とある日、シスネの室に銀色が舞い降りた。
「遊びに行かないか」
母子で外出といこうじゃないか。
守護霊は歯切れよく言って消え失せた。シスネはため息をひとつ吐く。「ダウニング閣下」の邸に詰めているはずではなかったのか? 疑問はあれど、身体は動く。手早く準備を整えて、弟妹と使用人たちに留守を任せ、シスネは邸を出た。
目指すはロンドン――魔法省。
うふ。
ふ、ふ……と空気が揺らぐ。銀の輝きが、女のぬめるような肌。濡れた眸を照らす。シスネのように引っかき傷もない。血が垂れてもいない。鉄格子の向こうから『外』の女はシスネを見ている。勝ち誇った眼をして。
「みじめなものねえ」
高い声が鼓膜に突き刺さるようだった。まだ聞こえてることに安堵するべきか、聞こえないほうがよかったのか。耳をふさごうとして、かしゃん、と音がする。手首の戒めが鳴る。シスネを阻む。皮膚と枷が擦れ、たらたらと血が流れる。慣れた痛みだ。慣れない痛みだ。痛いほうがまだいいのだ。手首が、足首が切れようとも、腫れようとも。膿もうとも。
痛みがあるうちは、まだ正気だということだ。
「ママは迎えにきてくれないのかしら」
くつくつと女は笑う。シスネは口を閉ざす。こんな女に何も言うことはない。
ただ、顔を背けた。
「純血のお嬢様が」
こんな有り様で!
ひぃひぃと女は笑う。
「あなたはここで死ぬのよ!」
だーれも迎えに来ない! 必要としない! やせ細って、髪なんて斑毛じゃない! いい気味!
はははははは!
どこまでも、どこまでも。
いつまでもいつまでも。
声は木霊する。
「たすけ、」
「あぁあ!」
悲鳴が響く。場所は魔法省の地下、ウィゼンガモット大法廷。壁には亀裂が入り、すり鉢状に設置された階段は欠け、机と椅子も薙ぎ払われている。
激しい戦いがあったのだろう。そしてそれは小休止しているらしい。
――このためか
はぁ、とシスネは息を吐く。母との「外出」は、魔法省のお祭り騒ぎに便乗、もとい助太刀するというものだった。どうやらハリー・ポッター一行が侵入し引っ掻き回したようだ。
母が助太刀するのならば、シスネも同じようにしよう。たとえコーネリウス・ファッジが母の同行者であっても。ファッジはシスネのほうを怖怖みていたが、シスネは無視した。口を利いてやるつもりはない。一応、彼への公的な裁きは終わっている。ならばシスネは口を閉じるしかない。なにを言うかわかったものではないから。
「ああ、お前は」
大法廷へ行きなさい。
母はそう言って、ファッジを引きずるようにして去っていった。なんのための「外出」か、とぽかんとしているうちに「閣下から連絡いただきました!」と新人――もうそうではないが――の、ポピー・スウィーティングがやってきた。彼女曰く「私は二世」らしい。そして「ハイウィング」というヒッポグリフを飼っていると聞いていた。ハイウィング三世だそうだ。野伏局の後輩で、シスネが教育係をつとめていた。彼女への教育は途中で終えざるを得なかった。シスネはアズカバンに投獄されたから……。
「お姿は見ましたし、無事なのもわかっていたんですけど」
それでも、こうして会えてうれしいです。あちらこちらから轟音が響き、人が入り乱れる中、ポピーはシスネを軽く抱きしめた。シスネは「私も」と返して抱擁を受け入れた。
シスネはポピーに導かれるまま、大法廷へ向かった。途中で死喰い人らしき者に襲われたが、二人で片付けた。
どこからともなく笛の音が聞こえ、どこからともなく鼠の群れが現れた時は卒倒しそうになった。思わずポピーに抱きついてしまった。
ポピーは先輩の情けない様を馬鹿にせず、シスネを別室に避難させた。
「だめになっちゃったんですね」
鼠、とポピーは囁いた。シスネは震えることしかできなかった。ポピーには悪いがルキフェルがここにいればいいのにとも思っていた。安心感が違う。
「局長のことは叱っておくので」
許してくださいね、とポピーがシスネをなだめた。シスネは彼女のおどけた口調に少しだけ冷静さを取り戻した。そして、思い出した。野伏局の長、マグダラの魔法使いはいわゆる「ハーメルンの笛吹き」なのだと。
力ある獣使いで、特に相性がよいのは鴉と鼠、らしい。かつてドイツに現れたとされる「悪い魔法使い」の「ハーメルンの笛吹き」は悪しきものとはいえ、強力な力を持つ魔法使いだった。いつの間にか鼠を操る獣使いは「ハーメルンの笛吹き」と呼ばれるようになったのだ。
「局長もお元気そうで」
シスネは抱擁を解く。ポピーはにやりとした。
「娘さんも省勤めで」
だから無茶もできなくて、鬱憤がたまってたみたいですよ。
「で、娘さんに騒ぎを起こしてってお願いされて」
ハーメルンの笛吹きは本気を出したということで。
言いながら、ポピーは扉をそっと開け、廊下を窺った。
「大丈夫です。鼠の――」
シスネはびくりと震えた。ポピーは眼を泳がせた。
「彼らの濁流はいなくなりました!」
行きましょう。
そう言って、彼女はシスネを引っ張った。迷いのない足取り。なにがあるかわかっている足取りだった。
そしてシスネは母の親心を悟った。
大法廷、すり鉢の底に向かうまでもなく、その声には覚えがあった。
奇妙な甘さのある声。高く耳障りなそれ。シスネは耳を塞ぎたくなる。ちゃり、しゃら、と音が聞こえる。もうないはずの鎖の音。
脳裏によぎるのは、記憶の断片だ。シスネはあの闇の底で壊された。助け出された。命はあった。だけれども、シスネという誰かは完全に無事だったわけではない……。以前の自分がどうだったか、あまり思い出せないし、他人のように思うのだ。
息を吸って吐く。耳を塞ぐ代わりに、銀の飾りに触れた。婚約者からの贈り物。美しい、銀の耳飾り。ひやりとした感触が乱れる心を鎮めていく。
――大丈夫
私は大丈夫。闇の中から戻ってこられた。また監獄に入れられそうになっても、私の魔法騎士が守ってくれる。もうあんなことはない……。だから、問題に向き合わなければならない。
一段一段、階段を降りていく。なるべくどうでもいいことを考える。余裕を見せなければならないから。
傀儡のシックネスをなんで排除しないのか、とか。どうせ「次」が補充されるから。シスネもそれはわかっていた。それでも、とシスネは問いかけた。お祭り騒ぎに参加するならば、目的を明確にしなければならなかった。この機に乗じてシックネスをどうにかするならば、あれこれすり合わせるべきだと思ったのだ。
『我々にできることは、せいぜいお祭り騒ぎくらいだ』
奪還までは難しい、と母は言った。シックネスを排除する。「次」の傀儡の誕生も阻止する。キリがない。それに魔法省を掌握できる「正当」な大臣候補がおるまい。
ファッジは、と母が視線を投げると彼は縮こまった。母は鼻を鳴らした。
『この有り様だし、こいつが権力の座に就くことを私が許さんよ』
そして、と母は続けた。
『ルーファスは死んだ。アメリアも死んだ。私が出張る手もあるが』
ひとまず現状維持でよかろう。ポッターたちは「マグル生まれ」の脱出を助けるつもりらしいし。
『下手に暴れまくって注意を引いて、なんとか卿と死喰い人の精鋭が現れるのも面倒だ』
省の人間だって無尽蔵にいるわけじゃない。勝ったはいいが人がいませんじゃ意味がない。
『そうなってみろ。仮に元大臣もいなくなりました、魔法法執行部も闇祓い局も壊滅的被害、とか。セーミャを担ぎ出すことになるやもしれん』
セーミャはルーファスの娘だ。養女だろうがなんだろうが、彼の一人娘だ。「闇の陣営に殺された父の志を継ぐ」というのは物語性がある。めぼしい人材がほぼいなければ、担ぎ出されるかもしれない。とりあえず、魔法省の顔として。
いや、しかし無茶苦茶だろう。そもそも大臣の世襲は避けるべきとされている。魔法大臣の子女が、親の人気をいいことに次の大臣になり、散々魔法界を引っ掻き回したという話はどこにでもある。同じ家から連続して大臣を輩出するのはよろしくない。それが常識だ。
『それかお前がなるか?』
シスネは答えなかった。冗談じゃない。そんな器じゃない。
『魔法省が食い荒らされる前に、まだ「手ぬるい」建前を守っているうちに」
なんとか卿を倒せばいい話でしょう。そう言えば母は「ほんとお前は軽く言うよな、そういう豪胆なことを」と笑った。シスネは「誰の娘だとお思いで」と返した……。
足がすり鉢――谷の底に着く。かつ、と音がした。
――少なくとも
こいつを排除すれば、魔法省の人的被害は減るだろう。
人垣がシスネを認めて割れる。中の一人が「ああ、レディ・シルヴァー。ようこそ地獄へ」と呼びかけてきた。見知らぬ魔女だ。首をかしげれば、彼女は変装を解いた。茶色の髪。ぎらぎらと輝く菫の眼。魔法法執行部の長、ネメシス・リアイスだった。その傍らにいる魔女がみじろぐ。変装が解けていく。驚いたことに、ペネロピー・クリアウォーターが現れた。マグル生まれは危険なはずで、逃げるか隠れるか捕まるかしているはず……という疑問が顔に出ていたのだろう。ネメシスはさらりと言った。
「クリアウォーターは海外に逃亡していて、ここにいるのは私の秘書だ」
つまり記録上はそうなっているし、さすがに魔法法執行部の長、その秘書に手を出そうという者はいなかったと。
「それはよかった」
歩を進める。ちらとペネロピーを窺えば、彼女は眼を潤ませていた。上司に泣きついて逃げることもできたろうに、粋狂なことだ。この国はマグル生まれにとって危険なのに。いいや、闇の陣営以外にとっては危険なのに。
「レディ・シルヴァー」
魔法使いと魔女たちが一礼する。ただの元息女に恭しい態度をとっているのは、セルウィン家の者だろう。バーティで見かけたことがある。純血。死喰い人を輩出しているが――クラウチだって死喰い人を輩出しているのだ。どの家だってありえることだ。
「この女を」
どうなさいますか。彼らは「それ」を見る。シスネも彼らに倣った。
縛られ、豚のように鳴いている。いいや、豚のほうがまだかわいらしい。小さい、愛玩用の豚もいるらしいし。
それはシスネを見上げ、眼を見開いた。
「あなた様にも権利がお有りかと」
セルウィンの者がそれを蹴りつける。
「おやめなさい。靴が汚れる」
シスネは片手を上げた。銀の左腕が、灯りを受けてちかりと輝く。
さてどうするか、とそれを見下ろす。ひんひん鳴きながら、命乞いをしていた。
「根性なしめ」
シスネは吐き捨てる。こんなものによって、シスネは監獄に堕とされたのか。こんなものによって、シスネは……あの日々を過ごしたのか。もはや以前の自分には戻れない。闇は永遠にシスネのなかにうずくまる。
「お助けください」
ずりずりと、それが床を這う。シスネは一歩下がった。
「寄るな」
強く言う。言葉の鞭に打ち据えられ、それは痙攣する。
私はドラゴンの子だ。こんなものを恐れてはならない。ドラゴンは恐れない。
――そして
これは、命乞いをしても謝罪はしない。拷問でもすれば言葉だけは出てくるだろうが、そんなものは真に悔い改めたとはいえない。
「セルウィン」
はい、と彼らは答える。まるで母に――偉大なるドラゴンに言っているように聞こえる。シスネはただのドラゴンの子だというのに。
「家名を騙られ、穢されたのはあなたがた」
純血の名誉を貶めた罪は重い。
「しかし、ご息女……レディ・シルヴァー」
あなたがされたことは、それに匹敵します。セルウィンたちが言う。復讐の喜びを分け合おうと。獲物の肉の取り分について相談するように。
「いいの。私がせずとも報いは受けるでしょう」
そうでしょう? セルウィンたちに問えば、彼らは大きく頷いた。
シスネ――ドラゴンの子は、地を這うそれに一瞥をくれる。
そっと言葉を贈った。
「お前は遠からず」
壊れるでしょう。
「なにを馬鹿な」
それは嘲笑う。シスネの星の眼を見て、ぴたりと口を閉ざした。
ドラゴンの子は優しく言った。
「お前は逃れられない。獄に入れられ、その屈辱に耐えられない。だから」
壊れることを選ぶ。
これは予言だ。
予言、と聞いてそれは顔を青ざめさせた。なにやら鳴いているが今度こそ一顧だにせず、踵を返した。
予言などではない。ただの嘘で、暗示である。しかし、ドラゴンの子は確信している。
復讐に現れたはずの女がなにもせずに立ち去ろうとしている。奇妙な予言を残して。魔法族であれば、予言は無視できないだろう。いいや、純血に憧れ、あるいは羨む連中こそ、予言に神秘を見出すのだ。恐れるのだ。だから、心の隅にいつだって予言がうずくまる。言葉が、呪いが身をひそめる。
杖がなくとも呪いはかけられる。
無意識のうちに恐れるだろう。予言はいつ成就するのか。その時はいつなのか。
そして自ら壊れることを選ぶだろう。それでよいのだ。
復讐は成されるだろう。
シスネはそれを知っている。
あの闇を知っている。
そして、と顔を上げる。大法廷前の廊下。銀の輝きがシスネに寄り添う。そっと獅子の守護霊を撫でた。
彼に心配をかけてしまったらしい。
杖を一振りして、守護霊を喚ぶ。彼と同じ獅子。雌獅子の形。一時は出せなくなっていたそれ。白鳥から姿を変えたそれに、伝言を託す。
そうして、歩を進める。
シスネを闇から掬い上げてくれた、婚約者が待つところへ。
――光のもとへ。