我ながら、重症だ。
バグノールド邸、客間。客間と言いつつ、もはや「ルキフェルの室」になっているそこで「バグノールドの婿殿」はため息を吐く。まだ婿じゃないんだがと言っても、バグノールドの子たちは聞いちゃいない。
のこのこと入り込んたよそ者を快く受け入れてくれて、一室を客間としてルキフェルに提供してくれた。一時期泊まり込んでいたせいもあり、机と椅子くらいしかなかったその場所にソファベッドが入れられ、小さめの箪笥が加わり……生活の気配と呼ぶものが増していった。
本来、一時的な訪問客を応接するための場所――だったものを「よそ者の婿」がぶんどった形になる。季節によるが、東屋でもてなすこともできるし、別の一室で対応すればいいから、とのことだ。
いくら婚約者とはいえバグノールド家に入り込みすぎではないか、と我に返ることしばしば。
しかしこうしてお邪魔しているのだからどうしようもない。
閣下が悪い。ダウニング閣下――マグルの首相ではない。バグノールド閣下。元魔法大臣。婚約者の母。魔法ビル管理部からの叩き上げ。
彼女以前に、お茶くみから極みに登った者もいるが「叩き上げの大臣」で思い浮かぶのはミリセント・バグノールドである。もちろん、お茶くみからの叩き上げ、尋常ならざる精神力と体力とおまけに運の持ち主、レナード・スペンサー=ムーンも英傑である。彼はグリンデルバルドがもたらした混乱期、うまく省の手綱をとってみせた。英国への影響は大陸に比べれば少なかったが、余波はあったのだ。
グリンデルバルドが倒され、役目は終わったとして大臣の座を退いた。引き際を知っていたのだ。
そして次々に大臣が就任しては辞任し、魔法省はぐらぐらと揺れた。そしてヴォルデモート卿という正体不明の某かに横っ面を叩かれた。いいや殴られた。
リアイスは当初、鼻で嗤った。どこの馬の骨ともわからない者に、なにができるかと。そんなリアイスを嘲笑うかのように、ヴォルデモートは魔法省の者を殺し、名門の者を殺し――ついにリアイスの者に手を出した。
手を出されて黙っているリアイスではない。戦いの火蓋が切られた。当時の《ランパント》、先々代本家当主アリアドネは、根回しし、ヴォルデモート台頭の数年後には闇祓い局を創設した。ひとつの部署をつくろうと思えば十年かかってもおかしくはない。アリアドネの動きは早いほうだった。闇祓い局をつくれば後は用無しとばかりに、当時の魔法大臣が失脚しようが無視した……とされる。真相は不明だ。その次の大臣に「互いにとって邪魔にならない」お飾りを就けることを、スリザリン系の派閥との腹のさぐりあい、無言の意思疎通を経て合意したとされる。
頻繁に大臣が交代する時代で、誰もがヴォルデモートという爆弾の押し付け合いをしていたようだ。
だいたい――とルキフェルは考える。ヴォルデモート台頭といっても、一口に何年とも言い難い。かなりおおざっぱに言えば、先代の《ランパント》、リーン・リアイスの世代が生まれるか生まれないか。そのあたりが起点だ。そこからざっと数年で闇祓い局が誕生。さらに数年――ヴォルデモート台頭から十年ほど経って「爆弾」を押し付けられたのがミリセント・バグノールドだった。
彼女は泥臭い成り上がりの叩き上げと言われていたが、腑抜けの貴族どもを舌鋒という鞭で躾けまくった。大臣だというのにヴォルデモートが現れたという現場にも赴いた。普通は邪魔にしかならないのだが、彼女は闇祓いの言いつけをよく聞いたし、死喰い人の襲撃を受けてもくぐり抜けた。
泥臭い成り上がりから「レナード・スペンサー=ムーンの再来」と呼ばれるようになり、やがて彼女は女傑と言われ「閣下」と敬われるようになった。
ミリセント・バグノールドの名言として有名なのは「パーティの邪魔をする者は許さぬ」あるいは「パーティを楽しむ権利を奪うことは許さぬ」だ。言った本人は少し酔っていたし、秘書たちもちょっと酔っていたし、そもそも疲れていたので細かいところは覚えていないらしい。なにせヴォルデモートを倒すまではと何年も酒を断っていて、久々の飲酒、久々の馬鹿騒ぎだったらしいから。
そんな少しお茶目なところのある女傑は、ルキフェルの義母になる予定である。まだ予定。ほぼ確定。
義母殿はお茶目なのはけっこうなのだが、不意打ちのように「お前の婚約者は預かった」と守護霊を飛ばしてきた。なんのお遊びだよと思えば「ちょっと魔法省に行ってくる」と続いた。つまり、ルキフェルの婚約者を魔法省への外出に誘ったと。
混乱しているらしい魔法省に!
なぜかハリー・ポッター一行が乗り込んだらしい魔法省に!
ウィスタの従者、エリュテイアがいるからそうそう危ないことはないだろう、とルキフェルは静観を決め込んでいたのだ。ハリー・ポッターよりも又従弟のウィスタ、どこかに捕らわれている彼のほうが優先度は上であった。そして闇祓いとしては、元大臣息女セーミャ・アレティ・スクリムジョールの護衛が優先事項であった。当のセーミャからは「私に張り付いても時間の無駄なんだから」と言われたので、あれこれしていたのだが。
チャーリーはマグル生まれ脱出に手を貸し、キングズリーは省の様子を探って、ルキフェルは「陛下」の護衛をしていた。魔法界に王はいない。マグルの「陛下」である。呼ばれたのだから仕方がない。リアイスの仕事だ。そして仕事中に守護霊がやってきて、静観を決め込んでいたはずのルキフェルの心を揺らしまくった。ふざけるな。
あら、と陛下はおっしゃった。ルキフェル、あなた婚約者がいるのねえと。実に楽しそうであった。
お気になさらず、私事ですのでと言って割り切った。割り切ったはずだが、交代までの時間が永遠にも思えた。じりじりしながら過ごし、ようやく交代し、陛下のもとを辞した。背後から「青春だわ」と聞こえてきたのも振り払い、魔法省へ行ってやろうかと思っていたら「お茶の準備でもして待ってろ」と義母から無情な伝言が飛んできた。婚約者という札と母親という札では圧倒的に後者が強い。シスネが怪我もなく無事なのかを言えよと歯噛みしながら、バグノールド邸へ跳んだ。
使用人に事情を話せば大笑いされ、ルキフェルは客間に通された。そして卓にはさめた茶がある。茶器がふたつ。
茶がさめるにつれて、ルキフェルも多少は落ち着きを取り戻し――仮にシスネが死の呪文を受けようものなら、魔法省はドラゴンによって焼き尽くされている――用事が終わったのなら早く帰っておいで、とシスネに守護霊を飛ばした。
そして頭を抱えた。
我ながら、重症だと。
やがて返信の守護霊がやってきた。やっぱり重症だ。シスネは無事だ。
万が一なんてないだろうに、どうしても考えてしまうのだ。細い背を見送った――みすみす監獄へ行かせた――あの時の光景が、ルキフェルの心に爪を立てている。別離に前触れなんてない。理不尽なほど突然にやってくるものだと、ルキフェルは知っている。リアイスが権門であれるのは、夥しい血と数多の別離という代償を支払っているがゆえだ。
ルキフェルはそこに己の血が加わるであろうことは覚悟していても、婚約者の死には耐えられないだろう。とてもではないが無理だ。
闇祓いの心得を胸の内で唱えているうちに、覚えのある足音が近づいてきた。わざと音を立てているのだとルキフェルは知っている。彼の婚約者は野伏だ。こそりとも音を立てないことだってできる。それに、ルキフェルや他の護衛たちは、万が一のときの逃げかた、隠れかたを教え込んだ。大臣の息女を狙う者は多くはないがいた。ほとんどは察知して、彼女の目に触れる前に排除した。しかし護衛をかわし、息女に肉薄する者もいたのだ。闇の陣営の残党や、その縁者にとって、息女――ミリセント・バグノールドの子――は憎むべきものだった。
その日はルキフェルが当番だった。冬のことだ。シスネは四年生。十四歳だった。シスネは休暇をホグワーツではなく、バグノールド邸で過ごすことにしていた。ルキフェルはキングズ・クロス駅までシスネを迎えに行った。さっさと付き添い姿くらましをしようとしたら、止められたのだ。
せっかくだからダイアゴン横丁に行きたいとねだられた。ささやかな願いだった。多少寄り道をしても構うまい、とルキフェルは了承した。養母の誕生日の贈り物を買いたいと言われたらなおさらだった。四年生ならばホグズミードで買えるだろうに、わざわざダイアゴン横丁で求める理由にも察しがついていた。「ご息女」の話に出てくる友人はセーミャ・アレティ――ルーファス・スクリムジョールの娘くらいのものだった。おそらく学校で巧くいっていないのだろうし、下手にホグズミードで買い物をして「贈り物」が奪われるか壊されることを心配しているのだろう、と。
あくまでもルキフェルたち闇祓いは、護衛であり監視であった。彼らはバグノールド家の者ではないし、雇われているわけでもない。所属は闇祓い局であり、魔法省だった。護衛の職務はホグワーツの中にまで適用されない。バグノールドもそれでよしとした。さすがに学校でまで張り付かれたくはなかろう。困難があろうとも、それはあの子が乗り越えるべきものだ。闇祓いは大臣のものではないのだから、と。
護衛当番たちは引き下がるしかなかった。いくら心配だろうが、バグノールドの言う通りだったから。闇祓いは大臣に
ゆっくり買い物をさせてやりたかった。それは純粋な善意で、甘さだったのだ。
――その甘さが
結果としてシスネを傷つけた。身体ではない。心をだ。
大通りで襲われた。離脱する暇もなかった。相手は複数で、ルキフェルはご息女を庇って戦っていた。結果だけ言うと、若手闇祓いはセクタムセンプラを喰らった。斬られ、道に叩きつけられ、ふらつきながら立ち上がったときには、敵がご息女に迫っていた。逃げろと言ったがシスネは凍りついていて、大通りからは人が逃げ去っていて、あわやというところを、ロバートに救われた。第二分家の菓子職人である。女装が趣味。かわいいものが好き。腕は立つ。菓子づくりも、戦いも。リーン・リアイスとシリウス・ブラックの結婚式で――ポッター夫妻との合同結婚式だったのだが――ウェディングケーキを二つ作ったのは彼だった。いや、本人曰く彼女だった。ローズと呼んでという彼――いや彼女――は、死喰い人に失神呪文を食らわせ、ご息女の窮地を救ったのだ。
あまりに情けなかった。満足に護衛の任を果たせなかった。ご息女が無事だったのは単なる幸運でしかなかった。ルキフェルはよろめくようにして、へたりこむご息女のもとへ向かった。申し訳ない、と言えば泣かれた。
『私の、』
我儘のせいだと。寄り道なんかすべきじゃなかった。穏和しく守られていればよかった。
『たぶん、』
ずっと、学校にも通わずに、家に籠もっていれば。
『少ない闇祓いを監視になんて』
割く必要はなかった。
泣きながら、苦しげに吐き出された監視という言葉は、あらゆるものを含んでいた。
自分は見張られる者だと。本当は守られるべき対象ではないのだと。
鳥籠に入っているべきだったと。なにも願うべきではないと。楽しみを求めてはいけなかったのだと。
――あまりに
哀れだった。十四歳だ。本当なら、なんの心配もなく生きていかれるはずだった。その年頃らしい、ささやかで、けれど重要なものごとに頭を悩ませていいはずだった。自分は大臣の息女だと驕っていてもおかしくなかった。だというのに、ご息女は泣くのだ。ルキフェルの、引き裂かれた服を掴んで。鉄錆香る身に、顔を埋めるようにして。親をなくした雛鳥のように。愛に飢えた仔のように。苦しくて、恋しくてたまらないように。
衣食住が足りていても、養母の愛があっても、シスネ・バグノールドに穿たれた穴を埋めるには、到底足りなかったのだ。
守られるべきではない。愛されるべきではない。我儘は言ってはいけない。だって「ご息女」だから。「怪物の妹」だから……。
ご息女、あなたの服が汚れますと言ってもだめで、彼女はルキフェルにしがみついた。血を流して、多少朦朧としていたせいか、馬鹿みたいなことを口走った。
「こんな年上の、情けない護衛でよければ」
またお出かけに付き合いますよ、と。これに懲りずにアイスでも食べに行きましょうか……。僕で不安だったら、護衛たちみんなで行きましょう。休暇をとるんです。私的なお出かけですよ。買い物にもお付き合いしましょう。
血をだらだら流しながらよくあれだけしゃべれたものだ。頑丈に産んでくれた母親には感謝である。それだけは感謝してもいい。
昔の大失態に唸る。穴があったら入りたい。ご息女が庇ってくれたお陰で、叱責と少々の減給で済んだが。今なら複数人に襲われても全員片付けるか、さっさとご息女を連れて離脱している。
ため息を吐く。あのの時の記憶を厳重に封印した。怪我なんて慣れているが、女の子に泣かれるのは嫌なものだ。どうすればいいかわからない。あの場合、下手に慰めていたら余計に泣かれていただろう。
けして気弱な娘ではない。それでもあの時はたったの十と四だった……。当時の己にお前はご息女と婚約するぞと言っても、鼻でわらって信じないだろう。なにを馬鹿な。もっと年の釣り合いのとれる男がいるだろう、と。気でも狂ったか、と。
気は狂ってないはずだが、調子は狂う、ともう一度ため息を吐き、椅子から立ち上がる。扉の前で足音が止まる。ルキフェルはさっさと扉を開け、細い腰に腕を回し、優しく、しかし素早くなかに引きずりこんだ。
怪我はないねとか、わるいドラゴンに連れ去られて心配していた、と言おうと思っていたのに、ルキフェルの唇は勝手に言葉を紡いだ。
「遅かったじゃないか」
僕のご息女。
拗ねるような口調に、彼女が小さく笑う。
「ちゃんと帰ってきたじゃない」
あなたのもとへ。
ただの、なんてことない一言。しかし、今のルキフェルにとっては毒も同じだった。ただでさえ揺らいでいるのに、一気に秤が傾いた。思わず、彼女から身を離す。ときおり銀の輝きを――星を宿す眼から視線を逸らした。
「僕のご息女」
「なにかしら」
「この室から離脱するんだ」
「……ねえ帰ってきたばかりだし、室に入れたのはあなたでしょう」
「他愛のないお茶の時間では済まなくなる」
僕が、わるいドラゴンになってもいいのか?
返答は触れるだけのくちづけだった。
そして、数多の宝に匹敵するきらめきが、ルキフェルの紫をのぞき込む。
「わたしを攫ってくださいな」
わるいドラゴン。