母は七番目の子どもではなかったようなので、七番目の子のそのまた七番目……なんてことにはならない。
ただの言い伝えだ。七番目の子は特別な力を得るだとか。今どき、七人の子をつくるほうが珍しい。子宝に恵まれた家というやつか。
多産の家系といえばプルウェット家だが、一族の数はずいぶんと減っていたはずだ。直系筋の男子はふたりとも殺されているし、傍系も櫛の歯が欠けるようにいなくなった。プルウェット家の当主は傍系から立てられた、と聞いた覚えがある。
――ウィーズリー家でも厳しいだろうな
彼の家とプルウェット家は結びついた。そして七人の子が生まれた……。しかし、七人の子どもたちの誰かが、また七人の子をつくるかというと微妙なところだ。
やはり身体のつくりが違うのだろうか。七人って。シスネには無理だ。そもそも、監獄に堕とされて月の道は一度閉じられ、回復したものの乱れている……。
一瞬にも満たない思考を振り払う。母が「家族会議」を開催した。つまり重大ななにかが起こったのだろう。しかもダウニング閣下――マグルの首相閣下のところに行くという。彼女は出かける準備を万端に整えている。ドラゴンは紺の外套を纏い、ドラゴン革の手袋をはめ、黒衣を身に着け、腰には二本目の杖と短剣を佩いている。
「ルーファスが死んだ」
誰も、なにも言わなかった。聞くまでもなくわかったからだ。
闇の陣営に殺されたであろうことを。きっと戦って死んだのだろうことも。
きょうだいたちはルーファス・スクリムジョールを知っていた。彼が臆病風に吹かれて逃げるような真似をしない、といい切れるくらいに。
誰ともなしに杖を掲げる。
「ルーファス・スクリムジョールに」
哀悼を捧げた。
◆
母は次兄と姉を連れて、バグノールド邸を出ていった。シスネたちに留守を守るように言いつけて。
『いかねばならん』
ルーファスは命を懸けた。
『頼んだぞシスネ。もしもの時は脱出しなさい』
なんなら邸も燃やしてしまえ。敵に利用されるよりはいい。
またやり直せばいいのだ。そう、小さく笑っていた。
――風向きが変わった
たった一晩で。
ルーファス・スクリムジョール殺害から二日。バグノールド邸は静かなものだった。なんの襲撃もなかった。闇の陣営にしてみれば、元大臣なんて眼中にないのだろう。魔法省を陥とした。勝ったも同然といえる。彼らがバグノールド邸を「わざわざ」襲撃する理由がない。それでも、きょうだいたちと使用人たちで邸の守りを見直した。邸の敷地を囲むようにして、円を描く必要がある。魔法の環というやつだ。門からそこそこ歩き正面玄関に着くような規模の邸なので――門から天馬や箒が必要なほどではない――地道に歩く。弟妹たちはやたらと心配したけれど「邸の留守を任されたのは私だから」と押し切った。監獄から救い出されて一年数カ月。歩行杖なしで歩けるようになったし、まずまず回復している。きょうだいたちは心配しすぎだ。もう戦うことだってできる。野伏局にいた頃と比べれば、劣っているだろうけど。
――ルキフェルのお墨付きだし
仕事の合間に付き合ってくれたのだ。訓練に。まずは簡単な魔法……浮遊呪文からはじめて、一つ一つどの魔法が使えて、どの魔法が使えないか確認した。主に無言呪文で。今はさほどではないが、以前は話し方がぎこちなかったのだ。アズカバンの闇はあらゆるものを奪う。昏睡から覚めて、ゆっくりと体力を戻し、シスネは話す練習から始めることになった。単語帳をみて、犬やら猫やらニーズルやら、ぽつぽつと口に出した……。
地道な取り組みだった。何割かは元の自分を取り戻せた。魔法薬の調合はどうにも無理らしい、というのがわかった。材料にもよるのだが、鼠の尻尾やら、鼠そのものがあると駄目らしい。触れることすらできない。
木の棒片手にひたすら歩く。魔法騎士ごっこにちょうどよさそうな木の棒だった。子どもたちはたいてい魔法騎士になりたがるものだ……。シスネも、きょうだいのごっこ遊びに巻き込まれた。妹たちは魔法騎士リーン・リアイスになりきっていた。弟はマッド・アイの真似をしていた。魔法騎士というより闇祓いごっこだがそれは言うまい。善きものすなわち魔法騎士であり、闇祓いなのだから。
シスネは息を吐く。立ち止まり、己の髪に触れた。色の抜け落ちた髪――白銀のそれを。そして金の髪を思い浮かべる。シスネとは対極なそれを。輝けるそれを。
――どうしているのか
陥落時に省にいたのか、そうでないのか。無事でいるのか……。シスネの次兄は、魔法法執行部の所属だった。彼は魔法省陥落のその時、バグノールド邸にいた。シスネが投獄された一件からこっち、休みを多く入れるようになっていた。それが幸いした。次兄が無事なのは喜ばしいが、ルキフェルの消息がわからないのは落ち着かない。
シスネにできることなどたいしてないのだ。本職の闇祓いでもない。焦って飛び出してもなんにもならない。仮にゴドリックの谷に向かったとしよう。その道中で死喰い人に捕まったらそれこそ馬鹿者だ。シスネは死喰い人を数人まとめて薙ぎ払えるほど強くない。逃げ切れるかも怪しい。罠を仕掛けてまとめて片付けるとか、撹乱するほうが得意だ。
不安だから顔だけでも見せてほしいなんて、思ってはいない。思ってもいけない。今は戦時。しかも闇の陣営が優勢だ。
「……手伝おうか」
なるほど、シスネの脳は都合の良いつくりをしている。彼の声そっくりだ。
「シスネ?」
そっくりというより、そのものだ。
そっと振り返る。
「ルキフェル……?」
「僕以外の誰に見えるんだ」
ルキフェルは五体満足で立っていた。闇祓いの黒衣を纏って。見慣れた姿だ。それはそうだ。彼はシスネの護衛だったのだから。長い間……。
「魔法省は」
「聞いているだろう。陥ちたよ」
ルキフェルは早口で言う。散歩でもするように、シスネの元へやってくる。失礼、と言ってシスネの手から棒切れを抜き取った。右手に棒切れを持ち、左手はシスネの手を――生身のそれを握る。そのまま、歩き始めた。ささやかな散歩に興じるらしい。まるで学生の逢引みたいだ。ホグズミードを手を繋いで歩く、とか。湖の近くでお昼を食べる、とか。他愛もない、かわいらしい逢引の機会なんて、シスネにはなかった……。ミリセント・バグノールドの娘は、標的にされていたから。ハリー・ポッターによって、ヴォルデモートが「消えた」。物語ならばめでたしめでたしで終わり、読者は満足して本を閉じるが、現実はそうもいかなかった。魔法界に刻まれた傷痕は深かった、ミリセント・バグノールドは女傑、最高の魔法大臣と讃えられた。彼女は淡々と戦後処理をした。淡々と死喰い人たちをアズカバンに送った……。そして大臣の息女で、バグノールド姓を名乗っていたシスネは、スリザリンに恨まれていた。正確にはスリザリンの過激派に。あることないこと噂を立てられたし、追いかけ回されたし、私生児だと言われた。高飛車で鼻持ちならない大臣のご令嬢。傲慢……容姿を鼻にかけて、とか。贔屓されているとか。気にしないふりをした。友人を作らないようにした。同寮生を巻き込むわけにはいかなかった。セーミャと友人になったのはいわば偶然だ。セーミャは出自の知れない「マグル生まれ」とスリザリン生の過激派に言われていたし、絡まれていた。ちょくちょく嫌がらせも受けていたはずだ。
確か三年生の時だ。色々耐えられなくて手洗いに飛び込んだら、洗面台――鏡を殴っている女の子がいた。グリフィンドールの女の子。鏡にはひびが入り、破片がぱらぱらと零れ、じゅっと溶けた。シスネは自分の苦しさなんて吹っ飛んだ。駆け寄って、声をかけて、その子の手をとった。血だらけの手を洗い、オレガノのエキスを振りかけてやった。なにがあるかわからないので、と護衛――キングズリーに渡されたものだ。シスネの一番古い護衛だ。まるで父親のようだと思った……。
鏡を殴るなんて。しかも砕くなんて、とか物を壊すのはいけないなんてシスネは言わなかった。誰だってなにかを殴りたいときはある。まさか鏡を砕くなんて思わなかったが。
その代わり「なにがあったの?」と訊いた。グリフィンドールの女の子はこう返した。
『私は』
あんなやつらに負けない。誰が愛人の子よ、と。だから。
『こんちくしょうと思って』
手が出たの。
シスネはため息を吐いた。あなたいいところの出じゃないの? こんちくしょうって似合わないわよと返した。女の子は眼を泳がせた。綺麗な色の眼だった。
シスネが少し見とれているのにも気づかず、女の子は言った。チャーリーは悔しいときにこう言うんだって教えてくれた、と。こんちくしょうって。
チャーリーってグリフィンドールのシーカーのことかと思いつつ、それには触れなかった。ただ、こう続けた。
『まずは監督生を目指すことね』
ゆくゆくは首席を目指す。そうしたら、合法的な力が手に入る。そしてついつい口を滑らした。
私は優れていることを証明しなくちゃならない、と。
そうしたら、女の子は黙った。何拍かして、私も、と口にした。
『私も、そうする』
私のお父さんは闇祓いだから……お父さんはすごい人だから。できない子なんて思われたくないもの……。
少し寂しそうな眼をしていた。誰だこんな健気な子にいじらしい発言をさせる闇祓いはと思って、ひょいと訊いてしまった。
『あなたのお父さんのこと、知ってるかもしれない』
私はシスネ・バグノールド。ミリセント・バグノールドの娘。といっても養女なんたけど。あまり偉そうに聞こえないように、そっと言った。そして次の瞬間、凍りついた。
『セーミャ』
セーミャ・アレティ。父はルーファス・スクリムジョール、と。
そして大臣息女、実は死喰い人の妹と、闇祓いの娘の奇妙な友情が始まった。後にシスネの本当の出自を明かしたが、セーミャは受け入れてくれた。
――そして
ルーファス・スクリムジョールは魔法大臣になり、セーミャは息女となり……今は元息女となった。
「セーミャは?」
過去から――ヴォルデモートがいない世界から、ヴォルデモートが勝ちつつある世界に意識を引き戻す。不意の問いに、ルキフェルは滑らかに答えた。
「邸に籠もっている」
僕とキングズリーは彼女の護衛をしている。あとチャーリーもいる、と。
「それなら安心」
大臣の息女――突如として辞任した大臣の息女の身の安全は、確保しておかなければならない。闇の陣営に連れ去られて傀儡にされて「パイアス・シックネスは正当な大臣だ」なんて言わされるかもしれない。それか「父はハリー・ポッターによって殺された」とか「リアイスに殺された」とか。それなりに使い道はあるだろう。逆に「父は闇の陣営に殺された。パイアス・シックネスは傀儡だ」と言えば、スクリムジョール邸は襲撃され、セーミャは始末されるだろう。いまのところ、殺されたとか死んだとか言わず、のらりくらりとかわし、闇の陣営の警戒をゆるめるのが賢いか……。
まさか魔法省に乗り込んで、シックネスを片付けるわけにもいかない。片づけたとしてもすぐに「次」が補充される。
「守ってあげて」
ご息女を。
「言われずとも」
ささやかな逢引を続ける。右手にあるぬくもりをしっかりと握りしめる。守りの陣が完成しなければよい、と思いながら。
印を刻む、軽くて重い音がする。やがて、陣が完成した。正門前に戻りシスネは陣を起動させる。囁く呪文の、最後の一音を言い終わる。終わりたくないのにと思いながら。
「務めを果たして」
手を離そうとする。だが、どうしたわけか離れない。それどころか、左手――義手も使って、彼の手をぎゅっと握った。左腕を喪ったことは惜しくなんてなかった。悪縁は絶ち切られた。喜ばしいことだった。いままでは。
呪いは絶たれた。だけれども。
その代わりシスネは。
永遠に、左手で彼のぬくもりを感じられないのだ。