「いくら私たちに構おうが」
現実は変わらないぞ。その男は、己の邸の一室で吐き捨てた。戒められ、絨毯に転がり、己が吐いたものにまみれながら。
「ヴォルデモートは」
消えたのだ。
びくり、と男が跳ねる。悲鳴を喉からほとばしらせる。叫んで叫んで、そろそろ喉が潰れるのではないかと思ったが、ベラトリックス・ブラック――レストレンジなんて劣った家名など反吐が出る――は杖を振る。振る。振る。そのたびに楽が奏でられる。
他方からも悲鳴が響く。同時に軽い音が響いた。小枝の折れるような音。次いで、何かがこすれる音。
「乱暴法度だぞ」
振り返りもせず、ベラは命じる。ち、と舌打ちが響いた。こいつは本当に名家の御曹司か?
「わかっているな」
ジュニア。
付け加える。悲鳴が大きくなった。さあてどんな乱暴をしているやら。
「僕がやっているのは」
普通の「乱暴」ですが? とげとげしく言う声。若い。いや、幼いというほうが合っている。悪戯を咎められた子どもだ。そしてその子どもは、女の爪を剥がしている。みしみし、と。めりめり、と。見えざる手が爪を剥がす……。親指は後回しで、小指から取りかかっているのか。そうでないのか。どうだっていい。我が君は乱暴を嫌いなさる。死喰い人に女もいるからか、そうでないのかは不明。嫌いというよりも……我が君を差し置いて口をつけるな、ということか。それも不明。構うまい。我が君が命じられたのだから、ベラはそれを守るのだ。守らせるのだ。獣欲に駆られたものは殊に醜い。相手を屈服させるには有効だろう、と認めよう。しかし使命をおろそかにし、実益と趣味を兼ねたお楽しみにふけるのは許せない。
この若造が、アリス・ロングボトム相手にお楽しみにふけろうとすれば、首を刎ねてやる。アリスではなく、ジュニアの。役立たずは必要ない。
幸い、ジュニアは言うことを聞いた。通常の乱暴を働いている。それでよいのだ、とベラは意識の何割かを背後に向けつつ、男――フランク・ロングボトムを見やる。
殺さない程度に痛めつけるのは面倒なものだと思いながら。
「我が君をどこへやった」
フランクは沈黙したままだ。ひぃ、とかすれた音が響く。
「お前たちには、おしえない」
杖がしなる。
「永遠に探せばいい」
杖が弧を描く。
「やればいいさ」
主を失った負け犬ども。
繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し痛めつけているというのに、フランクの眼はぎらぎらと輝いていた。まるで己たちが勝者であるように。
「やればいい」
いついつまでもやればいい。時を空費すればいい。逃避すればいい。
牢獄と化した邸に閉じこめられ、救援は期待できない。にも関わらず、フランクの眼にあるのは勝利の確信だ。きっと、背後でのたうち回っているアリスもそうなのだろう。闇祓い夫妻。リーン・リアイスとジェームズ・ポッターという星が墜ちた今、闇祓い局の次代を担う者たち……。
「どこまでできるかやってみろ」
フランクはせせら笑う。ベラをあざ笑う。
「私たちが倒れようとも」
次なる者が現れるだろう……。
闇の中、ふっと眼を開けた。ちゃりちゃりと音がする。耳障りで、しかし慣れた音だ。
くだらない夢だ。
あれから何年経ったのか。ベラは寝台の端に腰掛ける。足をぶらぶらとさせた。ちゃりちゃり……。ああ、鬱陶しいことだ。一度はずされたというのに。従弟が脱獄してから、再び鎖が付けられてしまった。手枷もだ。よけいなことばかりする。
ふう、と息を吐く。手を動かす。親指、人差し指、中指、薬指、小指。よし動く。問題はない。乏しい灯りの中、ベラは自分がどうなっているか見えない。髪は伸びている。肉は落ちているだろう。仕方がない。毎日――毎日であろう――ベラは歩き回っている。歩いたり、軽く跳ねたり、とにかく動くようにしている。我が君は必ずや復活し、ベラを迎えに来てくださるはずだから。不甲斐ないことだ。自力では出られないなど。我が君に再び会ったそのときは、伏して謝罪しよう。
あの日、同行しなかったことを。ロングボトムの二人にかまけてしまったことを。情けなくも捕らえられたことも。
我が君が一人で動くのはよくあることだ。しかし、ついていくべきだったのだ。ゴドリックの谷に。そうすれば、なにかできたかもしれない。できなかったかもしれない。重要なのが、ベラがなにもしなかったことだ。それは罪だ。
「……フェル」
小さな小さな、か細い声がした。哀れな雛鳥が鳴いている。ジュニアの妹。太陽の鳥。
惻隠の情を抱けることに――それだけの感情が残っていたことに、ベラの心に細波が立った。雛鳥は敗者である。実の兄の、実に陰湿な企てによってくらやみに堕とされた。ベラや一応の夫や、夫の弟、つまり義弟は一言で言えば呆れた。溺愛していたのは知っていたが、まさか本当にやるとは思わないではないか。「僕のかわいい妹」の話を嫌でも聞かされたし、いずれ我が君にお仕えするどうこうも聞いたし、ずっと一緒にいられるように仮の印も刻んでおきましたと言っていた。
ベラは適当に流していた。死喰い人が増えるのは歓迎しよう。我が君が決めることだが。妹とやらが使える人材になっていればの話であり、どうせ先のことである、と。妹の人生は兄に搾取されるらしいが、ベラにはどうしようもない。ジュニアが兄である時点で闇の陣営入りは確定であろう。ジュニアは妹を巧いこと売り込むはずだ……。だいぶおかしいなこいつ、と思うが。ロドルファスとルシウスはかなり嫌そうであった。やつらは女子どもに少しばかり甘いのである。義弟はその妹とやらが美人かどうか気にしていた。腐れた趣味の持ち主か、とベラは戦慄した。殺人でもなんでもやればいいが、幼女はさすがに気持ち悪い。義弟のことは殴る蹴るで指導した。なぜって義弟だから。ロドルファスもいいと言った。なぜならば幼女をどうこうするのはレストレンジの家名を穢すことだから。義弟は将来的な話だ! と叫んでいたが知ったことではなかった。
さて、頭のねじがはずれているらしい「ジュニア」にそれとなく確認した。妹を溺愛はしているが、気色悪いどうこうはないらしいと。妹の将来を予め決めているくせに、妙なところで常識的だった。
そんなジュニアは死んだらしい。そして妹がここに放り込まれた。監獄の最下層。一度入れば生きては出られぬとされる場所に。
ひんひん泣いていたジュニアに比べ、妹はしぶとかった。か弱い令嬢だと見くびっていたのだが――もちろん、戦えばベラが勝つが――耐えて、耐えて、耐え抜いていた。最下層に放り込まれれば、早ければ七日で、だいたいが一ヶ月、二ヶ月で壊れるというのに。アポロニアの名を持つ娘は、おそらくだが数ヶ月、自己を保っていた。
か細い声で鳴きながら。時たま叫びながら。漂う血の臭いと、かすかなめりめり、みしみしという音からして、自分で爪を剥がしている。鎖に繋がれ、手枷を付けられていても、杖を持っていなくとも、魔法は使える。つまり自分で自分を痛めつけることはできなくもない。痛みあればこその生。生あればこその痛み。娘は、痛みによって正気を保っている。
ジュニアにはできまい。ベラは静かに考える。退屈な日常の中に紛れ込んだ非日常が娘であった。ロングボトムの夢を見たのも、妹のせいであろう。どうやら娘は兄のせいで――ロングボトムどもを拷問し、壊した兄のせいで――監獄に送られたらしいから。
逃げようと思えば逃げられたろうに、先を読み、周囲の不利益を鑑みて、監獄に踏み入った。自己犠牲と言うべきか。それとも献身と言うべきか。立場は敵同士だ。なにせ娘はミリセント・バグノールドの子なのである。クラウチから養女にやられたらしいが、本人が堂々とバグノールドを名乗ったのだ。ならば娘はバグノールドの子なのである。
戯れに、お前はなぜ耐えられるのだと訊いたことがある。三ヶ月経った頃か、それとも四ヶ月か。娘が鼠を狩ることを覚えた頃である。監獄の食事は必要最低限、満腹とはいかない。つまり足りない。餓死まではいかないが、囚人は腹に飢えを飼っている。ベラもほかの「お仲間」も、鼠くらいは食べる。食べるということは生きることである。ベラは死ぬつもりはない。我が君より先に――娘が言うところの「あなたの我が君」より先に死ぬのは言語道断であった。必ずやこの獄を出るのだ。
『迎えに』
来てくれるから、と娘は囁いた。ざらざらとした声だった。娘は令嬢ではなく、戦う者になっていた。そしてベラは戦う者が好きであった。めそめそしていたジュニアよりも好感が持てた。
お前を監獄に入れたやつらだろう。人の心がないのだろうよ。ベラはせせら笑った。娘は怒らなかった。単にそれだけの感情がなかったのか、極めて冷静だったのか。娘はレイブンクローの出身らしい。頭でっかちの理屈だけの馬鹿者、という彼の寮への評価をベラは修正した。少なくとも娘は愚かではない。迎えが来ないかもしれないとわかっていて入ったのだからやはり愚かか?
『ここを出て、』
私は生きる。人生は続く。
ぽつぽつと呟く声に、希望も祈りもない。単に事実を述べていた。先のことまで考えているのだからやはり賢いのか。賢い馬鹿である。
『そうだな』
ベラは答えた。人生は続く、と。くすくす笑いながら。
『あなたはここにいるのよ』
これもまた、単なる事実を述べていた。お嬢さん、世の中には計算違い、番狂わせというものがあってなとベラは諭した。
たとえわずかな可能性でも、可能性は可能性だ。ならば私は待つのだよ。情けなくとも。
『この左腕を捧げたお方が』
来てくださることを。
娘は来るわけがない、諦めろとは言わなかった。ただため息を吐いた。
『あなたは妙な人に焦がれてしまったのね』
戦星の名を持つひと。
こんな闇の中に転がり落ちてしまっても、娘の声は品格という衣を纏っていた。あちらこちらほつれ、破れようとも、確かに纏っていた。纏おうとしていた。
『お前にも』
迎えが来ればいいな、妹。
囁けば、娘は答えた。
まあ骨くらいは拾ってくれるでしょう。そしたら彼らは復讐するでしょうね。
元大臣の娘、監獄にて悲惨な死を遂げる。
養女を殺された悲劇の元大臣。女傑。世間の同情を集められる。そうしてあれを蹴り落とすの……。
諦めて、半分諦めてなくて、最悪の場合も想定している娘。かすかな自嘲がにじむ声に、古い古い記憶が蘇った。ロングボトムどもがなぜ壊れるまで耐えたか。
救援を待っていたのもある。最後まであがきたかったのもある。ただ、苦痛にまみれていたのなら、殺してくれと言うはずだった。もう終わらせてくれと。しかしそうはしなかった。ベラたちを煽り立てた。
――壊れた、悲惨な姿に
仲間が、世間が怒り狂うのを見越していたのかもしれない。リーン・リアイスとジェームズ・ポッターが殺害され、闇祓いの士気は上がっていた。弔い合戦だ、と死喰い人の残党を狩っていた。そこにロングボトムどもの「生きているが悲惨」な状況が加わる。もはや闇祓い局は手心など加えない……残党を根こそぎにする勢いで動く、と計算していたのかもしれない。
答えのない、かもしれないだ。
『迎えに来てほしいのだろう?』
過ぎった考えを押しやり、再び問いかけた。退屈を紛らわせるただのおしゃべりだ。監獄の中では誰もが平等である。敵味方など意味がない。
『吸魂鬼は、』
希望を、祈りを、願いを吸い取るもの。
だから言わない。
声は、小さく小さく囁いた……。
――そして
娘は壊れようとしている。
ぽつぽつと母を呼び、泣き、黙り。
ルキフェル、と呼び、笑い、喘ぎ。
泣いて笑って呻いて喘いで、叫んで。
黙って。
ふうん、ルキフェルとはおそらくルキフェル・リアイスか。妙な縁だなと思いつつ、ベラはらしくもなく娘を励ました。リアイスにくれてやるくらいなら、こちら側に引き込みたかった。我が君がいらっしゃれば、共に連れ出してしまおう。どうせ娘に帰るところなどあるまい。元とはいえ大臣の娘だ。我が君の手元に置いて損はなかろう。ジュニアは死んだことだし、欠員の補充だ。
あれやこれやベラは考えていたのだが、ルキフェル・リアイスに先を越された。雛鳥は攫われた。いいや、ご息女は攫われた。まるで『私の魔法騎士』ではないか。シシーが好んで読んでいた。物語だからいいでしょうベラ、と言って。ドロメダも読んでいたらしい。ベラも少し眼を通したが、さっさと「悪い魔法使い」を片づけろよとしか思わなかった。愛も恋もベラは知らないのだ。
――知っているのは
唯一無二への思いだけ。
それは崇拝か、執着か。どうだっていいことだ。
雛鳥がいなくなり、ベラの日常は退屈になった。おしゃべりの相手がいないのはつまらないものだ。
ひたすらに静かに過ごす。この世が終わるときまで、ひたすら待つ。そう決めた。
なにせベラの左腕は疼いている。熱を持ち、痛みをもたらす。それがベラをつなぎ止める……。
そして、ある日。
叫びがして、静かになった。左腕が灼熱に包まれる。
立ち上がる。しゃらしゃらと鎖が鳴った。一歩、二歩と近づく。鉄格子の側まで行って。
こつり、と靴音を聞いた。
こつり、こつり、と。散歩のようななにげない足音。ふっと鉄錆が香る。
闇がやってきた。輝ける闇。ちかり、と紅が輝いた。
鉄格子が――扉が開く。枷がはずれ、鎖が解かれる。あらゆる束縛が消えていった。
ベラは我知らず手を伸ばす。主に捧げた左手を。
細く白い手が、彼女のそれを握った。
待ち望んでいた声が言う。
ベラ。
行くぞ、と。