お手にとってくださったかた、ありがとうございました。
お前が幸せならば、それでよい
がちゃり、と重々しい音を立てて、金貨の詰まった袋が置かれる。いくつも、いくつも。ちゃり、と軽い音とともに鍵が何本も置かれる。
託されたものを――あまりにも重いそれらを受け取って、彼女は机の前に佇む、小さな影を見やった。実の父親によって、巣から落とされてしまった雛鳥を。
白い肌は青ざめていて、灰色――星の眼は乾いていた。唇を震わせているその様は、哀れに過ぎた。精一杯めかし込んできたのだろう。着ているものは上等な品で、靴が片方なかった。靴下は汚れてしまっている。
――引っ張ってこられたのだろう
父親に手を掴まれて、引きずるようにして。バーテミウス・クラウチ・シニアはそれができる男であった。なにせ、実の息子を監獄に沈めたのだから。公明正大な能吏が息子に与えた温情が、裁判を受けさせることであった……。
彼は正しいことをしたのだ。たとえ実の息子であろうとも、手を抜くことはしなかった。情に屈服せず、成すべきことを成したのだ。此度もそうだ。
シニアは「死喰い人を輩出したクラウチ家」から娘を出した。里心がつかないように、娘の心を切り裂き、打ち砕いて。
わかっている。きっと必要な措置だった。それでも、娘の有様には心が痛んだ。女傑と呼ばれるミリセント・バグノールド……魔法大臣にしてドラゴンにも――そう、彼女はドラゴンにたとえられるのだ――情のひとかけらくらいはあった。
どうしたものか。託された。引き取ると決めたというのに、ミリセントは躊躇った。この子を幸せにしてやれるだろうかと。この子が光のほうへ飛んでいけるように教えてやれるだろうかと。捨てられて、傷ついて、もう飛べないのではないかと思うほど、深く深く傷ついている子を、導けるだろうか。
迷うのは後だ、と決めた。一つずつやっていこう。きっとなんとかなるだろう。ミリセントは魔法大臣だ。魔法の徒たちを守る義務があるのだ。そして、目の前にいる、打ちひしがれた雛鳥も、ミリセントが守るべき対象なのだ。
「……シスネ」
そっと呼びかける。乾いた眼が――あまりに空っぽで、それゆえに澄んでいる眼が、ミリセントを見た。ミリセントは、その虚ろな双眸を食い入るように見る。射抜くように。つなぎ止めるように。
「靴を持ってこさせよう」
ちゃんと歩けないのは不便だろうからね。
「ひとまず――」
ミリセントは杖を振る。ソファが現れて、音もなく室の隅に収まった。
「疲れたろうから、座っておいで」
立ち上がる。机を回り込み、小さな客人――否、彼女の養女の手を、そっと掴んだ。もはや父親ではなくなった男によって、痛いほどに掴まれたのだろう。小さな小さな手に、痣があった。まるで呪いのように。まるで――男の鋼の意志を証すように、赤黒くそこにあった。
思わず、手を離す。ミリセントは両の手で養女の手を――かわいそうな雛鳥の手をさすった。どうしてこの子がこのような目に遭わねばならぬ……。実の兄が罪を犯したからといって、家から追い出されねばならぬ。
じりじりと身を焦がす怒りを押し込める。けして
そろそろと、養女を座らせる。再び杖を振る。ふわり、と燐光が降り注いだ。優しい眠りへ導く魔法である。希望もなにもかも失った、青ざめた顔をした養女が、瞼を閉じる。ミリセントは小さな身体をソファに横たえてやった。片方だけの靴を脱がせ、汚れた靴下と綺麗な靴下を脱がせ、ブランケットをかけてやった。
「ヴォルデモートがいなくなったというのに」
闇の時代は、理不尽はまだ終わらぬ……。
囁いて、養女の黒髪を梳いた。置き去りにされた雛鳥。落とされた雛鳥。バーテミウス・クラウチ・シニアは正しい。しかし、正しいことが善とは限らない。
こんな小さな――十にもなっていない子が、傷つけられていいはずがないのだ。
「引き受けたからには」
お前が
きっと幸せになれるさ雛鳥。
祈るように、呟いた。
――ただの祈りで、ただの願いであった
己への誓約でもあった。引き受けたからには義務を果たすと。
「……これほど巧くまとまるとは思わなかったな」
大領地ゴドリックの谷――通称『谷』と呼ばれる地の、ジェローム聖堂。ミリセントは着座し、式の進行を見守っていた。太陽の威光があまねく行き渡る日――夏至に、結婚式が執り行われているのである。ミリセントの娘の。
「本当に、よかった……」
隣から聞こえるのは鼻声である。ミリセントはちらりとそいつを見やった。立派な体躯に落ち着いた声音。他人に安心感を与える才能に恵まれた闇祓いは、常の「大人の余裕」をどこかに置いてきたらしい。たぶん、大臣執務室にでも放り投げてきたのだろう。親でもなんでもないのに、臨時魔法大臣、キングズリー・シャックルボルトは泣いている。
「落ち着けよ」
ミリセントは前に視線を戻した。ステンドグラスに染められた陽光を受け、美しく輝いている祭壇へと意識を戻す。二組の男女。新郎新婦と、それぞれの付き添い人だ。新郎新婦は祭壇前に残り、付き添い人たち――セーミャ・アレティ・スクリムジョールと、ナイアード・リアイスは、主役二人の衣装の乱れをさっと直し、祝福の言葉を囁いて壁際に控えた。
なんだか奇妙な心地である。ミリセントは娘を引き取ったものの、こうして結婚式の日を母親として迎えられると思わなかった。シスネは――シスネ・バグノールドは生涯結婚しないのかもと思っていたし、結婚しようがしなかろうが、どちらでもよかった。ああしろこうしろと押しつけたくはなかったのだ。他人に振り回されてきたのが、シスネ・バグノールドという娘であったので。
――あんなに傷だらけだった雛鳥が
今日、この時、生きてここにいる。花婿と寄り添って。銀の髪と金の髪の対の色彩が美しいことだ。まるで月と太陽である。切っても切れない関係。縁。結びつき……。
落ちて、傷ついて。堕とされて。
「お前が」
自分のことを諦めなかったからだよ。ミリセントは呟いた。誰にも聞こえないように。近くにいるシスネのきょうだいたちにも、鄰のキングズリーにも聞かれないように。
これはシスネが掴み取った結果だ。娘の生き様が、花婿――ルキフェル・リアイスを動かしたのだ。なんだかんだと理由を付けていたが、ルキフェルがシスネを救いたかったのは本当だ。監獄から出してやりたいと動いたのは紛れもない事実だ。それが義務感であろうと、恋情であろうとどちらでもよかった。ミリセントにとって大事なのは、闇に沈み、溺れそうになっていた娘の手を、彼がとってくれたということだ。
『ご息女との婚約を』
お赦しください。
強い眼をした――赦さなければ始末してやるといわんばかりの眼をした、黄金の獅子の姿を思い浮かべる。娘のために、婚約の手札を切った男を。
自己満足だと言い切った。ご息女を救える手段があるというのに、見過ごすことはできないと。助けなければ後悔するのだと。
『彼女は、』
私の目の前で攫われた。私は、彼女を送り出してしまった……行き着く先が、地獄だと分かっていながら……。
お前にとって得はないぞとミリセントは言った。なにせ「成り上がり」のバグノールドだからと。お前にはいくつも選択肢があるのに、いいのかと。
『損だ得だと小さいことを考えていられるか』
人の命がかかっているのだ。理由なんてどうでもいい。
私はただ、ご息女を救いたい。
なぜならば、私は彼女の護衛なのだから……と。
室が燃え上がらないのが不思議なほど、灼熱を秘めた声であった。ミリセントはルキフェル・リアイスが紛れもなく魔法騎士一族の者だと実感した。成すべきことを成すために、望むものを掴みとるために、あらゆる障害を切り払い、突き進む激しい意志に胸打たれた。
この男にならば、娘を託してよいと思った。『私の魔法騎士』の再来にならば、と。
――なりふりかまわず助けたい
それはもはや、愛であろうと思ったのだ。
「よかったな」
私の娘。お前は闇に堕とされても、正しくあったのだ。
お前の魔法騎士の手をとって、幸せにおなり。
祭壇の前で、白銀の魔女と黄金の獅子が杖を交える。
黄金の炎が二人を結び――柔らかな輝きが、聖堂に降り注いだ。
転がり落ちた雛鳥は、きっと幸せになれることであろう。