ひそり、と。
微かな声が、空気を揺らがせる。なにかをはばかるように低められ、なんと言っているのかはわからない。扉――隙間から室内を覗きこんでも、嫌に赤い唇が目につくだけだ。
青を基調としたその室に、影がある。なにかを話しているのだから人のはずだ。だというのに影は、正体を掴ませない。力任せにぐしゃぐしゃとペンで塗りつぶしたように、黒い。幾筋ものひっかき傷の集合体に見えた。それが、二つ。
その異形を、そうっと窺う。なぜ訪ねたのか、なぜ扉の隙間からのぞき込んでいるのか、異形がいるのか……そんな疑問は頭から綺麗に抜け落ちていた。
息を殺す。影の片方は母のはずだ。覗き見た視界、卓の左側に座っているのが母親だ、とすぐにわかった。異形の姿だというのに――人ですらないのに。静かに頷くその様が、確信させた。
穏和しい人。物静かな人。卓の右側――客人がぺらぺらと話すのに、控えめに相づちを打つだけ。
客人の声が流れてくる。意味の分からない音の連なりが、言の葉となって立ち上がる。
「あんまりにも似ていなさすぎて」
驚いたわ。
客人の言葉は、柔らかく、からかうようでいて、小さな棘があった。
息を殺す――見つかってはいけないのだ、と強く思った。母の、姉だったか妹だったか……じろじろと見てきて「綺麗な子ね」と言って、どうも湿った感じがした。母親が「ご挨拶は終わったから、室に戻りなさい」と言ってくれたから退散したのだけど。なんだか心配になってしまったのだ。優しい母。姉妹に虐められているんじゃないかと……。だから、そっと見に行った。なにができるかわからないけれど。
「そういうことも」
あるわよ。
ぽつ、と母が返す。強く撥ねつけるわけでもなく、そっと受け流すように。もうこの話は終わりにしましょう、とでも言うように。
だが、客人――母の姉妹は止まらない。上品で柔らかな「いなし」を平然と無視する。
「だって、上の子とも似てない。あなたとも似てない。義兄さんとも似てない」
上の子みたいにそばかすもない。まあ、黒髪はありふれているとして……顔の系統は明らかに。
「ブラック家じゃないの」
くすくすと客人は笑う。赤い唇が毒々しい艶を帯びていた。
「ねえ、どうなの?」
「なにが」
客人の声は弾むようで。母の声は酷く堅い。
「……あなたが二人目を産めると思ってなかったのよね、私」
しょっちゅう熱を出していたし、すぐに寝込んでいたし。
「上の子だって、なかなかできなかったのに」
それが十年近く開いて、二人目ですって?
「正直に言いなさいよ■■。甘やかされてばっかりの、か弱いあなたを拾ってくださった旦那様に、せっつかれたんじゃなくて?」
それであなた、もらってきたんじゃあないの。ブラックの傍系とかから。
「カッコウのように……」
石を飲んだように立ち尽くす。いいや、石になってしまったかのようだった。その場を動きたくても動けない。ただ、凍り付いたように母を見る。
ああ。
母の唇が動く――。
ぱちり、と眼を開けた。こめかみからつぅ、と汗が流れていく。はぁ、と息を吐き、重い重い身体を、そっと起こした。ぐらぐらと視界が回っているようだ。口元を手で押さえる。頭も身体も火照っているのに、手だけは――右手は、冷え切っていた。季節は春。四月――イースターを過ぎた頃だというのに。
――夢だ
ぐしゃぐしゃと塗りつぶされたような影も、真っ赤な唇も、毒のある声も……滴るような悪意も。
夢だけれど、現実にあったことだ。
ひゅうひゅうと喉を鳴らし、シスネは音もなく寝台から降りる。共寝する者のいない褥の、その空白には黄金の獅子と、白銀の獅子がいる。雄と雌。紫の眼と灰色の眼。抱き枕だ。仲良く寄り添っている彼らのうち、金色のほうを撫でる。白銀の左手で、かすめるように。
柔らかな肌触りも、立派なたてがみのくすぐるような感触も、銀の手は感じ取らない。魔法族とて神ではない。生身の腕を完全に再現などできはしない。なめらかに動き、物を掴めて、文字を書ける……通り一遍の機能があるだけ、十分だ。機能と重量、耐久性の均衡を考えると、触覚は省くしかなかった、というのが正確なところらしい。
すまない、とナイアード――ルキフェルの従弟は言ってくれた。そんな必要はないのに。
――これ以上を
望んではいけない。
ふらふらと洗面室に向かう。夢の光景が脳裏に過ぎる。青を基調とした応接間……シスネの生家は代々レイブンクローの家系であった。だから邸も青を基調としていたのだ。青い絨毯、淡い色の壁紙……茶器も、白に限りなく近い青から深い紺まで様々だった。誇らしげに紋章が躍っていた。中立家門クラウチ家。もはや絶えたようなものだ。シスネはクラウチの家督を継ぐことを拒否した。今のクラウチ家の当主は父方の従姉、クロード・リアイスだ。いいや、クロード・クラウチ=リアイスだ。
洗面台に左手を突く。かつん、と固い音がした。こみ上げてくるものを吐き出した。耳障りな音。喉が灼ける。
――忌まわしい
あの家が忌まわしい。父母も、兄も冷たい土の下。生き残ったのはシスネだけ……呪われし家。不吉な家。
『不吉だわ』
顔を上げる。青ざめた顔の女がいた。意地の悪い声が陰々と響く。不吉だわ、不吉だわ……。
『綺麗な子よ』
姉さんよりずっと。
『でもあれは』
不吉な感じのする美だわ……。
ぜ、と息をする。こみ上げてくる涙は、生理的なものなのかそれとも処理しきれない感情があふれているのか。訊ける者はいない。ルキフェルはスクリムジョール邸に詰めているし、義兄も同じだ。『妖女シスターズ』を率いて闇の陣営をひっかき回し、追いかけっこをしながらゴドリックの谷に行き、手が足りないなら助っ人をしようかとナイアードのところへ行ったらしい。そしたら追い返され、のこのこと「実家」ことバグノールド邸に帰ってきた。遊ばせておくのももったいないしどうしようかとバグノールドの家長こと母に連絡をし……スクリムジョール邸に引き取ってもらったのだ。かれこれ数ヶ月前のことになる。
バグノールドの長男=妖女シスターズのリーダーという秘密をセーミャは知らない。そもそもバグノールドの放蕩長男とセーミャは会ったことがあるのか、ないのか……。念のため、ルキフェルとは初対面ですという態度で通したらしい。妹の婚約者だの、婚約者の兄だのという話題は片鱗すら見せず、仲良くしているようだ。裏で義兄がルキフェルを虐めていたら困るが。
そして母は相変わらずダウニング閣下の邸に詰めている。頼れる年長者はバグノールド邸にいないわけだ。今現在、シスネがバグノールド邸を任されているし、弟妹たちを守る責任がある。なので、弱った姿は見せられないし、見せたくもないし、変なことは訊けない。
震える手で蛇口をひねる。流れる水を両手で受け止めて、口をすすぎ顔を洗った。こびりついた穢れを落とすように。何度も、何度も。
――落とせはしない
再び鏡を見る。肩から髪が滑り落ちる。以前はボブにしていたのだけれど、色を無くしてからは伸ばすようにしていた。白にボブは似合わないのだ。灰色の眼がシスネを見返す。監獄の闇がそこにはあった。永遠に落とせはしない、拭えもしないくらやみが。
さぞかし、と思う。さぞかし……実母の姉妹――たしか妹だった。叔母だ――は、満足するだろう。「甘やかされた姉」の子、姪が無様にも監獄に入れられ、あらゆるものを喪って。姉の嫁ぎ先が崩壊して。
嫌な人だった。姪であるシスネをカッコウの子と言った。盗み聞いた限りでは、確かに言っていた。託卵、と。姉さん、あの子はもらい子か、それとも。
――不義の子か
実母がなんと答えたのか、シスネは覚えていない。凍り付くような怖さだけを覚えている。
「あの人は」
鏡に向かって呼びかける。あの人は、唇が動く。
「能吏だった……」
バーテミウス・クラウチ・シニア。シスネの実父。息子を監獄にやった男。息子に殺された男。娘を巣から放り出した男。娘の心を的確に切り刻んだ男……。残酷な人。娘が、クラウチ家という獄に心を寄せないようにした。入念に娘の心に傷を付けた。丁寧に丁寧に踏みにじった。必要なことだったとわかっている。わかっていても、心は痛い。永遠にふさがらないだろう。瘡蓋ができてもすぐに剥がれてしまうだろう。
こうと決めたら娘を放り出し、傷つけてしまえる男はしかし、妻のことは愛していたという。だからこそ、監獄から息子を連れ出した。
――そんな男が
妻の不義密通を見逃すだろうか。調べる手段があるのなら、はっきりさせていたはずだ。遺伝子検査をすればいいだけの話だ。しただろう、とシスネは確信している。似ていない娘が生まれた。妻の潔白を証明し、心おきなく妻を愛したかったはずだ。けして曖昧にはしなかっただろう。それに、実母が不義を働いた、あるいはどこからか子をもらってきたというのはありえない。他の誰かと関係を持つなんて器用な真似はできなかったろう。一晩で授かったというのも考えにくい。病弱で、おそらくだが……子ができにくい体質だったろうから。もらい子というのも考えにくい。実父は忙しかったとはいえ、どこか異国の空の下に数年いたわけではないのだ。
さらに言えば、シスネが似ていないのは説明がつくのだ。父母どちらの系統にも、ブラック家の血は流れているはずだから。ありえないことではない。
「……嫌なひと」
吐き捨てる。実母の心をかき乱した叔母に向かって。もはや没交渉だ。ジュニアが捕まって、クラウチ家は急速に沈んでいった。実母の生家はクラウチ家に背を向けた。死喰い人を輩出した忌まわしきクラウチ家に関わりたがらなかった。そんなものはないふりをした。シスネも、夢を見るまでは姻戚の存在を忘れていた。忘れていたかったのに。
こみ上げてきたものを無理矢理飲み下す。忌まわしい、もしかしたら望まれていなかったのかも、呪わしい、本当はカッコウの子かも……捨てられた……結局、両親は私を捨てた……。ぷつぷつとわき上がる言葉を封じ込める。ぐらぐらと揺れる心を鎮めていく。長い長い息を吐き、寝室に戻れば。
守護霊がシスネを待っていた。
「ご厄介になりますよ」
応接間。出された紅茶に口を付け、魔女は堂々と言った。真っ赤な衣を着こなし、眼を光らせ、まるで女王のようであった。魔法界に王はいないけれど、そう思わせるだけの力強さがオーガスタ・ロングボトムにはあった。
「……いくらでも逗留なさってください」
大奥様。シスネはか細い声で言う。きっと顔色は真っ青だろう。だけれど、オーガスタは気にも止めないようだった。逃げだしたくても逃げ出せない。堂々たる貴婦人の眼光が、シスネにそれを許さない。
――やっぱり
恨まれているのだ。胸の奥底に、冷たい痛みがはしる。ロングボトム家の大奥様にはその資格があった。なにせ、彼女の息子とその妻を壊したのは、シスネの実の兄だった。クラウチ家が呪われしものと呼ばれるのならば、ロングボトム家は悲劇に見舞われしものであった。そして、悲劇の源泉たる実兄は監獄の土の下、墓の場所すらわからないとなっても、爪痕はくっきりと残っている。ロングボトム夫妻は回復の見込みもなく、永遠の停滞の中にいるのだ。
「歓迎いたします」
声が掠れる。まともにオーガスタの顔を見られない。そこにフランク・ロングボトムに似た何かを見つけてしまうのが怖かった。シスネは彼の顔も、彼の妻――アリス・ロングボトムの顔も知っていた。資料で見たことがあった。健康だった時の顔も、変わり果てた顔も。
「――そうは見えないけれど」
胸に錐をえぐり込まれたかのような痛みがはしった。オーガスタの声は無機質に響いた。呼吸が荒くなる。落ち着かなければ。シスネは動揺したり、泣いたり、悲劇に耽ったりしてはいけない。目の前の大奥様、勇敢なる魔女に対して無礼に過ぎる。彼女は息子たちを壊されてもなお毅然として顔を上げ、孫を育てた。孫――ネビル・ロングボトムは闇の手に陥ちたホグワーツで戦っているのだという。ネビルに手を焼いた死喰い人は、オーガスタを人質にしようとした。そして返り討ちにあった。かくしてオーガスタは「逃亡犯」となり、バグノールド邸に駆け込んできたのだ。もちろん、家長たる母は同意した。シスネに「客人が逗留するからもてなせ」と伝言を飛ばしてきた。
「――申し訳……」
反射的に謝ろうとする。ずっとそうしたかったのだ。しかし、謝って済む問題ではない。実の兄がしでかしたことをシスネが謝るのもおかしな話だとわかっていた。わかっていても、口が勝手に動いた。それでなくとも、歓迎すべき客人を不快にさせたのだ……。
「食べているの、あなた」
ひく、と喉が鳴る。そろそろと、伏せていた眼を上げる。オーガスタの揺るぎない眼差しがあった。そこにあるべき負の感情はないようだった。
――そんな馬鹿な
あり得ないことだ。思考ばかりが空回る。そんなシスネをよそに、オーガスタは顔をしかめた。まるで、娘か……孫を心配するような、そんな顔。
「真っ青よ」
年経た手が伸びてくる。身をすくませたシスネの、じっとりと湿った額に触れた。乾いた感触がそっと銀の髪を払う。
「あの、」
どうにか音を出す。つなげて言葉にする。舌がもつれる。
「私のことが、ご不快……」
「貴女に恨みはありません」
ぴしゃりと言われる。きっぱりと、線を引くように。そこにはシスネを打ち据えよう、
「一度、きちんと話したかったのですよ」
シスネ・バグノールド。バグノールドの令嬢。
「恨んではいません。それは筋違いというもので、あなたも被害者です」
むしろあなたにはお礼を言いたかった。
オーガスタは囁く。そっとシスネの頬に触れた。誰かの代わりのように。もしかして息子にそうしてやりたいのかもしれず、息子の妻にしてやりたいのかもしれない。それか、孫にだろうか……。オーガスタ、ロングボトムの大奥様は厳しい方だと聞いている。優しい母、祖母でいたくともできなかったのかもしれない。
「あなたは大臣の命に従った。きわめて理不尽な、横暴な命だったにも関わらず」
監獄に沈み、髪を色をなくして、腕も喪って。
「そして生還した。あの馬鹿者の前に、堂々と姿を現した」
さすがはミリセント・バグノールドの子です。勇気ある者です。
「あの馬鹿者は、あなたに屈服したのです。交代が比較的速やかになされたのは、あなたの功績でもあるのです」
「……でも、」
でも。なにを言えばいいかわからなくなる。シスネは祖母というものを知らない。母は――祖母というよりも、やっぱり母で、父でもあって、庇護者であったから。オーガスタは優しい眼をしていると感じた。もしかしたら、祖母というものはこういうものなのかもしれない……。
「すぐには無理でしょうし、傷は消えないでしょうが」
一つ一つ、呪いを解いていきなさい。
「あなたは、生きていていいんですよ」
「大奥様」
「オーガスタで結構。シスネ、あなたは私の孫のようなものです」
は、と言い掛ける。オーガスタがにやりとした。活発で気の強い女の子の影が確かにあった。真っ赤な服に負けるどころか従える、燃えるような魂を持つ女の子だ。
「我が孫ナイアードの従兄のルキフェルも孫のようなものですからね。あなたも孫です」
扉の外から「お祖母様、強引すぎません?」と声が聞こえてきた。ナイアードだ。「お黙り! 女の会話を盗み聞きするんじゃありませんよ!」とオーガスタが一喝した。シスネはめまいをこらえた。まさかの孫認定とは。いいんだろうか。それはありえるのだろうか?
ふう、とオーガスタが息を吐く。シスネの頬から手を離す。乗り出していた身体を引いて、優雅に座り直した。
「きちんと食べて、きちんと寝なさい……障りますよ」
「大奥様」
「オーガスタ、と」
白銀の魔女と、ロングボトムの女傑は見つめ合う。先に折れたのはシスネの方だった。
「……ふ、ふしだらだとか」
「言いませんよ古臭い」
喜ばしいことですよ、とオーガスタはさらりと言った。その一言で、内に澱んでいたなにかがすっと解けていった。どうしようと思うばかりだった。数えるのを止めたくらいには、回数を重ねていたのに……できるわけがないと思っていた。できないようにしていたし、それは完璧ではないものの、シスネは監獄で壊れた身だった。月の路は一度閉ざされた。再び開いても乱れてしまっていた……。
それに、怖かったのだ。
もし、拒否されたら。
もし、似ていなかったら。
幼い頃の暗い記憶が躊躇させた。
硬直するシスネに、オーガスタは辛抱強く言った。
「ルキフェルを信じてあげなさい」
……そうして、シスネは彼に告げた。
芽吹いたものの存在を。
彼は眼を丸くし、そっとシスネを抱きしめた。いつかの、揺れる小舟の上でそうしたように。
「名前を考えないとな」
気が早いと言う代わりに、シスネは彼の背に手を回した。
寝台の上に獅子の子のぬいぐるみが増えるのは、まだ先のことだ。