夜のうちに降った雨が、並木をしっとりと濡らし、茂る緑をより深く色づけていた。伸びる小道、その先に建つ邸と相まって、ひどく美しい――はずだった。
ひゅう、と喉から口へ、口から外へと息が漏れる。柔らかな泥を踏みしめ、立ち尽くす。細かく震える右手を、大きな手が包み込む。硬い胼胝と、厚い皮の感触がシスネを落ち着かせた。
「……帰るか?」
そっとシスネを覗き込む、紫の眼を見返した。彼はきっと、シスネがどういう選択をしても責めるまい、と確信が持てた。せっかく外出したのに、と文句を言うことなく、ただ「そうか」と頷いて終わらせるだろう。
――行かなくても
死ぬことはない。
――行っても
死ぬことはない。
どちらでも構わないのだ。シスネ次第であった。
唇を噛む。小道の先にある邸を睨む。じりじりと胃の腑が焼けるような気がした。いいや、今も昔も、シスネは灼き焦がされていたのだろう。苦しみという名のそれに。悲しみという名のそれに。
行くか、行かないかの問題ではないのだ。逃げるか逃げないか、だ。眼を逸らそうとしたところで、ないふりをしたところで、存在は消えてなくならないのだ。
――その邸は
かつてシスネ・クラウチの家だった場所は、静かにそこに在る。
数日前のことだ。
一度おいでなさい、と従姉のクロードから手紙をもらった。闇の陣営との決戦が終わって約一月。キングズリー・シャックルボルト臨時魔法大臣の下、英国魔法界は復興への道を歩き始めたばかり。戦の傷跡は未だ深く、闇の陣営の残党が跳梁し、落ち着かない日々が続いていた。
なんの用だろう。もしかしておよそ二週間後――夏至に執り行う、結婚式についてだろうかと眼を細め、そわそわとした気持ちで手紙の続きを読んだ。おいでなさいと言うからには『谷』――パッサント城へ招かれるのだろうと単純に考えていた。お茶をするにしろなんにしろ、すぐに訪ねることができる。
シスネはあの戦いの後、バグノールド邸を出た。居を『谷』に移したのだ。正確には、結婚祝いの名目で、ルキフェルが相続した邸に。
同じ『谷』なのだ。散歩がてら訪ねればよい。馬車は好かない――嫌な記憶が蘇りそうなので――却下。煙突飛行と姿くらましは、胎の子にどんな影響があるかわからないから却下。箒か天馬を使えばいいだろう。あまり飛ばさずゆっくりいけばよい。
そう考えていたのに、手紙の続きを読んで凍りついた。
従姉はこう書いていたのだ。
クラウチ邸においでなさい。もしもどうしても駄目ならば仕方がないけれど、と。
――そうして
ここにいる。ルキフェルに手を引かれて、生家――かつての巣、その廊下――を歩いている。青を基調とした邸はどこまでも人の気配がなく、もはや死に絶えていた。
――絶えてしまったのだ
ゆっくりと歩く。目の前の背を追いかける。銀にも見える金の髪が、魔法灯を受けて輝いている。月のようだ、とぼうと思う。淡い――青、ときおり銀に光る眼と相まって、クロード・リアイスは冴え冴えと輝く月を思わせた。ただ天から地を見下ろすのみ。彼女は神秘の力を秘めた巫女――神女であった。なにかが彼女の身を借りて、言の葉を伝えるのだ。
そして、彼女は死に体のクラウチ家の家督を引き継いだ。なにを考えてのことかはわからない。わざわざクラウチ=リアイスを名乗る必要などなかったはずだ。クラウチの名は忌まわしいものに成り果てた。壊れかけのそれを拾い上げ、大事に箱に入れるような真似なんて、酔狂としか思えない。
どうして? とシスネは訊いたことがある。ふらりとバグノールド邸を訪ねてきた、美しい神女に。彼女は答えた。
『本来の当主はあなたよ』
だけれどもあなたは拒否した。無理もないわね。あなたを傷だらけにした家だもの……。
ぽつぽつとクロードは言った。迷い、言葉を選びながら。シスネは、クラウチ家を継がないと返事をしたときのことを、遙か昔の出来事かのように思い返した。
あれは三校対抗試合が終わり、兄に襲われ……死んでから、コーネリウス・ファッジの勅命で捕らえられるまでの、わずかな間のことだった。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアの亡骸はアズカバンに返された。そしてバーテミウス・クラウチ・シニアの亡骸は簡単な葬儀を済ませ、クラウチ家の墓に入れられた。レディ・クラウチが納まっているはずの柩を開けて確認したが、空であった。
淡々と書かれた文面の末尾に、そっとしたためられていた。
シスネ、あなたはクラウチ家の生き残りであり、バグノールドの養女となったとはいえクラウチに属するあらゆるものを受け取る権利がある。
どうする? と。問いかけていた。
あなたが受け取るがいいわ、とシスネは返した。
私はバグノールドだもの、と。
投獄され、助け出され、長い、果てもないように思えた闇を抜け――ルキフェルと結ばれた。
シスネは、クロードに尋ねるだけの気力を取り戻していた。魔法省が陥落し、英国魔法界が闇に包まれているというのに。そんなくだらないことなんて後回しにするべきなのに、ふっと訊いてしまっていたのだ。やり残した宿題があるような気がしていたのか、単なる衝動かはわからない。
本来の当主はあなた、とクロードは繰り返した。何拍か間をおいて、こう続けた。
『私は』
あなたが受け取るべきだったものを、返す義務があるのよ。
いらないのに、とシスネは微笑った。必要ないわ。お見舞いの名目でガリオンをたくさんくれたでしょう? いいのよ、ほんとうに。
あんな家なんて大嫌い。
わかった、とクロードは静かに応えた。ひたとシスネを見て、囁いた。
『いずれ、』
あなたがやり残したことを片付ける時がくるでしょう。
その時がきたら呼ぶわね、と。
今の今まで忘れていた。ふっと、足を止めそうになり、慌てて歩を進める。どうした、と言うように大きな手がシスネの手を軽く握る。なんでもないの、と握り返した。
「それで?」
僕らは結婚の準備でそれなりに忙しいんだが、我らが先視殿。シスネの手を引き導きながら、ルキフェルが言う。ほどよく礼儀と親しみが混ざっていたが、そこには隠しようもない棘が潜んでいた。
「もう夫婦みたいなものじゃないの」
クロードが鼻を鳴らす。見えるのは彼女の背だけ。どんな表情をしているかわからない。
「……結婚前に居を移すのは普通だろ」
「ええそうね。あなたが結婚前にどうこうするとは思わなかったけど」
「なんのことかな」
シスネは沈黙を守った。母とレディ・ロングボトムことオーガスタ・ロングボトム、バグノールドのきょうだいたちとルキフェル、ルキフェルの父と兄、そして従弟のナイアード、あとは曽祖父――獅子公アシュタルテは知っているはずだが、ほかにはあえて言っていないのだ。気恥ずかしいし。一応、よろしくはないし。
婚約者の披露目のようなことはした。ヴォルデモート打倒を祝った祝賀の席にシスネも招かれた。ルキフェルの家、リアイスの第三分家というらしい――の、内輪のものであった。祝賀と、婚約者の披露目を兼ねたもの。シスネはルキフェルの父と兄に対面し、第三分家の者たちにも挨拶した。内輪と言いながらナイアードは当たり前のような顔をして参加していたけれど。ちなみに、本家のウィスタはあの戦いの後臥せっていて不参加だった。またあらためて、結婚後に席をもうけるか……という話は出ていた。
その、内輪の祝賀と顔合わせを兼ねた席でも、わざわざ言いはしなかったのだ。冬頃に子どもが生まれるでしょう、とは。言いふらすことではなかった。そもそも、騒ぎが持ち上がって子どものことを言う暇もなかったのだ。
シスネはそっと夫――たしかにもはや夫同然だが――を窺った。彼の頬に、つっと汗が流れた。
「女の子よ」
おめでとう、とクロードは告げる。ルキフェルが呻いた。シスネは知られていたことと、母になるシスネすら知らないことを、確信をもって知らされた混乱に目眩を覚えた。
先視はなんでもお見通しなのだろう。一線どうこうを誰も話さないはずだし、ましてや子ができましたなんて繊細な話を漏らすとも思えない。正直、クロードに知らせるか迷いはした。だが、なんとなしに秘密にしていた。同性だからなんでも気易く話せるなんてことはないのだ。
「僕の勘も女の子だと言っていたよ」
ルキフェルの、喜びもなにもない声――当たり前のように返す声――に胸がざわついた。
――男の子がよかったのか
シスネは兄の影に隠れるばかり。誰もがクラウチ家の優秀な息子をほめた……。シスネは可愛らしいだけの、お人形であった。ただ飾られ、褒められるだけの。微笑んでいればいいだけで。クラウチを継ぐのは兄であってシスネではなかった。
『素敵な殿方に嫁げるでしょうねえ』
じんじんと耳が痛む。叔母の声だ。シスネのことを可愛らしい、お人形みたいと言って褒めた。そこには侮蔑がこもっていた。当時は形を掴めなかった悪意が、今は理解できる。彼女は姉に嫉妬し、見下していたのだ……そして姉が産んだ子のことも憎らしかったのだろう。
『次は男を産めって言われるんじゃなくて?』
ねえ、ねえさん。さも心配するふりをして、どす黒いものをべったりとはりつけた声……。
いつのことだったかもわからない。嫌な記憶が、シスネの唇を動かす。
「男の子がよかった……?」
自分で思ったよりもひきつれて、震える声が転がり出た。ルキフェルが立ち止まる。クロードもまた止まった。
「そんなことはないよ」
僕は、どちらでも歓迎だよ。
小さく言って、彼はシスネの手をとった。右の――生身の手を。唇が、かすめるように触れる。
「申し訳ない。僕のご息女」
手の甲からぬくもりが離れる。シスネは眼を見開いて、彼を――黄金の獅子、シスネにとってのともしびを見上げた。彼の顔はほんのりと赤かった。まるで純情な少年のようであった……。
「冷たく聞こえたのなら……なにせ自分に子ができるというのが」
あまり実感がわかなくて、とルキフェルは早口で言う。
「いや、その、僕が婚姻前に君にしてしまったことは、」
「いつもの気障な優男はどこに行ったのよ、我が又従弟殿」
「うるさいな。今すごくいいところなのに! これでシスネと離婚なんてことになったら一生恨む。絶交だからな」
シスネの手の甲に口付けた男――完璧な魔法騎士の姿は幻だったのだろうか。こういうときもある。わかってはいる。わかってはいるが、もう少しあの姿を見ていたかった。
――家に帰れば
二人だもの。
シスネは己の従姉ともはや夫のくだらないやりとりを眺めた。ルキフェルともう少し年が近ければよかったと思い、だからといってすんなりとシスネとルキフェルの婚姻が承認されるわけでもないだろうと考え、昏いものが兆した。
汚名にまみれたクラウチ家を生家に持つシスネは、奇跡でも起きなければルキフェルの「相手」にはならなかっただろう。元々、護衛対象と護衛という間柄で、そこに恋や愛はなかったわけだ。いま、二人が婚約者で、もうすぐ結婚するのは偶然と成り行きの結果である。
――快く思わない者もいる
そんな者は一部だとわかっていても、堪えるものだ。もちろん、シスネの夫はあらゆる害意からシスネを守る。そんなことは十一年前から知っている。たった十四歳の役立たずの息女を命懸けで守ったのは彼であった……。
それに、とシスネは夫を見た。ルキフェルはよい夫で、信頼できる人だ。祝賀――披露目の場で、それを証明してくれた。
「心配しなくても」
生木を裂くような真似はしないわよ。お馬鹿なルキフェル。クロードは嘆息し、冴え冴えと輝く眼でシスネを見た。
「シスネ」
厳かに呼びかけられ、シスネは無意識のうちに腹に手を当てる。なるべく呼吸を遅くして、クロードを見やった。彼女が立っているのは階段の前であった。二階に続く階段、とまで考えて、それが意味することに凍りついた。
二階……階段の先には。
「行ってきなさい」
「残ってる、はずが」
ひゅう、と息が漏れる。あるはずがないではないか。シスネはクラウチ家の人間ではないのだ。影のようなもの、亡霊のごときものな、はずで。
「クロード、」
唸るようなルキフェルの言を、クロードは遮った。ただ、シスネを見て。シスネだけを見て言った。
「私はね」
あなたが受け取るべきものを、返す義務があるのよ。
ルキフェルに手を引かれ、一歩一歩階段を登った。心臓は早鐘を打っている。すべてが霧に包まれているような非現実な世界を進む。
廊下の何番目の扉か、シスネは覚えていた。すっかり忘れてしまっていたと思い込んでいたのに。
シスネ、とプレートが付けられている扉、その把手に手をかける。驚くほど滑らかに、音も立てずに開いた。
「……無駄な、ことは」
嫌っていたじゃないの。
扉の先、広がる空間は、とある女の子が去ったままの姿を留めていた。
やさしい色のカーテンに、きちんとベッドカバーが付けられた寝台。棚にはぬいぐるみや玩具の杖。玩具の魔法薬調合キット。
机には、御伽話の本が開かれたままで。ずっとずうっと、女の子が続きを読んでくれることを待っていて。
「なんで、」
わかっていたはずだ。シスネが帰ってこないなんてことは。だってシスネは巣から落とされた。うきうきした気持ちで「お出かけ」の準備をして、ウィンキーに行ってきますと言って。母の頬にキスをして出ていけばよかったかな、とちょっぴり思って。でも帰ったらお帰りのキスをしようと思って。それはできなかった。
永遠のお出かけで、行きて帰らぬ旅で、永久の別れであった……。
そうしたのは父と母。彼らはシスネよりも兄を選んだ。
ここには九歳の私が封じられている。
「どうして」
御伽話の本、開かれたそれの隣に、靴があった。黒くて、赤いリボンがついている。片方だけの靴が……。あの日、永遠のお出かけの時に脱げてしまった。置き去られ、打ち捨てられていたと思っていた。シスネと同じように。
「こんなもの……」
しゃがみこむ。立っていられなかった。九歳の私の部屋。泥まみれだったはずの片方だけの靴。
――九歳だった
私の部屋。棚には玩具だけでなく、本もぎっしりと詰まっている。寝台の上にはローブがある。床にはトランクがある。開かれた箪笥には服が詰まっている。
洋服かけにはドレスもある。十七かそこらの、大人になった女の子が着るようなもので。まるでこの部屋の女の子のために、そろえたみたいで。
帰りを、待っているかのようで。
「捨てたくせに」
頬を伝うのは涙。これは怒りの涙だ。きっとそうだ。九歳の、捨てられた私が怒っているのだ。怒らなければならず、悲しんではならないのだ……。
「――どうしても、捨てられなかったんだろう」
君の存在を。
背後からシスネを抱きしめるのは夫だ。彼は言葉を紡いだ。
「……このまま部屋を封じておくかい?」
それとも。柔らかく、慰撫する声。
シスネは、彼女を抱きしめる魔法騎士の手に唇を落とし――願いを口にした。
「あなたの炎で」
わたしを灼き尽くして