『僕が、わるいドラゴンになってもいいのか?』
熱を秘めた眼に貫かれ、いいや絡めとられていた。冗談めかした言であっても真意は理解していた。その先に踏み込みたいか、と。
婚前交渉がどうだとか、陽も落ちていないのにとか、きょうだいに見つかったら気まずいとか、しかも義兄――長兄が帰ってくるらしいのになおさら気まずいとか。戦時だとか。踏みとどまるべき理由などいくらでもあった。きっと愚かなことだろう。英国が平和になってからにすればよい。所詮瑣末事だ。彼も彼女も完璧か、それに近い振る舞いを求められる側であった。大貴族で闇祓い。生まれは貴族なれど、育ちは「成り上がり」の養女。大臣の息女。
婚姻前に、多少の触れ合いならまだしも一線を越えることは眉をひそめられる行いだ。
そんな良識など容易く崩れてしまうのだと彼女は知ってしまった。
溺れてしまうというのがどういうことか、わかってしまった。
気づけばこう返していた。
わたしを攫ってくださいな。わるいドラゴン、と。
ふっと眼を覚ます。明るい室。いつだって灯りを絶やせない室。ソファベッドから変身させた寝台の上。
カーテンの隙間から陽が射している。まだ午後の内だろう。まさか一日経ったなんてことはないと思いたい。シスネはともかく、ルキフェルは起きる。
――いまは
眠っているけれど。
背に伝わる熱、触れ合う肌と、穏やかな呼吸。しっかりと抱き寄せられ、シスネはわるいドラゴンに捕まっている。
下手に動けば起きるだろう。財宝を抱えたドラゴンは神経質なのである。少しでも寝かせてやりたい。起きたら、務めを果たしに行くだろうから。大臣の元息女の護衛という任を。
離れがたい。ふと浮かんできたのはそんな思いだ。綺麗な感情ではないだろう。いわば――恋着か。恋い慕うならばよかったのに。恋だけならばうつくしい。慕うだけならばほほえましい。しかし、恋と執着が合わさってしまえば、どこか仄暗い……。
慕ってはいたのだ。たぶん、だが。ルキフェルはシスネの護衛だった。長い間そうだった。他にも護衛はいたけれど、どうしてもルキフェルへの感情は重くなる。なるべく護衛には公平に接するべきだとわかっていたし、そう務めようとも思っていた。護衛に思い入れを持たないようにしようとも思っていた……はずだった。
義務だけの関係だった。シスネは大臣の息女で、やがて元息女になった。守られる義務を、監視される義務を負っていた。そして闇祓いたちは護衛する義務、監視する義務を負っていた。互いにただの「仕事」のはずであった。
それが「おでかけ」をしたり、こっそり寄り道をしたり、新人闇祓いを鍛える目的でかくれんぼをしたり、建前は仕事、実質は馴れ合いになったのはいつからだったろうか。
キングズリーだってウィアムソンだってやさしかった。みんなやさしかった。キングズリーはなにかあればとオレガノのエキスをくれたし、ウィリアムソンもこっそりフィリバスターの長々花火をくれたものだ。心配をかけていたのだと思う。ルキフェルだってそれは同じだった。それでも、シスネの心を染め上げてしまったのはルキフェルだったのだ。
とてもわるいドラゴンである。シスネの心まで食べてしまった。いいや、身も心も食べてしまった。
眼を彷徨わせる。そんなことをしても無駄だというのに。いくら眼を逸らそうが、起こったことは変えられない。シスネとルキフェルが濃い交わりに至ったという事実は。
灯りを消してと頼んだのに――暗闇が怖いことも忘れて、懇願したというのに――ルキフェルは「恥ずかしがることじゃないだろうに」と受け流し、シスネを味わいし尽くし、翻弄したのである。
墜落するように眠りに落ちて、うっかり身じろいだらドラゴンが起きて、第二戦が始まってしまったな……とちいさく呻く。ルキフェルが頑丈もとい頑健なのは知っていたが、それにしても。底なしの体力である。長い付き合いの「少し年の離れた護衛」がこれほどに……わるいドラゴンだとは思わなかった。
そして傷だらけだとも思わなかった。
『闇祓いだからね』
傷くらい当たり前だ、とルキフェルは言った。シスネは言い返せなかった。それどころではなかったのだ。言葉なんてものを出せる状況ではなく、呻き、喘ぐだけで手一杯。
しがみつき、彼の背に爪を立てている状況で、意味の通る会話などできるものか。
それでも、なんとか言おうとしたのだ。その傷跡は、あのときのものかと。
シスネを守ろうとしたときのものかと。だというのに先手を打たれて、なにも言えないまま。
――当たり前ではないだろうに
じんわりと眼が熱くなる。まざまざと覚えている。あの時のことを。
切り刻まれたルキフェル。飛沫いた紅。空はうすい青。ふわりと漂う鉄錆の香り。役立たずの息女。守られるしかできない息女。
他人を肉の盾にした息女……。
それが仕事だ、そのために闇祓いは多くのガリオンが与えられ、敬意を払われる。それだけのことだ。だけだ、と言い切るしかなく、護衛をねぎらうことしかできない。守ってくれなくていいなんて、口が裂けても言えない。わかってはいたのだ。
それでも。
――耐えられなかった
泣くべきではなかった。毅然としているべきだった。あの時、シスネは十四歳。成人ではなかったけれど、なにもできないわけでもなく、なにもわからないわけでもなかった。大人と子どもの間、中途半端で不安定な立ち位置にいた。
逃げろと言われたのに動けなくて、泣くばかりで、しがみついて、言っても仕方のないことばかり言って困らせた。己に向けられた殺意が、憎悪が恐ろしかった。自分のせいで護衛が血まみれになったこともこわかった。
いいや、ルキフェルのことを案じるふりをしていたのかもしれない。心優しい息女を演じていたのかもしれない。悲しく、恐ろしく、悔しく、怖くて。心が痛かった。ただわかっていたのは、シスネが我儘も言わなかったらあの事件は起こらなかったのだ。
『僕が弱かったせいで』
ご息女のせいではありません。血を流し、息を切らせながら、ルキフェルは言った。切り刻まれるべきはシスネだった。彼は紛れもなくシスネの代わりに傷を負い、血を流したのだ。
『できれば』
よくやった、と褒めていただければ嬉しいですね。不出来な護衛ですけれど。不甲斐ないことだ。
シスネは首を振った。ルキフェルはおおげさに残念がった。泣きそうですご息女、だなんて言って。血まみれのくせにおどけて。まったく似合わないのに。道化にはなれないのだ彼は。
『私の魔法騎士』の真似事だって、まるで本物の騎士のようだったのだから。
だから、あなたは悪くないと言う代わりに
『あなたは最高の騎士よ』
ルキフェル、と言った。
そうしたら、ルキフェルはにやりとした。
『やれやれ』
ご息女は見る目がない。騎士ならばほかにいるでしょうに。
からかうように言って「いいからさっさと止血しなさい馬鹿!」とロバートことローズに引きずられて行ったが。石畳には血の筋が描かれた。
――台無しだった
少女のときの、思い出と呼んでいいか迷うものには、血まみれな上に襟首を掴まれて引きずられるルキフェルの姿が焼き付いている。泣きたい。ローズってば、ルキフェルが頭を石畳に打ち付けようがお構いなしだった。絶対わざとだ。しかも「なに精神的にたぶらかそうとしてんのよ!」「なんの話だよ」と聞こえてきたからいたたまれなかった。別にたぶらかされてなんかない。そんなわけがない。シスネとルキフェルは息女と護衛だったのだし、ルキフェルは子どもにどうこう――いやらしいことを思うような人じゃない。絶対違う。そんな男をルーファス・スクリムジョールが護衛につけるわけがない。それに。
「私は見る目があるもの」
どうしても我慢できなくて、身をよじる。彼の呼吸が変わる。ああ、わるいドラゴンが起きてしまう。
それでも構わずに、彼に身を寄せる。刺青が刻まれたその身に、あまえるように。
そろそろと腕を回す。刺青の刻まれた右の手、その爪をつっと、彼の背に立てた。かすかに彼の呼吸が乱れる。
ああ、左腕も生身のものであればよかったのに。そうすればもっと爪を立てられたのに。
喪ったものを惜しみつつ、シスネは彼の耳を吐息で侵した。
「あなたは私の」
最高の魔法騎士なんだから。