「なっていない」
ぴしゃり、とシスネは言う。魔法省の一角、とある会議室。窓の外は黄昏の色に染まっている。魔法ビル管理部の担当者の気分によるものか、やたらと濃い朱金だった。幻の黄昏が向かいに座るペネロピー・クリアウォーターのほっそりした面に陰影を落としている。三つ編みが印象的だった一年生は、今ではすっかり成人した娘となっていた。魔法に眼をきらきらとさせていた小さな子はしかし、卑屈に眼を伏せている。
――誰かが
その快活さを潜めさせたのだ。そして彼女はシスネにも怯えている。椅子の上で身を縮こまらせ、嵐が過ぎ去らないかと願っている。
「あなたの至らなさは噂になっている」
本当になっていない。後輩の――に聞いたけれど、とシスネは構わず続ける。第三者がこの光景を見たら、意地悪な先輩が新人――他部署の新人をいびっているようにしか見えないだろう。書類を抱えて走っている新人が魔女に――それもバグノールドの息女にぶつかった。怒った息女は新人の腕をひっつかみ、ぱらぱらと散った書類もまとめて会議室に放り込んだ、と。さあどんないびりがあるやら。怖い怖い……。
「こちらの育ちでないのにもかかわらず優秀だと思っていたのに」
期待外れね、と吐き捨てる。ペネロピーは眼を見開いた。じわじわと涙の膜が張る。信じられない、と彼女の眼は言っている。
小さな一年生の面倒をみるのは監督生と首席の役割だった。そしてペネロピー・クリアウォーターが入学したとき、シスネは監督生だった。マグル生まれではわからないことも多いだろうと、それなりに世話を焼いた。ペネロピーはレイブンクロー生であることを差し引いても優秀だった。シスネは少しだけ誇らしく思ったものだ。
だが、そんな過去などなかったかのようにシスネは振る舞った。そうしなければならなかった。この階には魔法不適切利用取締局がある。ペネロピーの所属部署だ。他部署のシスネと長々と話してはいられない。「指導」ならともかく。
「やっぱりあるのかしら」
マグル生まれ優遇枠。歌うように口にする。ペネロピーが歯を食いしばった。とんとん、とシスネは机を指で叩く。態度が悪い、挨拶の声が小さい、仮にも私とあなたは同じ寮だったのだからすぐさま気づくべきではないの?
痛烈に言葉を投げる。ペネロピーが喘ぎ――机に眼を落とした。そこにはこう書かれている。
『カエルにいびられているのではない?』
「聞いているの?」
シスネは尖った声を出す。はい、とペネロピーは頷いた。はっきりと、はい、と。
文字が消える。そして次の連なりが現れた。
『あなたが不出来だからじゃないの』
「今度から大きな声で挨拶しなさい」
「……はい」
ぽた、とペネロピーの眼から涙がこぼれ、文字を滲ませる。シスネはハンカチを差し出したいという衝動をこらえた。なぜこんなことをしているのか、と自分の馬鹿さ加減に呆れるが、野伏の後輩から相談されたら仕方がないではないか。
あの、友人のことなんですけど、と食堂で持ちかけられた。シスネは外に出ていないときは、たいてい自席で食事をするのだが、後輩に誘われたら行くしかないわけだ。そしてのこのこと行ったらお悩み相談であった。お悩みはお悩みだが後輩のことではなかったし、くだらない話でもなかったし、後輩の友人とやらがペネロピー・クリアウォーターだったのだから驚きだった。
優秀な子で、マグル生まれで、魔法省の入省試験は上位三位に入ってて、でなんとなく嫌な予感がした。ペネロピー・クリアウォーターというんですけどで暗雲が立ちこめた。魔法不正利用取締局にで、雨が降った。
――そこの■■室に入って、室長がアンブリッジというらしくて
そう聞いた時には、シスネの内心では雨風雷つまり嵐が到来していた。
最近なんとなく様子がおかしい。聞いても答えてくれない。残業ばっかりみたいで、上司になにかされているのでは? と相談が結ばれ、シスネは動いた。後輩にはくれぐれもドローレス・ジェーン・アンブリッジには近づくな。仮になにかを言われても私を――シスネをけなすくらいの気持ちでいろときつく言った。
そうして今、ここにいる。
『あれはマグル生まれを嫌っている』
口ではペネロピーをきつく「指導」しながら、文字で事情を伝える。誰が聞いているかわからない。用心をしないといけない。
『そこに「優秀な」「マグル生まれ」のあなたが現れた』
表向きはそんな思想なんて見せていないこと。ただ、彼女の親兄弟について言及したものは蹴落とされたこと。たまに新人が入るけれどやめること。理由は家庭の事情だったり、私的な理由で曖昧になっていること。ただ、気づけばあの室にはマグル生まれはいないこと……。
証拠なんてないけれど、なんだかあの女は「いけない」のではないか。そんな噂が魔女たちの間で密やかに流れていること。シスネもあの女がお世辞にもよい魔女とは思えないこと。
それでも、上の覚えがめでたく、あの女自身野心家で「上」の席に手が届きそうなのだということ。だから、決定的な――アズカバン行きの証拠でもないかぎり、どうこうできないこと……。
『今は戦えない』
だから。
『別の部署に逃がすことならたぶんできる』
ペネロピーが瞬く。ぽろぽろと涙がこぼれ、黄昏色の雫が砕けていく。その唇が小さく動いた。ご迷惑をおかけすることに、と。
「……黙って言うことを聞けばいいのよ」
さげすむように言う。
『いいから潰される前に逃げなさい』
「我慢も大事よ」
『しばらく耐えて』
「……はい」
ペネロピーがしゃくりあげる。なんだか本当にいじめている気がしてきて、シスネの良心がちくちくと痛んだ。そして、良心があることに少しだけ安堵した。兄がシスネの心をどこまで侵しているかわからず、シスネも兄のようになるのでは……と常に心配だった。そんなことはないと言い聞かせようにも、腕の内側にある「約束の印」がそれを赦してはくれなかった。
忘れるな忘れるな。お前は俺の妹なのだ、と。両親の前ではいい子のふりをして「僕」。シスネの前では「俺」と兄は言っていた……。隠されたもう半分を、シスネだけが知っていた。秘密を共有し、どこか誇りにさえ思っていた……。あまりに幼く、無知だった。
さて「指導」は仕舞いだ。泣きじゃくる新人を置き去りにする最悪な魔女という仮面を着けて、席を立とう。腰を浮かせようとしたそのとき、ぱっと会議室の扉が開いた。
扉を叩くこともせず堂々と入ってきたのは、奇妙にのっぺりした顔の魔女だった。顔は白すぎるほどに白く、唇は赤すぎるほどに赤い。化粧が濃いのだ。そしてこの魔女には合っていなかった。顔のつくりはさほど悪くない、きっと上品に笑えばそれなりに見える――はずだった。だというのに、シスネは魔女がにっこり笑う様を想像しただけで寒気がした。濃い化粧も、けばけばしいピンクの衣装も、素顔だけではなく、もっと別のなにか……本質を隠そうとしているようにしか思えなかった。
ドローレス・ジェーン・アンブリッジを見ると、シスネは醜悪な獣の陰をそこに見るのだ。表向きは魔女で蝦蟇を思わせるが、根ざしているのは獣であろう。あまりに過ぎた野心を持ち、他人を引きずり落とし、不幸をすする獣。
「お話し合いはすんだかしら?」
シスネ。
奇妙に甘い声。精一杯上品な口調にしようとして、労働者階級の発音が抜けきらない。純血だ、と公言し、ドローレスではなくてジェーンと呼んで、ジェーンのほうが優雅だものと言う魔女を滑稽だと笑うものはいない。彼女をあざ笑った者は……その出自を踏み込んで聞いた者はろくな目に遭っていないという。
本当の淑女を知らない哀れさよ。友人のセーミャ・アレティのほうがよほど上品で淑女である。そしてシスネも上流の女であった。なれなれしくも名で呼ばれた不快を押し殺し、シスネはにっこりしてみせる。さも楽しいと言わんばかりの顔で。
「申し訳ありません。あなたの部下があまりに……」
ぷつ、と言葉を切り「わかるでしょう?」と魔女に目配せする。なにを勘違いしたか、魔女はにやりとした。まるで共犯のように。間違ってもシスネはこの女と共犯になりたくないが。
「ええ、ええ。わかっていますとも」
ほんとうに愚図で、と魔女は痛烈に言う。鼠をいたぶる猫を思わせる眼で、ペネロピーをじっと見る。さあ頭から食うか。尻尾から食うか。
ペネロピーは小さく震えている。シスネはその手を握ってやりたいのをこらえた。今は意地悪な先輩魔女の役なのだ。舞台はまだ終わっていない。
「廊下でぶつかって謝りもしないので」
「まあ、バグノールドのご息女に!」
魔女がわざとらしい、甲高い声を上げる。その響きにねっとりとした陰を感じ取った。バグノールドは名高い家となった。たったの一代で成り上がった。魔女にとってはそこらの純血家より羨ましい、いいや妬ましいことだろう。シスネは魔女に嫌われているのを知っている。そして、魔女の「玩具」を勝手にいたぶっていることでさらに嫌われただろう。
――それはもしかして
憎しみに近いものかもしれない。
「……では、私は」
丁寧に「バグノールドの息女」は言って、席を立つ。魔女と固く握手をした。
シスネはそっと会議室を出る。手の甲をそっと見る。魔女に突き立てられた爪の痕から、つっと赤いものが滲んでいた。
「これだから」
あなたの昇進は遅く、上流の者になれないのよ。
シスネは鼻で笑う。
さっと杖を振り、姿を変える。魔法ビル管理部の者らしい格好をして、歩き始める。
つま先を向けるのは魔法法執行部。そこにはきょうだいが所属している。仲介をしてもらおう。副長官のネメシス・リアイスか、それとも長官のアメリア・ボーンズか。
優秀な魔女は欲しくないか、と。
◆
魔法不正利用取締局から晴れて魔法法執行部に「昇進」したペネロピーに「なぜ助けてくれたんですか」と訊かれた。食堂での一幕である。シスネは簡単に答えた。
私も誰かに助けられたことがあるから。それと。
最悪馘首になってもなんとかなるし、多少のお節介なら焼けるから、と。
――世の中
もう少し単純だったらよかったのに。
第二の課題が無事に終わり、国際魔法協力部も、魔法ゲームスポーツ部も、魔法……略して生管も一息ついていた。ホグワーツでおこなわれるクリスマス・ダンスパーティは管轄外であるし終了した。第三の課題が近いが、生物の手配は完了した。生管が出る幕はほとんどなく、つつがなく終わるだろう、と楽観的な空気が流れていた。
そしてシスネは単純にも楽観的にもなれなかった。
「元気出してくださいよお」
野伏局。シスネの顔をのぞき込むのは、くりくりとした眼の新人である。ハッフルパフ出身。ペネロピーの友人だった。
「どうせ私は差別主義者の意地悪な女」
「あんな噂気にしちゃだめです」
ぷんぷん怒りながら、新人はシスネの机にお菓子をあれこれ置いていく。人の優しさが心にしみる。
「ペニーだってあたしだってわかってますから」
うん、とシスネは大変情けない返事をした。四つも下の子に励まされてどうするのか。
「なにかあったら、私のことは意地悪でどうしようもないクズって言って他人のふりをしなさいね」
ひとまずそう言う。新人とは他人だが言葉の綾である。シスネの状況はあまりよろしくないのだ。
省内にはシスネ・バグノールドは純血主義過激派で、マグル生まれを蔑んでいる、泣かせている……という噂が流れている。ああ、ミリセント・バグノールドの娘がなんたること、と。
ひたすらに無視である。誰が噂を流したかはわかっている。絶対にあの女だ。義兄から教えてもらったあらゆる罵詈雑言をぶつけてやりたい。が、噂は噂であり出所なんてわかりやしない。我慢するしかなかった。シスネは淡々と仕事をした。さすがに養母に申し訳ないので「バグノールドの名に傷を付けるかもしれません。申し訳ありません」と丁寧に詫びたら笑われた。「なに、お前に嫉妬しているだけさ。そのなんとかという女も」と。ミリセント・バグノールドにとって、ドローレス・ジェーン・アンブリッジは名前を覚えるに値しないらしかった。
そしてシスネは言われた。
いざとなれば省を辞めてドラゴン使いにでもなるか、と。なんでも中国のドラゴン使いがシスネのことを気に入ったらしくてね……。
シスネは返事をにごした。省を辞めたとしたら、ニュート・スキャマンダーの牧場で働かせてもらえないかと思っていることは養母にも内緒である。あそこにはグリフィンの囲いもあるのだ。グリフィン牧場である。ドラゴンよりもグリフィンがよかった。
なにがあってもなんとかなる、と気持ちを立て直したが、時か運命だかの神は、シスネの心を翻弄した。
新人からもらった菓子を少し口にする。甘いはずが、ひどく苦く感じた。書類を読む眼が滑って仕方がない。とある一報のせいだ。
バーテミウス・クラウチ・シニアがホグワーツに現れ、消え失せた、と。
彼は臥せっていたはずで、第二の課題にもクリスマス・ダンスパーティにも姿を見せなかったという。新人のはずのパーシー・ウィーズリーが代理をしているような状態だ。国際魔法協力部は、部と言いながら人が少ない。新人だろうが代理である。なにせ彼は去年までホグワーツにいたのだし、教職員の覚えもまあめでたかったし、という理由が表向き。実態は能吏バーテミウス・クラウチ・シニアの代理に、誰もが及び腰になったということだろう。多忙で体を壊してはかなわない、と。
そして新人に代理をさせていたはずの彼が現れて、消えた。従姉のクロードによると「もう死んでいる」とのことだった。
悲しいというよりわけがわからない、という感覚のほうが強かった。あの父が病になった? そして消え失せた? どこかで死んでいる?
どこか遠い国で起こっていることのように思っていた。父は嵐に呑まれたのだ、と。クラウチ家を襲った災禍から逃れられずに。
シスネにはどうしようもなかった。もはやクラウチ家の者ではない。バグノールド家の娘、ただの野伏だ。
目の前の仕事をこなすしかなく、日々は、時は過ぎていった。
そうして某日。三校対抗試合、第三の課題。
ハリー・ポッターが優勝し。
セドリック・ディゴリーが死亡。
その数日後。
シスネ・バグノールド。生来の家名をクラウチは、アズカバンに――バーテミウス・クラウチ・ジュニアが入っていた独房に投獄された。
その片腕には蛇の印があった。
そしてバーテミウス・クラウチ・ジュニアは監獄の仲間にこう言っていた。
僕の妹は同志なのだ。あの方に印を授かる者だ、と。
誇らしげに。